邂逅
放課後のカラオケボックスは、いつもより少しだけ騒がしかった。
制服のまま入るのは気が引けたけれど、兄に連れられて来た私は、奥の小さな部屋に押し込まれるように座っていた。
「緊張すんなって。いつも通りでいいから」
バンドを組んでいる兄は、マイクを差し出しながら笑った。
深呼吸をする。学校では目立たない、話しかけられることも少ない私が、ここで歌う意味なんて本当はないのかもしれない。
イントロが流れ、私は目を閉じたーーー。
重い防音扉が並ぶ廊下を、女子高生のグループが歩いて行た。
「あ、私トイレ。先行っといて」
派手なネイルをいじりながら他の女子と話している一人が「おっけーい」と応える。クラスの頂点に君臨する彼女等にとって、この場所はただの暇つぶしの場に過ぎない。
(カラオケか、本当はあんま来たくないんだけどな)
佐藤結衣は呟く。かつての苦い記憶が蘇る。だが付き合いは大事だ。私達みたいな人種には特に。
用を済ませ、部屋番を思い出そうとした――その時。
ある部屋の前で心臓を直接掴まれたような衝撃が、結衣の足を止めた。
厚い扉を透過して漏れ出してきたのは、地を這うような重低音と、天を突き抜けるような鋭い高音。それは「歌」というより、剥き出しの感情を叩きつけるような圧倒的な熱量だった。
「……なに、これ」
結衣の背中に、ゾワリと鳥肌が立つ。
ただあるのは、その歌声の主が誰なのかを確かめたい気持ち。
結衣は吸い寄せられるように、ドアの小さな小窓を覗き込んだ。
部屋の中では、派手な髪色をしたバンドマン風の男がギターを掻き鳴らしている。だが、結衣の目を釘付けにしたのは、マイクを握りしめている「彼女」だった。
「嘘……でしょ?」
そこにいたのは、クラスでいつも俯いている、地味で目立たない存在――長谷川舞だった。
いつも顔を隠している長い前髪は振り払われ、眼鏡の奥の瞳は、獲物を射抜く猛禽類のように鋭く光っている。
マイクを通した彼女の声が、狭い室内で爆発する。
学校での「おとなしい長谷川さん」の影はどこにもない。そこにあるのは、圧倒的な才能で空間を支配する一人のアーティストの姿だった。
曲の終わり、激しいアウトロと共に舞がふう、と肩の力を抜いた。
その瞬間、ふいに舞の視線が小窓に向く。
結衣と舞。
クラスの「太陽」と「影」が、防音扉の一枚隔てた先で視線を交差させた。
舞が驚いたように目を見開き、慌てていつもの「地味な女の子」の仮面を被り直す。だが、結衣の体の震えは止まらない。
(あんな声……聴いたことない)
退屈だった放課後の景色が、その一瞬で、鮮やかな色彩を帯びて反転し始めていた。
翌朝。
教室を包むのは、いつもと変わらぬ退屈な日常の音だった。
窓際から差し込む朝日に照らされ、クラスの中心グループが甲高い笑い声を響かせている。その中心に座る佐藤結衣は、友人たちの会話に相槌を打ちながらも、視線はある一点に固定されていた。
教室の対角線上。一番後ろの隅。
そこには、世界から拒絶されることを望むかのように背を丸め、読書に耽る長谷川舞の姿があった。
(……見間違いなわけない)
昨夜、カラオケのドア越しに浴びた、鼓膜を震わせる爆音。魂を削り出すようなあの絶唱。
今、目の前で消しゴムのカスを丁寧に集めている少女と、あの圧倒的な「表現者」が同一人物だとは、誰も信じないだろう。
不意に、結衣が椅子を引く音が鳴り響いた。
談笑していた友人たちが一瞬言葉を失う。結衣は取り巻きの視線を振り切るように、迷いのない足取りで舞の席へと歩き出した。
教室中の視線が、結衣の背中に突き刺さる。
カーストの頂点が、最底辺の「石ころ」に何の用があるのか。野次馬的な好奇心が教室の温度を数度上げた。
舞の机の前で、影が落ちる。
「……長谷川さん」
舞の肩が、目に見えて跳ねた。
「は、はい……佐藤さん。……何か、ご用……ですか?」
ゆっくりと上がった顔。分厚い前髪の隙間から、怯えたような瞳が結衣を覗き見る。昨日、マイクを握りしめ、獲物を狙う猛禽のように鋭かったあの瞳と、同じものだとは到底思えなかった。
結衣は舞の机に両手を突き、ぐいと顔を近づけた。
舞が小さく悲鳴を上げ、椅子ごと後ろにのけぞる。
「あんたさ。昨日、駅前のカラオケいたでしょ」
周囲がざわり、と揺れた。
舞の顔から、一気に血の気が引いていく。その細い指先が、机の下で激しく震え始めた。
「それは……その……」
「隠したって無駄。全部見たから」
結衣の言葉は、冷徹な宣告のように響いた。
舞は絶望に染まった目で結衣を見上げ、今にも泣き出しそうな、それでいて必死に何かを隠そうとする表情を浮かべる。
「忘れて、ください……っ! あれは、その、兄の付き添いで……!」
消え入りそうな懇願。しかし、結衣の胸の内にあるのは、暴露への愉悦などではなかった。
結衣の指先もまた、昨夜の衝撃を思い出して、武者震いのように震えていたのだ。
「無理。あんなもん聴かされて、黙ってられるわけないじゃん」
結衣はニヤリと、獲物を見つけたような歪んだ笑みを浮かべた。
彼女はそのまま舞の耳元まで顔を寄せると、周囲には決して聞こえない、低く熱を帯びた声で囁いた。
「あんたの声、私の頭から離れないんだけど。責任取ってよ」
舞が息を呑む。
「……え?」
「今日の放課後、またあの店に来て。あんたの歌、もっと近くで、最後まで聴かせて」
それは命令の形を借りた、強烈な「招待状」だった。
クラスの女王に秘密を握られた少女は、震えながらも、その瞳の奥に昨日と同じ「火」を微かに灯した。
放課後、昨日と同じカラオケボックスの、昨日とは違う狭い密室。
外の喧騒を遮断した防音室の中で、結衣と舞はテーブルを挟んで向かい合っていた。
手持ち無沙汰にストローを弄る舞は、まるで処刑を待つ罪人のように縮こまっている。対照的に、結衣は昨日舞が歌っていたマイクを手に取り、それをゆっくりと舞の方へ差し出した。
「……歌いなさいよ。昨日みたいに」
舞は顔を伏せたまま、小さく首を振った。
「無理です。あれは兄のギターの練習に付き合わされただけで……人に見せるようなものじゃ……」
「嘘。あんたのあの声、そんな安いもんじゃない」
結衣の断言に、舞が弾かれたように顔を上げた。その瞳には、困惑と、そして隠しきれない怯えが混じっている。
結衣はふっと視線を落とし、自嘲気味な笑みを浮かべた。
「ねえ、長谷川さん。……私、昔は自分の歌に自信があったんだ」
唐突な告白に、舞が息を呑む。
結衣はグラスの水滴を指でなぞりながら、数年前の記憶を手繰り寄せた。
「中学の頃、親友がいたの。彼女、本気で歌手を目指してて、毎日ボイトレに通うくらいストイックで。私、彼女の誕生日に冗談半分で一緒にカラオケに行ったんだけど……そこで一曲、本気で歌ったことがあった」
その時の光景を、結衣はいまでも鮮明に思い出せる。
歌い終わった後、室内を支配した重苦しい沈黙。
「……彼女、泣いちゃったんだよね。感動したからじゃない。私の歌を聴いて、『私、歌手になるの諦める』って、その場で言ったの。自分の何年もかけて積み上げた努力が、私のたった数分の歌で全部壊された、って」
結衣の指先が、微かに震えていた。
「それ以来、私は人前で本気で歌うのをやめた。才能って、誰かを救うこともあるけど、一番身近な人を絶望させることもある。……毒なんだよ、私にとって歌は」
部屋に沈黙が落ちる。
結衣は真っ直ぐに舞を見据えた。
「でも、昨日のあんたの声を聴いたとき、初めて思った。……こいつなら、私の毒なんて簡単に飲み込んで、もっと大きな熱量で吐き返してくる。そんな怪物が、私のクラスにいたんだって」
結衣は再びマイクを差し出す。その瞳には、期待と、ある種の渇望が宿っていた。
「私の毒を、あんたの歌で中和してよ。……昨日のあの絶唱、誰かを絶望させるためのものじゃないでしょ?」
舞は震える手で、ゆっくりとマイクを受け取った。
前髪の隙間から、昨日と同じ、鋭く、研ぎ澄まされた光が漏れ出す。
「……佐藤さんのこと、壊しちゃうかもしれませんけど。……いいんですね?」
舞の声は、もう震えていなかった。
彼女がリモコンのスタートボタンを押した瞬間、静寂だった室内は、再び爆発的な「熱」に支配されようとしていた。




