第八話『手布の刺繍』
昨夜の夢でヴァルディスの態度が変わったらどうしようかと考えていたが、杞憂に終わった。
ヴァルディスはエリミーナが執務室に出向くと、すぐに席から立ち上がった。近寄ってきて「エリミーナ殿」と笑顔を見せた。眼鏡を介しても、温かい目をしているのがわかる。エリミーナは感情を隠さずに微笑んだ。
中にいた文官たちはヴァルディスを眺めては、驚きの表情をしていた。誰から見ても貴重な笑顔なのだと思う。
エリミーナが指摘したことで、せっかくの笑顔が消えてしまうのが嫌だった。高鳴る胸を服の上から押さえて、気づかないふりを通した。
いつものように差し入れを渡す。差し入れは市場で買える有名な菓子だ。焼き菓子なので、片手で摘んで食べられる。甘さ控えめの菓子と、ハーブティーはよく合うはずだ。
実は婦人たちの集まる苦手な茶会に顔を出している。ヴァルディスと婚約を決めてから、招待状をもらう機会が増えた。どんなハーブティーと菓子の組み合わせがいいのか、聞いて回った。
さすが、数多くの茶会をこなしている婦人たちは、招く方も招かれる方も、もてなし方に詳しい。
会話も嫌な噂ばかりかと思いきや、意外にもエリミーナを気遣ってくれる婦人のほうが多かった。
王太子側の一方的な婚約破棄は、婦人たちにも悪い印象を与えたらしい。エリミーナの縁談が来なかったのも、王太子が圧力をかけていると聞いた。
しかも、王太子はこの婚約破棄のせいで、立場が危ういらしい。正統な王妃を娶らなければ、国王も納得しないとのこと。
――本当にどうでもいい話を思い出したわ。
大事な人の側にいられる貴重な時間に嫌なことを考えてしまい、エリミーナは首を振って追い出した。
宰相補佐をしている文官たちも、差し入れを心待ちにしてくれるようだ。ヴァルディスの呼びかけを先回りして「昼休憩ですね」と、皆で手を止めた。
ヴァルディスとエリミーナは中庭に移動した。長椅子に揃って腰かけようとしたのだが「お待ちを」と手で制された。
長椅子が朝露で湿っていたためか、ドレスを汚さないようにと手布を広げてくれる。椅子に敷いた手布には刺繍が入っていた。馬をかたどった刺繍だ。使い古されているのか、少し端が解れている。
「この手布は、贈り物でしょうか?」
自分も渡せていないというのに、誰かに先を越されていると思うと、悔しい。ヴァルディスは悲しげな目で、遠くを見た。
「亡くなった母が私に作ってくれたものです」
確か、エリミーナの母が亡くなったときも、ヴァルディスは母親の話をしていた。
ヴァルディスを産んだ後、命を落としたこと。母親の顔は肖像画でしか見たことがないこと。父親に認めてもらうために必死に勉学や武術に励んできたこと。
「産まれる私のために、産着や手布を作ってくれていました。これもその一つです。私が興味を抱きそうなものを手布に刺繍したと聞きました」
「そのような素敵な手布の上に乗ることはできません」
「洗えばいくらでも使えます。母も役に立ったのなら嬉しいでしょう」
「それなら――」
エリミーナは自分が持っていた手布を隣に広げた。ヴァルディスを想像して刺繍した白い花だ。本当はもらってほしかった手布が、ここで役に立つとは思わなかった。
「この上に座ってください。お互いの手布の上に乗れば、解決します」
エリミーナはヴァルディスの手を取って導くと、手布の前に立たせた。「せーの」と掛け声を上げて、手布の上に腰かける。ヴァルディスは抵抗しないで、ちゃんと腰かけてくれた。
「確かに、これで解決ですね」
ヴァルディスが爽やかに笑った。左手は繋いだままで、逆の手で髪を優しく撫でられる。毛先まで感覚が届いているかのように、くすぐったく感じてしまう。
耳の裏に指が触れる。頬に手を添えられた。温もりに包まれて、何もしなくても顔がさらに熱を持った。
予知夢にもない展開で、エリミーナは思考が止まった。近づいてくるヴァルディスの整った顔をただ見つめるしかできない。
――まさか、口づけをされるなんてことは。婚約者だし、あってもおかしくないけど。
衝撃に備えて目を瞑ったときには、額に温もりを感じた。
驚いて目を開くと、ヴァルディスの顔が離れていくところだった。つまり、考えをまとめてみると、額に口づけを受けた。
一瞬のことで現実かどうかも疑わしい。額に手を置くと、「昼休憩は終わりのようです」と声が降ってきた。
いつもより早く終わった。ヴァルディスは立ち上がると、エリミーナの手布を拾って、丁寧に折り畳んだ。
「これは洗ってお返しします」
「わ、私もそうします!」
エリミーナも倣って、ヴァルディスの手布を折り畳むと、両手で握り込んだ。見送りができないことを謝罪されたが、エリミーナは首を横に振って許した。
ヴァルディスは名残惜しそうに何度もエリミーナを振り返った。その度にエリミーナは片手を上げて、小さく横に振った。
ヴァルディスが完全に見えなくなるまで、エリミーナはその場から動かなかった。
愛しい人のことしか見えずに、背後から近づこうとする悪意に気づかなかった。




