第二話『宰相の人相』
エリミーナが目覚めた時には、顔中が涙で濡れていた。まるで夢の途中から逃げ出してきたかのように、心拍が上昇していた。
夢か現実か、わからなくなるほど鮮明だった。手触りも臭いもあった。
それが夢だとわかったのは、自分の体に触れてみたからだ。夢のように腕は細くなっていなかったし、頬も痩けてはいなかった。
寝台の上で長くため息を吐く。夢で良かったと思いながらも、楽観視はできなかった。
いつ夢のような事態が起きてもおかしくはない。エリミーナにはいつだって不幸がつきまとう。
母の家系は元来、予知夢や不思議な力を持っていた。
もしその血を引いているとしたら、エリミーナには不幸を呼び寄せる力がある。
幼い頃に運悪く王太子に見初められたことも、年月が経って婚約破棄されたのも、力のせいだと本気で思っている。
不幸が染み付いた顔で見ていられないと、王太子に面と向かって言われた。
政略結婚に幸せそうな顔が必要だとは知らなかった。
破棄された後にまったく縁談が来ないのも、エリミーナの醜聞のせいだとされている。公爵家の令嬢だというのに王太子に捨てられると、大した家柄も役に立たないらしい。
次の縁談を待つのも、限界だろう。対等な家柄との縁談が来なければ、男爵家か、爵位を買った商家に嫁がなくてはならなくなる。
自分の未来を憂いて、ため息が深くなる。
婚約破棄されてから一年の月日が流れていた。
妃教育を受けていた頃が遠い記憶になっている。思い出したくもなかった。厳しくて、辛くて、何度も投げ出そうかと思った。
そんな時はヴァルディスの姿を隠れ見て、勝手に勇気を得ていた。
実際、励ましの言葉をもらったこともある。
ヴァルディスとすれば、立ち話程度の認識だろう。それでも、密かに恋慕を抱くエリミーナは嬉しかった。王城で唯一感じられた幸せだった。
時間になると、侍女のズラナが部屋にやってきた。ズラナはエリミーナと年齢は同じだが、感情を表に出さないことで、幾分か年上に見えた。きっちりと着こなした侍女服、ほつれのないまとまった髪。礼の速度や角度まで完璧だった。
「本日はレジニエル宰相閣下がお越しになる日です」
ヴァルディスの名を聞き、心音が高鳴った。
――今から会うの? あんな夢を見たばかりなのに。
エリミーナは先程の夢を思い出す。
夢の中ではヴァルディスとエリミーナは婚約した。
結果的に破棄されたとしても、一時だけは幸せだった。それは、偽りのない気持ちだった。
ズラナが次々と、エリミーナの支度を始めた。櫛で髪を丁寧に解いて、香油を垂らす。編み上げられた金色の髪を纏める。
鏡台に映る自分の姿に、エリミーナは落胆した。
丸い額の下にある眉は、いつも困ったように垂れている。儚げな灰青の瞳に、この国の女性としては慎ましく小さい鼻。赤く色づいた唇と薄紅色の頬は、簡単に綻ぶことがない。
「笑おう」と指示しなければ、口角を上げられない。話そうと強く思わなければ、喉が開かずにか細い声になる。
ズラナの手によって、薄桃色のドレスを身につけさせられた。このドレスには見覚えがあった。腰のリボンもフリルのかたちも配置も同じだ。
――いやいや、待って! 嘘でしょう、夢の通りだなんて!
エリミーナは声を上げるのをどうにかとどめる。姿見に映る自分の姿は、まさに夢の始まりと似ていた。
そしてこれから先、起こるであろう夢の続きを想起する。ヴァルディスに会える喜びよりも恐れの方が大きかった。
――顔を合わせたら、大泣きしてしまうかもしれない!
◆
結果、泣きはしなかった。泣く暇を与えられずに、さっさと馬車に押し込まれた。
レジニエル家の馬車といったら、乗り心地を追求した、まさにヴァルディスの第二の執務室だった。向かい合う長椅子の間に頑丈な机が隔てられている。その上には書類が一山載っていた。
エリミーナは揺れの少ない奥の席に導かれて、ヴァルディスは必然的に反対側の席に着いた。
二人の間に話などはなかった。ヴァルディスは書類をさばき、エリミーナは窓の外を眺める振りをした。
この後はレジニエル家の庭園に向かう。そこでのやり取りに、エリミーナは天にも昇る気持ちになった。
思えば、人生において一番幸せな場面だった。
夢ではなく、実際のヴァルディスを見る。こちらの視線には気づいていないようだ。その隙にじっくりと観察する。
エリミーナが見ているほど、向こうからは見つめられたことがない。悲観はしないが、寂しい気はする。
――見たって、美しくも、面白くもない顔だもの。それにひきかえ……
ヴァルディスの緑色の目は眼鏡越しでも鋭い。すべてを見通しているような抜け目なさがある。
冷たい顔で好ましくないというのは、周りの女性たちの意見だ。
エリミーナは好ましいと、否定する。
――特に、書類に目を落とす時の顔は、凛々しいもの!
普段は執務室にいるためか、ヴァルディスの肌は日焼けしていない。顎が尖っているのは、あまり食に重きを置いていないためだろうか。決まった時間に食事を摂っている場面を想像できなかった。
――心配だわ。きちんと食事をとっているのかしら? 可能なら、つきっきりでお世話させていただきたい。
食生活についてはわからないが、ヴァルディスは大きな体格に恵まれていた。もちろん抱き締められたことなどないが、エリミーナの体はすっぽりと埋もれるだろう。
筋肉は薄めだろうか。服の上からはわからない。ヴァルディスは上着すら脱がないし、シャツのボタンを外すこともないのだ。
――首元も窮屈ではないのかしら。今日のような陽気なら、上着を脱がれても……いや、何やってるの、私!
エリミーナは服の下を想像してしまい、恥じらってやめた。うつむくが、誘惑に負けて恐る恐る顔を戻す。エリミーナの百面相にもかかわらず、ヴァルディスの興味は書類にあるようだ。
本当に仕事人間というのが、正しい。
ヴァルディスはその仕事ぶりと表情の乏しさから冷酷だと言われる。しかしエリミーナは、そんな宰相を尊敬していた。
――人よりも冷静に物事をお考えになっているから、宰相という大事なお役目を果たしてらっしゃるのよ。それに。
妃教育も知らなかった子供の頃のエリミーナは、馬を乗り回したり、剣を振り回したりするほどのやんちゃだった。お姫様扱いしてくれたのはヴァルディスだけだった。
まだヴァルディスがエリミーナの家に通っていた頃だ。実母が生きている頃には、レジニエル家と親交があった。
――「お手をどうぞ。エリミーナ殿」
あの姿は素敵だった。思い浮かべても、うっとりしてしまう。周りにいた同じくらいの男子たちに目もくれなかった。
いつかヴァルディスのような男性と恋愛ができたらと、憧れに似た気持ちを抱いた。夢の中で一瞬でもこの方の婚約者になれて、幸せだった。
そう思っているのはエリミーナだけだろう。一方的な恋心だった。政略結婚でなければ、婚約すらできない。エリミーナが公爵家の生まれだったからこそ、結ばれた縁だった。
それも結局、一方的に破棄されて終わった。
つんと鼻の奥が痛んできて、エリミーナは慌ててうつむいた。ヴァルディスを見ていられなかった。
シワが寄るほど、手布を強く握る。
――今度こそ、救いたい。この人を。
これはヴァルディスに贈りたかった手布だ。思い出の庭園の薔薇を刺繍した。結局、贈る勇気を持てずに、エリミーナの手の中にある。夢の中でも渡せなかった。
馬車がゆっくりと動きを止めた。ヴァルディスが先に馬車を降りた。エリミーナが降りようとしたとき、手を差し出してくる。
「さあ、お手をどうぞ、エリミーナ殿」
幼い頃と重なる。それでもヴァルディスの声は、子供の頃よりも低かった。
エリミーナは湧き上がる涙を必死に堪えて、その手に震える手を乗せた。




