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『――もしもし、千香?私です。咲夜。……うん、夜遅くにごめん。ちょっと話せない?』
少々困ったような、苦笑いを噛み殺すような声が電話越しに響く。よくある事なので私は二つ返事で了解の意を伝えると、いつもの待ち合わせ場所――徒歩五分の場所にある喫茶店を指定して電話を切った。
待受画面を見れば、時刻は八時を少し回ったところ。そこまで人通りの少ない地域でもないし、親に許可さえ取れば出歩いても問題ない。元々、うちの親はそういったころにルーズだから。
「お母さん、ちょっと出かけてくる」
台所で食器を洗っている背中に向かってそう言う。お母さんはちらりとこちらに視線を向けて、苦笑を返した。
「午前様になる前に帰ってらっしゃいね」
「はーい」
玄関の壁に引っ掛けていたコートを羽織って、扉を開く。とたん吹き込んできた冷気に、私は顔をしかめた。
「さぶ…………」
暗いアスファルトの道を、近所のサラリーマンや犬を連れた人がちらほらと歩いている。街灯の明かりに照らされて、ひらひらと舞い散る雪片が見えた。
私はコートの前をしっかりと締めると、アスファルトを蹴って、駆け出した。
人間は誰しも発熱機を持っている。うちの兄の言葉の一つだ。夏はどう頑張っても涼しくできないが、冬の寒さは動きゃなんとかなる。さすが運動バカだ。
少々本気で走りすぎたのか、喫茶店の前に着く頃にはコートの下がじっとりと汗ばんでいた。その分冷え切った耳と鼻が痛いけど。
急いで来たにも関わらず、喫茶店の前には既に彼女の姿があった。
ボアのついた白のロングコートに、柔らかなウェーブをえがいて流れ落ちる黒髪。雪のように白い肌、つんと尖った鼻先は寒さのせいで赤くなっている。擦り合わせている指の先、黒曜の瞳に憂うような影を落とす長い睫毛の先まで、まるで神の創り上げた芸術品のよう。
私が近づくと、彼女――咲夜は顔を上げた。
「千香!」
物憂げな表情もまた美しいが、にっこりと微笑む顔もまた愛らしい。この顔をたっぷり堪能できる「幼馴染」ポジションが結構気に入っている私であった。
「絶対先に着くと思ったのになぁ。予想以上に早かったね」
パタパタと服をつまんで仰ぎながらそう言うと、彼女は苦笑した。
「ちょっといろいろあってね。ってか、暑そうだねー」
「熱を発電しすぎてね」
ふと、咲夜が傍の電線をちらり、と横目で見やった。つられて、私もそっと彼女の視線を追う。なんとなく予想はついていたが、相変わらず彼女は予想を裏切らない。
「またストーカーかいな。美人も辛いねー」
「いつもみたいのだったら110番で終わりなんだけどさ。今回はちょっと、やりにくくて」
咲夜が苦笑いする。電信柱の影に隠れるその姿をはっきりと確認したところで、私は呆れたようなため息をついた。
「中坊を落とすな、この魔性の女めッ!」
「ハンカチ貸してあげただけなんだよぅ!だって、年下が困ってたら助けるのがセオリーだよね!あとあの子小学六年生らしいです」
明らかに幼さの抜けない子供が電信柱の後ろから顔だけ出して、こちらをじーっと見ている。見覚えがあるぞ、彼は確かこの近所のマンションに住んでいる子供だった気がする。ガキンチョ何しとるんだ。
「小学生オトすとか恐ろしいなアンタ。つか親、夜中にうろつかせるなよ…………」
「だよねー。追い返したいんだけど何度言っても帰らなくてさ。家までついてこられても困るし、ちょっとヘルプしてしまいました」
「はー……流石にガキは初めてだけど、とりあえず撃退してみましょか」
無駄に美人な幼馴染には、闇夜のランプに群がる虫ケラのごとくストーカーが寄ってくる。ストーカーだけじゃない、誘拐犯やら変質者やらどっかのいかがわしいビデオ会社やら。
ときには今回のように、老若男女問わず引きつけてしまうのだからまったくもってタチが悪い。彼女と友人を始めて以来、こんなこと現実にありえるんだと感嘆したこと数知れず。すなわちいろいろと常人離れしているのだ、彼女は。
そんな彼女の幼馴染をしているうちに、私は結構そういう奴らの撃退がうまくなった。なんで彼女ではなく私かというと、元来彼女はそこまで強気な性格じゃないのだ。人見知りで、人当たりはよくできるけど、強く断るのは苦手。
私もまたそこそこの人見知りではあるが、彼女と逆――そっけなくなるか口が悪くなる。直したくても直せない悲しき悪癖だ。
「んじゃ、行きますか」
私が歩き出すと、ワンテンポ遅れて咲夜も歩き出す。電信柱まで十メートルもない。私は少年の隠れる電信柱まで、まっすぐと歩いていった。
――――そのときだった。
「――――――っ!」
突然後ろから腕を掴まれた。縋り付くように伸びてきた手は咲夜のもの。
「咲夜?」
振り返った、瞬間息を呑む。
光の花が彼女を飲み込んでいるように見えた。淡い燐光を放つ光のラインが、彼女の体を捉え、包み込む。
「何……」
慌てて彼女の腕をつかみ返した。瞬間、私の足元からも光が溢れ出す。
自分の体に巻き付いた光のラインは、しっかりと絡みついて解けない。空いていたもう片方の手でそれを引き剥がそうとして、不意に気づいた。
この光のラインは、記号のような文字のようなもので出来ていることに。
足元を見れば、私たちを中心に半径一メートルほどの光の円が広がっている――――こんなテンプレート、どこかで見たことない?
「何、これなんなのッ?」
「なんか、イヤーな予感」
そんな軽口を叩きつつも、私にその光から逃れる余裕などもなく。
私たちは、その光に飲み込まれた。