第十八話『王妃と宰相』
ヴァルディスは頭を下げようとしたが、玉座に腰を下ろした王妃が「やめよ」と制した。
「ここからは叔母と甥という立場で話したい」
王城の中で、親戚の立場で話したことはなかった。王妃と宰相として接してきた。
肘掛けに置いた手の人差し指だけが、上下に動いている。王妃の落ち着きがないのは、我が子の失態に動揺しているためだろう。
――このような叔母は見たくなかった。
王妃の存在は、血縁者のヴァルディスの母も、輩出したレジニエル家も、誇りに思っていた。
王妃は妃候補として早くから教育を受けた。一度も王妃の道を外れたことはなかった。今や国母として、国王を支えている。そのような王妃が、王太子の犯した罪のために頭を下げた。
「此度は愚息が馬鹿なことをした」
「いえ、すべて王太子殿下がされたことです。王妃殿下が謝ることではありません」
「いや、ラディミールが王の器ではないことはわかっていた。だからこそ、聡明なエリミーナが必要だった。あの娘でなければ、ラディミールをまともな王にすることはできぬ。そう思い、婚約をすすめた。それを、あのようなつまらぬ女にうつつを抜かした。ラディミールは陛下と私の期待を裏切ったのだ」
王妃は王太子のことを心から思っていた。出来の悪い息子を少しでも理想の王に近づけるために、時には鞭を振るい、言い聞かせた。
国母としては相応しい行動だとしても、母親としては間違いだった。そのせいで、王太子の心が蝕まれていったのかもしれない。
しかし、ヴァルディスは共感も同情もしなかった。
エリミーナは王太子によって傷つけられた。常に自分を卑下するようになった。心だけではなく身体的にも、鞭で打たれたことが許せない。
無残にも倒れたエリミーナの姿を見て、ヴァルディスは我を忘れた。なぜこんなにも腹を立てているのかと、自分でもわからずに告発文を書いた。
フィオラと王太子の関係を裏付ける証拠など、すぐに見つかった。注意深い王太子とは違って、フィオラは受け取った手紙を保管していた。手紙を一束盗み出せば、証拠として事足りた。
「そして、極めつけはこの書簡だ」
王妃の怒りは治まっていないようで、肘掛けを殴りつけた。
書簡は王太子の妾だったフィオラが書いたものだ。王太子がどう動き、自分を救おうとしているかが、事細かに書かれている。ある意味、ヴァルディスにとっての助けになった。
一度目を経験しているため、王太子の策略をかわすことは容易だった。それでも、あまりに知りすぎていると、怪しまれるかもしれない。逆に、罠を張ったと思われるのは、厄介だった。
どうするべきかと考えを巡らせていたときに、エリミーナからこの書簡を渡された。ヴァルディスは勝利を確信した。
「この者を慕った時点で、ラディミールの没落は決まっていた」
王妃は目を伏せた。かげりのある顔は、普段の王妃からは見られない。
「王太子の座には新しく別の王子につかせる。ラディミールは王位を剥奪されて、流刑となるだろう」
苦渋の決断であることは、肩を落とした王妃の姿からも明らかだった。ヴァルディスは深く頭を下げた。王妃と宰相の立場に戻り、最大の礼を尽くしながら謁見の間を後にした。
◆
王城の中庭には、長椅子に腰かけたエリミーナの姿があった。ここで会うことを約束したわけではなかった。この日に何が起きるのかを知っているのは、エリミーナも同じだった。
ヴァルディスは王太子に断罪されて、牢獄に入れられる。一度目の記憶があるせいで、居ても立ってもいられなかったのだろう。
「エリミーナ」
声をかけると、エリミーナは慌てて立ち上がり、ヴァルディスの方を振り返った。顔色は悪く、涙の跡が残っていた。ヴァルディスの顔を確かめたエリミーナは、目に新しく涙を溜めた。
「ヴァルディス!」
そう言って、ヴァルディスの首に腕を回して抱き着いてきた。少し見ない間に腰は頼りなく、痩せたような気がした。あっけなく失ってしまいそうで、エリミーナを抱く力を込めた。
しばらくすると心が落ち着いてきたのか、エリミーナは首から腕を離した。ヴァルディスも抱く力を緩めて、愛しい顔を見下ろした。
「すみません、取り乱してしまって」
エリミーナがヴァルディスの胸板に両手を当てて、見上げてきた。
泣いた名残で灰青の瞳は潤んで、輝いている。赤く色づいた唇と薄紅色の頬に、ずっと触れてみたいと思っていた。だから今こそ、躊躇いたくない。
「謝ることはありません」
エリミーナの頬に触れた。すっかり冷たくなった頬を温めるように、手のひらで包み込んだ。
「ヴァルディスが無事かどうか心配で、ここまで来ました。あなたがここにいるということは、助かったのですね」
エリミーナの瞳が潤んできて、また次の涙が零れそうになっている。悲しい涙ではないのに、泣いている姿はあまり見ていたくなかった。エリミーナにはずっと笑っていてほしい。
「ええ、投獄は免れました」
そう告げると、エリミーナはヴァルディスに向けて笑顔を浮かべた。偽りのない、美しく尊い笑顔だった。
「良かった、本当に良かったです」
泣きじゃくるエリミーナの背中を撫でて慰める。
「もう、泣かないでください」
「すみません、涙が勝手に溢れてしまって」
どうしたら泣き止んでくれるのか、ヴァルディスは戸惑うしかなかった。エリミーナが落ち着いた頃合いで、王城の入り口まで見送ることにした。
「送りたいのですが、まだやらなければならないことがありまして」
「わかっています。また参りますね」
いつものやり取りで終わるはずだった。エリミーナが名残惜しそうにヴァルディスに背中を向けた時、その華奢な体が横に大きく傾いた。
地面に崩れ落ちる寸前、すでにヴァルディスの体は動いていた。力なく倒れるエリミーナを抱き寄せた。
「エリミーナ! エリミーナ!」
灰青の瞳は固く閉ざされている。ヴァルディスが揺さぶろうとも、その瞼が開くことはなかった。




