第三話『二度目の婚約』
馬車を降りて向かったのは、レジニエル家の庭園だった。ヴァルディスに腕を差し出されて、恐縮しながらも手を置いた。
生垣に囲まれた園内には白や赤のバラが咲いている。四角く区切られた花壇、その間を石畳の小道が通っている。噴水からは水が飛沫となって、落ちていく。
奥にはガゼボがあった。丸く囲まれた柱の内側には、休憩用の椅子とテーブルが置かれている。隅には縦長の植木鉢があり、花を咲かせている。
漂う香りまでもが、夢の中と同じだった。雑草が一つもない。美しく整えられた庭園は、ヴァルディスの静謐な心を表しているようだ。
「本当に素敵な庭園ですね」
「気に入ってくれましたか?」
「ええ、とても」
「そうですか」
ヴァルディスの言葉は多くない。だからこそ、言葉が返ってきただけでも満たされた気持ちになった。
心地よい風が吹いてきて、噴水の前で立ち止まった。エリミーナが足を止めたことに気づくと、ヴァルディスも歩みを止める。
――ヴァルディス様は私に合わせてくれるのね。
嬉しくなって、ヴァルディスに向けて笑顔を浮かべた。誰かの前では笑えないのに、ヴァルディスの前では笑えた。
瞬きを忘れたように丸い緑色の瞳が見つめてきた。
固い表情をしていたが、エリミーナが名を呼ぶと、顔を逸らされてしまった。ヴァルディスは「失礼」と咳払いをする。エリミーナも熱くなってきた顔を逸らして、瞼を強く瞑った。
嬉しいからといって、浮かれすぎたかもしれない。笑いどころを完全に間違えたと反省した。
深呼吸をして、頭の熱を下げてから、顔を戻した。
「い、行きましょうか」
気を取り直してエリミーナが促すと、ヴァルディスも歩幅を合わせて歩き出した。
ガゼボの階段の前まで行くと、陽の光を浴びたヴァルディスは手を差し出してくる。
普段より後光が差していて、思わず見惚れてしまう。
「エリミーナ殿?」
「い、いえ、何でもありません!」
慌てて階段を上がろうとしたところで、ドレスの裾を踏んでしまった。つまずいて、思わず「あっ」と声が出る。
前のめりに転がりそうになったとき、横から手が差し伸べられた。逞しい腕が倒れそうになった体を支えてくれる。
思いの外、ヴァルディスの顔が近くにあった。恥ずかしさと照れが許容範囲を超えている。鼓動が激しい。叫び倒したくなる。
「大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫です」
感謝したかったのに、腕から解放されたくて、体を強く押してしまった。ヴァルディスはエリミーナをその場に立たせると、腕を離した。
顔を覆いたくなるほど恥ずかしい。愛する人の前では、妃教育なんて何の役にも立たなかった。妃のような振る舞いだけではなく、内面までちゃんとした淑女にしてほしかった。
二人でガゼボ内の席に着くと、紅茶が振る舞われた。
話題に富んだ淑女ならば、相手を退屈させることもないだろう。流行の装飾品の話、貴族間の色恋話、国の情勢の話、どれもエリミーナには興味がない。
王妃にでもなれば、興味を抱かざるを得なくなるが、幸いにもその可能性はなかった。
興味があるのは、目の前にいるヴァルディスのことだ。紅茶を飲む姿も洗練されていて、エリミーナはうっとりと見つめた。
風が吹くと、後ろに撫でつけた茶色の髪が少し乱れる。
普段ならば蝋や何かで固めていて、簡単には髪型が乱れないのに、今日は違っていた。前髪が全部降りていたら、もっと若く見えるかもしれない。
額にかかった髪の毛が気になって、手を伸ばしたくなるのを、ぐっと堪えた。
「エリミーナ殿に話があるのですが」
ヴァルディスがカップを置いて、エリミーナを見つめる。眼鏡の奥の瞳が鋭くて、尋問されるような気分だ。エリミーナは座り直して「どうぞ」と話の続きを促した。
ヴァルディスが深く息を吸って、吐き出す。
「あなたに、縁談が来ています」
夢の中ではヴァルディスの口から言われて、他の方との縁談を勧められるのだと絶望した。残酷だとヴァルディスを憎みたくなった。
しかしそれは違う。ヴァルディスはテーブルを回り込んで、エリミーナの前で跪いた。「手を」と言われて、エリミーナは震える手を差し出した。ペン胼胝ができた手が掬い上げる。
静かなはずの庭園で、自分の鼓動が聞こえてくる。手が触れていると思うだけで、顔が熱い。
ヴァルディスは一度、頭を下げた。背の高い彼をこうして見下ろす機会はなかった。
ヴァルディスは顔を上げると、眼鏡越しに見つめてきた。
「エリミーナ殿、私の妻になってくれませんか?」
夢の中の令嬢は庭園中に響き渡る驚きの声を上げた。そのせいで庭園で休んでいる鳥たちが飛び立つほどだ。
淑女とはほど遠い反応をしてしまった。夢とはいえ、愛した人に恥ずかしい姿を晒して後悔している。
二度目のエリミーナは妙に冷静だった。後に起こることを考えると、手放しでは喜べない。幸せの後にはとんでもない不幸が待っているのだ。
「驚かないのですか?」
「いえ、あまりに驚いたために言葉を失ったのです」
「そうですか」
ヴァルディスが少しだけ落胆したように見えるのは気のせいだろう。エリミーナは感情を深読みする悪い癖がある。
夢の中ではわかりやすく喜びを態度で示したが、今回は堪えた。その姿勢は、エリミーナが渋っているように見えたのかもしれない。
ヴァルディスはこの結婚がどれだけ有益になるかを話した。恋などとは一切結びついていないように。
衣食住を共にしたいのに、気にしなくていいと言う。寝台も別々にして、白い結婚も可能だと言う。
この婚約に恋愛が絡んでいないことを、ヴァルディス本人が証明してくれた。
胸は痛んだものの、好きな人と添い遂げられるというのは、エリミーナにとって魅力的だった。家同士の結びつきを考えるよりもずっと。
「駄目でしょうか?」
首を横に振って、弱気に離れていくヴァルディスの手を取った。その手に熱い感情が通っていなくても、エリミーナは何度も同じようにする。
例え、その後に待つのが悲劇だとしても、エリミーナは今度こそヴァルディスを生かす。己の命をかけたとしても守り抜く。
この決意は揺るぎない。
エリミーナは礼儀に反していたとしても、その手を自分の胸元に押し当てる。ヴァルディスの肩が跳ねても構わない。眼鏡の奥から咎めるように見ていたとしても知らない。
もう二度と、夢のような離れ方はしたくない。
「この心臓が止まろうとも、あなたの手は離しません」
婚約破棄なんてしない。死ぬなら、ヴァルディスの妻として、罪人の妻として息絶えたい。
――「心からあなたをお慕いしています」
ヴァルディスは目を丸くしていたが、すぐに調子を取り戻すと、頷きを返した。




