第九話『悪意のかたまり』
「エリミーナ。なぜ、お前がここにいる?」
突然、背後から声をかけられた。よく知った声だった。反射的に、その場から逃げたくなる。
愛情のかけらも感じない冷たい声は、エリミーナの心を凍りつかせた。長い間、物理的にも、精神的にも縛り付けられた。足が痛むのも気のせいではないだろう。
王太子は自分の思い通りに行かないと、すぐに怒り出した。言葉を使って、エリミーナを痛めつけた。どれだけ傷つけても、胸の奥の傷跡は見えないからだ。
物理的に怪我をして傷跡ができれば、妃になることはできない。だから、暴力を振るうことはしない。そう思っていたのに、王太子によって鞭で足を打たれた。
さらに待っていたのは、王太子の裏切りだった。親友だと思っていたフィオラが王太子の浮気相手だと知った時、どれだけ悲しさと虚しさとで涙を流したか。
その後、匿名の告発により、国王の知るところとなった。証言や証拠も揃っていたため、王太子もフィオラも観念したのか、無駄な足掻きはしなかった。王太子の方は表向きは黙って受け入れた。
震える手の中には、ヴァルディスの手布があった。すがるように強く握りしめた。表面に触れると、まだ温もりが残っている気がする。どうにか心を奮い立たせる。
「おい! 聞いているのか!」
エリミーナは後ろを振り返った。近衛騎士が両側にふたり立っていて、その真ん中には守られるべき王太子がいた。エリミーナが振り返ったせいで、肩に置こうとした手が宙に浮かんでいた。
「聞いております、王太子殿下」
横暴な男だとしても第一王子にして、次期国王という立場にある。
そして、予知夢ではエリミーナだけではなく、ヴァルディスまで地獄に突き落とした元凶だった。
王城に出向いていれば、会う可能性があるのは当たり前だ。そのことすら失念するほど、ヴァルディスに会えると浮かれていたのだろう。
相変わらず、傲慢で、紳士的な態度はない。幼い頃から、他人を蔑むのが得意な男だった。成人していても、顎を上げて、鼻で笑う。
「それなら礼儀を尽くしたらどうだ」
王太子は気を悪くしたようで、エリミーナの片腕を掴んだ。これでは注文された頭を下げることもできない。
離して欲しいと腕を戻そうとするが、強い力を前に、なす術がない。王太子の顔が急に迫ってきた。エリミーナは恐れと驚きで目を見開いた。その拍子で頬に涙が一筋溢れた。
「婚約破棄されて、次は宰相だと? どれだけ恥さらしなんだ、お前は。よくぬけぬけと城に出向いたな」
「王太子殿下。私はもう、あなたの所有物ではありません。どこで何をしようが私の勝手です」
エリミーナが王太子に抵抗したことなど、これまでなかった。だからこそ、付け上がらせてしまったのは自分のせいだ。
呆気に取られて目を見開いている王太子の腕は、簡単に解けた。不意を突かれたらしく、
「生意気な女だ」
忌々しそうに目を眇めている。
「そんなお前の本性を見抜けなかった、俺が愚かだった。俺とフィオラの仲を告発したのはお前だろう? お前と婚姻後に、フィオラは側妃になれたはずだ。フィオラがああなったのはお前のせいだ」
エリミーナの親友であるフィオラと関係を持ちながら、エリミーナを裏切っていた。欺いていたのはそちらのくせに、他に責任を転嫁する癖は直っていないようだ。
フィオラは王太子と関係を持ったという不品行で、修道院に送られた。王太子はしばらくの謹慎を命じられたのみで済んだ。
エリミーナは王太子に心は寄せていなかったが、親友だと思っていたフィオラの裏切りには応えた。
理由は伏せられたが、王城での噂は広がりやすい。親友に婚約者を奪われたエリミーナに同情が向けられると、国王は体面を気にした。
あくまでもエリミーナが王太子妃としての素養がないとして、婚約破棄になった。
王太子にはかなり生温い刑だったと、エリミーナは思っている。
しかし、本人の口ぶりからして、不満なようだ。
予知夢でもヴァルディスを嵌めた卑劣な男だったが、今でも印象は変わらない。
「フィオラは自業自得です。私に非はありません」
「どうだかな、俺がフィオラといた時、お前は宰相とできていたのではないか? 宰相とぐるになって、告発したのだろう?」
自分がどれだけ批判されても怒りは湧いてこないのに、ヴァルディスに向けられると黙っていられなかった。
「ヴァルディス様は、そのような方ではありません!」
たとえ愛してはくれていなくても、そんな不誠実な人ではない。王太子のように責任転嫁もしないだろう。エリミーナはわかっていた。
「ヴァルディスはあれで、野心家だ。狙ったものはどんな手を使っても手中に入れる。お前がその一つだとしたら、どうする?」
「もし、そうなのだとしたら、本望です。ヴァルディス様に欲しがっていただけたのなら、どういう理由であれ、嬉しいです」
これは本心だった。盤石な基盤を築くために政略結婚をしたのだとしても、目的はどうあれ、一緒にいられるこの時間は幸せだった。こんな男の側にいるよりも、ずっと幸せだ。確実に言い切れる。
「俺は王になる。そうすれば、フィオラを救い出せるだろう。よく覚えておけ。どんなことがあっても、お前と宰相は許さない」
青筋を立てて、エリミーナを睨みつけてくる。歯ぎしりでも聞こえてくるようだった。エリミーナは負けじと戦うために、笑みを作った。
「楽しみにしていますわ」
王太子の怒りを煽ったが、中庭で一人残された時、膝が震えて仕方がなかった。立っていられずに、長椅子にもたれかかる。強く握り締めていたため、ヴァルディスの手布にシワが寄っていた。
エリミーナは気づくと、そのシワを丁寧に押さえつけて、畳み直した。持ち主を思って優しく撫でると、慎重な手つきで懐にしまった。




