第十九話『令嬢の記憶』
エリミーナは寝台の上で目が覚めた。
かつては公爵家の令嬢だった。しかし今では、傍らに世話する者はいない。水垢のついた器が寝台横の卓の上にあった。
もう何日も寝台から起き上がっていない。床ずれを起こしていた。毛布からはみ出た腕は肉が削がれたように細かった。
エリミーナは目を閉じた。息を吐くことすら辛かった。心臓がどうにか動いている程度だ。いつ息絶えてもおかしくはない。
瞼の裏に浮かべるのは、投獄されたヴァルディスの姿ではない。堂々たる宰相の姿だった。
エリミーナが憧れたヴァルディスは、どこにいても輝いて見えた。何も成せなかった人生の中で、唯一幸せをくれたのは、ヴァルディスだった。
許されるなら、もう一度、会いたかった。心から慕っていると告げたかった。
エリミーナは叶わない想いを胸に、最後に一筋の涙を流した――。
◆
胸が苦しくなる夢だった。こめかみに流れる涙を感じながら、エリミーナは瞼を開けた。自室の寝台の上に仰向けに横たわっていた。
涙を拭いて、いつ自分が意識を失ったのか、どうやってここまで来たのか、一から記憶を辿る。
エリミーナは王城の中庭でヴァルディスの審判を待った。名を呼ばれて振り向くと、いつもと変わらないヴァルディスがいた。安心したのを覚えている。
その後、別れ際に急に意識が無くなったのだった。
暗闇の中で、エリミーナの名を必死に呼ぶ声が聞こえてきた気がする。聞き間違いでなければ、ヴァルディスの声だったように思う。
部屋には誰もいなかった。上体を起こそうとしたが、寝台に沈んだ。起き上がる気力もない。体力が急激に落ちていた。
ここのところ気が晴れなかったのは、心労のせいだと決めつけていた。事態は深刻だったようだ。
一度目の経験では、ヴァルディスが牢獄で果てた後に、病にかかって死んだ。
その原因はわかっている。すべてを思い出したのだ。
エリミーナは自分の胸に手を当てた。かつて、ここには刺し傷があった。実母が馬乗りになって、剣を突き立てた傷だ。
擦ってみても、傷はもうない。ヴァルディスを助けたいと強く願った時、胸の傷が熱くなった。手を当てて、熱を失ったのを確かめた。その手の中には金色の短剣があった。
母の能力には確証がなかった。自分の体から剣を取り出して、助けたい対象の心臓に突き刺す。そうすると、時を遡ることができるばかりか、寿命を与えられる。そんなことができると信じるほうが、おかしいだろう。
幼い頃、エリミーナは裏山に迷い込み、遭難した。崖から落ちて、死んだはずだった。母の能力がなければ、こうして生きられなかった。
母はエリミーナの時を遡らせた。二度目には、崖から落ちる前に助け出した。
母は己の命を娘に分け与えてから、病になり、息を引き取った。
そのことを伏せて、エリミーナは考えないようにしていた。自分が病にかかった今、考えずにはいられなかった。
母から託された剣の傷は、私の体に残っていた。ヴァルディスをどうにか救いたいと思った時、短剣へと変わった。
短剣はヴァルディスの手に渡り、時を遡ることができた。
喜ばしいのは、ヴァルディスを救えたことだ。だから、自分が死ぬことなど怖くない。そう思っていたはずなのに。
清潔な寝台、侍女も世話をしてくれる。一度目よりも恵まれている。
いざ、死が目前に迫ってくると、欲が出てきた。もう少しだけ生きたかったと思う。ヴァルディスの婚約者ではなく、妻として死にたかった。
体を横に倒して、枕に顔を押し付けた。弱っていく体をヴァルディスに見せたくない。死ぬ前に別れを告げられるだろうか。婚約破棄が成立するまで生きていられるだろうか。
許してもいないのに、勝手に扉が開いた。エリミーナは慌てて上体を起こそうとした。しかし、手に力が入らなくて、断念した。
「エリミーナ! 目が覚めましたか」
普段の冷静沈着な宰相とは程遠く、必死な形相だった。ヴァルディスは寝台に駆け寄ると跪いて、エリミーナの手を握った。
「ヴァルディス、どうしてあなたがここに?」
「城で倒れたのです。すぐ医師に見せましたが、原因も分からずに静養するようにと言われました。寝室に運び、あなたが目を覚ますのを待つしかありませんでした」
「ご迷惑をかけて申し訳ありません」
一度でも頭を下げてしまうと、申し訳なくて再び上げることはできなかった。ヴァルディスは長いため息を吐く。
「なぜ、謝るのですか? 私はあなたの婚約者です。これから家族になるのですから、遠慮はいりません」
「婚約者」という言葉が、心に重くのしかかった。
「その話なのですが……」
エリミーナは前置きして、話を続けようとした。先が言いづらく、言葉に詰まる。
「ヴァルディスは私の願いを叶えてくださるのですよね」
「ええ、あなたのためなら」
断言されて、エリミーナは迷いを捨てようと努めた。完全に捨てきれなくなる前に、勢いをつける。
「では、私との婚約を解消してください」
エリミーナは体にかけていた毛布を握りしめながら、どうにか言い切った。
「それだけは聞けません」
「どうしてですか? 私はこのまま死にます。あなたと一緒にいることはできないのです。どうかわかってください」
「そんなもの、わかりたくはない!」
あのヴァルディスが声を荒らげた。丁寧な言葉遣いもない。エリミーナを睨みつけてくる。それでも鋭くないのは、頬に涙が流れるのを見たからだ。ヴァルディスは顔を歪めて泣いていた。
エリミーナは驚きで言葉が出なかった。牢獄の中にいても泣かなかったヴァルディスが、こうして涙を流している。
「何のためにやり直したと思っているんだ? あなたを守るために時を遡ってきたのに」
ヴァルディスはエリミーナを抱き締めると、肩を震わせた。息がしづらくなるほど腕に力が込められた。
「もう二度と、あなたを離さない」
弱り切った体でも、ヴァルディスは変わらずに愛してくる。それが、ただ嬉しかった。エリミーナはわずかな力を込めて、抱き返した。
「私も離れたくない」
思わず、本音を溢した時、頬に付けていた胸元が熱く感じた。




