72.龍城へ忍び込む
夕暮れの風が、苔むした瓦屋根の上をざわざわと吹き抜け、古びた石畳の道から砂塵を巻き上げていた。その日の都の空は重苦しく曇り、厚い雲がまるで王都全体を憂鬱な陰影で覆っているようであった。そびえ立つ城壁、鉄と鋼でさらに補強された大門、厳重な警備、巡回する衛兵たちの目には、一様に不安と緊張が宿っていた。まるで、何か大きな変乱の前触れを皆が感じ取っているかのように——。
北門前、最も兵が密集する地点に、一つの黒き影が音もなくふわりと舞い降りた。落ち葉が風に舞うような軽やかさで、気配すら感じさせぬその降臨。全身を黒いマントで覆い隠し、その内に隠されたのは、明らかに常人を超えた大きな体躯。はためくマントの裾は、まるで龍の翼のごとく、王城の警戒心すら挑発するように翻っていた。
「止まれっ!」
怒号が響いた。即座に七名の衛兵が包囲を形成し、長槍を一斉に突き出して男の胸元を狙う。隊長と思しき者が一歩前に出て、鋭い眼光でその黒衣の男を睨み据えた。
「何者だ!? 名を名乗れ、通行証を出せ!」
黒衣の男は黙したまま、ゆっくりと顔を上げた。その眼に宿る光は、氷のように冷たく、静謐な殺意すら帯びていた。
「貴様に——名を尋ねる資格など、無い。」
隊長は眉をひそめ、短剣を抜き放ち怒声を上げる。
「無礼者が! 捕らえろ!」
だが、彼が動くより早く、闇を裂く稲妻のように一筋の手影が閃いた。音も無く、気配も無く、ただ次の瞬間には、隊長の首が無慈悲に掴み上げられていた。空中に持ち上げられた彼の目は白目を剥き、手足をバタつかせながらもがいていた。
「ぐっ…くっ…貴様は…何者だ……?」
男——**天龍**は、無言で人差し指を隊長の胸に軽く突いた。
「ドンッ」——無慈悲な音と共に、隊長はその場に崩れ落ち、呼吸すら止まっていた。
「言葉は、無駄にするな。」
その声は風のように静かに、しかし凍えるような寒気を伴って他の兵の耳に届いた。
兵たちは凍りついた。一人が声を上げようとしたが、その瞬間、言葉を封じられる秘孔を突かれ、口は開いても音が出ない。もう一人は背を向け逃げようとしたが、一歩も進まぬうちに黒き影が閃き、手首を捻られ、軽く掌を受けて昏倒した。
十の呼吸の間に、七人の兵士は全て地に伏していた。
天龍は倒れた隊長の甲冑を脱ぎ、自らの体に纏い、鉄兜で顔を隠した。そして全ての兵を門横の茂みに引きずり込み、昏倒のまま長時間目覚めぬように秘孔を封じる。軽く身なりを整え、王都の衛兵らしい所作を身に纏うと、無言のまま門内へと歩を進めた。
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第二部:偽りの影、真の使命
都の内部、石畳の道は隅々まで清掃され、両脇には赤壁の古屋が整然と並ぶ。三人一組の巡回兵が一定間隔で往来し、金の龍が刺繍された大きな旗が風にたなびいていた。それは皇室の権威の象徴。遠くからは周期的に角笛の音が聞こえ、都は秩序に満ちていた。
天龍は自然に巡回兵の一組に加わり、頷きで挨拶を交わす。誰も疑いの目を向けない——その歩き方、姿勢、槍の持ち方に至るまで、十年の鍛錬を経た正規の兵と変わりなかったからだ。
(…東苑、彼女はそこにいるはず。
秘蔵の地図によれば、そこは禁衛軍により厳重に守られている。突入は困難…ならば、混乱を作るしかない。)
その瞬間、背後から声が飛んだ。
「おい、貴様! なぜ部隊と行動していない? 一人でうろつくとは何事か!」
天龍はぴたりと止まり、氷のような目で振り返った。そこには、紫の官服を纏い、紙扇を手にした若い官吏が立っていた。彼はしかめ面で問う。
「名を名乗れ。」
天龍は無言のまま、礼儀正しく宮廷式の敬礼を施し、懐から黒曜の玉牌をゆっくりと取り出した。そこには、曲がりくねる龍の刻印——玄衛の紋章。
その玉牌を一瞥した瞬間、官吏の顔色は蒼白に変わり、急いで一礼。
「し…失礼致しました! まさか玄衛の方とは存じ上げず……」
天龍は冷ややかに目を細め、声も冷たく放つ。
「玉牌を見ただけで慌てるとは、宮中に仕える資格は無い。下がれ。」
「は、はいっ……!」
官吏は蒼白のまま退き、逃げるように去っていった。
天龍は玉牌を一瞥し、微かに笑んだ。それは、かつての冥府戦役で得た戦利品——玄衛、皇帝直属の最上位暗衛のみが所持を許される通行証。その効力は、王宮内を自由に出入りできる絶対的な鍵。
(……これで第一段階は完了。あとは——兆玉、彼女を見つけるだけだ。)
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第三部:東苑に咲く蓮
東苑——皇女たちのために用意された最上級の庭園。その一角は、奇妙なほど静寂に包まれていた。内廷の喧騒と異なり、そこは静かで気高く、香木と玉蘭の香りが漂っていた。盆栽が丁寧に手入れされ、白き蘭が柔らかい提灯の灯りに照らされて咲いている。
本殿の中、兆玉は机に向かい、古書の頁を静かに捲っていた。瞳には疲労の影が浮かぶが、それ以上に凛とした強い意志が宿っていた。
侍女の麗枝がそっと近づき、茶を差し出す。
「お姫様……また書を読み続けておられるのですね。昼食もまだでございます。」
兆玉は首を振り、風のように柔らかい声で応えた。
「食欲はない。ただ…知らせを待っているの。」
「……天龍様のことでございますか?」
兆玉の瞳が一瞬揺れた後、湖のように静かに戻った。
「……ええ。彼は帰ってくると約束した。でも……いつとは言わなかった。だから私は——ただ、待つしかないの。」
麗枝は心配そうにため息をつく。
「お姫様、陛下はすでに天龍様と接触した者の調査を始めています。もし、あのお方が東苑にいたと知られたら……」
「恐れぬ。」
兆玉の声は突如として鋼のように強く、夜に閃く刃のごとき気迫を帯びた。
「彼は私の選んだ人。もし父上が認めぬなら——私は、この宮を、捨てても構わない。」
「お姫様! それだけは……っ! あなたは皇族の血を引き、第二皇位継承者でもあります。この都を離れれば、王都全体が混乱に陥ります!」
兆玉は目を閉じ、唇をかすかに引き結び、まるで独り言のように呟いた。
「けれど……心が別の場所にあるなら、ここに留まっても、それはただの魂の抜け殻。」
その時——
木の葉を揺らすような微かな音。兆玉が顔を上げる。背後の窓、そのはずの場所には侍女の姿が無く、代わりに冷たい風がろうそくの火を揺らしていた。
「麗枝……今の、聞こえた?」
「なにを、でしょうか?」
「……足音よ。」
次の瞬間、屏風の陰から黒いマントを纏った影が静かに現れた。その堂々たる姿は、まるで夢から現れたかのようだった。
麗枝は悲鳴を上げて外へ走ろうとしたが、柔らかくも鋭い内力により動きを封じられる。天龍がゆっくりと近づき、鉄兜を外すと——現れたのは、紛れもない、あの懐かしい顔だった。
「……玉兒。」
その声には、抑えきれぬ思慕の情が滲んでいた。
兆玉は立ち上がり、震える声で囁いた。
「まさか……ほんとうに、貴方なの……?」
「約束しただろう。空が崩れようと、海が枯れようと——必ず、君のもとへ戻ると。」
彼女は震える手で彼の頬に触れ、現実を確かめるように指先を這わせ、ついには涙を流しながらその胸に飛び込んだ。
「ずっと……ずっと待ってたのよ……天龍様……」
「わかってる。」
彼は彼女を強く抱きしめる。
「離れてから、夜毎、君のことを想い続けていた。」
「でも……どうやって、ここまで来たの? こんなに厳重な警備を……」
「君を想う気持ちがあれば、どんな鉄の檻でも破れる。」
「ばかね……」
彼女は涙の中で笑い、
「入れたとしても……出られないわよ?」
「出る必要はない。」
天龍はそっと彼女の耳元で囁く。
「なぜなら、君を迎えに来たのだから——。」
ロンチュウ皇城の早朝、風は肌寒く吹き抜けていた。
霧の奥に微かに射す朝陽の光の下、街の小さな商人たちはすでに店を開き、火を起こし、蒸し器を温め、賑やかな一日の始まりに備えていた。
天龍は、さっき倒した兵の乾いた血がまだこびりついた衛兵の鎧を身にまとい、ゆっくりと石畳の路地を歩いていた。視線を泳がせるその姿は、まるでただの巡回兵のようだ。しかし、それが仮面であることを知る者は、彼自身を除いて存在しなかった。
一歩ごとの歩調、わずかな目配せに至るまで――すべては、警戒の網をかいくぐるための術だった。
彼の胸中にひそむ声が囁く。
「ロンチュウ城の守りが、ここまで厳重とはな…。
出入り口すべてに見張りが立ち、監視の目は隙すら与えぬ。
趙玉に会おうとすれば…多少の策が必要だ。」
さらに数歩進んだそのとき――
腹の底から「グゥ…」と明確な音が響き、彼は眉をひそめた。
「ちっ、朝から何も食ってない。どれほど内功があろうと、空腹には勝てん。
道端でぶっ倒れて笑い者にでもなったら、目も当てられん…」
周囲に目を配る彼の鼻先に、ほどなくしてふわりと香ばしい匂いが漂ってきた。思わず足を止める。
それは、油布と竹棒だけで粗末に組まれた小さな屋台だった。
しかし中では、大きな蒸籠から白い湯気がもうもうと立ち昇っている。
屋台の主は、小柄で白髪の老人。手際よく饅頭を並べながら、口上を高らかに響かせていた。
「熱々の牛肉まんじゅうはいかがっ!
秘伝の香辛料を練り込んだ絶品の味、一度食えば虜になるぞ~!
去ろうにも、足が戻ってしまう美味さじゃ!」
天龍はふっと口元を緩めた。
「ふん、味はともかく、あの口上だけで腹が膨れそうだな…
だが、悪くない。」
彼は屋台に近づくと、声を低くくぐもらせ、あえて地方の兵士口調を真似た。
「おい爺さん、牛まん一つくれ。できるだけ熱いヤツな。」
老人は顔を上げ、彼の頭からつま先までじろりと眺めた。
「おや、旦那は城門の守備兵かね?
こりゃご苦労さんなこった。こんな朝っぱらから風に吹かれてるとはな。」
天龍はまるで本物の衛兵のように、軽く頷いた。
「ああ。守る者は、まず腹を守らねばな。」
「ははっ、見事なお言葉!」
老人は快活に笑い、蒸籠の蓋を開けた瞬間、もうもうと立つ熱気と共に肉まんの香りが辺りに充満する。
「ほらよ、蒸し立てホカホカ、火傷に気をつけな!」
饅頭を受け取った天龍は、手に伝わる熱とふわりとした感触に、思わずごくりと喉を鳴らした。
「この感覚…こんな贅沢、最後に味わったのはいつだったか。
命がけの旅の最中に食らう、ただの肉まん一つ――
それだけで仙薬よりも尊い気がする。」
一口頬張りながら、思わずこぼれる独り言。
「…皮は柔らかく、餡は芳醇。味付けも絶妙だ。悪くない。」
それを見た老人は大喜びで手を叩いた。
「だろう!この張爺の饅頭は、街でも評判なんだ!
なぁ旦那、もう三つほど買ってってくれや?
特製の醤油だれ付きでサービスするぜ!」
天龍はくくっと喉の奥で笑い、首を横に振った。
「食いすぎれば、番の最中に眠ってしまうな。」
「そりゃ困るなぁ!」
老人は冗談めかして笑い返す。
「美味すぎて敵が城壁を乗り越えるのに気づかんかったら大事だ!」
その言葉に、天龍の目が一瞬鋭く光った。
「…敵が城壁を乗り越える、か。
俺が敵なら、今ごろ肉まん食ってるな。」
彼が背を向けて立ち去ろうとしたその瞬間――
背後から低く鋭い声が飛ぶ。
「おい!そこのお前!」
男のくぐもった警戒した声。
天龍はすぐには振り向かず、もう一口肉まんを食べ、悠然と咀嚼し続ける。
だが、内なる気はすでに練り上げられ、一触即発の構えだ。
兵士の一人が歩み寄り、不審そうに睨む。
「この時間に持ち場を離れているとは何事だ。
今朝は副将の抜き打ち検査があると知らんのか?」
天龍はようやく振り向き、男を一瞥してから平然と言い放つ。
「副将?…ふん、西門の連中がここの饅頭をやたら勧めるからな。
買って戻ろうと思っただけだ。
まさか、お前はこの爺さんの饅頭を食ったことがないのか?」
「…饅頭、だと?」
兵士が怪訝そうにする隙をつき、張爺がすかさず口を挟む。
「そうでございますよ、旦那。
ここで十数年も商いをしております。兵の皆様は常連で、この方も古い客でございます。
今朝はちょっと早く来られただけで…」
天龍は老人に一瞥を送り、内心で呟いた。
「…機転が利く、使える爺さんだ。」
兵士はまだ疑念を拭えない様子。
「なら何故、持ち帰らずその場で食っている?お前、何様のつもりだ?」
その瞬間、天龍の視線が鋭くなり、声の調子が一変した。
内衛の役人特有の発音を用い、冷ややかに告げる。
「俺は内監の人間だ。各所の警備態度を秘密裏に巡察する特命を受けている。
俺が肉まんを食ってると思ったか?
…それとも、お前たちの規律を見ているとは思わんか?」
兵士の顔がみるみる青ざめた。
「…内、内監!?」
「先月の命令を忘れたか?
変装して内部査察を行う人員が出ていることを!」
天龍はさらに声を潜め、鋭く詰め寄る。
「で?お前は何をした?俺を呼び止め、問いただしたな?」
兵士は冷や汗をダラダラと流し、慌てて頭を下げる。
「し、失礼しました!
怪しい者と勘違いを…決して悪気はございませんっ!」
天龍は鼻で笑い、肩を軽く叩く。
「わかればいい。もう行け。
これ以上ここにいるなら、お前の名を処分簿に記してやる。」
「はっ、はいっ!失礼いたしましたっ!」
兵士は転がるようにその場を離れる。
張爺は見送りながら笑いを堪えたが、天龍の一瞥で慌てて頭を下げ直した。
天龍は残りの一口を食べ終え、手を払って小さな銀塊を一つ、机に投げ置いた。
「釣りは要らん。」
「おおっ!
旦那様、なんと太っ腹な…!
どうか道中ご無事で!
この城門を守り抜き、敵を一掃されますように!」
天龍は小さく頷くと、無言で背を向け歩き出した。
十歩ほど進み、彼は小路へ折れ、壁にもたれかかる。
その眼差しは、氷のように冷たい。
「ただの肉まん一つで、危うく身分を晒しかけたとは…
このロンチュウ城、まさに蛇蝎の巣だ。」
彼は大きく息を吸い、低く呟く。
「趙玉…
お前は知らぬだろう。
俺が、お前に再び会うために…いくつの門をくぐり、いくつの死地を越えてきたか。」
胸元に手を伸ばし、そっと触れる銀の鎖。
そこには、涙の雫を象った翡翠のペンダント――かつて彼女が贈ったものが揺れていた。
「待っていろ…
今夜、俺が生き延びることさえできれば――
次に会う時は、正面から、お前の前に立とう。」
遠くから、太鼓の更鼓が重々しく響き始める。
天龍の瞳が、鞘から抜かれた剣のように鋭く変わる。
遊戯の時間は終わった。
今こそ――龍の巣へと踏み入る刻だ。
南門の城門の上、夕陽はまるで金の蜜のように古びた煉瓦の一枚一枚に注がれ、苔むした瓦屋根と、風に揺れる疲れた旗印の上に柔らかな影を落としていた。
一見すると穏やかな空気が漂っているが、その静けさの奥には、今にも爆発しそうな激しい暗流が渦巻いていた。
天龍は木製の欄干にもたれかかり、片手には冷えた肉まんを持ち、ひとかじりずつ静かに口に運んでいた。
まるで世の中のことなど気にもかけぬ、悠々自適の風情。
だが、その目は遥か遠くの地平線を見据えつつも、衛兵たちの動き一つたりとも見逃してはいなかった。
風が彼の衣を撫で、髪を揺らし、ほのかな塵と煙の匂い、そして今にも爆ぜそうな緊張感を運んでくる。
彼は静かに胸中でつぶやいた。
――おかしいな… 足音も号令の合図も…すべてがまるで演劇のように完璧に揃っている。
だが…殺気だけは隠せない。この感じ…まるで城全体が密かに襲撃の準備を進めているようだ。
彼は今、“南西営から転属してきたばかりの新兵”という役を演じていたが、その脳内はすでに戦略の鬼神のごとく動き出していた。
その時、隣に足音が響いた。
軽やかだが、警戒の色はない。交代の兵士だ。
年の頃は二十五、日に焼けた肌に、鋭くはないが歴戦の兵らしい落ち着いた眼差し。
その兵士は天龍を見つけると、にこりと笑って近づいてきた。
「おう、兄さん、初めて見る顔だな。ひょっとして南西営から来たのか?」
天龍は肉まんをひとかじりしながら、役になりきって軽く頷き、口の端で答えた。
「そうだ。今朝着いたばかりだ。腹が減っては戦もできんし、ついでに飯もな。」
その兵士はくすりと苦笑し、少し自嘲気味な声で言った。
「ははっ、賢いな。ここじゃ体力温存してなきゃ、あっという間に倒れるぞ。昨日もな、夜勤の奴が空腹でその場に倒れて、もう少しで営倉送りになるとこだった。」
天龍は目を細め、驚いたふりをして返す。
「そんなに厳しいのか?雲都城って戦地でもないだろうに。」
その兵士は周囲をさっと見渡し、誰にも聞かれていないのを確かめると、身を寄せて声を落とした。
「小声でな…この話、朝廷の“連破計画”に関係してる。聞いたことあるか?」
天龍は眉をひそめ、あえて疑わしげに言った。
「何の計画だ?」
兵士は深く頷き、表情を曇らせながら言った。
「“連破”、つまり分断して撃つ戦略だ。朝廷は正面から大門派を叩くんじゃなく、五百人単位で分隊を編成して、各総本山に奇襲をかける。いくら武林が強くても、これじゃ対応しきれん。」
天龍は平静を装いつつ、内心では怒りの焔が燃え上がっていた。
「なるほどな…正面からではなく、抵抗の根を断つ。陰険だ。」
兵士は溜息をつきながら、視線を城外の地平線に向けた。そこには夕陽が沈みゆく風景が広がっていた。
「俺たちは空の青さと風にたなびく旗しか見えんが、外では煙と血が渦巻いてる。以前、食糧を前線に運んだとき、道端に兵士の死体がずらりと吊るされていたんだ。しかも風雲幇の旗で縛られて… 背筋が凍ったよ。」
「風雲幇もやられたのか?」
「ああ。二週間前にはもう壊滅状態だ。だが朝廷は情報を封鎖している。民衆が動揺しないようにな。あいつら、口だけは達者だが、血が流れても絶対に自分の手は汚さない。」
天龍は深く息を吸い込んだ。
怒りは風雲幇のためではない――正義を踏みにじるその卑劣な手法が、武林の秩序を根底から揺るがすからだ。
兵士はなおも語り続けていた。
まるで、この異郷の地で同じ想いを持つ同志を見つけたように。
「門派ってのは民を守る最後の砦なんだ。武林が乱れれば、朝廷は思うがままに支配できる。奴らは剣でなく“恐怖”で心を斬るんだよ。」
「じゃあ、大門派たちは連携しないのか?」
「鋭い質問だな。実はな…今夜、玉女派、寒雲門、そして幽冥教の残党が水林谷の外れで秘密裏に会合を開くらしい。」
「……だが?」
兵士は唾を飲み込み、声を震わせながら続けた。
「もう密告されたらしい。今夜、闇の中から一瞬で殲滅されるかもしれん。刺客はすでに放たれた。特殊部隊も正午前に城を発ってる。」
その瞬間――
天龍の手の中の肉まんがぎゅっと握られ、粉々に潰れて崩れ落ち、風に乗って舞い散った。
彼の瞳には氷のような光が閃いていた。
「そんなこと…絶対にさせるわけにはいかん。正義が、腐葉のごとく朝廷の靴底に踏みにじられるのを見ていられるか。」
兵士は驚いた様子で彼を見つめた。
「どうした?お前も、ああいう汚い手は嫌いか?」
天龍は一つ息を吐き、苦笑しながら答えた。
「かつて…身内が巻き込まれたことがあってな。もう二度と、同じ思いはしたくない。」
兵士は静かに頷き、再び空を仰いだ。
「今夜は…長い夜になる。お前も気をつけろよ。生き残るには…沈黙もまた、力だ。」
そう言い残し、兵士は去っていった。
天龍はその場に立ち尽くし、瞳に鋼の決意を宿らせていた。
彼の衣が風に翻り、まるで宣戦布告の旗のように揺れる。
彼は低く、しかしはっきりとつぶやいた。
「沈黙しろだと? いや…俺は“天龍”。
この世に屈することのない、唯一の存在だ。」
袖の中から、彼は一片の薄い宝石を取り出す。
――天幻石。遠距離通信が可能な秘宝だ。
耳元にあて、彼は囁いた。
「琉情児、聞こえるか? 計画変更だ。今夜、俺は“蔵軍閣”に潜入する。
やつらが“連破”を実行する前に、軍機情報をすべて消し去る必要がある。
さもなくば…武林は戻れぬ道へと落ちる。」
微かに応答が返る。琉情児の声――柔らかだが不安に満ちた響き。
「兄様、それはあまりにも危険です。“蔵軍閣”はそんなに甘い所じゃない。万が一、見つかれば――」
「俺が行かなければ…もう誰にも、戦う権利は残されない。」
彼の声は揺るがなかった。
その時――
黒衣の影が城壁の上をかすめ、闇に消えた。
合図だ。仲間の一人がすでに位置についた。
天龍は残った肉まんの欠片を地に捨て、剣のように鋭い目で闇を見つめた。
そして静かに言った。
「今夜…俺が“逆龍、天を犯す”とは何かを、朝廷に思い知らせてやる。」
彼の身体が宙を舞い、欄干を飛び越え、沈みゆく雲都の夜に溶け込んでいった――。
龍城の夜は、夢と現の狭間にあるような薄い霧に包まれていた。
柔らかな月明かりが湾曲した瓦屋根を照らし、庇に残る露の雫を淡く反射している。
コオロギの微かな鳴き声が、どこか哀しげな旋律を奏で、景霊殿の裏手に並ぶ竹林を通り抜ける風の音と溶け合っていく――そこはかつて、趙玉姫が心安らかに過ごしていた場所だった。
その静寂な光景の中を、一つの人影がゆっくりと歩いていた。
柔らかな灯籠の明かりに照らされ、赤土で敷かれた石の回廊を静かに進む姿。
それは天龍――風のように淡く、雲のように儚げな雰囲気をまといながらも、一歩一歩が大地に刻まれるように揺るぎなかった。
彼の身には淡い藍色の衣が纏われ、その細身の姿はまるで宮女のようにしとやか。
薄絹の帽子を被り、手には翡翠色の釉薬がかかった磁器の盆を持ち、そこには繊細な料理数品と、小さな小豆餡入りの餅が一つ添えられていた。
彼の眼差しは静かで、澄んでいた。
その一歩一歩がまるで千回も練習したように無駄がなく、計算された動き。
だが、ただ一人、彼自身だけが知っていた。
胸の鼓動が、常よりも遥かに早く鳴っていることを。
「あと少し……あと数歩……それだけで、あの人に会える。」
一年もの時が、二人を引き裂いていた。
三百六十五の夜を、燻るような想いで過ごし、夢の中では何度も彼女の眼差し、声、そして笑顔を追いかけていた……
そして今、彼は龍と鳳凰の文様が彫られた大きな木扉の前で立ち止まり、深く息を吸い込んだ。
そっと手を伸ばし――
キィ……
木扉が静かに軋む音と共に、優しく穏やかな光景が目に映る。
薄絹が部屋中に掛けられた静謐な空間。
その中で、一つの姿がベッドの傍に座していた――まるで玉で彫られた彫像のように、微動だにせず。
趙玉姫。
現王朝の皇女。
柔らかな灯火に照らされた彼女の姿は、気高くもあり、儚くもある。
整った顔立ち、初雪のように白く滑らかな肌。
漆黒の髪が肩に流れ、微かに波を打っていた。
彼女は振り返ることなく、冷ややかで疲れた声を漏らした。
「そこに置いて……後でいただくわ。」
天龍は何も答えなかった。
彼はそっと盆をベッド横の小机に置き、目線はずっと彼女に注がれたまま。
痩せた肩、流れる髪、そして二人の間に横たわる“見えない距離”を、ただ見つめていた。
一歩、近づく。
さらに、もう一歩。
彼女との距離が、もう手を伸ばせば届くほどになった時――
彼は静かに口を開いた。
「姫様……相変わらず、小豆餡の餅がお好きですか?」
その瞬間――彼女の全身が硬直した。
彼女は振り返り、戸惑いの目で彼を見つめ、唇がわなないた。
「いま……なんて?」
天龍は、ゆっくりと顔の覆いを外した。
月光が薄絹を透かして差し込み、彼の顔を照らす。
あの懐かしい横顔、深く黒い瞳、温かくて確かな微笑み――
「俺だ。」
「……て、天龍?」
彼女の声は震え、驚きに満ちていた。
無意識に手が口元へと上がる。
「そうだ。」
彼は頷き、まるで心の奥に語りかけるように、静かに言った。
「俺だ。」
もはや言葉は不要だった。
彼女は立ち上がった。
薄絹の袖がふわりと落ち、まるで花びらが舞うよう。
彼女は一気に彼の胸元へ飛び込み、抱きしめた。
「あなた……本当にあなたなのね……!」
声は嗚咽に変わり、肩が震える。
溢れる涙は、もはや抑えきれなかった。
「馬鹿……なんて馬鹿なの……どうしてここに来たの?
ここがどれほど危険な場所か、分かっているの?
もし捕まったら……もし見つかったら……!」
天龍は彼女の頭を優しく撫で、まるで幼子を慰めるようにささやいた。
「分かってる。でも……来なければ、一生悔いることになると思った。」
彼女は顔を上げ、目は赤く潤んでいた。
「わたしのために……?」
「君のために……そして自分のために。
君のいない日々は、魂を失ったような毎日だった。」
彼女は泣きながら、彼の胸に顔を埋めた。
「天龍……わたし……あなたが……」
「君の傍を離れたことはない。
たとえ身体がどこにいようとも、心はずっと君のそばにいた。」
部屋には沈黙が訪れた。
ただ彼女のすすり泣く声と、二人の心臓の鼓動だけが、夜の静けさに溶け込んでいた。
彼はそっと手を伸ばし、彼女の目尻に浮かぶ涙を拭う。
丁寧に、優しく、まるで傷つけないように。
「最後に会った時、君は言ったね。
『帰ってきたら、一緒に月を眺めましょう』って……
今、月は満ちて……俺は帰ってきた。」
彼女は彼を見つめた。
その瞳に宿る、溢れるような愛しさ、哀しみ、怒り、そして――深い渇望。
「あなたは……遅すぎたのよ。
遅すぎて、もし忘れられたら楽になるのにって思ったくらい……でも、無理だった。」
彼は微笑み、額を彼女の額にそっと寄せた。
「それじゃあ……君は怒っている?」
「怒ってるわ! ものすごく……!
でも、その分だけ……あなたが愛しい。」
そして、彼女の唇が彼の唇に触れた。
再会の最初のキス――
風のように軽く、絹のように柔らかく、けれど宇宙すら沈黙するほど深く。
「……あなた、変わったわね。」
キスの後、彼女は囁いた。
「変わった?」
「前より強く……静かで……すべてを見透かすような目をしてる。」
「君のいない世界では……血の海の中で生きる術を学ばなきゃならなかった。」
彼女は彼の手を強く握りしめた。
「わたしは……あなたに超人でいてほしいんじゃない。
ただ、無事でいてくれれば、それだけでいいの。」
彼は小さく笑った。
「分かってる。
でも君を守るためには……世界を変えるだけの力が必要なんだ。」
彼女は彼を見つめ、目の奥に一瞬、切なさが宿った。
「天龍……知ってる? 父上は……わたしの気持ちに気づいてた。」
彼の眉がわずかに動いた。
「それで……?」
「責めることもなく、ただ笑って、こう言ったの。
『あの男……もし生きていれば、天下を震わせる存在になるだろう』って。」
天龍は沈黙した。
「でも……わたしは天下なんてどうでもいい。
ただ、あなたと森で月を見て、酒を飲み、小川の音を聞いて……平穏に生きたいだけ。」
彼女は笑い、涙を流しながら言った。
「馬鹿ね……だったら約束して。
たとえ明日、嵐が来ようと、戦が始まろうと……絶対に、わたしの手を離さないって。」
「誓うよ。」
彼は彼女の胸に手を添えた。
「この命ある限り、もう君を一人にしない。」
夜は静かに流れていく。
二人の影が、薄絹越しの月光の中で重なり、一つに溶け合っていた。
外では、冷たい風が強くなっていた。
変動の気配を孕みながら、夜を切り裂いて吹き抜けていく。
彼は知っていた――
今宵の静けさは、束の間の平穏に過ぎない。
明日になれば、策謀と闇、潜む敵との戦いが再び始まる。
だが、この瞬間だけは――
彼女の腕の中で、失ったと思っていた魂の一部を、確かに取り戻していた。




