62.新しい朝と特別な出会い
俺は血と魂をぶち込んで文字の皿を野原に並べてやってるのに、お前らはハエとアリの群れみたいにやってきて、舌なめずりしてさっさと消えるだけで、一言も吐かず拍手もねぇ。読まずに端から端までなめ回して、幽霊みたいにすっと消える。んなもん、読まずに何しに来てんだクソが?食いたきゃ全部平らげろよ、そしてせめて何か一言残せ——褒めても貶してもいい、文字にタダ乗りするクズ野郎みたいに消えんな!
朝の最初の一筋の光が、そっと小さな窓の隙間から差し込み、灰銀色の薄いカーテンを透かして、温かな布団の上に落ちた。それは、夢と幻の狭間を漂うような淡い光だった。外では、冬の風が瓦屋根をかすめる音が静かに響いていた。まるで北の霊魂たちが雪と氷の中を彷徨いながら、囁いているかのようである。
二人が宿をとった小さな部屋の中は、まるで時間さえも止まったかのような静寂に包まれていた。外の凍てつく寒さとは無縁の、ぬくもりのある空気の中で、すべての命が一時の安らぎを得たかのように息を潜めていた。
天龍は、まだ白い綿布団の上でじっと横たわっていた。深く眠っているわけではないが、目を閉じ、静かに呼吸を続けていた。彼の長い黒髪は枕の上に広がり、いく筋かの髪が額をかすめ、まるで淡い霧がその顔を覆っているかのようだった。冷ややかさの中にどこか穏やかな気配を宿し、まさに乱世の黎明に眠る剣士の如き姿だった。
その隣には、王朝の姫・趙玉が静かに眠っていた。今はただの一人の女性として、布団をしっかり抱きしめるようにして寝息を立てている。彼女の滑らかな長い髪が枕の上に流れ、幾筋かは天龍の首元へと零れ落ち、言葉にできないほどの親密さを生み出していた。
二人の間にある空気は静かでありながら、見えない温もりに満ちていた。何かが少しずつ変わり始めている。――それが感情なのか、信頼なのか、あるいはただの一瞬の平穏なのかは、まだ誰にもわからなかった。
しばらくして、天龍の長い睫毛が微かに揺れた。彼はゆっくりと目を開ける。一瞬、朝の光が瞳を刺激し瞳孔がすぼまるが、すぐに慣れる。彼はすぐに動かず、ただ濃い茶色の木天井を静かに見つめていた。心は、風一つ立たぬ秋の湖面のように静まり返っていた。
やがて視線が横へと移り、隣で眠る趙玉の顔に留まる。
彼女はまだ眠っていた。長い睫毛が呼吸のたびに微かに震え、その寝顔は、普段の気高い姿とは違い、どこか純粋で可憐だった。見る者の心をふと揺らす、そんな柔らかい美しさがそこにあった。
天龍はそっと手を上げ、胸元にかかった彼女の髪を払おうとしたが、その途中で止まった。彼の手が微かに震える。それは寒さのせいではない――心の奥で、何かがざわめいた。彼自身でさえ名付けられぬ感情。
「お前は…想像していたのとは、まるで違うな」――彼は誰にも聞こえぬほどの声で、心の中に囁いた。
その時、趙玉が身じろぎした。軽く寝返りを打ち、顔を彼の方へと向ける。睫毛が蝶の羽のように揺れ、そしてゆっくりと目を開けた。
彼女の瞳が、彼の視線と重なった。
「…起きてたの?」――その声は寝起きで少しかすれていたが、どこか優しい響きを帯びていた。
天龍は口元をわずかに上げた。すぐには答えず、横を向いて彼女と向き合い、片肘をついて頭を支える。その眼差しは静かでありながら、深いものを湛えていた。
「お前が起こしたんじゃないのか?」
趙玉は一瞬きょとんとした後、ふふっと微笑んだ。その笑みはまるで凍った湖に差し込む朝の陽光のように、透明で、暖かかった。
「まるでわたしがわざと起こしたみたいに言うのね。」――彼女は身をよじりながら彼に向かい合い、細い指で髪を耳にかけた。「もし誰かが原因なら…たぶんあなたの髪よ。針みたいに顔に刺さってたもの。」
「そうか。」――天龍は気のない様子で答え、頬をかくように手を動かした。「髪まで武器になるとは思わなかったな。」
彼女はくすくすと笑った。「あなたって本当に、変なことばかり言うわよね。」
「お前はお前で、笑うタイミングがおかしい。」――彼は彼女をちらりと見やる。その瞳は、まるで霧の中に輝く銀河のようだった。「昨夜のこと、お前、気づかれてないとでも?」
趙玉の顔が一瞬で赤くなった。
「…まさか、知ってたの?」
「知ってただけじゃない。」――天龍は彼女の瞳を真っすぐに見据えて、低く静かに言った――「はっきり感じた。」
彼女は視線を逸らし、唇を噛んだ。
「わたしは…ただ…」
「ただ、抑えきれなかった?」――彼が言葉を挟んだ。
趙玉は彼の肩を軽く叩いた。恥ずかしさと抗議が入り混じった瞳で睨みながら。
「ほんとに、意地悪。」
「だから、次はやめておけ。」――天龍の声が急に真剣なものになる。「次は、冷静でいられる自信がない。」
「…信じられないわ。」――彼女はそっとつぶやく。そして、まっすぐに彼を見た。「あなた、本当に誰かに心を動かすことなんて、あるの?」
天龍の目が少し陰る。彼はじっと彼女を見つめた。その視線には、底知れぬ深淵があった。普通なら、そこに引きずり込まれそうで思わず目を逸らしたくなる…だが、趙玉は逸らさなかった。
やがて、天龍は静かに口を開いた。
「もし本当に心を動かしたら――お前は、それを受け止める覚悟があるのか?」
彼女の心臓が、一度だけ強く跳ねた。
「もし…あると言ったら?」
「ならば朝食の後にでも――」彼は口元に淡い笑みを浮かべた。「答えを聞かせてやろう。」
趙玉は何も言わず、ただ静かに頷いた。そして布団をめくって身を起こす。朝の光が部屋の隅々にまで差し込み、彼女の姿に薄墨の輪郭を描いていた。長い髪が滑らかに白い肩に流れ、淡い青の寝間着越しに映るその姿は、思わず天龍も目を奪われた。
「見ないで。」――彼女は気づいて言う。
「空が明るくなったのを見ていただけだ。」――彼は平然と答える。
彼女は呆れたように睨んでから、ベッドを降り、近くの上着を羽織った。
「ちょっと待ってて。着替えてくる。」
「うん、朝食を頼んでおく。」――彼は立ち上がり、扉の方へ歩いて行く。
扉の木の取っ手に手をかけた瞬間、彼は振り返って彼女をもう一度見た。その眼差しは、今の光景を深く胸に刻みつけようとしているかのようだった。
やがて、彼女が整った姿で現れた。簡素な衣ではあったが、どこか気品を感じさせる佇まいだった。天龍は、すでに宿の裏手から熱々の朝食を二人分手に入れて戻っていた。
「食べ物で機嫌を取るつもり?」――彼女は机に座りながら、くすっと笑う。
天龍は箸を置いて眉を上げた。「お前、食べるのが好きだろ?」
「好きだけど、それで機嫌が直るわけじゃ…」
「機嫌を取る必要はない。」――彼は一つ饅頭をつまみ、少し醤油をつけた。「目を覚ました時点で、もう怒ってないとわかってたからな。」
彼女は笑った。その笑い声は、春の風に揺れる風鈴のように清らかだった。
外では風が吹き、雪が舞っていた。しかしこの小さな部屋の中では、穏やかで優しい朝が始まろうとしていた――そして、何かが確かに芽生えつつあった。 それが恋なのか、運命なのか、まだ誰にもわからない。
冬の始まりの朝、凍てつくような風が銀灰色の瓦屋根を撫で、薄く漂う霧を小さな石畳の街路へと運んでいった。明け方のかすかな光では凍てつく寒さを溶かすには足りず、それでもなお、趙玉の長い髪と天龍の漆黒の長衣を微かに照らしていた。
「寒いわね……」
趙玉はそっと呟き、両手で外套の裾を掴んだ。視線は、隣を歩く男へと向けられる。しかし、天龍はまるで寒さなど存在しないかのように、悠然とした足取りで歩みを進めていた。
趙玉は瞬きしながら、心の中で思った。
彼って……不思議。何も気にしない。天気さえも、関心がないのかしら。
二人は無言で歩いた。不思議なくらい歩調はぴたりと揃っている。天龍の黒い靴が湿った石畳を踏みしめる音はわずかに響き、それが趙玉にとっては、彼の一歩一歩が心に墨跡のように刻まれるかのようだった――冷静で、決然としながらも、どこか抗えない魅力を放っていた。
やがて、二人は街角の一隅にひっそりと佇む小さな食堂の前で足を止めた。手書きの木製の看板には、かすれた筆致で「酒膳」とだけ書かれている。だが、奥の厨房から立ち上る香ばしい匂いが、凍えた心を温めてくれるようだった。
「ここでいい」
天龍は短く言うと、趙玉の返答を待たずに戸を開けて中に入っていった。
趙玉は一瞬遅れてから、そっと後を追った。中は古びた木の壁に、柔らかな灯油の灯が温かい色を投げかけ、静けさに満ちた空気を醸していた。客はまだ少なく、数人の年配者が茶をすすり、陶器の器が交わる音が朝の旋律のように響く。
二人は窓際の席に腰掛けた。向かい合って座りながらも、趙玉はどこか意味ありげな視線を天龍へ送った。
「こんな所で朝食をとるなんて、いつもこうなの?」
彼女の声には少しの好奇心と、からかいが混ざっていた。
「場所は気にしない」
天龍はそう答え、まず趙玉の茶碗にお茶を注ぎ、それから自分の分を満たした。
「清潔で、静かならそれでいい」
趙玉は唇を引き結び、どこか含みのある眼差しを浮かべた。顎に手を添え、じっと彼を見つめながら、そっと口を開いた。
「じゃあ……同行者については?それも気にしないの?」
天龍はほんのわずかに視線を上げ、彼女を見つめた。深淵のような黒い瞳。だが彼はただ、静かに答えた。
「共に座っている。それだけで、十分じゃないか」
趙玉は眉を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。その胸の奥で、奇妙なざわめきが起こっていた――冷たいようでいて、どこか温かい。その言葉が、胸に染み入った。
ちょうどその時、店員が一枚の木の札を運んできて、礼をして下がった。天龍は一瞥して頷いた。
「魚粥一つ、蓮根餅一皿、烏龍茶を二壺」
趙玉は少し驚いたように眉を上げた。
「どうして私が烏龍茶好きって分かったの?」
「知らない」
天龍はそっけなく答えた。
「ただ、この寒い朝には合うと思っただけだ」
「……そう」
趙玉は静かに頷いた。だが胸の中では奇妙な感情が湧き上がっていた。彼は本当に気にしていないの?それとも……気づかぬふりをしてるだけ?
しばしの沈黙。外では、季節の初雪が舞い始め、窓ガラスに薄く白い膜をつくっていた。
ふと、趙玉は静かに呟いた。
「もうすぐ……あの大会が始まるわ。終わったら、何かが変わると思う?」
天龍は少し動きを止めた。すぐには答えず、視線は窓の向こう――舞い落ちる雪の彼方を、まるでその奥に何かを見つめるように、じっと見ていた。
「すべてのものは……常に変わる」
彼は静かに口を開いた。
「だが、人が望むようには変わらない」
「……つまり、どんなに努力しても、望んだ通りにはならないということ?」
「違う。努力の話じゃない」
彼は目を閉じて、低く呟いた。
「この江湖も、権力も、恨みも、そして感情さえも――すべては水のようなもの。握ろうとすればするほど、指の隙間から流れていく」
趙玉は黙った。その言葉の裏に、何かを失った過去があるのだろうか――それとも、何かを諦めたことが?
彼女は思い切って尋ねた。
「……じゃあ、私は? 私も、その“握れないもの”の一つ?」
天龍はまっすぐ彼女の目を見た。逃げもせず、逸らしもせず。
「お前は――手放したくないものだ」
趙玉の心が大きく波打った。彼女はとっさに視線を逸らし、赤らんだ顔を隠すように下を向いた。けれど、その胸の内には、今の言葉が春の雪原に湧く温泉のように染み渡っていた。
しばらくして、扉が開く音がした。軽やかな足音、澄んだ気配が室内を一瞬で明るくする。
趙玉が顔を上げた。目がすぐに止まった。
白一色の衣を纏い、淡い青の帯を締めた気品ある美しい女性が入ってきた。誰あろう――玉女派の掌門の娘、劉情児。
劉情児の目が店内を一巡し、やがて天龍の席に目を留めたとき、彼女は小さく囁いた。
「……あなた」
趙玉はその様子に気づき、そっと首を傾げた。
「彼女と、知り合いなの?」
天龍はすぐには答えなかったが、軽く頷いた。
「一度、会ったことがある。正式ではないが」
趙玉の眉がわずかに動いた。
劉情児の澄んだ雰囲気に、どこか自分が足りないような感覚がした。
劉情児は近づいてきて、席の横を通るときにほんの少しだけ立ち止まった。そして、湖のように澄んだ黒い瞳で天龍を見つめ、柔らかく言った。
「あなた……寒雲殿の屋根で会ったわよね?」
天龍はゆっくり頷いた。
「そうだ」
劉情児は微笑んだ。それ以上は何も言わず、だが視線だけは長く彼の顔に留まっていた。
趙玉は腕を組み、その後ろ姿を見送った。胸の奥に、名もなき感情がわき起こる。
「……あなた、女の知り合いが多いのね」
天龍は外の雪を見ながら、静かにお茶をすすった。
「向こうが知っているだけだ。俺から近づいたわけじゃない」
「へえ?じゃあ、私もその一人?」
「違う」
彼は趙玉の方を向いて、はっきりと言った。
「お前だけは、俺が自ら助けた人間だ」
趙玉はその場で固まった。何も返せない。
その言葉――飾り気はない。だが、その一言が、すべての疑念を貫いた。
一度の救いが、私の心を、ここまで……乱すなんて。
彼女は小さく息を吐き、ぽつりと呟いた。
「本当に……危険な人ね、天龍……」
万福寺の本堂から仄かに漂う沈香の香りが、山頂を渡る風に乗って静かに空間を包み込んでいた。英雄大会はまだ正式には始まっていなかったが、空気はすでに煮え立つ大釜のように熱を帯び、言葉一つ、視線一つが争いの火種となりかねぬ張り詰めた緊張感が満ちていた。
青石を敷き詰めた寺の中庭には、各門派の弟子たちが静かに整列していた。その誰もが鋭い眼差しを隠さず、互いを警戒し、探るように見つめ合っていた。
木製の回廊の柱にもたれ立つのは天龍。氷のように冷たい眼差しで、無言のまま一人ひとりの顔を見渡していた。その隣には、薄絹のマントを纏った趙玉の姿。彼女の表情には、僅かな戸惑いが浮かんでいた。
「…今日の空気、どこかおかしくない?」
彼女はほとんど囁くように問いかけた。
天龍は視線を逸らさず、太清武道の弟子たちの一団に目を注いだまま、低く応えた。
「外見は武林の大会。だが、その実は魚がひしめく濁流だ。油断すれば、すぐに餌にされる。」
趙玉は小さく頷いた。
「…皆の視線、あなたに対して何かを企んでいるように見えるわ。」
天龍は微かに口元を歪めた。
「見ているのは俺だけじゃない。お前のことも見ている。ここでは誰一人として、誰も信用していない。」
その瞬間、山門の方から豪快な笑い声が響いた。
「ハハハ!これで天下の英雄たちはすべて集まったようだな。さあ、始めようか!」
すべての視線が門へと向けられた。
紅の長袍を纏った一団が堂々と寺に入ってくる。先頭を歩くのは、鋭い目と長い髭を持つ壮年の男──風雲幇の幇主、柳天鶴。その傍らには、高身長で自信に満ちた眼差しを湛える若者──門派きっての誇り高き弟子、雷雲傑が並んでいた。
「柳幇主、ご到着が遅れたようですが、何かご事情でも?」
温かくも鋭い声が響いたのは、少林の高僧・空静大師、万福寺の住職だった。
柳天鶴は豪快に笑い飛ばした。
「些細なことだ。道中、腕試しをしたがる小賊どもがいたので、夢から目覚めさせてやっただけだ。」
その言葉に、中庭の空気が一瞬で重くなった。心にやましい者たちの背筋が凍りつく。天龍はわずかに首を傾げ、趙玉に小声で囁いた。
「柳と名乗る男、野心を隠しきれていない。」
趙玉の眉が寄せられる。
「…彼、何を企んでいるの?」
天龍の眼差しが鋭さを帯びる。
「この大会、ただの試合ではない。武林の勢力図を塗り替える序章だ。風雲幇は武林の頂点を狙い、太清武道はかつての栄光を取り戻すつもりだ。そして、少林──彼らは己の理想の秩序を、この世に築こうとしている。」
その瞬間、副門の方から鋭い叫び声が響いた。
「玉女派の五長老が襲撃された!」
中庭は騒然となり、弟子たちが声のした方へと駆け出す。青ざめた顔で現れたのは、玉女派の柳情児。息を切らしながら空静大師の前に立ち、必死に報告した。
「我が門の者が、道中で襲撃されました。一人の長老が重傷を…その技が…まるで…まるで、幽冥天尊教の『無影掌』のようでした!」
その名が出た瞬間、空気が凍りついた。幽冥天尊教──武林にとって悪夢のような存在。十年前に滅んだはずの闇の教団である。
「馬鹿な。」
太清武道の掌門・陳太清が前に出て反論する。
「教主は死に、教団は解体された。なぜ今さら現れる?」
天龍は沈黙を保ったまま、深い思索の表情を浮かべていた。彼は趙玉に静かに告げる。
「残党ではない。新たな勢力が動き出した。そして…その背後にいるのは、俺の知る者かもしれない。」
柳情児の目が周囲をさまよい、やがて天龍に注がれた。
「あなた…幽冥教の者と戦ったことがあるのでしょう?」
天龍はゆっくりと頷いた。
「ああ、つい最近だ。奴らは復活しつつある。そして、もう新たな指導者がいるようだ。」
空静大師は静かに手を上げ、場を落ち着かせた後、厳かに宣言した。
「大会は予定通り進行する。ただし、今後は全員が警戒を怠らぬこと。外部者の出入りは禁止。すべての動きは僧侶に報告せよ。」
人々は頷いたが、心の内は騒然としていた。今や、この大会は単なる試合の場ではなくなった。権力、陰謀、そして血の交錯する舞台となったのだ。
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その日の午後、本堂の裏手の回廊にて、天龍は一人、木柱にもたれながら、遠くの杉林を見つめていた。
趙玉がそっと歩み寄り、風のような声で問いかける。
「…何を考えているの?」
彼は振り返らずに答えた。
「誰があの襲撃の黒幕か。そして、なぜ玉女派を狙ったのか。」
趙玉は唇を引き結びながら言った。
「…たぶん、柳情児があなたと関係あることを知られていたのかも。」
天龍は彼女を振り返り、じっと見つめる。
「…嫉妬か?」
趙玉は頬を染め、睨むように言い返した。
「違うわ。ただ…ただ心配なだけ。」
「俺のことを?」
彼は微笑む。
趙玉は視線を落とし、囁くように答えた。
「あなたのことだけじゃない…。私たちのことも。」
天龍は静かに彼女の手を取り、優しく握った。
「もし明日、戦が始まったら──お前は後院に残れ。姿を見せるな。」
趙玉の目が見開かれた。
「なぜ?私が信用できないの?」
「信じていないわけじゃない。」
彼の声が沈み込む。
「ただ──お前を失うのが怖い。」
その言葉に、趙玉の胸が震えた。言葉にならぬ思いが喉元で詰まり、彼女はただ静かに頷くと、涙を堪えるように唇を引き結んだ。
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その夜、本堂裏の密室にて、五大門派の掌門たちが密かに集まり、重大な会議が開かれた。
風雲幇の柳天鶴、太清武道の陳太清、少林の空静大師、玉女派の劉真如、そして顔を隠した黒い外套の謎の人物。
柳天鶴が口火を切った。
「我々全員、この大会の真の意味を知っているはずだ。朝廷は弱体化し、今こそ武林に新たな統率者が必要だ。」
陳太清が厳しい声で言う。
「…お前は、共に王座を狙おうと言うのか?」
空静大師は首を振る。
「武林に必要なのは王ではない。秩序と道理だ。」
劉真如は黙って小さく頷いた。
すると、黒衣の人物が重々しい声で口を開いた。
「天龍──あの男こそ最大の障害だ。彼はどの勢力にも属しておらず、彼を生かしておけば、我々の力は必ず削がれる。」
柳天鶴は不敵に微笑む。
「心配は無用だ。──奴を無力化する手は、すでにある。」
あの日の午後、太陽の光は落ち葉一枚一枚を黄金に染め、そよ風が各門派の旗を空に舞い上がらせた。それはまるで戦意を掲げる絹の断片が天を覆い尽くすかのようだった。かつて静寂と沈思の場であった萬福寺の境内は、今や威厳と緊張に満ちた戦場へと姿を変えていた。
石畳に踏みしめる一歩一歩が、千年の眠りについた霊気を目覚めさせ、大地と空を震わす開会の太鼓の響きと共鳴するかのようだった。
主殿の中庭に設けられた決戦の舞台。その周囲を取り囲むように石段が並び、各門派が次々に座を占めていく。天高く掲げられた少林天師派の大旗。その真下には主卓が置かれ、各派の長老、貴賓、そして審判官が着席していた。空気は重く、張り詰めた静寂の奥底に、殺気がひそかに蠢いている。
「何が見える?」
天龍は中庭の端に立ち、両手を背に組んだまま鋭い眼差しを中央に向けた。声は風のように静かだが、聞いた者の心に刃のごとく突き刺さる。
隣に立つのは趙玉。淡い天青色の薄絹を纏い、髪を高く結い上げた姿は高貴で、瞳には深い思索の光が宿っている。
「強者が多すぎるわ……そして、欲も。」
彼女の声は穏やかだが、心の奥の警戒を隠せない。
「その通りだ。」
天龍は静かに頷いた。
「この大会は、ただの武術比べではない。」
一人の女性が静かに歩み寄る。白い戦衣に玉蘭の刺繍、手には薄い扇子。現れたのは柳情児。その瞳は秋の湖面のように静かで深い。
「この大会は、ただの競技ではない。」
彼女の声は、夕暮れの琵琶の調べのように柔らかく響く。
「ここで、江湖の命運が決まるのよ。」
天龍は振り返らず、冷ややかに言葉を返す。
「お前は、それを守るために戦うのか?」
「ええ。江湖を、悪の手に落とさせはしない。玉女派の名誉を汚させない。……そして、あなたがもう独りで戦わずに済むように。」
「俺は、誰かと並んで戦ったことなど一度もない。」
風が吹き抜け、天龍の白金の髪がゆるやかに揺れる。
「天下を敵に回しても、俺は一人で足りる。」
柳情児は怒らず、首を傾げ、微笑んだ。
「あなたは、いつもそう。でも……剣もまた、相応しき鞘を必要とするものよ。」
その時、太鼓が三度鳴り響き、中庭全体に魂を呼び起こすような長い余韻を残す。少林天師派の長老が壇上に現れ、雷鳴の如き声で宣言した。
「英雄大会――正式に開幕する!」
拍手の嵐が響き渡り、止むことを知らない。各門派が代表者を次々と送り出す中――
「お前が初戦に出るのか?」
趙玉が不安そうに問いかける。
「ああ。」
天龍は頷く。
「奴らはまず、俺を試すつもりだ。探りだ。そして、警告でもある。」
彼女はそっと袖を掴み、小さな声で震えるように呟いた。
「気をつけて……」
天龍は微笑み、その目に一瞬、優しさが宿る。
「心配するな。俺は……生まれてこの方、一度も敗れたことがない。」
審判の声が響き渡る。
「開幕戦――無所属の天龍 vs. 風雲幇の大弟子・雷虎!」
観衆がざわつく。名が呼ばれた瞬間、空気が数拍止まったようだった。
天龍――あの、玄雲十長老を一人で倒したという男か?
失伝した武学の継承者か?
あるいは、江湖の災厄か――
天龍はゆっくりと進み出る。その歩みは風を踏みしめるように軽く、黒衣の縁に銀の刺繍が夕日を反射してきらめいた。
彼の目は誰も見ず、だが誰もが彼を見つめていた。
対する雷虎は、筋骨隆々、両腕に龍の刺青、顔は血のように紅く、足音は戦太鼓の如し。
「天龍、名は聞いている。今日は見せてもらおう。貴様が本当に龍か、それとも蛇の化け物か!」
天龍は答えない。ただ静かに手を上げ、漆黒の剣――《黒龍魂奪天刀》を抜く。その瞬間、風が唸り、空気が震えた。
審判が叫ぶ。
「始め!」
シュッ!
雷虎は怒号と共に両掌を大地に叩きつけた!
風雲幇の秘技《天山破獄掌》――初撃に全ての力を込めて叩き潰すつもりだ!
だが、その瞬間――天龍の身体が柳の葉のように宙を舞い、空中から漆黒の剣が一閃!
黒き龍のような刀光が空を舞い、雷虎へ襲いかかる――!
「虚空奪命掌!」
爆音。戦場が揺れた。
雷虎は五歩後退し、胸から血を噴き出し、目を見開いたまま言葉を失う。
「貴様……いったい、何の武学を……」
天龍は答えず、刀を収めて冷たく言い放った。
「貴様が弱すぎる。」
場内は凍りつく。
次の瞬間――歓声が爆発する!
「天龍が勝った!」
「まるで妖怪だ……一撃……たった一撃!」
「虚空掌……でも、原型とは違う……まるで幻のような変化……!」
群衆の中、幽冥天尊教の教主・朱香鈴は静かに顎に手を添えて囁いた。
「この者……面白い。」
韓雲門に座る小舞の瞳が輝く。
「彼だ……想像を超えている……」
趙玉は喜びに胸を震わせながらも、心の奥底に冷たき不安を覚えた。
彼女と彼との距離は、知らぬ間に、果てしなく遠くなっていた――
だが、戦いは始まったばかり。
次に登場するは、太清武道の《氷無影》。
「氷の刺客」と呼ばれ、蝋のように白い顔と雪のように冷たい瞳を持つ男。
その次は、風雲幇の女首席――《金羅刹》。
暗器と近接戦闘を極めた猛者。
そして、魔宮の最後の継承者――《毒孤風》。
彼の持つ《魔雲噬心経》は、相手の内力すら喰らい尽くすという禁断の奥義。
全ての強者が、天龍というただ一人を討つため、集まり始める。
「お前、自分が頂点に居座り続けられるとでも思うか?」
毒孤風は冷ややかに呟く。その声は闇夜の風のように背筋を這う。
「……まだ、本当の闇は現れていないぞ。」
天龍は答えない。ただ空を見上げた。
そこには沈みゆく夕日――そして、訪れようとする闇夜。
彼は、静かに呟いた。
「敵が増えるほど、退路は狭まる。
だが、もし江湖が修羅の地ならば――
最後に立っているのは、俺だ。」
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