第七話『婚約解消の日』
ヴァルディスに会えなくても、手紙のやり取りは続いた。
報告書のようだったヴァルディスの文面が、数度のやり取りを経て変わり始めている。人となりを知っているからか、角ばった字が少し柔らかく感じた。
視察先の市場で見たという珍しい装飾品や食べ物の話は興味深かった。『あなたがそばにいたら』という文面に心が躍った。
ヴァルディスがどういった顔で書いたのか。想像するだけで、エリミーナの顔は緩んだ。何度も繰り返し、同じところを読んでは、寝台の上で足をばたつかせた。
こんな日々を得られるなんて、勇気を振り絞ってよかった。手紙を書いて、返事をもらえる喜びを感じられた。
胸の奥がくすぐったくて、手紙を抱き締めて笑いたくなる。枕の下に入れたら、ヴァルディスの夢を見られないだろうかと本気で思う。
明日の昼休憩には、王城で会う約束をした。今から楽しみで仕方ない。エリミーナは一つにまとめて下ろした髪を撫でながら、眠りについた――
――思い出のガゼボにて、エリミーナはヴァルディスの背中を見ていた。
宰相の地位を表す足元までの長いマント。それを身に着けたままということは、仕事の合間で来たのだろう。ガゼボの椅子に座らないのも、長居する気はないという強い意思を感じた。
馬車の中でも書類を見て、エリミーナに目もくれなかった。
愛しい人の背中ではあるが、顔が見えなくて寂しい。
どうして、こちらを向いてくれないのだろう。思えば、迎えに来てくれた時から視線が合わなかった。
エリミーナは非難する言葉を飲み込み、ただヴァルディスが話し出すのを待った。気持ちいいはずの風の音も、今は寂しい音に聞こえる。
ヴァルディスは深呼吸をした後、そのままの姿勢で話を切り出した。
「私との婚約を解消してほしい」
処刑を宣告されたように、足元から崩れ落ちそうになる。どうにか体勢を立て直せたのは、まだ話の段階だったからだ。婚約破棄の書類に署名していない段階なら、考え直してくれると思っていた。
エリミーナは、ヴァルディスの長いマントにしがみつく。怒りと悲しさで手に力が入る。
「どうしてですか? 今さら解消するなんて」
声が震えて言葉にならない。
「エリミーナ殿には申し訳ないと思っています。しかし、これ以外に、あなたを守るすべがありません」
ヴァルディスは振り返ると、エリミーナの手をやんわり外した。その手を包み込むことなく下ろす。
「意味がわかりません。私を守るというのはどうして?」
「いずれ、わかります。きっと、あなたもこの決断をして良かったと思うはずです」
わかりたくなかった。この時に、ヴァルディスが苦渋の決断をしたような顔をしていたなら、エリミーナは諦めなかったかもしれない。
見上げたヴァルディスの顔には、まったく変化が見られなかった。眉間も、眼鏡の奥の瞳も、頬も、口元も。どこまでも普段通りだ。
エリミーナと婚約を解消することに、何の躊躇いもないのだろう。足かせを外すような簡単な気持ちだったとしたら、辛い。
「心は変わりませんか?」
「ええ、変わることはありません」
気持ちのぶれなど一切感じない瞳に、エリミーナが折れそうになる心をどうにか保つ。もし一抹でも迷いがあるのなら。
「一つ、おたずねしても?」
「私が答えられることなら」
「これまで、私に心を寄せてくださったことはありますか?」
ずっと怖くて聞けなかった。心を返してもらえなくても、愛した人といられるなら幸せだと思っていた。政略結婚だとはいえ、想いがあるのなら、まだ心を保っていられる。答えを期待した。
「一度も、ありませんでした」
その言葉にエリミーナの心は完全に折れた。涙すら流れない悲しさが自分の感情の中にあるのだと、気がついた。
◆
まるで長い間、呼吸を止めていたかのように、突然の目覚めで息を吹き返した。
エリミーナは目を見開き、寝台の上で何度も深呼吸を繰り返す。
一度見た夢だとしても、幸せな気分で寝付いたはずなのに、目覚めは最悪だった。
甘く見ていた。手紙のやり取りぐらいで婚約破棄を回避できるわけではない。
もっとヴァルディスと親密にならなければ、あの時のように躊躇いなく捨てられる。
心さえ寄せてもらえないまま、婚約破棄されて、最後にはお互い違う場所で死んでいくだけだ。
今までの選択で、結末が変わるかどうかはわからない。それでも母譲りの予知夢だとしたら、当たる可能性が高い。これまでも、おおむねその通りに進んだ。
ただ、エリミーナが始めた手紙のやり取りといい、ヴァルディスの周りの文官といい、変わったことも多い。
つまりは予知夢を回避する方法があるはずだ。
そのために、今日という日があるように感じた。
蜂蜜を溶かしたような色のドレス、腰の後ろのリボン。姿見で髪から足の爪先まで確かめた。
「お前の髪色はくすんでいて、みっともない」
「面白くもないのに笑うのはやめろ」
「何を着ても地味なのは、変わらないな」
くだらない文言の数々は、王太子の口から出た言葉だ。長くエリミーナの頭を支配して、自己肯定感を奪ってきた。
エリミーナをすべてにおいて気に入らないのは知っていた。それでもエリミーナのせいではない。妃候補となったのも、王太子が選んだせいだ。
侍女が出ていくのを待って、姿見に映る自分に話しかけた。
「髪色はお母様譲り。王族の金髪みたいに派手じゃなくたっていいの」
「最近は楽しい時にしか、笑ってない。ヴァルディス様の前だけね」
「今は明るい色のドレスを着て、お化粧も華やかなものに変えた。自分では似合っていると思ってるし」
こうやって全部肯定していくと、王太子の言葉がひどく馬鹿馬鹿しく思えてきた。好きでもない男に否定されて、傷つく必要はない。自分を高めるためには褒めればいい。
今なら何でもできそうな気がする。嫌な夢の結末もこの手で変えられるかもしれない。




