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 チュンチュン……。


 まだ冷たさの残る交差点に響き渡る雀の鳴き声で私は目を覚ます。早起きはやはり気持ちのいいものだ。

 そう思うのも、通りを行く人々を日々見続けていることで、私が人間の心を持ちつつある確かな証拠と言えるだろうか。


 早朝は人通りが少なく、霧が出ていたりさえしなければ遥か遠くまで見渡すことができる。

 交差点のずっと向こうから歩いてくる、その日の最初の客人を待つのが、目覚めてすぐの私の楽しみのひとつになっていた。


 最初はまばらだった人影も、時間が経つにつれて徐々に増えてくる。

 早朝ジョギングで汗を流している人や、疲れた顔で眠い目をこすりつつ出勤する会社員などがちらほらと通ったりする程度の寂しい状態から、元気いっぱいの顔で登校する学生たちの声が響き渡り賑わい始めるまで、それほど長い時間はかからない。


 そうやって、ぼんやりと朝の空気を楽しんでいると、毎日私のもとで待ち合わせをしている女子高生ふたり組の片割れ、亜沙美が歩いてきた。

 しかし、いつもならもっと遅い時間に来て、さらに遅い友人が現れるのを待つのが常だったと思うが……。


「はぁ……」


 いつもどおり私の横のベンチに座った亜沙美は、なにやらため息をついていた。

 少々顔に赤みがかっているようにも見える。

 とはいっても、風邪で熱がある、という感じではない。もっと別の、心の奥から湧き出てくる温かさによるもののように思えた。


「昨日はどうしても眠れなくて、やっと眠りに就いたと思ったらもう朝になってて……。寝直したら絶対寝坊しちゃうと思って、こんなに早く来ちゃったんだ。今日は頑張らないといけないから……。お願いね、幸せくん」


 そう言って亜沙美は私に触れてくる。

 それっきりなにも言わない。ただじっとベンチに座って、いつものように友人を待っているだけだった。

 亜沙美の瞳は、交差点のほうを向いてはいるが、微妙に焦点が合っていない。そして時おり思い出したかのように、自分のカバンをチラチラと見て気にしているようだ。


 む……。

 そのとき、私は気づいた。

 どこか建物の陰辺りからだろうか、こちらをうかがうような視線を感じる。


 今までもときどき感じたことのあるこの視線……。

 しばらく経つといつのまにか消えているのだが、とくに危害を加えてくるわけでもないので放っておいている。

 どちらにしても、私にはなにもできはしないのだが……。


 そのまま静かな時間は流れてゆく。

 そろそろ通勤通学の人通りも増えてくる頃だ。先ほどのあの視線も、やはりいつのまにか消えていた。


 やがて亜沙美の友人、理乃もやってきた。こちらはいつもと変わらない時間、すなわち遅刻すれすれの時間に現れた。

 若干いつもよりは早いかもしれないが、それでも歩いていては間に合わないはずだ。おそらく普段どおり、走るのだろう。


「おはよ~、亜沙美!」


 理乃は笑顔で手を振りながら横断歩道を渡ってくる。


「ん、おはよ~、理乃」


 亜沙美もベンチからスッと立ち上がり、準備はできてるよ、といった笑顔を向ける。

 横断歩道を渡り終えた理乃は、速度を緩めただけで止まることもせず、言い放つ。


「さ、走るよ!」

「うん」


 いつもどおり軽く言葉を交わし、ふたりはすぐに当たり前のように駆け出す。

 ともあれ、一旦走り出した亜沙美ではあったが、もともと理乃に比べて足が遅いほうだとはいえ、今日はいつにも増して勢いがないように見える。

 さっきからなにか考えごとをしているようだったし、そのせいで走ることに集中できていないのだろう。


「もう、今日は頑張るんでしょ! ほらほら!」


 見かねた理乃が、親友の腕を引っ張りながら元気づけている。

 理乃に引きずられるとまではいかないが、成すがまま、流されるまま、という感じで亜沙美は走っていく。

 そんなふたりの影も、すぐに見えなくなった。


 通り行く人々のことを見守るしかない私の楽しみは、それぞれの人の行動や気持ちを、この交差点一ヶ所に留まりながらも、理解し、想像することにあると思っている。

 そんな中でも、やはり学生たちの充実した日常が、一番見ていて清々しく、温かな気持ちになれる。

 溢れ出る若さいっぱいの元気を分けてもらう、といった感じだろうか。


 前にも言ったが、学校が近いということもあり、朝夕の通学時間帯には、学生の通りが非常に多い。

 テストがやばいだの、部活で体が痛いだの、弱音を吐きながら歩く学生もいるが、そんなふうにぼやいていてもなお、活き活きとしているように感じられた。

 学園生活とは、そういうものなのだろう。


 自分の意思を持って以来、カーブミラーとしてずっと生きている私には、そんな学生たちの生活がどんなものなのか、詳しくはわからない。

 だが、通りを行き交う学生たちの明るい声、明るい表情を見ているのが、私は大好きなのだ。



 ☆☆☆☆☆



 今日も多くの人々が通り過ぎる交差点をただ黙って見つめながら、時は刻々と過ぎてゆく。

 こうしていると、私はいったいなんのために意思を持ち、こうしていろいろと考えているのだろう、と不毛な思いが浮かんでくる。

 道に立ち続けるだけのカーブミラーである私に、どんな理由があって意思が宿ったのか……。


 いかんな……。

 人通りの激しい時間帯が過ぎて交差点が寂しくなると、つい意識も沈みがちになってしまう。


「ワンワン!」


 おっと、いつもの客人が来たようだ。私は気を取り直して、交差点の様子に目を凝らす。

 もちろん、カーブミラーである私に、目なんてあるはずもないのだが。

 それでも意思を持った私は、周囲の様子をしっかりと見ている。そう思い込んでいるだけかもしれないが、確かにこの目に焼きつけていると言っていいはずだ。


 鳴き声でわかってはいたが、交差点に足を運んでくれた客人は、ゴールデンレトリバーのローズと、その飼い主の老人――敬蔵だった。

 この人もこの場所を通ると必ず私に話しかけてくれるうちのひとりだ。

 そういう人が来ると、やはり嬉しい気持ちになる。できることならば、丁重にもてなしたいところだ。


「わっ!」


 いつもなら私に向かって吠えるローズだが、今日はどうやら違っていたようだ。吠えられていたのは、二十代後半くらいだろうか、少々地味だが人のよさそうな印象を受ける青年だった。

 吠えられるというより、じゃれつかれていると言ったほうが正しいかもしれない。

 青年は、急に吠えられたことで、びっくりして思わず声を上げてしまっただけなのだろう。すぐに表情を和らげていた。


「ああ、すまんね。こら、ローズ、人に向かって吠えては駄目だぞ」


 ローズの背中辺りをそっと撫でながら諭す敬蔵。


「あっ、いえ、ちょっと驚いただけですから大丈夫です。ローズちゃん、相変わらず可愛いですねぇ~」


 青年はそう言って、ローズの頭を撫でる。彼は交差点の角にある百円ショップの若き店長で、坂本義樹(さかもとよしき)という名だっただろうか。

 日によって出勤時間が違い、本社との書類のやり取りなど様々な用事を済ませてから店に来ると、以前話していたことがある。

 この時間に通りかかると、たびたびローズと敬蔵に出会うため、軽い挨拶程度はよく交わしていた。


「そう言ってもらえて、ローズも喜んでいるよ」


 敬蔵はもともと細い目をさらに細め、優しげな声をかけていた。ローズは勢いよく尻尾を振って坂本にじゃれついている。


「ははは。……と、もうそろそろ時間だ。それでは行きますね」


 ちらりと、すぐ横の百円ショップに目をやると、バイトの女の子が店長の存在を見つけて、早く来て下さいと、店の中からジェスチャーで急かしていた。


「ああ、いってらっしゃい。今日も一日、頑張って」

「はい!」


 素早く駆け出して、坂本店長は店へと向かう。

 敬蔵はそれを優しい瞳で見届けると、私のそばに置いてあるベンチにゆっくりと腰を下ろした。


 私がこの交差点に設置された当初はなかったのだが、『幸せくん』としてある程度名前が知られるようになってからだっただろうか、いつしかベンチが置かれるようになっていた。

 もっとも、しっかりとアスファルトに固定されているわけではなく、運ぼうと思えば人ひとりの力でも動かせる程度の小さなベンチでしかない。

 とはいえ、さすがに風で飛ばされたりすることはなく、今では私のすぐそばにいつでも寄り添う大切な存在となっている。


 設置された当初は、このベンチも『幸せのベンチ』と呼ばれ、カップルなどもよく訪れていたのだが、最近では座る人もだいぶ少なくなった。

 毎朝ここで友人を待つ亜沙美や、昼間の散歩中の敬蔵のように、この場所を愛用している人もいるわけだが。


 敬蔵はいつもこのベンチに座り、ローズのリードを握りしめながら、私に話しかけてくる。ほとんど日課のような感じになっていると言えるだろう。

 交差点を訪れる常連の中でも、この老人が一番長い知り合いということになる。


 いろいろと語りかけてくれるのはとても嬉しいのだが、私から声をかけられないことには、どうしても寂しさを感じてしまう。

 相手が本当に親しみを込めて話しかけてくれていればいるほど、その思いは強くなり、切ない気持ちが私の中で積み重なってゆく。


「さて、そろそろ行くとするか。幸せくん、またな」


 ひとしきり話し終えた敬蔵は、すくっと立ち上がり、しっかりとした足取りで歩き去る。そのすぐ斜め後ろをローズが寄り添うかのように続く。

 あの老人が今でもこうして元気でいられるのは、ローズのおかげもあるのだろう。お婆さんが亡くなったあと、心の支えはローズだけだ、とつぶやいていた日もあったくらいなのだから。

 このちっぽけな私の存在でも、敬蔵にとってのわずかばかりの支えとなっていてくれれば、と私は心から願ってやまない。


 そして再び、交差点は人通りの少ない寂しい時間帯を迎えた。


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