豚
存在の不条理さに打ちひしがれてください。
夢の中で自分は一匹の豚だった。暖かい曇り空の草原でまどろんでいると、また新たに豚が現れた。自分はあえて気にすることも無くいたのだが、ふと見やるとかっかと燃えるような豚の目に会って、無性に恐ろしくなった。一度そうした目で見ると、その豚の肥え太った体や、土にまみれた醜い鼻っ面や、奇妙に先のとがった蹄がこの世の物でない存在に思われて、自分はその豚を追い払った。
しかし豚は後から後から現れた。広い野原いっぱいが豚どもで覆いつくされた。
追い払えば素直に消えるのだが、それよりも多くの豚がまたやって来る。
自分はまったくわけが分からなかった。
「何、天罰だよ」
豚の一匹が囁いて、蹄に蹴られて逃げていった。
「違うよ、あんなに殺したりするからさ。復讐だよ」そう呟いて、ほかの一匹は頭突きを食らった。
自分はいったい何の話なのか皆目見当も付かなかった。
「懐かしいねぇ、こんな日にあたしはあんたに殺されたんだ」
自分には豚を殺した覚えなぞ無かった。しかし恐ろしさのあまり、自分は豚を追い払い続けた。
「千年前かい」
「いいや、千と十年さ」
「あたしは千と九年さ」
覚えは無いが豚どもの声を聞いてみると、確かに自分は千年前にこんな声の豚を殺した気がしてきた。生きるためどうかは知らないが、自分の手は豚の血で汚れていたのだ。
野原を覆う千年前の罪を見ながら、自分は涙を流していたが、やはり豚を追い払い続けた。
自分を取り囲む豚どもの鼻面が触れたと思ったとき、空に吸い込まれるように目が覚めた。
静かな昼の縁側で、頬を濡らしながら自分は横たわっていた。人間の体であった。
まだ寝ぼけている。ひどく喉が渇いていた。
水を飲もうと思ったが足がもつれて立つことはできなかった。仕方なく四つんばいで台所まで這っていった。
足の下で誰かの読みかけの本がいやな具合にめくれ上がった。
土間の冷たさがはだしの足裏に心地良かった。水瓶に身を乗り出して、自分は豚のように水を飲んだ。自分の重みに耐えかねて、水瓶は倒れた。
顔を上げると、水溜りに一匹の豚が映っていた。鼻面で追い払っても、その豚は消えなかった。映っているのは豚ばかりで、いったい自分はどこへいったのだろうと思った。
女中がやってきて、金切り声を上げて自分を追い払った。自分が消えると豚も消えた。
自分ははじめから豚だったのかもしれない。 (了)