85.四神護龍 ― 結界にて黒龍を滅す
喉に熱く鉄の味が広がる——
血だ。
吐き出さない。
死が怖いわけじゃない。
ただ——
あの四つの瞳が、俺を“命”として見ているから。
ドオォォンッ!!!
黒竜の右翼が放った一撃は、まるで山の崩壊。
俺の身体は隕石のように墜ち、地面が砕け、肉が土に沈む。
漆黒の瘴気が皮膚を腐らせ、胸の血管が裂けるように疼く。
「クク…もう終わりか? 天龍。」
その声は——もはや人の言葉ではなかった。
空虚に響く金属音、腐ったような冷たさ。
立ち上がる。
骨が軋む。視界が揺れる。
でも——目は、閉じない。
不屈だからじゃない。
この身が倒れた瞬間、もう誰も、あいつの前に立てない。
……その時だった。
——光が、見えた。
天ではない。
背後に立つ、あの四人からだ。
冥府を照らす四つの星。
魂が、震えた。
髪は銀雪。
瞳は星光。
死の闇を切り裂く、神聖なる気配が立ち昇る。
◆
朱香鈴
一歩前へ。
右手を掲げ、呪文を唱える。
「朱天・鎮魔鎖!」
真紅の鎖が天から降り、女神のように彼女の身体を包む。
審判を下す鎖——それは意志の具現。
小舞
沈黙。だがその眼差しは刃。
「——月縛・魂封」
掌から現れた光の糸は、蝶のように舞い、黒竜の足元を絡め取る。
血を啜る月光の鞭。
趙玉
言葉も動きもない。
ただ——その身が、紅蓮の蓮花へと変わる。
一枚一枚、花弁が開くたびに血と結界が広がる。
「神蓮血界」
幻想的な蓮の結界が、戦場全体を包む。
逃げ場は、ない。
柳情児
書物から抜け出た神女。
瞳を閉じ、胸から剣を引き抜く。
「玉心封印剣——起動」
足元に古代の呪文陣。
天地を織りなす網のように陣が広がる。
——俺は、知らなかった。
彼女たちがここまで強かったとは。
それとも…俺が本当の彼女たちを、見ようとしていなかっただけか?
「黒竜ッッ!!!」
四人の声が、空に響く。
「我らの夫に傷を負わせた罪——骨すら残さぬ!」
ドォォォンッ!!!
合図などいらない。
戦術も、戦略も、不要。
愛こそが、最強の陣法。
◆
鎖が天から舞い、黒竜の翼を拘束する。
それは単なる鎖ではない。
——彼女の怒り、誓い、そして「触れる者すべてに裁きを」という信念。
小舞は血を吐き、月糸を操る。
その目は凍てついた刃。
趙玉は、もはや姫ではない。
蓮花の女神。
その一枚一枚の花弁が黒気を浄化し、空間すら歪ませる。
情児の剣は——
殺すためではなく、“運命”を刻むため。
天から陣が降り、四つの方向から結界が重なる。
「黒竜——封殺。」
四人は空へ舞い、四方を囲む。
天空が震える。
それは怒りではない。
——天が、奇跡を目撃しているのだ。
この世に存在しないはずの陣。
歴史にも記されていない結界。
愛が生んだ、天理を超えた力。
『四神護龍・絶滅陣』
◆
見上げた空に、光が集う。
四つの色、四つの信念。
香鈴——血の神。
小舞——月の巫女。
趙玉——蓮の神霊。
情児——封印の巫女。
中心で、一つの球体が形成される。
宇宙の心臓のような、それは——
ドオォォォォォンッ!!!!
純白の光——
それは「見る」ものではない。
生・死・滅・再生、全てを含む神の鼓動。
そして——
「必殺!!!」
ギャアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!
——光が貫く。
時間が止まる。
その瞬間、俺は見た。
言葉では表せない何かを。
黒竜が滅びたのではない。
彼に宿った“悪意”が、愛に焼かれたのだ。
嗚咽のような咆哮を残し、
肉体も、憎しみも、力も——すべてが塵に。
ドォン…
まるで、一つの時代が終わったかのように。
◆
いつまで立っていたのか、わからない。
喉の血の味はまだ残る。
でも、痛くはない。
空から——
四つの銀色の女神が降りてきた。
一人、また一人と、俺の腕の中へ。
「痛みますか…?」
趙玉の囁きに、涙がにじむ。
答えられない。
ただ、手を握る。
「もう…一人で戦わせない。」
俺は頷いた。
胸の奥で——震えがあった。
感動か、悔しさか。
わからない。
彼女たちは、もはや“守られる者”ではなかった。
運命すら並び立つ者になったのだ。
◆
戦場には、まだ煙が残る。
だが、心のどこかで確信した。
——希望は、この瞬間から始まったのだ。
ーーアアアアアアアアッ!!!
地鳴りのような黒き咆哮。
空間が裂ける。
黒龍の残骸から、天を喰らう黒き竜巻が吹き上がった。
天命すら、ねじ伏せるほどの"終焉"の兆し。
息すら…吸えない。
喉が焼ける。
血鉄と硫黄の匂いが、肺を焼くーー。
竜巻の中心から、ヤツが…現れた。
黒龍ーー再誕。
> 「終わってなどいないぞ、テンリュウ…」
その声は…もう“生”のものではない。
それは虚無の底から響く、金属と血と混ざり合った“無の咆哮”。
その肉体ーー黒き奈落。
重なる漆黒の鱗は魔神の盾。
そして、その眼孔。いや…燃える“穴”。
魂すら焼き尽くす、滅びの光ーー。
ーーゴクリ。
> 「まさか…以前より強くなっているなんて…」
ナン様、膝が震えていた。
ーー立っていられない。
> 「この身体…拒絶している…」
ティオ・マイの顔には汗が滲んでいた。
> 「あと一撃…でも打てば、私は魔道に堕ちる」
チュウ・コウリンの拳が震えていた。
> 「ご主人さま…捨てたり…しませんよね?」
チン・ニィの小さな声が、胸に刺さる。
俺は、四人の女神ーー
命を削ってまで俺のために神となった彼女たちを見た。
ーー血を飲み込む。
そして、顔を上げた。
> 「もう、十分だ。下がれ。
このクズは、俺がやる。」
踏み出す。
風が顔を斬る。
空が紫に沈むーー。
シャキィンッ!
龍魂剣ーー抜いた瞬間、空が鳴いた。
蒼き閃光。龍の魂が、剣に宿る!
> 「龍魂・斬天万殺ッ!!」
振り下ろす。
雷の如き剣撃。空間が裂ける。
ズバッ!ズバッ!ズババババッ!
命を削る剣舞。
蒼き斬撃は、天に龍の軌跡を描く。
ーーしかし。
黒龍の鱗は、傷一つすら負っていなかった。
> 「フン……」
そして。
ブオオオオオオオオオオオッ!!!
黒き炎が、口から放たれた。
ただの火ではない。
それは**“飲み込む火”**。
音を喰らい、光を喰らい、存在すら消す…。
> 「死ねぇええええええっ!!!」
俺は叫び、
身体を四人の妻の前に投げ出した!
ズバアアアアアッッッッッッ!!!
龍魂剣ーー
天を裂く一閃で、黒炎を斬り裂く!
身体が…燃えた。
鎧が割れる。
肉が焦げる。
血が目に入り、視界が赤に染まる。
> 「退けっ!!!お前たちは!!」
風に消える俺の声。
> 「やだっ!あなたは!?あなたはどうするの!?」
チン・ニィの叫びが、心臓を貫いた。
俺は、振り返りーー
> 「俺が息してる限り、アイツは通さねぇ」
そして。
ドゴオオオオオオオンッ!!!
黒龍が天から突撃。
その爪が天地を引き裂く!
俺は受け止めた。
一人で。
天と地の間、虚無の中心でーー
左腕が砕けた。
背が裂けた。
口から溢れる血は滝のようだった。
ゴギィ!ベギィッ!ズシャアアアッ!
龍魂剣ーー砕けた。
剣の中の龍が、心で悲鳴を上げ…沈黙した。
ドガアアアンッ!!
黒龍の一蹴が、天守を崩した。
俺の身体は瓦礫の中に埋もれる。
意識が…遠のく。
ーーでも。
死ねない。
あの四人が…
命をかけて守った、俺の背中が…
希望が…
そして、俺の心にあるーー
武の真理が、まだ消えていない。
---
遠くから声が聞こえる。
> 「お願い…死なないで……」
「テンリュウ…眠らないで…目を開けて…!」
「あなたが死んだら…あたし、あの化け物を殺してから…後を追う…」
その声は、血の中に火を点けた。
---
風が、もう一度、吹いた。
灰が、雪のように舞う。
俺は、瓦礫の中で横たわる。
血と煙と黒き瘴気の混じる臭いーー
熱くて、冷たくて、辛くて、甘い。
それは、“戦争”と“生死”の匂いだった。
そして。
俺は…まだ、生きている。
天の頂から見下ろした万物は、ただの塵芥。 だが今―― 瓦礫の下、唇から血を流し、砕けた骨の痛みに耐えながら俺は、倒れている。
――龍魂剣が…折れた。
あの音が、はっきり聞こえた。
「パキィィン」
それは、自分の一部が砕けた音だった。
柄だけが冷たい石畳に転がり、刃は星のように砕けて散らばった。 沈黙の中に――
「ゲホッ…ゲホ、ゲホッ!」
血を吐いた。
絶望の味。
目が霞む。世界が歪む。
その中で――音が響いた。
ズ…ズズズ…!
黒龍が近づいてくる。
あの爪で大地を砕き、あの息で万霊を呻かせる存在。
奴は傷一つなく、なおも完全――否、かつてより強くなっていた。
対して俺は…膝をついていた。
---
もう…終わりか?
俺の限界は、ここだったのか?
幾千の修練、幾万の血と涙。
その果てが…この瓦礫の下か?
その時だった。
血に濡れたこめかみに――
記憶が、煙のように立ち上った。
十四歳の冬、雪に埋もれた中、拳を磨き続けた日々。
十五で書庫を読み尽くし、内功の理を悟った夜。
十六で四大高手を三刻で打ち破った朝。
十八で閉門し、創り出した究極の武学――
「無敗心法」
…だが、それでも足りなかった。
---
――そして、“あの人”が現れた。
記憶の中、月下に立つ白衣の影。
顔は無面の仮面に隠れ、ただ静かに風に揺れていた。
その手に持たれた一冊の書物――
表紙は金。
最後の頁が存在しない。
浮かぶ文字は、こう光っていた:
> 『至高心道 - 黄金無双』
「お前は、人の限界に辿り着いた。
次は、“存在”を超える道だ。」
声ではなかった。
胸の奥、魂から響いていた。
――俺は、ずっと前から選ばれていたのか?
---
ドウゥウウンンン————!!!
俺は――目を開いた。
腹の奥、丹田から黄金の火が噴き上がる!
傷が焼かれ、血が光へと変わる。
“神の再構築”が始まった。
黄金の柱が地から天を貫く!
空が裂け、風が吠える。
全ての魔力が、俺に向かって吸い寄せられてくる。
バチィィン!!! バチィィン!!!! ドオオオンッ!!
黒龍が、吹き飛んだ。
西の城壁に叩きつけられ、全城が震えた。
天地――沈黙。
ただ一つ、
俺の身体から放たれる神光のみが、空を支配していた。
---
ゆっくり立ち上がる。
全身の細胞が、変わっていく。
髪が白金に染まり、風に舞う天の銀河。
その目――もう人間のものではなかった。
『天幻滅世・無極眼』
瞳の中で螺旋する紫と蒼と漆黒。
縮図の宇宙が、そこにある。
視線だけで、大地が浮き、石が震える。
全てが――俺に“跪いている”。
黄金の戦衣が自動的に編まれ、肩に纏うは竜の聖甲。
鋼より硬く、風より軽い。
---
一歩、踏み出す。
バゴォォォンッ!
大地が裂けた。
だがそれは、力によってではない。
――威圧だ。
一歩で、天地を退かせる存在。
黒龍が立ち上がる。
血に塗れ、歯を剥き出し、狂気の炎を目に灯す。
「グオオオオオオオッッ!!!!」
爪を伸ばし、翼で空を切り裂く。
刃のような風が俺を襲う!
だが――
俺は、動かない。
手を、ただ――
「無上神心――虚無滅念掌」
スッ…
パァアアアン!!
炎も煙もなく。
ただ…黒龍が吹き飛んだ。
肉体が捻れ、爪が砕け、鱗が雨のように落ちる。
一撃。
遠くから、声が震えて届いた。
「…あれが…“規則を超えた力”…」
――趙玉、涙を浮かべて。
「もう…人じゃない…」
――小梅、呟く。
「…神になったんだ…」
全部、聞こえていた。
けれど――
心は静寂。
怒りも、憎しみも消えた。
ただ一つ。
「守るために――すべてを超える。」
---
俺は、手を掲げた。
天空に浮かぶ巨大な魔陣――百丈の直径。
銀河のように渦を巻く古文字が浮かび上がる。
嵐が巻き起こり、万界の魔力が中心に吸い込まれていく!
右腕が光に染まり、血が流星となる。
深く――息を吸った。
> 「万界破滅――虚空震天撃!!」
ドオオオオオオオオオオオン——————!!!!
掌から放たれたのは――
神の炎そのもの。
一瞬で空間が砕け、時が止まる。
黒龍は、光の中に…消えた。
空が暗くなった。
夜が来たのではない。
黒龍が…存在ごと、消滅したのだ。
---
俺は、静かに息を吐いた。
汗は流れない。
ただ、光が毛穴から放たれている。
戦衣が崩れ、普通の姿に戻る。
膝が少し震えたが、倒れはしなかった。
振り返る。
四人の愛する者たち――
そこに立っていた。
見知らぬ存在を見るような瞳。
趙玉が泣きながら、言った。
「嬉しい…でも…怖い…」
柳情児が呟いた。
「夫…ほんとうに、神になったのね…」
答えなかった。
ただ歩み寄り、
そっと、彼女たちの頬についた血を拭った。
賞賛も、証人も、要らない。
彼女たちが生きている――それだけで、俺はまた、歩ける。
俺は、ただ立ち尽くしていた。
空は――砕けた。
まるで天命を隠していた薄いガラスが、限界を超えて弾け飛んだかのように。
白金の光が俺の体から流れ出し、空間へと溶け込んでいく。
それはまるで――この身が、宇宙の動脈となったかのようだった。
拳には、まだ…振り下ろした衝撃が残っている。
黒龍――消えた。
咆哮も、影も、存在そのものも…跡形もなく。
最後に残されたのは、一筋の黒い光。
渦巻き、凝縮し、やがて――一本の刀と化す。
見下ろすと、それは…
漆黒の刃。
龍の魂を刻んだ刃身。
陽光のように金色に縁取られた、命を呑む鋒。
柄を握ると、ひやりとした感触が皮膚を這い、
その瞬間、古の大道と接続されたような錯覚が襲う。
――「黒龍魂奪天刀」。
名が、脳内に響いた。
遥か太古、天地開闢の時代から語り継がれたかのように、重く、厳かに。
これは、ただの武器ではない。
滅びと再生の証。
闇の血統の終焉であり、
そして――俺が描く、新たなる光の時代の始まり。
俺は、そっと目を閉じた。
吸い込む息は、初秋の霧のように静かで、深淵の如く底知れなかった。
---
「――天龍」
背後から、柔らかな女声が響く。
振り返ると、そこには…彼女たちがいた。
まず現れたのは趙玉。
雲のような白い絹を纏い、白金の髪を風に揺らしながら、光の上を歩くように近づいてくる。
その瞳はもう、傲慢な王女のものではなかった。
神性に満ちた女神の眼差し――成熟と慈愛、そして烈しさを宿していた。
「終わったのね。あなたは……もう人ではない。」
彼女が囁く。
俺は静かに頷いた。
「……そして、お前もだ。」
すると、天から舞い降りるように**劉情児**が現れた。
もはや純白の道服は身に着けておらず、
風に触れれば溶け、光に触れれば隠れるような――透明の薄絹。
俺の背後からそっと抱きしめ、甘く囁く。
「神様にも……恋人、必要でしょ?」
その声は、無邪気でありながら、どこか肝が据わっていた。
俺は微笑み、黙って手を握り返した。
そして、**小舞**が姿を見せる。
いつものように明るい笑みを浮かべながらも、
そこにあったのは、もはや傲慢ではなく、静かなる自信。
「私たち五人がいれば……天地だって壊せるわ。」
手をかざすと、青き焔が舞い、小さな龍となって腕に絡まり、血のように肌へと溶け込む。
「神様にも欲望あるでしょ?逃がさないわよ。」
そう言って、いたずらっぽく笑う。
最後に、**朱香鈴**が現れた。
宵闇に揺れる幽蘭のように、静かに舞い降りてきた彼女は、
何も言わずに俺を見つめていた――魂を貫くような、深い眼差しで。
「あなたは……」
唇に指を当て、囁くように言う。
「……私たちの運命、そのもの。」
---
四人の女神。
四つの気流。
四つの運命。
これまで、無数の戦場を駆け、
どんな敵にも恐れを抱いたことはなかった。
だが――この四人だけは違う。
俺の心が石と化すのを、ただ彼女たちが止めてくれた。
腕を広げ、四人全てを抱き寄せる。
胸に触れる吐息、それぞれに違う香り。
– 趙玉は、春の木蓮の香り。
– 劉情児は、雪解けの朝。
– 小舞は、炎の夏風。
– 朱香鈴は、血雨の後の秋霧。
そのすべてが、心臓を震わせる――愛しさと、痛みを残して。
「……そろそろ、歴史を――」
俺は低く、深く言い放った。
「――この手で、書き換える時だ。」
---
そして、俺たちは飛翔した。
地はなく、宮もなく、もはや人間の世界など存在しない。
あるのは、無限の光と、今まさに開かれる――新たなる世界。
かつて戦争で裂けた大地が、ゆっくりと癒されていく。
血から咲く花。
炎の痕から湧き出す泉。
破れた空が、ひとつずつ縫われていく。
その空に――浮かぶように、ひとつの言葉が現れた。
「天龍――神の中の無双(しん の なか の むそう)」
それは称号ではない。
誓いでもない。
――現実そのもの。
---
その夜、空に星はなかった。
ただ、五つの体から放たれる光が、四界を照らし出していた。
そして俺は悟った。
俺が神になったのではない。
この世界そのものが――俺の一部となったのだ。




