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「深咲~! またこんな場所に!」
慌てた様子で深咲という少女に駆け寄る女性の姿が、こちらへと近づいてくる。
その声に気づいた深咲は女性のほうへと向き直り、頭上に広がる青空のように澄んだ、それでいて雛鳥のようにか細い声を上げた。
「あ……お母さん。ごめんなさい。でも私、ここで町ゆく人や車を見てると心が落ち着くの。もう少しだけ、ここでこうしていさせてほしいな……」
深咲は交差点の端にちょこんと座り、カーブミラーである私に寄りかかっていた。
彼女はたびたびその定位置に陣取り、長い時間を過ごしている。
深咲はすぐそばに建っている病院にずっと前から入院しているようで、昼過ぎくらいの時間になるとここまで散歩に来るのだ。
病院外に出るのは許可がいるらしいのだが、深咲はよくこの場所まで出向いていた。病院のすぐそばとはいえ敷地外ということになるため、母親や看護婦がすぐに探しに来て、連れ帰られてしまうのだが……。
深咲がどんな病気なのかは私にはわからない。ただときどき、私に寄りかかりながらも苦しそうに胸を押さえることがあり、とても痛々しい。
頻繁に散歩に出てくる姿を見る限りでは、すぐに倒れたりというほど悪い病状ではないのだろうが、普通の生活ができる健康状態でもないのは確かなのだろう。
行き交う学生たちを羨ましそうに見つめる瞳には、涙がにじんでいることもあった。
「ほら、そんなに激しくないっていっても、車だってたくさん通るんだから。排気ガスも体には悪影響なんだからね。早めに戻りましょう」
これ以上ないほど優しい口調で声をかけて、深咲を諭す母親。
「ん……。でも、もう少しだけ……」
そう言って私の支柱に頭をもたげ、深咲は目をつむる。
今この時間に発生しているすべての音を記憶の奥にしっかりと刻みつけるかのように、通り過ぎる車の音を、行き交う人々の話し声や足音を、ただただじっと聞き続けていた。
母親のほうも注意を促す発言をするだけで、無理に連れ帰ったりはしない。今もこうして、深咲の気が済むのを優しい眼差しで見つめながら、すぐ横に寄り添っている。
看護婦が探しに来た場合でも、状況は同じだ。
いつもの光景。いつもの町並み。
やがて、いつもどおりの夕暮れが訪れ、いつもどおりお迎えとともに病院へと戻っていく。
深咲がゆっくりと立ち上がった瞬間、不意に学校帰りのはしゃいだ学生たちの声が歩道いっぱいに響く。
そちらに軽く視線を投げると、深咲はわずかに寂しげな笑みを浮かべながら、病院の敷地内へと消えていった。
そんな日々がどれくらい続いただろう。
ある朝、いつもより早い時間に私のそばまで来た深咲は、いつにも増して不安げな表情を浮かべていた。
深咲は黙ったまま私の傍らに立ち尽くしていたが、しばらくしていつものように私にもたれかかると、ゆっくり口を開いた。
「幸せくん、あのね……。私、手術を受けることにしたんだ。成功する確率は五十パーセントくらいなんだって。今のままでもしばらくは生きていけるみたいなんだけど、いつまでも病院でこんな生活を続けているのは、やっぱり嫌だから。ずっと考えてたんだけど、やっぱり受けようって、決めたんだ。もうここに来れなくなっちゃうかもしれないけど……」
目を閉じて、決意を自分自身に言い聞かせるかのように。
不安や心細さでいっぱいになり微かに震えながらも、しっかりと声に出して、深咲は決意を語った。
朝もや煙る交差点、登校する学生たちの笑い声が響く中、私と深咲を包む空気だけが違っていた。
学生たちの声に気づいた深咲は、そちらのほうをじっと見ながら、そっとつぶやく。
「私もあんなふうに学校に行って、友達とお喋りをする、そんな幸せな生活をしたい」
そんな、普通の人にとっては当たり前な日常を、幸せな生活、と表現する環境――。
母親や看護婦の前ではいつでも無理して強がっている様子だったが、周りに誰もいないとき、私の横にいるときだけは、深咲は素直な思いをこぼしてくれた。
悲しく心細い、気づけば押し潰されてしまいそうなほどの思いを、彼女は小さな胸のうちにずっと抱えていたのだろう。
成功率も決して高いとはいえない手術。以前から、どうするべきか、悩み続けていたようだ。
元気よくはしゃぎ、飛び回れるような生活に憧れる気持ちは、日に日に強くなっていった。それでも長いあいだ、決断できずにいたのだ。
だからこそ今、手術を受けると勇気を出して決断した深咲の力になってあげられたら……と、私は心からそう思った。
だが、そう思ってもなにもしてあげられない自分がもどかしい。
こんなふうに考える力を持ってしまったことを、疎ましくさえ感じてしまう。
「いつもこうして私のそばにいてくれて、ありがとう。手術のときはそばにいてもらうのは無理だけど、ずっと見守っていてね」
『ああ、見守っているよ。だから頑張って』
そう声に出して言いたかった。
もちろん鏡でしかない私には無理な話なのだが……。
しかし深咲は、
「ありがとう……私、頑張るよ」
と答えてくれた。
私の思いは、どうやら伝わってくれたようだ。
深咲が頭の中で勝手に想像し、鏡である私が答えたと思い描いただけかもしれない。
それでも私という存在がここにあり、私を心の支えにしくれていることで、手術がよい結果へと向かってくれるのを、心の奥底から望んだ。
「それじゃあ、行ってくるね。手術の日まで安静にしてなきゃいけないんだ。手術が終わったら絶対戻ってくるから、またお話しましょう!」
深咲は大きく手を振り、今日は母親や看護婦が探しに来るよりも前に、自ら病院へと戻っていった。
いつもは少々ふらふらしている足取りも、今日は決意に満ち溢れ、とても力強く感じられた。
私はその背中を、ただ黙って見送ることしかできなかった。
☆☆☆☆☆
それから数日間、私は深咲のことが気になってしかたがなかった。
自分が動けないのをこんなにも悔しいと思ったことはない。なにもできぬまま、時間だけが過ぎてゆく。
あのあと、手術の日になるまで、深咲は私の前には姿を現さなかった。
やがて手術の当日になり、辺りが暗くなり始める。
手術が行われると言っていた時間になると、動くことも話すこともできないのをもどかしく思う気持ちはさらに強くなった。
そばに寄り添うことはできなくとも、せめて優しい声をかけて勇気づけてあげられれば……。
そんなふうに思いながら、手術が成功することを願い続けるしかなかった。
だからこそ、再び深咲の元気な姿を目にしたときには、本当に、本当に嬉しかった。
深咲は、溢れんばかりの笑顔をこれでもかというほどこぼしながら、私のもとへと歩いてきた。そしていつものように軽く私の支柱に寄りかかると、こう報告をしてくれた。
「ありがとう。手術は成功したよ。大事を取ってもう少し入院するけど、そのあとは家に戻れることになったの。健康状態を見て、ということにはなるみたいだけど、数ヵ月後には学校に行くこともできるだろう、って先生が。私、今からとっても楽しみ!」
深咲の明るい笑顔を見ていると、こちらの心まで温かくなってくる。
それは、今まで一度も見せたことのない、心からの笑顔だった。
深咲はいつまでも、ありがとうありがとう、とささやき続けた。
その瞳からは、嬉しさのあまり溢れ出してきた温かな雫が止まることなく流れ落ちていた。
春の暖かい日差しを反射して、その雫はキラキラとまばゆい輝きを放っていた。
彼女に待っている輝かしい未来を祝福するかのように――。
☆☆☆☆☆
それからしばらく経ったあとだっただろうか。私の前に人がやってきて手を合わせて拝んだり、私に触れると幸せになれると言って触ってくる人が出るようになったのは。
私はいつしか、幸せを呼ぶ鏡――『幸せくん』と呼ばれるようになっていた。
私自身はなにもしているわけではないが、人々が幸せになれるという希望を持つことができるなら、そう呼ばれるのも決して悪いことではない。
テレビの取材が来たときには少々恥ずかしい気分になったものの、より多くの人に希望を与える役目が私にはあるのだと、今では思っている。
あの深咲という少女のように、その人の人生にまで強く影響を与えるほどまでは行かなくとも、ほんの少しの勇気や希望を、私が存在することで与えてあげられるのならば、それはとても素晴らしいことだ。
そんなふうに思い始めてからは、私は積極的に周囲に集まる人々の言葉に耳を傾けるようになった。
今この交差点に立っていて、よく訪ねてくる人々のことを私がある程度知っているのは、そうした思いからなのだ。
「今日も疲れたね~」
「ほんと~。今日は帰ったらぐっすり眠れそうだね~」
いつもの女子高生ふたり組が、今日もお喋りしながら歩いていた。
「あ……浜崎先輩だ……。やっぱりカッコイイなぁ……」
夕焼けのオレンジ色に一面が染まった交差点を、学校帰りの学生たちが通り過ぎていく。
その中に、その浜崎先輩とやらもいたのだろう。時おり、このふたり組の話題にも上がっていたため、名前くらいは耳にしたことがあった。
そんな先輩の姿を、亜沙美は憧れの眼差しで見つめている。これが青春というものなのだろうな。
私がこの交差点に設置されて、もう十年以上は経っただろうか。すでに多くの人に認知されているようで、学生たちのあいだでも幸せくんとして話題に出たりはしているらしい。
たまに、あまり見かけたことのない制服を着た学生も拝みに来ていたりする。どうやら、遠くからわざわざ私を訪ねてくる殊勝な人間も、それなりにいるということらしい。
キラキラした眼差しで先輩の後ろ姿を見送る亜沙美と、その亜沙美を優しい目で見つめながらじっと待つ理乃。
見送っていた背中が人ごみの中に消えて見えなくなるまで、亜沙美はその場から動かなかった。
「……さて、それじゃあ、帰りますか」
先輩の姿が見えなくなったのを確認したあとで、理乃がそう促す。
「うん、そうだね。……バイバイ、幸せくん! 明日はよろしくね!」
亜沙美はぽんぽんと、私の支柱部分を軽く叩く。
よろしく、というのはどういうことだろう。少々気にはなったが、私に聞き返すことなどできはしない。
じっと私を見上げている亜沙美だったが、すでに親友は駆け出そうとしていた。
向かおうとしているのは北側――駅方面のようだ。信号もちょうど青になったところだった。
「ほら、亜沙美、早く行くよ! 駅前のドーナツが私たちを待ってるわ!」
「あっ、待ってよ、理乃~! 私のドーナツ~♪」
走り去るふたり。
今日も一日が暮れてゆく。
すぐに空は真っ暗になり、街灯の明かりや店のネオンなどが辺りを照らし出す。
夜になっても会社帰りの人通りなどで、なかなか静かにはならない。しかしそれも夜が更けていくまでのこと。
終電もなくなる時間ともなれば、人通りもほとんどなくなる。深夜の交差点をじっと見続けているのは、なんとも寂しいものだ。
こうやって私はずっと、この交差点の様子を見続けている。
だが、意思を持ってしまったからなのか、私には人間でいうところの睡眠にあたるような、意識を休ませる時間も必要となっていた。
そうしないと、疲れ果てて意識が保ちにくくなる。不便ではあるが、仕方のないことなのだろう。
そのため、私は夜中人通りが少ない時間を利用して意識を閉じるようにしている。
また明日、一日この交差点を見守り続けるべく、今日はそろそろ眠りに就くとしようか。
それでは、これにて失礼させてもらおう。おやすみ――。




