46.顔を合わせた
雪がまだらに積もる広場の中央で、数百もの布製のテントが張られ、まるで武林界の縮図のような色鮮やかな迷路を作り出していた。
露天商たちは荷車を引いて騒がしく声を張り上げ、各派の弟子たちはにぎやかに木板を運び、舞台の骨組みを組み立てていた。
温かいお茶、焼き菓子、そして…汗の匂いが入り混じり、活気に満ちつつも、どこか疲労の滲む独特の空気を漂わせている。
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天龍は静かにその中を歩いていた。
手には太い縄を巻いた束を持ち、肩には二本のテント用の杭を担いでいる。
虎皮の衣と、顔の半分を隠す銀の仮面。その姿は一見して神秘的だったが、寡黙な様子がかえって人々の好奇心をかき立て、密かに視線を集めていた。
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「おいおい、あの兄ちゃんすげえ力持ちじゃねえか?」
「外部の者かと思いきや、働き者だな!」
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だが、天龍は一切気に留めない。
韓雲派の弟子たちのために黙々とテント設営を手伝いながら、密かに中央陣営周辺の様子を観察していた。
仮面の奥の目は鋭く、まるで刃のようにあらゆる動きを見逃さなかった。
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その時——
「きゃああああっ!!」
少女の悲鳴が、雑踏の中で突然響いた。
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ドン!
柔らかな身体が、まるで弾かれた球のように天龍の胸元へと飛び込んできた。
肩の杭が地面に落ち、雪が飛び散った。
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「ご、ごめんなさい!前を見てなくて…!」
少女の声は驚きに満ちていたが、鈴の音のように澄んでいた。
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天龍は反射的に手を差し出してその身体を支えた。
小柄で温かい少女の身体が、小刻みに震えている。
その顔が胸元にふれると同時に、沈丁花のようなやさしい香りが鼻先をかすめた。
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少女が顔を上げた。
長いまつ毛が震え、フードの下から覗いたのは、ほんのり赤い唇と、透き通るような白い肌。
そして戸惑いに満ちた、どこか愛らしい眼差し——
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天龍は、その場に凍りついた。
——
少女も、同じように。
——
「えっと…その…だ、大丈夫ですか?」
少女は小さく、猫のような声で尋ねた。
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天龍は静かに手を離し、半歩後ろへ下がった。
「大丈夫だ。こちらこそ、不注意だった。」
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少女は頬を染め、慌ててフードを直しながら言った。
「ほんとに…すみません。急いでいて…」
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天龍は小さくうなずき、特に気にする様子もなく、背を向けて立ち去ろうとした——
だが、その瞬間。
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「姫様、どなたにぶつかったのですか?」
背後から、鋭く低い女の声が響いた。
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天龍は眉をひそめたが、振り返らなかった。
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少女はかすかに答えた。
「…なんでもありません。ただの作業している方です。」
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声の主は曇無双——
濃紫の武服を纏った長身の女護衛で、鋭い眼差しを持ち、まさに“武”の化身のような存在だった。
彼女は天龍の背を睨み、厳しい声で問うた。
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「貴様、どの派の者だ?ここで何をしている?」
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天龍は依然として振り向かず、地面に落ちた杭を拾い上げながら、静かに答えた。
「ただの流浪の者。手伝っているだけだ。」
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風のように軽やかな口調だが、その一言が曇無双の眉をひそめさせた。
彼女は天龍の姿をじっと見つめたが、少女の方はただその背中を見送っていた。
その眼差しには、不思議な疑念の光が宿っていた。
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「参りましょう。」
少女——**趙玉**は、そっと護衛の手を引いた。
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「ですが…」
曇無双はまだ迷っている様子だった。
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「平気よ。」
趙玉は優しく微笑んだが、胸の奥では説明のつかない溜め息が響いていた。
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その時、天龍の姿はすでにテントの陰に消えていた。
彼は気づいていなかった——さきほどぶつかった少女が、今回の大会における、朝廷側の最重要人物の一人であるということに。
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天龍が再び縄を手に取り、テント設営を続けようとしたその時——
背後から、何か異質な気配がすっと近づいてきた。
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軽やかだが迷いのない足音。
それは、か弱き少女のものではない。
武に通じた者の、強く鋭い、圧力を伴う足取りだった。
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「お前…」
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耳元で、女の低く挑発的な声が響いた。
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天龍が顔を少し傾けて見上げると——
ばーん。
目に飛び込んできたのは、否応なしに視界を支配する、雪山のようにどっしりとした双丘だった。
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曇無双。
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彼女は……近すぎた。
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その胸と天龍の顔との距離は、木の葉が湖面に落ちる距離よりも近い。
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冷たい空気の中で漂う温かい肌の匂いは、まるで午後の陽光に包まれた蜂蜜のように甘く、だが同時に重く圧し掛かる。
吊り上がった双眸が、磨かれた鏡のように輝き、彼の内面を見透かすように射抜いていた。
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「お前…」
彼女は言った。
その声には、挑発と揶揄がまじりあっていた。
「…触ってみたいのか?」
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その言葉は、静寂を破る毒矢のように空気を切り裂き、まるで花火が弾けたかのように場の雰囲気を一変させた。
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天龍は眉をぴくりと動かし、目を細めた。
だが、それは動揺からではなく——理解できなかったのだ。
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「…意味が分からない。」
淡々とした声。
その瞳は、冬の湖のように静かだった。
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曇無双は目を細めて笑い、腰に手を当てた。
その動きに合わせて豊満な胸が揺れ、まるで視線を挑発しているかのようだった。
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「ふぅん?じゃあ、さっきの目線は何?一度触れてしまったら……気に入ったんじゃないの?」
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天龍:「……」
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彼は沈黙した。
いや、心の中では完全に戸惑っていた。
幼い頃から、誰にもこんな風に言われたことなどなかった。
まるでお経を唱えている最中に、隣の誰かが異国の恋愛小説を読み出したような感覚だった。
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その瞬間——
「曇無双!」
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凛と響く清らかな叱声。
それは、**趙玉**の声だった。
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彼女は素早く歩み寄り、曇無双の腕を引いてその“危険な”位置から引き離した。
その目は怒りに燃えていたわけではないが、まるで香水に浸した刃のように鋭く、美しく輝いていた。
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「あなた、またふざけて…!ここがどこだと思ってるの?」
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曇無双は笑った。
「ちょっとした冗談だよ、お姫様。ああいう無口で硬い男なんて、からかい甲斐があるじゃないか。」
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趙玉は小さく舌打ちし、声を抑えつつも鋭く言った。
「またそんなことしたら、一週間口きかないからね。」
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曇無双はすぐさま両手を上げて降参のポーズをとった。
「分かった分かった!姫様の命令には従います!そんな罰、心が持たないよ…」
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二人の会話が続く中、三人目の存在はすっかり忘れ去られていた。
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天龍は、縄を握ったまま、まるで石像のようにその場に立ち尽くしていた。
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その時、ひとりの弟子が駆け寄ってきた。
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「兄さん!枠が組み終わりました!あとロープが足りなくて、持ってきてくれませんか!」
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天龍は軽くうなずき、無言でその場を後にした。
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何が起きたのか、彼にはまだよく分かっていなかった。
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だが、一つだけ確かなことがある。
さきほどの三人の間に流れた空気は——
まるで、平穏な市場の空に誰かが突然オレンジ色の卵を投げつけたような奇妙さと、不可思議な美しさがあった。
西に傾く太陽が、柔らかな夕風と共に野営地を優しく撫でる。広々とした空き地には、ほぼ完成した仮設の天幕が並び、木の香りと布の音が静かに響いていた。
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天龍は、年若い弟子たちとともに大きな柱をしっかりと固定していた。そんな折、遠くからどこか聞き覚えのある声が響いた。
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「お前、来い。一手だけ勝負してみろ。」
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顔を上げた天龍の目に映ったのは、どこかからかっているようで、同時に挑むような瞳――つい先日、軽口で彼を困らせたばかりの、あの曾無双であった。
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天龍は、黙って手についた埃を払うと、静かに首を横に振った。
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「興味ない。」
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曾無双は、笑みを浮かべながら大股で近づいてきた。
「興味ないって…勝負に?それとも、私に?」
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天龍の目は、冷たい氷のように無感情。まるで雪山に埋もれた岩石のごとく微動だにしない。
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曾無双は、首をかしげながら、腰をしなやかにひねる。まるで水が流れるような所作だったが、その瞳には夏の炎のような熱が宿っていた。
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「そんなに冷たい態度…余計にそそるわ。」
そう言うと、彼女は手を一拍打ち鳴らし、堂々と空き地の中央に立った。そして、手をひらりと開き、挑戦の構えを見せた。
「たった一手よ。勝ち負けじゃない。ただ、交わすだけでいい。」
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周囲の弟子たちはざわつき始めた。
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「おいおい、また勝負か?」 「曾姉さんだぞ!」 「相手…誰だ?見たことないけど、なんだこの威圧感…」
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天龍は、ため息をつく。まるで「また厄介事が来たな」と言いたげだった。
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彼は無言で空き地の中央へ進み、両手を垂らしながら立ち尽くす。表情はまったく変わらない。
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曾無双は笑いをこぼすと、一歩後退。そして、次の瞬間――風のような速さで飛びかかった。
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しかし、拳や蹴りが来ると思いきや――
すうっ、と天龍に密着。両手は彼の首にまわされ、抱きしめるような形に。
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「気をつけてね…」と彼女は囁く。吐息が耳にかかり、やわらかな二つの果実――熟れたばかりの桃のような胸が、彼の胸板にむぎゅっと押し当てられた。
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天龍は顔をそらし、手を伸ばして防ごうとする。しかし、どこに触れていいのかわからない。前に出れば胸、後ろに下がればさらに密着。真っすぐ防げば…あまりにも際どい位置に触れてしまう。
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「この技、『春華魅魂歩』っていうのよ。」
曾無双は甘く、蜜のような声で笑った。
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天龍は眉をひそめる。
「これは…武術じゃなくて、芝居か?」
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「私はこれを『情の公平な一撃』と呼んでるの。」
そう答えると、彼女はするりと身体をひねり、まるで蛇のようにその腕を天龍の手首に絡ませ、軽く引き寄せて腰を密着させた。
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その様子を見ていた弟子たちは、思わず頬を赤らめてざわめく。
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「なんだこれ…夫婦の舞か?」 「これって…武闘会でやることか?」 「おれもそのスタイルで勝負したい!」
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天龍は軽く身をひねり、するりとその絡みから抜け出した。低い声で言う。
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「本気で戦う気がないなら…俺は行く。」
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その瞬間、場に響く凛とした声。
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「曾無双!そのふざけた真似はもう十分よ!」
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その声の主は、紫の絹衣を風になびかせながら現れた――冷ややかな夜霜のような表情をした、王女・趙玉だった。
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「大武会は目前よ。あなたのような振る舞い、衆目の中では慎むべきだわ。」
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曾無双は、無邪気な瞳をぱちぱちと瞬かせる。
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「ただの技の試しですよ、お姫様。」
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「試す?からかってるの間違いじゃない?」
趙玉は彼女の手首を軽く引いた。
「こんな調子なら、宗門の長老方に会うとき、同行はさせないわよ。」
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曾無双は舌を出して小さく嘆く。
「はいはい…お姫様は嫉妬ね。」
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趙玉は顔を真っ赤にして怒鳴る。
「わ、私は嫉妬なんかしてない!」
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曾無双は笑いながら彼女を引いて場を離れたが、去り際に振り返って天龍にウインクした。
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「次は新しい技を見せるわよ。…その時は、ちゃんと気合い入れておいてね。」
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天龍は空き地の中央に佇み、風が袂を揺らしていた。体は静かに佇んでいるのに、心の中にはわずかな乱れが生じていた。
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それは情でもなく、恋でもなく――
「…これは、武術の範疇なのか?」
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やがて夕陽は山の向こうに沈み、空が琥珀色に染まる頃。広場は次第に静けさを取り戻しつつも、どこか温かさが漂っていた。
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焚き火の煙、煮込みの香り、湯気立つ味噌汁の音、そして笑い声が交わり、江湖の真ん中にある巨大な家族のような温もりが満ちていた。
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天龍は大きな木の根元に静かに座り、白米と野菜炒め、干し魚を乗せた簡素な膳を持っていた。風が袂を揺らす中、仮面の奥の表情はまるで静かな湖のように落ち着いていた。
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彼は一口一口、非常にゆっくりと、丁寧に食べる。まるで米粒一つひとつが記憶であり、噛み締めながら過去を静かに味わっているかのように。
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その遥か向こう。高台のテントの側に、二人の美しい少女が並んで立っていた。
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曾無双は果物を一口かじると、顎に手を置いて言った。
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「ご飯を食べてる姿まで…美しい。あれは…もう、子供産みたくなるレベルよ。」
「もう…彼の下半身と精気がほしくてたまらない。子供産みたい…」
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「けほっ!」と、趙玉は水を噴きそうになって振り向く。
「な、なにを言ってるのよ、あなたは!」
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曾無双はぱちぱちと瞬き、あくまで無邪気に微笑む。
「だって、本当にそう見えるのよ。あの座り方、まるで老松のようにどっしりしてて、手はたくましく、目は深くて…あれは、将来絶対いい父親になるタイプよ。」
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趙玉は顔を真っ赤にして、耳まで赤く染まりながら、小さな声で呟く。
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「無双…そんなこと…私の前で言わないで…」
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曾無双はくすくす笑い、彼女の肩をぽんと叩く。
「でも、本当にそう思ってるだけよ。うちのお姫様は…もうすでに“行動”してるじゃない。」
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趙玉は顔をそらし、小さな声で問い返す。
「…行動って、何のこと…?」
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曾無双は眉をひそめていたずらっぽく笑う。
「今朝のことよ。彼にぶつかったでしょ?ふふ、あれが証拠。」
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趙玉は唇を噛み、手をぎゅっと握ると、しばらく沈黙。腰の紐をいじりながら、まるで心の葛藤を押さえ込むように立ち尽くす。
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そしてやがて、そっとその場を離れると、焚き火をすり抜け、笑い声の中をかいくぐりながら、静かに一人ご飯を食べる彼の背中へと近づいていった。
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天龍は彼女が近づくのを見て顔を上げたが、言葉を発する前に――彼女はすっと隣に座り、そっとベールをずらして小声で話しかけた。
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「今朝…ぶつかってしまって、ごめんなさい。」
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天龍は「気にしないで」と言おうとした、まさにその時――
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ちゅっ。
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彼女の唇が、彼の頬にそっと触れた。
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まるで蜻蛉が水面に触れるような軽やかさ。風も音も追いつかないほど、一瞬の出来事だった。
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趙玉は顔を真っ赤にして背を向ける。心臓の鼓動は、まるで太鼓のように鳴り響いていた。
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「それで…お詫びってことで。ご飯、ゆっくり食べてね。」
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そう言って、彼女は駆け出すように立ち去った。
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天龍は、その場にしばらく座ったままだった。手にはまだ白米の椀。しかし口の中の米は、なぜか甘く感じた。
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風がそっと吹き抜ける。衣の肩には、かすかに残ったジャスミンの香り。
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彼は何も言わず、ただ口元を少しだけ緩めた。
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「…面白くなってきた。」
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