第十四話『最大の過ち』
「――つまり、ヴァルディス様と私は時を遡ったと」
エリミーナはヴァルディスの話を最後まで聞いても、まだ半信半疑だった。
「私だけかと思っていましたが、求婚したときの振る舞いを見て、あなたも時を遡ってきたのだとわかりました。一度目とはまったく態度が違っていましたからね」
一度目は声を上げて喜んだ。自分の失態に気づいて、「申し訳ありません」と体を縮めたほどの喜びだった。
二度目に手放しで喜べなかったのは、その後に待ち受ける婚約破棄があったからだ。今度こそ抗いたいと、心を決めた瞬間だった。
ヴァルディスは口元に丸めた手を持っていき、思い出したように笑った。
「『この心臓が止まろうとも、あなたの手は離しません』。あれは痺れましたね」
自分の言葉としても他者に改めて突きつけられるのは、むず痒い。蒸し返してくるのは意地悪だ。
非難の気持ちを込めてヴァルディスを睨みつけてみるが、爽やかな風を受けたような涼しい顔をしている。
「本当にそう思ったから言っただけです。からかわないでください」
「まったくからかうつもりはないですよ。嬉しくて何度も、その部分だけを思い返しました」
ヴァルディスがそのように感じていたとは知らなかった。顔に熱が広がっていく。見られないように、このまま膝を抱えて俯きたいくらいだった。
エリミーナは気持ちを切り替えるように話題を変えた。
「この後は何が起きるのですか?」
せいぜい知っているのは、エリミーナが見てきた場面だけだ。ヴァルディスに起きていた場面は知りようがない。だから、問いかけた。
「王太子はあなたの父上が不正に加担していると、私を脅してくるはずでした」
「お、お父様が」
ヴァルディスはうなずく。
「ですが、それにはすでに手を打ってあります」
「え、もう?」
「あなたには申し訳ないですが、ローヴェルト家の調査をしました。不正は確認できませんでした。あなたの父上や弟にも冤罪を作ろうとしたようですが、その前に目障りな王太子の手下を排除できました」
「つまり、文官を入れ替えたのはそのためですか?」
ヴァルディスがうなずくことはわかっていた。すべて知っていて、自分の力で運命を変えていた。エリミーナは自分で救いたいと思っていたが、まったくのおごりだったのかもしれない。
「後は向こうの動き次第です」
心地よい風が吹く。立ち話だったことに気づき、椅子に今さら座った。紅茶を口に含む。
「それと」
ヴァルディスはそこまで言ってから、長く間を空けた。咳払いをして、カップを置いた指を忙しなく上下に動かした。息を吐いた後、指の動きを止めた。
ヴァルディスはエリミーナを優しく見つめた。目を細めていく。
「一度目の婚約破棄は私の最大の過ちです」
「本当です。解消された時、どれほど悲しかったか、わかりますか?」
二度目は婚約破棄を回避できたものの、一度目の記憶が消えることはない。ずっと傷として残る。古傷のように乾いても、疼く日が来るかもしれない。不安に苛まれるかもしれない。
ヴァルディスは手を伸ばして、エリミーナの手を包みこんだ。大きな手がエリミーナの手を撫でてくれる。言葉よりも強く愛情を感じた。
温もりが幸せに変換されるほど、この後に起きるであろう失う恐怖に苛まれる。
「あなたがそんなにも私のことを思っていたと知らなかった。私自身もあなたをこんなにも思っていたのを知らなかったのです。どうか、許してください」
「それなら償ってくれるまで許しません。生涯をかけて愛していただかないと」
「それは大丈夫です」
ヴァルディスは顔をそらした後、手を固く握ってきた。まるで何かを決意したかのように、息を呑むのがわかる。
「エリミーナ殿は観劇に興味がありますか?」
「観劇……ですか?」
まったく意図しない場所から話が降ってきた。
観劇はひとりで行けるものではない。王太子とも行ったことはない。
興味はあっても、その頃は王太子妃教育が始まっていて、趣味に興じている時間がなかった。王太子はお抱えの愛人(親友のフィオラだったか)と度々行っていたようだ。
嫉妬はなかったが、自分を蔑ろにされたという悲しみだけはあった。それを思い出すと、エリミーナは心が重くなる。ようは観劇に良い印象がなかっただけだ。
「好みではありませんか?」
「いえ、好きかどうかももわからなくて。王太子殿下とも誰とも観劇に行ったことがないのです」
エリミーナが自嘲すると、ヴァルディスは眉間に皺を寄せる。眼鏡の上からでも、不機嫌なのがわかった。ヴァルディスの望む答えではなかったのかもしれない。余計な話をしなければ良かった。
不安に思って俯いていると、「ならば、行きましょう」と手を引かれた。席を立ったヴァルディスがエリミーナの前で跪く。
「あなたの要望は、婚約者の私がすべて叶えます」
要望なんて恐れ多いと否定しかけたが、エリミーナは空気を壊してしまいそうでやめた。
手の甲へと優しく返されて、薬指に口づけが落とされる。「う、あ」と妙な声を上げなかっただけでも褒めてほしい。エリミーナは顔どころか、首元や背中に至るまで熱を持ちはじめた。
唇が離れても、柔らかな感触は残った。
ヴァルディスは顔を上げる。溶けるような熱い瞳と、満面の笑みに、エリミーナは見惚れた。
ふたりは長い間、見つめ合ったままでいた。どちらも恋焦がれていたようで、やめようとは言い出さなかった。




