第十五話『通じる心』
観劇に行くため、エリミーナは大人びたタイトなドレスを纏い、正装したヴァルディスの隣に立つ。
馬車から指定の席に着くまで、上品にエスコートされた。その道中、宰相の装いではないヴァルディスは大いに目立っていた。
周りから何度も「ヴァルディス」の名前が囁かれるのを聞いた。他の女性たちの視線がヴァルディスに集中するのが嫌だった。
いつもより腕を引き寄せて体を押し付けると、ヴァルディスの肩が微かに跳ねた。仰ぐと、困ったように眉尻を下げている。
噂のように、冷たくて怖いという目ではなかった。ちゃんと人間の温かみを持つ目で、エリミーナは悪戯心が湧いた。
「ヴァルディス……とお呼びしてもいいですか?」
呼び捨てにして、間を空けたのはわざとだ。
「ぜひ、私のことはエリミーナとお呼びください」
そう言うと、ヴァルディスは目を見開いた。驚きを隠さない顔に、エリミーナは笑いがこみ上げてくる。
「私の要望はすべて、婚約者のあなたが叶えてくれるのでしょう?」
自身の左手の薬指を見せつけるように掲げると、ヴァルディスは咳払いをした。
最近は一番近くで見つめているからか、眼鏡越しでも緑色の瞳に熱が混じるのを感じる。目元も赤く染まっている。喉仏が動く。わずかな変化も見逃さないようになった。
「エリミーナ」
声だけで、凄まじい破壊力だった。恥ずかしさを滲ませた掠れた声が、さらに色気を含んでいる。
エリミーナはこのまま溶けるのではないかと思うほど、耳が熱くなった。
ヴァルディスから呼ばれると、こんなにも特別な響きに聞こえるのだと知った。恥ずかしいのに、ずっと聞いていたい。できれば、朝起きてから眠るまでの間、何もなくても呼んで欲しい。
「さあ、行きましょうか」と促されても、なかなか夢心地から抜けなかった。
ふたりは席に着くと、どちらともなく手を伸ばした。当たり前のように手を繋ぐ。
「ようやく安心できました」
「安心ですか?」
「他の男からの視線が痛くてたまりませんでした」
「そ、そんなの、ヴァルディスに比べたら私なんて……」
突然、唇に人差し指を押し当てられて、それ以上の話を続けられなかった。
「あなたは美しい。ですから、ご自身を卑下しないでください」
長年、卑下していると、手布の折り目のように癖がつくようだ。自分では下げたつもりがなくても、言葉のどこかには滲んでしまう。指摘されてようやく気づいた。
エリミーナはヴァルディスの指を掴むと、その指先に口づけた。仕返しをしたつもりだが、ヴァルディスは表情を強張らせた。
「本当に予想外です。可愛いだけで、こんなにも脈が上がるとは」
「えっ?」
「いいえ、何でもありません」
幕が上がり、それ以上の詮索はできなくなった。大がかりな演奏が鳴ると、演者たちが動き出した。
物語の始まりは牢獄の中からだった。王妃候補の令嬢が断罪されたうえ、牢獄に入れられた。
令嬢は幼なじみだった騎士の協力により、牢獄から逃げ出した。己の身の潔白を証明するため奔走する。騎士は令嬢とともに逃げながら、その過程で恋に落ちる。
幾多の困難を乗り越え、身の潔白は証明できた。令嬢は無罪放免となった。
令嬢を貶めたのはなんと、宰相とその一家であった! 王妃になるのを阻止するためだった。
エリミーナは手に汗握る展開に目が離せなかった。場面場面で席から腰を浮かせるほど、感情をあらわにした。
最後には断罪されるべき悪役も処され、騎士と令嬢は結ばれる。
観劇が終わった後、エリミーナは拍手をやめられなかった。
涙が溢れてきて、それをヴァルディスが横から拭う。手布はエリミーナが刺繍したものだ。
馬車の中でもエリミーナは興奮が冷めなかった。
「まさか、宰相が黒幕だったなんて!」
拳を握りながら話すと、ヴァルディスは苦笑いを浮かべた。
「間抜けな宰相でしたね。権力や財力もあるでしょうから、証人は残らず消すべきでしょう。最後にやけになって己の手を汚すのも賢明とは言えません。中途半端に非道になれなかったために、身を滅ぼしましたね」
さすがに現役の宰相は現実的な考えを持っていた。
「その駄目さが穴になって、令嬢を助けたのですから、あれはあれでいいのです」
エリミーナの感想をヴァルディスは穏やかな表情で聞いていた。気になったのは宰相のことらしく、他の役については特に指摘しなかった。
「それほど気に入ったのなら、また来ましょう」
「その頃には、私も観劇について詳しくなっておきますね。それにしても――」
話は尽きない。ヒロインの相手が格好良かったと熱弁すると、ヴァルディスは顎に手をやった。
「あの優男ですか。騎士にしては線が細いように思いますが」
「あまりに身体が大きいと威圧感が強くなりますし、あのくらいが良いのです。ヴァルディスも程よい筋肉で、好きで……」
何を言っているのだろうと口を押さえた。勢いのままに口にするのは一度目で懲りたはずなのに、どうして学ばないのだろう。自分に嫌気が差す。
ヴァルディスは呆れているのか、「好き、ですか」と呟く。
おずおずと顔を上げると、ヴァルディスが微笑んでいるところだった。吸い込まれるように顔が近づいていたのは、ヴァルディスの腕に引き寄せられたためだ。
額に唇が触れる。ただひたすらに柔らかい。その奥にヴァルディスの体温を感じた。
胸に手を置く。耳を寄せると、鼓動が伝わってきた。
ヴァルディスが生きている。手を伸ばして頬を包み込むと、やがて温かさが馴染んでくる。
一度目に触れた頬の冷たさを思い出して、その違いにまた、泣きたくなった。
「なぜ、泣くのです?」
「ヴァルディスが牢獄に入れられたとき、あなたの頬に触れました。指から伝わる感触は冷たくて。今は温かく、あなたを感じられるのが嬉しいのです」
エリミーナはヴァルディスの肩に顔を埋めた。今なら言えると思えた。
「幼い頃より、あなたをお慕いしておりました」
さすがに目を合わせて、堂々と言えなかった。今まで、この初恋を胸に秘めてきた。口に出してはいけないものだと思っていた。
「それは今もですか?」
恥ずかしくなってきて、エリミーナは顔を上げられない。小さく震えながら、「ますます惹かれております」と零した。
ヴァルディスは笑う気配を見せる。
「馬鹿にして笑うなんてひどいです」
非難したくて顔を上げると、美しく笑うヴァルディスの顔があった。穏やかな眉の下には弧を描く目、白い歯がのぞく口元。それを見て、エリミーナは腹立たしさを簡単に収めた。
「馬鹿になどはしていません。私にとって喜ばしいから笑っただけです」
「よ、喜ばしい?」
エリミーナの戸惑う表情を見て、ヴァルディスはさらに声を上げて笑い出した。このような笑い方は初めてだった。
「私もあなたをお慕いしています」
エリミーナは嬉しさを隠せなかった。淑女としてのはしたなさなどまったく気にせずに笑った。
馬車が着くと、先にヴァルディスが支えるために降り立った。
エリミーナも立ち上がろうとしたのだが、一瞬、周りが渦を巻いたようになった。椅子に手をついていると落ち着いてきた。
すぐに治まったので急な立ち眩みだろうと、エリミーナは大事には考えなかった。馬車を出て、ヴァルディスの手を掴んだ。
それからの二人は、様々な場所へと出向いた。最近の噂では、エリミーナのこれまでの醜聞よりも、ふたりの仲睦まじい様子が上回っているようだ。皆、温かい目で見守るようになっていた。
ただ一人、それをよく思わない者がいた。




