55.吹雪の中の警告
初冬の風が、石造りの回廊を通り抜け、食堂へと向かう途中にほのかな香の香りと、静かに打たれる木魚の音を運んできた。傾いた夕日が格子窓から斜めに差し込み、床の上に淡い絹のような橙の光を落とす。その光の中で、万福寺はいつにも増して静謐に包まれていた。
中庭では、天師少林の僧たちが深く腰をかがめ、精進料理の膳を運んでいた。湯気の立つキノコの汁物と蓮の実粥の香りが、夕暮れの冷たい霧と交じり合い、清らかな空気を作り出している。淡い黄色の法衣を纏った法妙禅師が、手を背後に組みながら、少年僧たちの間を静かに歩いて回り、穏やかな声でこう言い聞かせた。
――「今日は遠方より貴客が来る。礼を欠いてはならぬぞ……。」
その言葉が終わる前、寺の正門の方から明確な足音が響いた。風を裂く衣擦れの音を伴って、重く規則的なその足取りは、まるで気流の上を歩むかのようであった。法妙の足が止まり、視線を門の方へ向ける。その目が細められた瞬間――
霧の向こうから五人の影が現れた。風に翻る青衣、胸には双龍が天を翔ける紋章。太清武道の象徴に他ならない。先頭に立つのは、一人の若き男。姿勢は杉のように真っ直ぐで、顎をやや上げ、天下を見下ろすかのような傲然たる眼差し――楊白風である。
――「阿弥陀仏、貴客の御到来だ。」
法妙禅師は合掌しつつ一歩前に進み、いつもと変わらぬ穏やかな口調で迎えた。
楊白風もまた軽く頭を下げ、微笑しながらも、どこか傲慢さを隠しきれぬ声で答える。
――「禅師、道中の不測を案じて、一日早く参りました。不躾ながら、静寂を乱しておらぬと良いのですが。」
法妙は軽く頷いた。
――「ちょうど食堂が整ったところ。どうぞ、ご一緒に。」
だが、楊白風はすぐには足を進めなかった。視線を中庭に一巡させ、何かを探すような眼差しを走らせる。そして、その視線がふと止まる。
老松の根元、石の椅子にしゃがみこむ灰衣の青年が一人。手には小さな包丁を持ち、悠々と大根を剥いている。夕陽がその顔の銀仮面に斜めから差し込み、静かな後光のような光を纏わせていた。
――それは他ならぬ、天龍であった。
楊白風の口元に、うっすらと笑みが浮かぶ。ゆっくり、しかし確かな足取りで歩を進め、意図的に大声で言い放った。
――「ふむ……この地へ向かう途中、不思議な噂を耳にした。仮面を纏った謎の男が、たった一指で武林の達人を倒したと――まこと、敬服すべき話だが、真偽は如何に?」
背後の弟子の一人が声高に笑い、手を叩いた。
――「そんな絶技が本物なら、ここに出てきて一戦交えてみせろ!仮面の陰に隠れ、虚名にすがるだけの腰抜けではあるまいな?」
しかし、天龍は顔を上げず、包丁を淡々と動かし続けていた。左手で大根を軽やかに回し、空中で舞うような滑らかな動き。挑発の言葉にも、まるで無風の湖面のように無反応だった。
近くの欄干に肘をついて座る趙玉は、顎を手に乗せ、目を細めた。唇の端にイタズラっぽい笑みを浮かべ、低く呟いた。
――「さあ、もっと挑発しなさいな……あの人に手を出せば、どれほど痛い目を見るか、きっと身をもって知ることになるわ。」
楊白風の眉間が僅かに寄る。彼は、その無関心な態度が癪に障った。沈黙も、動じぬ態度も気に食わぬ。相手を怒らせ、立たせ、武林の名誉のために戦わせ――そして、群衆の前で叩き潰す。それが彼の望みだった。
――「貴様、名は何という?」
老松のもとに近づき、声を低くしながらも威圧感を込めて問う。
――「何の実力も無きまま名乗らぬとは、仮面の下の顔も恥ずべきものか?」
その時、天龍の手が止まる。包丁をゆっくりと石の机に置き、布の手袋を外し始めた。
彼が静かに立ち上がるその動き一つ一つに、揺るぎない気迫が宿る。全身が夕陽に照らされると、北風のような冷気が辺りに広がり、中庭にいた全ての者が、息を止めた。
――「俺は、大根を剥いているときに邪魔されるのが嫌いだ。」
その声は、まるで山の谷間を吹き抜ける冷風のように低く鋭い。
――「だが、死に急ぐというなら――機会を与えてやろう。」
――「かかってこい。」
仮面の奥、冷たい銀の光が目に宿る。
――「せめて……俺を退屈させるなよ。」
楊白風は冷笑し、高く跳び上がった。双掌から放たれたのは“太清神拳”。気の渦が小さな旋風となり、地面の枯葉を巻き上げる。
――「受けてみろッ!!」
地面が震えた――
だが天龍は、わずかに肩を傾けただけでその拳風を避けた。体が煙のように消え、次の瞬間には楊白風の背後に立ち、左手の指を一本、静かに突き出す。
“パシンッ!”
楊白風が反応する暇もなく、背中に見えぬ衝撃が炸裂し、その体は弾かれたように前方へ吹き飛び、古木の幹に叩きつけられる。
“バキッ!”
樹皮が裂け、彼は膝をつき、顔は蒼白、口から血が滲んだ。
太清武道の五人の弟子たちは顔色を失い、三歩も後ずさった。
誰一人として、天龍の技を見切れなかった。
中庭は凍りついたように沈黙した。
天龍はゆっくり歩み寄り、膝をつく楊白風を見下ろしながら、冷たい声で言った。
――「俺の名が知りたいか?」
――「なら、その指が――まだ動くかどうか確かめてからにしろ。」
楊白風は歯を食いしばり、全身を震わせた。彼には分かった。もし相手が本気だったら――自分はもう、この世にいなかっただろうと。
欄干から、趙玉がくすくすと笑い声を漏らし、ふわりと舞い降りて天龍の傍へ寄る。彼の衣の裾を整えながら、ふくれ顔で呟く。
――「試合なんて時間の無駄よ、大根の皮剥きの邪魔だもの。」
天龍は袖を払って背を向け、ただ一言だけ残してその場を後にした。
――「次に死にたくなったら――せめて俺の食後に来い。」
――「時を弁えぬ者に……指一本、くれてやる価値もない。」
秋の終わりの夕暮れが、大楚王宮の瑠璃瓦の屋根に静かに広がっていた。名残の紅葉が風に舞い、空中でくるくると回りながら、名前すら与えられぬ記憶のように消えていく。内宮では宮女たちが慌ただしく行き交い、ある者は帳を整え、ある者は婚礼の品を運び、またある者は深紅の灯籠を迷宮のように曲がりくねる回廊に掛けていた。
---
曾無双は静かに閨の中に座っていた。長く艶やかな黒髪の上に淡い紅色のベールがふんわりとかかっており、その視線は半ば開いた紫檀の窓の向こうをじっと見つめていた。ひんやりとした秋風が差し込んでも、彼女は閉めることなく、まるで「宿命」という名の強制された絆を風にさらおうとしているかのようだった。
---
背後から、親しい宮女がそっと声をかけた。
—
「殿下……婚礼の衣装の用意が整いました。もうすぐ花嫁輿が参ります。髪の結い直しなど、お手伝いしましょうか?」
—
曾無双はすぐには返答しなかった。ただ、腹に置かれた手がわずかに震えた。そこには、かすかに動く小さな命が宿っている。彼女はよく知っていた。今夜は、他の新婚夫婦のような甘美な初夜ではない——それは、これから始まる偽りの連鎖の第一歩。この子——天龍の子——を守るために、自ら張った嘘の網だった。
—
「いいわ。」——声は静かだが、眼差しは深淵のようだった。——「皆が、私が喜んで嫁ぐと思えば……それで十分。」
—
宮女は黙って頭を垂れ、それ以上は何も尋ねなかった。その瞳には、どこか憐れみと戸惑いが滲んでいた。
---
外では、婚礼の太鼓が賑やかに鳴り響いていた。陽玖——十九歳の若き王族——が、豪華な紅の龍袍を身にまとい、大きな輿から降りてくる。白い肌に整った容貌、だがその瞳には一抹の困惑があった。大殿へと足を進めながら、心中では幾重もの疑問が渦巻いていた。
—
「なぜ……ほとんど会ったことのない彼女と、突然婚姻を命じられたのだ? なぜ皇帝は、彼女が龍の血を宿したと急に宣言した? 宴で会ったのは、たった三度……」
---
曾無双が礼殿に姿を現したとき、その気高く冷ややかな美貌に、すべての視線が吸い寄せられた。まるで氷の蓮花——誰もが見惚れながらも、言葉を発することすらできなかった。
---
陽玖は前に進み、彼女に手を差し伸べた。揺らめく灯の中で、彼は小さく問いかけた。
—
「無双……本当に、私の子なのか?」
—
曾無双は瞬きもせず、冷たい瞳の奥に、柔らかな微笑を湛えて答えた。
—
「お忘れですか? あの夜、桃花苑で……貴方は酔い潰れて、私たちは一緒に旅籠に泊まりましたよね?」
—
陽玖は呆然とした。確かに数ヶ月前、宴の帰りに酒に酔い倒れた記憶はある。しかし……
—
「だが……あの夜は、一人で寝たはず……」
—
「ええ。」——曾無双は笑みを浮かべながら、心の奥は氷のように凍っていた。——「貴方は一人で眠っていた。けれど私は……隣にいたのです。ただ、貴方が覚えていないだけ。」
---
陽玖の手が固まり、ぎこちなく彼女の手を握る。その感触は、まるで冷たい玉の彫像のようだった。
---
彼女はそっと囁いた。隣の者にだけ聞こえる声で——
—
「私はこの宮中で生きていたくはない。でも、この子のために、辱めを受けさせたくない。貴方が私を愛さずとも、私も貴方を愛さずとも……せめて、静かに産ませてほしい。」
—
陽玖は彼女を見つめた。怒りなのか、困惑なのか、憐憫なのか、自分でも分からなかった。これほど誇り高く、卓絶した彼女が——ただ一つの命のために、そこまでの手段に出るとは。
—
「君が何を隠しているのかは分からない。」——彼は低く、ゆっくりと答えた。——「だが、私は協力するよ。皇族の権謀に巻き込まれるのはごめんだ。君が求めているのが“父親の肩書き”だけなら……暴くつもりはない。」
—
曾無双は小さくうなずいた。瞳にかすかな安堵の光が浮かぶ。だが、その奥深くでは、冷たい声が静かに響いていた。
—
「陽玖……お前が賢いなら、黙っているべきよ。この子の真実に踏み込めば、また“記憶を失う”ことになるわ。」
---
婚礼の鐘鼓が鳴り響き、祝福の声が宮殿中に広がる中、一つの緻密な計画が密かに動き始めていた——
—
曾無双の望みは、ただこの子を守ることではなかった。彼女は「陽玖の正妃」という立場を利用し、天龍の子を天下の目から隠すつもりだった。
—
彼女の側近の宮女は、実は彼女が指揮する「情報盟」の密偵。
—
胎児を確認した侍医も、すでに買収済み。
—
陽玖が酒に酔い、婚姻を強いられるまでの一連の出来事は——全て彼女が綿密に描いた台本だった。
---
初夜の晩、全ての者が退出した後、曾無双は窓辺に立ち、寒々しい月光を浴びながら、北の空をじっと見つめていた。そこには、天龍がいるかもしれない。
---
彼女は静かに呟いた。
—
「天龍……この子は、私と貴方の唯一の絆。私は知っている。貴方を繋ぎ止めることはできない、貴方の目を奪うこともできない。でも……私は貴方の血を受け継ぐ命を守る。」
—
「たとえ、天下すべてが背を向けても、私は守り抜く。この子が“認められぬ私生児”とならぬように——たとえ、宮廷を欺き、己の名節を踏みにじってでも。」
—
彼女は振り返り、薄い掛け布を整え、愛していない男——陽玖の隣へと、静かに身を横たえた。
外では霧雨がしとしとと降り続き、絹糸のように細い雨粒が漆黒の琉璃瓦の屋根に静かに落ちていく。風のうねるような音と交わりながら、孤独な皇宮の夜に、どこか物寂しい旋律を奏でていた。
---
新婚の閨の間には、紅い灯がゆらゆらと揺れ、鸞鳳交わる図が描かれた屏風に柔らかな光を映している。曾無双は横になり、そっと手を腹に当てた。長い髪が絹の枕を流れる水のように広がっている。その顔立ちはあまりにも穏やかで、かつて数万の近衛兵を指先ひとつで動かし、将軍すら目線ひとつで震えさせ、ただ一言で朝廷を揺るがせた女であったことを忘れさせるほどだった。
---
楊玖は寝台の端に腰を下ろし、指を絡めながら、どこか戸惑いと好奇心の入り混じった視線で彼女を見つめていた。長い沈黙ののち、彼はようやく静かに口を開いた。
—
「無双……その……この子のこと、いつ朝廷に発表するつもりなんだ?」
—
曾無双は春の水のように柔らかな微笑みを浮かべた。
—
「焦る必要はないわ。この話は、遅ければ遅いほどいいの。お腹が目立ち始めれば、皆信じざるを得なくなる。そのときになれば、誰も疑わない。」
—
楊玖は頷き、どこか感慨深げに呟いた。
—
「まだ……実感が湧かないんだ。自分が父親になるなんて。」
—
「そのうち慣れるわ。」— 彼女は上体を起こし、玉の櫛で髪をとかし始めた。蝋燭の明かりが白玉のような肌にやわらかく映える。—「父親になるなら、せめて子供の名前くらいは考えておいたほうがいいんじゃなくて?」
—
楊玖は目を丸くした。
—
「僕が……名前を?でも、そういうの得意じゃないし……あとでもいいかな?」
—
曾無双は風がそよぐような口調で、淡く笑った。
—
「いいえ、今知りたいの。あなたがこの子のことをどう思っているのか。父親として、名前をつけるというのは、血のつながりを結ぶ最初の一歩なのよ。」
—
彼女は顔を上げて彼を見つめた。その瞳には、剣を収め、夫と子のそばに身を寄せる、まるで本当の意味で“女”になった者の優しさが宿っていた。
---
楊玖はその視線に魅了されたように、しばし黙考したのち、ようやく言葉を紡いだ。
—
「もし男の子だったら……『楊望龍』と名づけたい。龍を仰ぐ――つまり皇族への敬意を込めつつ、大志を抱き、枠に囚われぬ者になってほしいという願いも込めて。」
—
「女の子なら……『楊心歌』がいいと思う。心からの歌。穏やかで静かな人生を歩んでほしい。母親のように、時代の波に押し流されることなく。」
—
曾無双は瞼を伏せ、長い髪に指を滑らせながら、遠い記憶を撫でるようにつぶやいた。
—
「楊望龍……楊心歌……ふふ。」
—
そして顔を上げると、その瞳にかすかな嘲笑が光った。
—
「あなたって、本当に……単純な人ね。」
—
楊玖はその意図に気づかず、ただ気まずそうに笑った。
—
「僕は……君ほど頭が良くないから。でも……この子が本当に僕の子なら、命をかけて守ってみせる。」
—
曾無双は背を向け、瞳の奥に氷のような冷たさが宿った。
---
彼女の内心には、凍てつくような思考と、短剣のような冷笑が響く。
—
『楊望龍? 彼は知らない。この腹にいる命の血筋が……彼のものではないことを。この子の中に流れているのは、真の龍――天龍の血。仰ぎ見るどころか、天を翔ける龍そのものよ。』
—
『名前をつければ、絆が結ばれるとでも? 子供の考えね。』
—
『あの桃花苑の夜を現実だと思っている? 私、曾無双が、江湖を震わせた女が、“うっかり辱められて従う”なんて? おかしくて笑っちゃう。』
---
彼女は布団を引き寄せて腹をそっと撫で、生まれゆく命を優しくあやすような仕草を見せた。その声はまるで子守唄のように優しいが、刃のような鋭さを含んでいた。
—
「望龍……いい名ね。この子はきっと、天下の誰もが“望む”存在になるわ。頭を垂れるのは、この子の姓“楊”のせいじゃない。」
—
楊玖はあくびを一つし、疲れが見え始めた。もう疑念は完全に消えたらしく、優しい声で言った。
—
「無双、寒くないかい? 今夜……君のそばにいてもいいかな? 何もせず、ただ……夫として、共にいたいんだ。」
—
曾無双は黙って頷き、静かに目を閉じた。楊玖が静かに横に入る音が聞こえたとき、彼女は心の中でひっそりと呟いた。
—
『安心して眠りなさい、楊玖。あなたは役目を果たした。それ以上は深入りしないで。好奇心の強い者は……長く生きられない。特にこの皇宮では。』
—
『あなたがつけた名前……覚えておくわ。いずれ、別の“筋書き”を立てるときに使えるかもしれない。そのとき、もしかしたら天龍自身が、この名を口にすることになるかもね……自分の子が、他人の姓を名乗っているとも知らずに。』
---
外では、霧雨が静かに降り続けていた。濡れた屋根瓦に消える雨粒は、絶世の美女の胸中に渦巻く陰謀のように、音もなく、だが確かに、静かなる政変の始まりを告げていた。
婚礼の夜から三日後――
皇宮の空を覆うのは、初冬の霧のように冷たい白い霞だった。金鑾殿の大広間には、数百の龍灯が煌々と照らしていたが、その光すら厳粛な空気に満ちた寒気を拭い去ることはできなかった。
殿中には文官武官が二列に並び、冠服を正し、頭をやや垂れて、今朝から宮中でささやかれているある重大な出来事を静かに待ち受けていた。
そのとき、正殿の中心に一人の女が歩み出た。
曾無双――
彼女は深紅の新たな妃の朝服をまとい、襟元には太陽と月の間を舞う鸞鳳が金糸で刺繍され、腰には玉帯、髪には鳳凰の簪と雉の珠を飾り、成熟した気品と冷ややかな威容を漂わせていた。彼女の姿を見つめるすべての者が、思わず目を伏せるほどであった。
彼女は片膝をつき、静かに頭を下げて奏上する。
—
「妾身・曾無双、ただいま皇族の血を宿しておりますこと、聖上ならびに諸大臣に謹んでご報告申し上げます。」
—
殿中はざわついた。多くの官僚たちが顔を見合わせたが、誰一人として声を上げる者はいなかった。
龍椅に座す皇帝――曾無双の実父である――は目を細め、娘の一息一息までを測るような鋭い眼差しを向けた。
—
「そなた、自らの胎内に龍の御子を宿しておると申すのか?」
—
曾無双は静かに顔を上げ、優しくも揺るがぬ眼差しで答えた。
—
「はい。妾身、懐妊十二週でございます。御医による診察にて、胎児は安定しているとのことでございます。この子は、妾身と夫・楊玖との婚礼の夜にて授かった、唯一無二の結晶でございます。」
—
このとき、礼部尚書が一歩進み出て疑問を呈した。
—
「しかしながら、婚礼は三日前に執り行われたばかりにございます。なにゆえ…?」
—
曾無双の顔色は変わらず、ただ淡々と、しかし透き通るような声で告げた。
—
「確かに、婚礼の儀は三日前に行われました。されど…交わりは二月前、桃花園にて。あの夜、酒に心乱れ、妾身と楊玖は…一線を越えてしまいました。」
—
その言葉は、まるで春風に乗せた琴の音のように柔らかで、しかしその裏には、すべての疑念を封じる鋭利な罠が潜んでいた。
皇帝の眼光がさらに鋭くなる。
—
「このことの重さは承知していような。真であれば賞を、偽りであれば皇室を汚す大罪ぞ。」
—
曾無双は伏し目がちに、囁くように言った。
—
「妾身、天子を欺くなど致しませぬ。この命も、胎内の子も、聖上にてご検分あらば、いつでも差し出す覚悟にございます。」
—
その場で召された老いた御医が診察を行い、震える声で報告する。
—
「申し上げます…胎児は確かに十二週にございます。曾妃殿下の御身も安泰にございます。」
—
再び殿中がざわめく。その中には、何かに勘づいたように眉をひそめる者もいた。
—
その時、「海の如き心を持つ后」と呼ばれる皇后が口を開いた。その声は柔らかでありながら、鋭い刃のようだった。
—
「無双よ、汝の母は幼き頃から汝を知る者。汝が簡単に身を誤る子ではないし、酒に酔うことすら稀な性格。汝が楊玖と子を成したというのは…母は信じよう。されど、天下の人々がそれを信じるかどうかは――別の話であろう?」
—
曾無双はゆっくりと顔を向け、その瞳に冷たい光を秘めながらも、微笑むように答えた。
—
「ゆえに、信じられぬことを先に申すのです。いずれ腹が大きくなれば、必ずや下賤の者どもが噂を作り、皇族の血統を汚すことでしょう。母上…『噂を鎮めるには、それを朝堂で爆ぜさせよ』と教えられたのは、母上ではありませぬか?」
—
この言葉は、まるで絹の刃のごとく、静かに、そして鋭く、陰謀を企てる者たちの心を貫いた。官僚たちの目が凍りつく。
---
曾無双の心中では、雷鳴が轟くかのような激流が渦巻いていた――
—
「血筋を疑うか?ならば御医の口から結論を聞け。真実を探るか?ならば“犯した日”すらこちらから定めてやる――桃花園、夜間は誰も近づけぬ場所だ。」
—
「ただ一言、ただ一歩、私から先に出れば、全ての噂は無力となる。疑う者は謀反とされ、私は正当なる皇族の母、未来の皇后となる。」
---
再び正殿へ。
皇帝は長く沈黙した後、静かに手を振った。
—
「よい。朕はここに宣する。曾無双、楊玖と婚礼を挙げ、皇族の血を宿す者として、“楊貴妃”に封ず。太子妃と同等の権を与える。」
—
「宮中すべて、この母子を龍体の如く護るべし。血統を疑う者、噂を流す者、問答無用にて斬首!」
—
「天下に詔を発する――十三ヶ月後、男子ならば“楊世王”に、女子ならば“第一公主・天心”と名を与えん!」
—
群臣、皆ひれ伏し、万歳を唱える。
ただし、その中にいくつかの視線が細く光を帯びていた。まるで緻密に仕組まれた霧のような策略を見破ろうとするかのように――
---
大殿の外、寒風が早咲きの白梅を通り過ぎ、雪こそまだ降らぬが、その冷気は人々の心を凍らせるほどだった。曾無双は殿を出て、空を見上げ、ただ静かに立ち尽くした。
—
「天龍が未だ戻らぬ限り…この子は、皇族のもの。しかし――あの日、彼が帰還するならば…」
—
「“楊望龍”という名が、正殿に響き渡るその時――彼は、何を語るのかしら?」
—
深紅の衣をなびかせて風が吹き抜けた。絹の鳳凰模様が微かに揺れ、それはまるで――血で描かれた冷笑のようであった。
まだ夜明け前だった。
チンシン閣の楼閣、窓辺に一人座るタン・ヴォソン。月光は紙のように薄く、その影を静かに包んでいた。
彼女の手はそっとお腹に置かれている。その内側では、小さな命が、まだ聞こえぬ鼓動を刻み始めていた。
そして、心の底から響く古鐘の音のように──一つの記憶がよみがえる。鮮やかで、狂おしくて、神聖で、決して消せぬ夜の記憶が。
---
一か月前 ―― 万福寺
天龍を祀る本殿の裏にある密室にて
---
その夜、寺には油灯のかすかな灯りしかなく、高山の冷気に混じる香の煙が、霧となって亡霊のように小道を漂っていた。
タン・ヴォソンは、天龍が静かに修行をしている部屋の前に立っていた。彼女は偽の身分を用い、少林僧たちの目を逃れてここまで来た。
その理由はただ一つ――彼に会いたかったから。
—
「もし、今言わなければ……
きっと二度と、言えなくなる。」
—
彼女は扉を三度、静かに叩いた。
—
内側から、天龍の低く落ち着いた声が響く。
「誰だ……?」
—
「私よ、ヴォソン。」
—
木の扉が静かに開かれる。
室内の光は柔らかな金色。彼の姿がぼんやりと浮かび上がる。黒の法衣がたくましい体にまとわれ、髪は背中に流れ、目は凍てつく夜に昇る朝日のように輝いていた。
彼女が中に入る。扉が静かに閉じられた瞬間、この世のすべてが切り離された。
そこはもはや寺ではなく、戒律も運命も存在しない。
ただ二つの孤独な魂が、軌道を外れ落ちる星のように交差した。
—
「どうして来た?」
—
「後悔したまま……死にたくなかった。」
—
「意味が分からない。」
—
「あなた……黒龍谷から助けてくれた夜のこと、覚えてる?」
—
「……ああ。あの時、お前は気を失っていた。」
—
「でも私は……起きてた。はっきりと。
あなたの心臓の鼓動が、私の耳に響いていた。
あなたの息が、髪に絡まっていた。
……一度も、忘れたことはない。」
—
天龍は黙していた。
—
「これまで多くの男に会った。
王侯貴族、武林の英雄……
でも、あなたの前ではじめて、私は……
小さく、ありのままの自分でいられた。」
—
「ヴォソン……」
—
「そんなふうに名前を呼ばないで……
今夜だけ、本当の私でいたい。
一度だけ、近く、短く呼ばせて……“ロン”。」
—
天龍の瞳が、彼女を見つめた。そこにはもう、出世を超えた者の冷たさはなかった。
その瞬間、二人の視線が交差する。まるで、夜霧の中にきらめく二振りの剣。
斬らず、刺さず、ただ……引き返さないだけ。
—
彼女は近づき、冷えた手を彼の胸にそっと置いた。
—
「ここが……あなたの心が、鼓動する場所?」
—
「ああ。」
—
「聞かせて……たった一度でいい。私だけの音を。」
—
天龍は答えなかった。ただ、彼女の小さな手を取って、自らの心臓の上に導いた。
その鼓動は、戦の太鼓のように力強く鳴り響き、
同時に、初めて恋の迷宮に足を踏み入れたような震えもあった。
---
その夜、外では小雨が降っていた。
二人は灯りのそばで、冷えた山茶を飲んでいた。
もう、言葉は要らなかった。
彼らの眼差しだけが、万の言葉を紡いでいた。
---
そして──
窓の外に稲光が走った瞬間、彼女は立ち上がり、
濃い色の外衣を脱ぎ、雪のように白い肩をあらわにした。
その所作に淫らな誘惑はなく、ただ、
水神の巫女が雷神へと身を捧げる、清らかな献身の儀のようだった。
—
「……何をしようとしているか、分かってる?」
—
「分かってる。」
—
「止めること……できる?」
—
「できない。」
—
「この夜が終わり、
私が他の男の妻、皇后となっても――あなたは私を憎む?」
—
「……いや。」
—
「どうして?」
—
「今夜だけは……お前は、俺のものだから。」
—
彼の手が、彼女の肌に触れた。
急がず、強くもない。
ただ、古き経典を撫でるように、
壊れやすい夢を抱きしめるように、優しく。
彼女は震えた。寒さではなく、
その手に宿る炎が、彼女の心を溶かし、
命の源を呼び覚ましていたから。
—
彼女の身体は、彼の指の下で震えた。
襦袢が外され、古びた仏堂の灯の中で初めてさらけ出された彼女の体に、
恥じらいや恐れはなかった。
そこにあったのはただ、
「愛する勇気」を得た一人の女としての、真の自己だった。
—
そして──
その瞬間が訪れた。
彼が彼女に入った。
奪うのではなく、
千年待たれた聖殿に、神が還るかのように。
—
「……ああっ!」
—
彼女の目が見開かれる。
痛みが下腹から心臓へと駆け上がり、全身に広がった。
しかしすぐに、奇妙な感覚が襲う。
痛みと熱が交じり合い、誰かが純潔の赤い絹に勝利の詩を書き記しているような感覚だった。
—
「私……裂けたのね……ロン……血が……私の……」
—
「ヴォソン、恐れるな……俺がいる。」
—
「ロン……抜かないで……
お願い、抜かないで……
このまま、あなたを記憶したい……永遠に……」
—
「言わなくてもいい。
俺はお前を──血に刻んだ。」
—
彼女の純白の血は、古い禅の畳に染み込み、
消え残る香の煙と混じり合い、
天と地が交わるような、聖と淫の香りを生んだ。
—
彼らは、九天を舞う龍と鳳凰のように交わった。
彼が深く貫くたびに、彼女は呻き、
痛み、快楽、そして……
「この夜が最後かもしれない」という恐怖に震えた。
—
その夜、彼は彼女を幾度も頂きへと導いた。
彼女は彼の胸に崩れ落ち、
涙を流しながら呟いた。
—
「私の体も、心も……
このお腹の中の血も……
もう全部、あなたのもの。」
—
それは、ひとつの命が芽生えた夜だった。
---
現代、鏡の前。
タン・ヴォソンはそっと瞼を閉じ、
手を腹に置きながら、静かに語りかける。
—
「ねえ……あなたは、ヤン・キュウの子じゃない。
あなたは、痛みと快楽と、勇気の結晶。
私がすべてを賭けた一夜の、唯一の証。
その名は、決して父の名を天下から消させないためにある。」
—
彼女はかすかに笑みを浮かべ、
高く掛かる銀の月を見上げる。
—
「天龍……
あなたが戻ってくるのなら……
あの夜、私の血が禅堂に染みたあの場所──
二人が“言葉なき誓い”を交わしたこと、思い出してくれる?」
—
「それとももう……
あの時私が一度だけ呼んだ名前──
“天龍”ではなく、“ロン”を……
忘れてしまったのかしら。」