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65.準決勝と、胸に詰まった言葉

東の空がほのかに明け始め、雪は柳の綿毛のように静かに舞い落ち、肩先を優しく撫でる。その情景はまるで墨絵のように白く沈み、詩情豊かに包まれていた。


質素な小部屋の中、薄いカーテンが冷たい風にそよぎ、ささやくような音を立てて時間の流れを語っていた。


木製の簡素な寝台の上には厚手の綿布団がかけられ、その中で趙玉ちょうぎょくは体を小さく丸めていた。柔らかな身体を毛布に包みながら、肩にかかる長い黒髪と、そっとこちらを窺う漆黒の瞳だけが布団の隙間から覗いていた。


「んん…寒いよぉ…起きたくない…」

眠たげな声は甘く柔らかく、まるで静寂の中に響く銀の鈴のようだった。


天龍てんりゅうは背を向けて帯を締めながら、肩越しに鋭い眼差しを向けた。その瞳には、厳しさの中に微かな無力さがにじんでいる。


「寒いなら服を着ろ。寝てたって雪が情けをかけて止むわけじゃない。」


「ふーん…昨夜はずっと抱きしめて離れなかったくせに、朝になったらまるで野良猫を追い払うように…冷たいわね、ほんと。」


「お、おれはそんなことしてない…」

顔を赤らめながら、彼は言い訳めいた声を絞り出す。


「ほんとにぃ?昨夜あたしを窒息するほどキスしたの誰?飢えた虎みたいにガツガツしてたのは誰かな~?」

趙玉は布団を顔の半分まで引き上げ、うるんだ瞳をいたずらっぽく煌めかせながら責める。


天龍は顔を逸らし、軽く咳払いした。


「こ、こっちが誘われたんだからな…」


「まぁ!じゃあ責任放棄するつもり?いいわ、着替えたら町中に言いふらしてあげる。『名門正派の大侠・天龍が良家の娘を夜中に押し倒して孕ませて、朝になったら知らぬ存ぜぬだって!』ってね~」


彼女が勢いよく起き上がると、布団が滑り落ち、雪のように白い肩が露わになった。天龍は慌てて視線をそらした。


「わ、分かった!俺が手伝うから…それでいいだろ!」


「うふふ~さすが私の夫ね、よく分かってる♪」

彼女は布団を巻きつけたままベッドを飛び降り、まるで甘える猫のように微笑んだ。


彼はため息をつき、翡翠色の長衣を手に取って、丁寧に彼女の袖に腕を通していく。まるで蜘蛛の糸を解くかのように、慎重な所作だった。


「そんな近くに立つな…慣れてないんだ。」


「慣れてないのは口だけでしょ?身体の方はすっかり…ねぇ?」

「黙れっ!」

彼は慌てて彼女の口を手で塞ぐ。顔は真っ赤だ。


趙玉は肩を震わせて笑い、真紅の唇から甘い息を漏らし、その香りは梅の花のように彼の肌を優しく撫でた。


「ちゃんと服を着たら大人しくしてな。」


「ちゃんと結んでね~。じゃないと、走ってる時また見えちゃうでしょ~?」


「…」

彼は何も言わず、ただ黙々と帯を締めた。だが、その耳まで真っ赤だった。


ようやく、着付けを終えると、趙玉は彼の首に腕を絡め、まるで前世からそうしていたかのように自然な仕草で甘えた。


「ねぇ~、外は寒いし、足が冷えて動けないの~。お姫様抱っこして~」


「絶対に嫌だ。自分で歩け。」


「ほんとに?じゃあ、昨夜『異香奇草を満喫』した話を劉情児りゅうじょうじ小梅しょうばい朱香鈴しゅこうれいにぜ~んぶ話してあげるから~♪」


「なっ…お前、脅すつもりか?」


「ううん、事実を共有するだけよ~。うちの夫は立派だったって、ちゃんと評価しないとね~」


「お前ってやつは…!」

彼は歯を食いしばり、結局観念して彼女をそっと抱き上げた。趙玉の身体は雪のように軽く、香りはまるで咲いたばかりの梅の花。


彼女は彼の耳元でそっと囁いた。


「ふふっ…こうして抱かれるの、気持ちいい…毎日お願いね~」


彼は何も言わず、ほんの少しだけ力を込めて彼女を抱き締めた。呆れながらも、どこか温かさが心に満ちていた。



---


雪はさらに激しく舞い、天城の中央広場へ続く小道は、既に多くの人々で賑わっていた。各門派の弟子、民衆、そして官兵までが早朝から集まり、寒さを跳ね飛ばすような熱気に包まれていた。


天龍は片手で彼女を抱き、もう片手には龍魂剣を携え、雪を踏みしめながら静かに進んでいた。足音が雪の上で優しく軋む。


趙玉は彼の肩にもたれ、そっと囁く。


「ねぇ…この試合に勝ったら、ご褒美あげる~」


「ご褒美?なんだよ、それ。」


「秘密~。サプライズが楽しいでしょ?」


「また何か企んでるな…?」


「ちなみに…負けたらお仕置きもあるからね~」


「いらん。勝っても負けても、これは名誉のための戦いだ。遊びじゃない。」


「ふふっ、夫さまってほんと真面目~。でもその顔が好き。信頼できて、すごく…魅力的よ。」


彼は答えず、長く垂れた白金の髪を風に揺らしながら、霞む視界の先に広場の姿を捉えた。


遠くで銅鑼の音が響く。準決勝の開始を告げる合図だ。


人々のざわめきの中、趙玉は笑いながら言う。


「早くしなきゃ~!みんなもう来てるよ!あたし抱えたままじゃ、目立ちすぎちゃう~」


「抱っこしろって言ったのは誰だ。」


「でも夫さま、まんざらでもなさそう~。こんな美女を抱いて歩けるなんて、悪くないでしょ?」


「…もう話しかけるな。」


「ふふっ、顔が赤い~♪」


門の前に着くと、天龍は彼女をそっと地面に降ろし、その目が戦場を前にしたように鋭く冷たくなった。


趙玉も真顔になり、囁くように言った。


「行ってらっしゃい…私は観客席から、静かに見守ってる。」


「…ああ。」

彼は頷きながら、目は中央の舞台に集う強者たちに注がれていた。


「夫さま…」

彼女はそっと近づき、指先で彼の袖をつまみ、潤んだ瞳で囁いた。


「もし…この戦いが運命なら、最初から最後まで、あたしが見届けたい。」


彼はしばし沈黙したのち、ゆっくりと頷いた。


「なら…しっかり目を開けて見てろ。俺が、この運命を…斬り裂く様を。」

白雪は花のように舞い散り、天龍の肩に薄氷のように積もっていく。彼の胸には、趙玉が身を預けていた。瞳はまだどこかにいたずらっぽい光を湛え、熟した梅のような紅い唇は恥じらいと喜びの色に染まっていた。頬を彼の肩にそっと寄せ、そのぬくもりが、早朝の骨まで凍える寒さを押しのけるかのようだった。


「もっとしっかり抱け。」

──彼の声が突然響いた。鋭く、短く、まるで冷たい刃のようだった。


「えっ? 抱くって…また何かしようとしてるの…?」

趙玉が目を丸くする間もなく──


「きゃあああああっ!!」

突如、白鶴が群れを離れたかのような悲鳴が空へ舞った。


瞬間、天龍は軽くひざを曲げると、矢のように空へと跳ね上がった。松林をかすめ、玉石の門を越え、風を切って天を翔ける。彼の黒髪が風に揺れ、雪が尾を引くように後ろに流れたその姿は、まるで仙人が風を駆るかの如く。


趙玉は思わず彼の首にしがみつき、両脚はしっかりと腰に巻きついた。まるで小さなタコのように、震えながら口を開く。


「て、天龍っ…本当に飛べるの!? これは何!? 仙術? それとも仙人の技なの?」


「ただの軽功だ。」

彼は平然と答え、視線は遠く前方──山の斜面にぼんやりと見える萬福寺の瓦屋根へ向けられていた。


「嘘でしょ! 軽功って…こんなに高く飛べるわけないじゃない!」


「喋りすぎると…今ここで落とすぞ。」


「だ、だめえええ! 落としたら…舌を噛んで死んでやるんだからああ!」

趙玉は叫び、腕の力をさらに強めた。


天龍は口元にわずかな笑みを浮かべる。


「さっきまで俺をからかってたくせに、今は目も開けられないほど怖がってるのか?」


「こ、怖くなんかない! ただ…寒いだけよ!」

彼女は声を震わせながらも反論した。


返事はせず、天龍は彼女を片腕に抱き直すと、もう一方の手で細腰を支え、気を足裏に集めた。そして高い松の枝を蹴ってさらに跳躍──白鶴のように冬空を切り裂いた。一歩ごとに三十尺を越え、雪に足跡一つ残さず宙を駆けていく。


目の前に広がるのは、凍てつく山々、氷結した川が蛇行し、雪景色が眼下に広がる絶景。趙玉は恐怖を忘れ、徐々に目を開いた。風は冷たく耳元で唸るが、彼の腕の中は不思議なほど暖かい。鼓動、息遣い、その確かな腕の力と迷いなき瞳──彼女の心はひとしきり高鳴った。


「天龍……」


「ん?」


「もし…あなたが空の仙人なら、私は地に生える柳の枝でいいわ。一度でいい、あなたの風に撫でられたいの。」


その言葉を聞いて、天龍は彼女を見て微笑んだ。


「馬鹿な子だ。お前は柳なんかじゃない。俺の女だ。」


趙玉の顔が真っ赤になり、そっぽを向いた。


「そ、そんなこと言って…恥ずかしくないの?」


「お前に言うなら、恥なんていらない。」


「も、もう…この図々しい夫め……」

彼女は小さく拳で彼の胸を叩いた。



---


一瞬にして、二人は萬福寺の参道に降り立った。雪は分厚く積もり、真っ白な地面に一足の跡もない。しかし、すでに多くの武林の者たちが集っていた。雪山の静けさを破るように、賑やかな声が響いていた。


趙玉は未だ夢から覚めぬように、震えながら雪の上に足を下ろす。その手はまだ彼の衣を握って離さなかった。


「天龍…あなた、本当に…ただの人間なの?」


「いや。お前の夫、それで十分だ。」

彼は微笑み、彼女の髪に積もった雪を払う。その優しさに、彼女の心はとろけそうだった。


「ずるい…。誰がそんなに優しくしていいって言ったのよ…」

趙玉が小声で呟いた。


「優しくしなければ、また泣くくせに。」

天龍は片眉を上げて言う。


「な、泣かないわよ!私はそんなに弱くない! ただ…あなたの前ではちょっとだけ…」

頬を赤らめながら、彼女は小さく呟いた。


「じゃあ、次飛ぶときは抱かなくても泣かないな?」


「ふんっ! 抱いてくれないなら、他の男に抱いてもらうわよ!!」


「ほう? 俺を裏切るのか?」


「じょ、冗談に決まってるじゃない…」

趙玉は目をそらした。


彼は彼女の頬を軽くつねると、静かに寺の庭へと歩み出す。その瞳には、天山の霜雪のような冷ややかさが宿っていた。



---


萬福寺の広大な庭には、すでに百人以上の武林の豪傑たちが集結していた。寺の僧たちは土色の袈裟をまとい、竹の箒で雪を払っていたが、雪はますます激しく降り続き、風も一層鋭く吹き荒れていた。


六十を越えた老僧が、背筋を剣のように伸ばし、鐘のように響く声で言った。


「雪深く、道滑り、勝負に公平を欠く恐れあり。諸君、しばし外に退き、除雪を待たれよ。」


その時、天龍が一歩前に出て、静かに右手を上げた。まるで琴を奏でるように、手を一振り──


「ブゥン──!!」


一陣の無色透明の気流が彼の掌から放たれ、音も匂いもないのに、まるで津波のような圧力で雪を一気に押し流した。広場一面の雪が一方向へと巻き上げられ、人の背丈を超える山となって積もる。


あたりは一瞬で沈黙に包まれた。


「な、なんだこの内功は……」

「手を一振りしただけで、雪が…?」

「これが…天龍の力…想像を絶する……!」


老僧が彼の前に進み出て、深く礼をする。


「アミダブツ。若き侠よ、その力、僧たちの困難を救ってくださった。萬福寺、心より感謝いたします。」


「礼には及ばぬ。俺は戦いに来た。雪ごときに邪魔はさせぬ。」

彼の声は静かだが、確固たる意思があった。


その眼差しが四方に向けられると、武林の名だたる者たちは、皆ひそかに息をのんだ。


「たった数か月で、ここまで強く…?」

「彼の内力、どこまで深いのか誰にも測れぬ…」

「今日…彼に敵う者など…いないのでは…?」



---


趙玉は彼の背後に立ち、拳をぎゅっと握りしめた。その目には神仏でも見つめるような光が宿っていた。


「私の夫こそ、天下無双──!」


誇らしさが胸を満たし、彼女は彼の手を取りにじり寄る。


「さっきの手の動き! すごかったわよ! みんなまだ何が起きたかもわかってなかったもん!」


「そうか?」

彼の唇がわずかに笑みを描いた。


「うん! あっちの女の子たち、みんなあなたのこと見てたわよ! 目がキラキラしてたんだから~」

趙玉は警戒するように、近くの女たちをチラチラ見ていた。


「それで?」


「それでって…嫉妬に決まってるでしょ!」

ぷいっと頬をふくらませ、手を引き寄せた。

「今後は、他の女と三歩以上距離を取ること!」


「もし近づいたら?」


「そしたら…噛むからね!!」

彼女は小さな猫のように威嚇した。


天龍は吹き出し、彼女の頭を優しく撫でた。


「わかった。お前が喜ぶなら、十歩でも離れてやろう。」


「約束よ! 言ったからには守りなさいよ!」



---


高台の鐘が鳴り響く。雪空にその音が広がり、試合の開始が近づいていることを告げていた。


ドン——!

再び鳴り響いた戦鼓の音は、まるで雪山の奥深くにまで反響するかのようだった。


雪に覆われた擂台の上、黒衣を翻す天龍がまっすぐに立っている。その瞳は抜き放たれた刃のように鋭く、冷たい光を放っていた。

彼の前に立つのは、霞のような薄紅色の衣を纏い、長い黒髪を高く結い上げた少女――小梅。彼女の紫の瞳には、揺るぎない自信と決意が宿っていた。


万福寺の境内は、ひとときも音を立てることなく、全ての視線が二人に釘付けとなっていた。

一方は、名もなきまま数十の強者を圧倒的な力で打ち倒してきた第一の実力者。もう一方は、流浪の姫にして寒雲門が誇る天才武術家。


小梅はそっと手を上げ、髪に挿していた玉簪を抜く。瞬間、それは細く鋭い短剣に変わった。

剣光が瞬き、まるで冬の終わりの雪の冷たさを思わせる輝きを放つ。


天龍は片眉を上げた。


「玉簪剣か……。前回は、使っていなかったはずだ。」


「前は……必要なかったから。」

小梅は一歩踏み出す。足元の雪が細かく割れた。


「今回は、必要と感じたのか?」


「いいえ。でも、使いたいの。」


天龍は声を立てずに笑う。瞳の奥がさらに深くなる。


「では、私も……片手で応じよう。」


左手を差し出すと、袖の中から黒い光が揺らめいた。

それは“黒龍戒”――誰にもその正体を見抜けない指輪。そこから黒い龍のような気が溢れ、彼の腕を纏ってから消えた。


主審の高僧が大声で宣言する。


「準決勝――始めッ!」


その瞬間――

シュッ!

風を裂く音と共に、小梅の身影が紅の残光となり、雪景色の中を駆け抜けた。


「梅舞血風」――寒雲門に伝わる最高の軽功。

さらに「追影連剣」との連携で、幾多の女武者たちを打ち倒してきた技。


剣光は流星のように閃き、喉元を正確に狙って突き出される!


スッ!


だが、天龍はほんの僅かに身を傾け、左手で軽く葉を払うように剣を逸らした。

同時に膝を引き上げ――小梅の腹部に膝蹴りを放った。


ドン!


「くっ……!」


小梅は三歩後退し、腹を押さえる。口元に血が滲む。


それでも、彼女は微笑んだ。


「速いね……膝を見た瞬間、もう痛みが来てたよ……」


天龍は手を背後に組み、落ち着いた眼差しで言う。


「君が……手加減していたからだ。」


小梅は何も答えず、剣先を雪に突き立てた。


そして――ゴォ!


周囲の雪が舞い上がり、紅の気配が広がる。

その気勢が一変する――!


「風影万梅――幻魂七剣!」


「それは……!」


「寒雲門の……失われた秘技だと!?」


観客がざわめく中、梅の花びらの幻影が雪空に舞う。

小梅の剣は七つの残像を生み出し、あらゆる方向から一斉に斬りかかった!


シャッ、シャッ、シャッ!


天龍は動かない。目を閉じ、そして――開いた。


「天幻滅世無極眼――解放」


誰も、彼が何をしたかを見ていない。

ただ分かるのは、迫りくる全ての剣が、触れる直前に「消えた」ということ。


それは避けたわけでも、受けたわけでもない。

ただ――存在しなかったかのように消えた。


小梅の瞳が見開かれる。


「そんな……これは人の反応じゃない!」


「そうだ。」

天龍は淡々と答える。


「これは――神の反応だ。」


その言葉と同時に、右手を振り上げる。


ゴォォ――!


圧倒的な気圧が周囲を包み、擂台の雪が中心に向かって深く沈んだ。

観衆は、まるで山が落ちてきたかのような錯覚に襲われる。


小梅は即座に後退し、身を翻して左掌を突き出す!


「寒雲縛魂――寂雪蓮掌!」


黒と白の気が衝突する――


ドォン!!


雪が舞い上がり、天地を覆う。風は叫び、擂台の傍の古木が根こそぎ吹き飛んだ!


観客たちは愕然とする。


「天よ……これは何の次元だ……」


「人ではない……!」


「天龍様は……もう仙人なのか!」


白い煙が晴れた時――

二人の姿は変わらずそこにあった。小梅の呼吸は荒く、剣を持つ手は血に濡れていた。


天龍は進まず、ただ問うた。


「まだ戦うか?」


小梅は寂しく微笑む。


「もし私が……まだ戦ったら、貴方は私を……憐れむ?」


彼は即答する。


「私が手加減したら、それこそ君を侮ることになる。」


彼女は涙を浮かべながら笑う。


「なら、いいの……今日、たとえ私が負けても、勝った気がする……だって、貴方の心が見えたから。」


そして、剣を地面に突き刺し、片膝をつく。


「小梅、敗北を認めます。」


「試合終了――天龍の勝利!」


高らかに宣言された声に、しかし誰一人として歓声を上げなかった。

その場にいたすべての者が――ただ、静かにその二人を敬った。



---


大樹の陰で、それを見ていた趙玉の目から涙が零れる。

だが今回は嫉妬ではなかった。


彼女の瞳に映ったのは、小梅の気高き心だった。


「私、間違ってた……天龍様を愛してるのは、私だけじゃない。」


そして、静かに呟く。


「それでも……誰が愛そうと、私は譲らない。」



---


天龍は小梅に近づき、そっと肩に手を置いた。


「本気を見せてくれて、ありがとう。」


小梅は涙をにじませながら顔を上げる。


「覚えてる?……貴方が言ってくれたこと。」


「覚えてる。」


「じゃあ、私の願いは……」


天龍は首を傾けた。


「ただ一晩でいい……貴方の隣で眠らせてほしい。それだけでいい。」


しばしの沈黙の後、彼は頷く。


「分かった。」


「でもその夜が過ぎたら……」


「君は去るのか?」


「ううん……行かない。ただ、もう何も望まない。」


天龍は微笑む。


「なら……その夜は、君自身でいてくれ。」



---


二人が擂台を去っても、観衆はなお呆然としたまま。


ある門派の宗主が、深く嘆息する。


「あの二人は……ただの敵同士ではない。」


「知己だ。」別の者が静かに答える。

「生涯でただ一人、自分を理解する相手と出会える、その一瞬のために――。」



---


その頃、奥の堂にて、柔らかな女性の声が響く。


「勝ったのね?」


振り向いた天龍の前には、既に待っていた柳情児の姿。

彼女は手に薬包を持っていた。


「さっきの小梅の掌打、少し毒が混じってた。袖にかかったわ。」


「ありがとう。」


柳情児は黙って彼を見つめ、そして優しく言った。


「あなた……あと何度こんな試合を続けるの?」


「分からない。」


「もし……いつか勝てなくなったら……」


「その時は、負けるだけだ。でも――諦めはしない。」


柳情児は頷き、そして彼の背から抱きしめた。


「なら……勝っても負けても、帰ってきて。私は、いつまでも待ってる。」



---


その時――外からまた鼓の音が鳴り響いた。


ドン!ドン!ドン!


準決勝、第二戦――始まろうとしていた。


天龍は顔を上げ、氷雪の中に燃えるような眼差しを放つ。


「次の相手は――」


「……どんな面白さを見せてくれるか、見ものだ。」

「シュッ!シュッ!キィン!キィン!」


剣と剣が激しくぶつかり合う音が、吹雪の中で怒涛の協奏曲のように鳴り響く。

小梅シャオ・メイの動きは烈風のごとく鋭く、しなやかな剣技が光の軌跡となって空中に波のような螺旋を描き出す。


「いざ勝負!」

彼女の叫びは軽やかでありながらも決意に満ち、その細身の体は風に揺れる梅の枝のように舞い、閃く剣先が鋭く天龍テンリュウの左胸を突く!


――だが。


「ヒュッ!」


天龍の姿が忽然と消え、まるで幻のように目の前から霧散した。


「えっ!?」


小梅は瞠目し驚くも、顔に恐れの色は浮かべない。

素早く体を反転させ、電光石火の三連撃を繰り出す。まるで嵐のような一太刀一太刀が、しかしすべて空を斬るだけであった。


彼女の剣術は、寒雲門かんうんもんの魂と気を宿した精緻なもので、寸分の狂いもない。

だが、天龍はそのすべてを、頭を傾けるだけ、半歩退くだけ、あるいは夜の舞踏家のように軽やかにかわしてみせた。


観客たちは息を呑む。まるで死闘ではなく、美しき舞台を見ているかのように。


「あなた……本当に反撃しないつもりなの?」


小梅の息は乱れ、頬は熱く紅潮している。


「必要ない。」

天龍は静かに微笑み、冷たさの中にも言いようのない温もりを秘めた眼差しで応える。

「君は敵ではない。傷つけたくない。」


小梅は顔を上げ、張りつめた表情の中に複雑な失望が見える。

心の奥に炎が燃え上がる。


「そんな優しさ、私には侮辱よ!」

「心に想う者だからって、手加減するなんて――私は壊れ物じゃない!」


天龍は彼女をじっと見つめ、声を低く、だが揺るぎない口調で言った。

「本気で斬れば、傷つくのは君だけじゃない。――私自身も、私でなくなる。

私は大切な人を、決して斬らない。」


怒りに満ちた小梅が跳び上がり、剣を天へとかざす。

寒雲門最強の秘剣――「蒼影分身剣そうえいぶんしんけん」を放つ!


七本の幻の剣が風を裂き、天龍に向かって同時に突進。

空間すら引き裂かれるかのような凄まじさ。


「外すわけにはいかない!」

全身の気が爆発する。彼女の体は限界を超え、魂を剣に乗せて放つ――


だが、次の瞬間。


「……スッ」


春風のように柔らかな掌風が吹き抜け、天龍はいつの間にか彼女の背後に現れていた。

その手は彼女の背中にそっと触れ、優しく押し出す。


「きゃっ……!」


小梅の体はふわりと舞い、蝶のように宙を舞いながら闘技台の外へと投げ出される。

重力を失った感覚と冷たい地面が迫る恐怖――しかし、その刹那。


「ヒュン!」


天龍が飛び出し、片手で彼女をしっかりと抱きとめた。


その瞬間、彼女の剣先は彼の喉元に触れるが、もう意味を成さない。

なぜなら、彼のもう一方の手が――彼女の柔らかな胸元をそっと握っていたからだ。


「もう濡れてるぞ……まだ始まったばかりなのに。」


冗談めかした彼の囁きに、小梅の顔は一気に真っ赤に燃え上がる。


春水の如き雫が、彼女の足元を濡らし、快感の震えが全身を包み込む。

制御できぬ情熱が、心も体も支配する。


観客が反応する間もなく――


「ドン!」


天龍の足が地に着く――だがそれは、闘技台の外だった。


氷のような沈黙が、その場を包む。


老僧の一人が前に進み出て、荘厳かつ厳格な口調で言い放つ。


「天龍、台の外に足を踏み入れた。規則により、場外は敗北と見なされる。

この試合の勝者は――寒雲門の小梅とする!」



---


「なっ……なんですって!?」


観客席は爆発したかのようにどよめき、数千人の歓声が入り乱れる。


遠くから聞こえるのは、趙玉ちょうぎょくの荒い息。

手には銀の笛を強く握り、顔には嫉妬の炎が燃え盛っていた。


「あの子を……彼が自ら抱いて下ろしたの……?」

彼女は呟き、歯を食いしばる。


胸中では怒りと不安が入り混じり、抑えきれない嵐となって渦巻いていた。


迷いはない。趙玉は衣の中から一管の銀笛を取り出す。

薄光に照らされた金属の光が、雪中に妖しく煌めいた。


「天龍……どうか、私を責めないで。あなたが、私を狂わせたのよ。」


彼女の吹く笛は、氷の刃のように鋭く、空間を切り裂く。


「ピィィィィイ――!」


その音は山々を超え、空を突き抜け、すべてを震わせる。


万福寺ばんぷくじを囲む山肌に一斉に松明が灯り、

まるで軍神の指揮に応じるかのように、戦陣が動き出した。



---


趙玉の心は乱れに乱れた。

愛する男が他の女に触れられた――それだけではない。彼が辱めを受けたことにも、怒りが湧く。


「彼が彼女を思うなら……こんなことにならなかったのに。」

そう呟く瞳には、悲しみと覚悟が宿る。


一方、天龍の表情は穏やか。

だがその目の奥には、言葉にできぬ想いが揺らめいていた。


「もし本当に俺が敗者なら、それで構わない。

小梅が無事であり、全てが計画通りに進むなら。」


吹雪と宿命の雷が舞う中、彼と彼女は静かに立っていた――

愛と責任を背負う者として。


警笛はなおも響く。戦の前触れのように。

真の戦いは、今まさに始まろうとしていた。


「準決勝は終わった。だが、本当の戦は――これからだ。」



---


森の奥から、突然蹄の音が響き渡る。

宮廷軍が一斉に万福寺へ向けて進撃を開始したのだ。


「果たして決勝に進むのは、天龍か、小梅か?

あるいは、二人とも戦火に呑まれてしまうのか?」


誰も予想し得なかった展開が、会場を張り詰めた空気に包む――

息を呑む緊迫感の中で。



---


準決勝第一戦は、論争と未完の誓い、

そして、陰謀の胎動を残して終わりを迎えた。


天龍と小梅――彼らの瞳が交わす火花は、まだ消えてはいない。


だが外の世界では、戦と裏切りが、

彼らを飲み込もうと、牙を剥き始めていたのだった。


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