45.大集会が近づいてきた
冬の終わり、冷たい風が天山山脈を吹き抜け、舞い散る薄雪を白い花弁のように巻き上げて、乾いた岩地を静かに覆っていく。灰銀の空には、太陽の光がかすかににじむばかりだったが、南の地平線には一人の人影が、ゆっくりと雪の中に溶け込むように歩んでいた。
その人の名は――天龍。
虎皮の外套を羽織り、顔の半分を隠す黒い仮面をつけ、孤高にして静謐な風格を纏っていた。背に背負った《龍魂剣》が、彼の一歩ごとに微かに震え、まるで未だ顕れぬ殺気を内に秘めているかのようだった。
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「ドンッ…ドンッ…ヘイアッ!」
前方から聞こえてきた気合いと打撃音に、天龍はわずかに目を細めた。視線の先に現れたのは、山腹に広がる平坦な土地。そこでは無数の人々が、テントを張り、旗を掲げ、焚き火を起こし、商品を並べていた。呼び売りの声と人々のざわめきが入り混じり、まるで武林の只中に突如現れた大規模な市場のような活気に満ちていた。
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「騒がしいな…」
天龍が低く呟きながら、冷ややかな視線を各所の看板に向けた。
「太清武道 ― 中央陣営」
「風雲幇 ― 選手区」
「玉女派 ― 医療休憩所」……
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ふと、彼の目が石畳の一角で止まった。そこでは百人以上の少林寺の弟子たちが、急ぎながら巨大な観覧台を組み立てていた。そして、その中央に立つのは、一人の老僧。丸い頭に金色の法衣、数珠を指で繰りながら、寒風の中でも静かに経文を唱えていた。
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天龍はその方へ歩み寄り、温かみのある低音ながらも芯のある声で語りかけた。
—「御大師よ、お騒がせします。…この場所、近日中に開かれる《英雄大会》の準備と見てよろしいでしょうか?」
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老僧は顔を上げ、剣を背負い雪中に立つ黒衣の男を見つめた。井戸の底のように深い瞳に、一瞬驚きの光が浮かび、それから合掌して礼を返した。
—「阿弥陀仏。施主の見立て通り、ここは本年度の大会における主舞台。開幕は、あと一週間後に控えております。」
—
天龍は辺りを見渡し、わずかに眉を寄せた。
—「だが…まだ始まってもいないのに、これだけの人数が集まっているのか?」
—
老僧は目元に笑みを浮かべ、深く刻まれた皺がさらに際立った。
—「施主はまだご存じないようですね。この乱世の世にあって、武林の英雄が一堂に会す場など、まるで嵐夜の灯台の如し。誰もが一刻も早く駆けつけ、席を確保し、敵を探り、味方を見極め、さらには…刺客を忍ばせるのです。」
—
声を潜め、老僧はまるで雪にも聞かれぬように身を傾け、囁いた。
—「ここに集まる者たちの目的は、栄光だけではありません。それぞれの陣営、それぞれの旗印の裏には――野望と謀略が渦巻いている。」
—
天龍は静かに笑みを漏らした。
—「御言葉、あまりに率直ですな。」
—
—「拙僧は、偽る術を持ちません。今の武林は、かつてのような清き時代ではござらん。表向きの決闘など、ほんの氷山の一角。…その下に潜むものは、施主も察しておられよう。」
—
天龍は頷いた。冬の湖面のような冷ややかさを宿す眼差しで、静かに言った。
—「それならば…ますます面白くなりそうだ。」
—
合掌して一礼し、彼はその場を去ろうとした。背後には再び読経の声が風に混じり、数千の足音が鳴り響く中、大地を揺るがす激動の予兆が感じられた。
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だがその背に、老僧の慈悲深くも重みある声が再び届いた。
—「施主、少しお待ちを。」
—
天龍は半身だけを振り返り、銀の仮面の下から深い漆黒の瞳がのぞいた。老僧は軽く頷き、合掌の手を向けて語りかけた。
—「もし大会に興味がおありなら、拙僧から少し事情をご説明いたしましょう。何と言っても…施主の風格、尋常ならざるものを感じますゆえ。」
—
天龍は口元に微笑みを浮かべ、再び歩を戻す。その動きに呼応して、虎皮の外套の裾が風に揺れ、雪面を掠めた。
—「耳を傾ける価値がありそうだ。」
—
老僧は手で彼を招き、道端の大きな岩の傍へと導いた。喧噪と緊張が入り混じるこの場にあって、彼ら二人の間には重々しい静けさが広がっていた。
—「今回の大会は、我ら少林を含め、六大門派が共同で主催するものです。それぞれの宗派が代表三名を選出し、正式な戦に臨む予定でございます。それとは別に、俗世の武人や、門外の勢力からの参加者も、事前選抜にて受け入れる仕組みとなっております。」
—
—「大会前には三つの予選があり、そこを勝ち抜いた者だけが本戦の名簿に名を連ねられるのです。施主もご希望であれば、試合区域にて腕試しをなさってみては?」
—
天龍は眉をひそめた。
—「三戦に勝てば名が刻まれる…それだけか?」
—
老僧は微笑し、首を軽く横に振った。
—「三戦とは言え、それを挑む者が三人だけとは限りませぬ。一戦ごとが命懸け。もし施主が実力をお試しになりたいのなら、この場にいる少林の弟子たちを相手に、拙僧がお見立ていたしましょう。」
—
天龍は遠くで木材を運ぶ弟子たちに視線を送った。その動きに乱れなく、呼吸に乱れもない。背筋もぴんと張っており、鍛錬の深さが窺えた。
—「ほう。さて、誰がその役目を果たせるかな?」
—
老僧は頷き、呼びかけた。
—「慧明、慧厳!」
—
材木を運んでいた二人の若者が即座に荷を降ろし、前に進み出た。二人とも二十歳前後、引き締まった体躯と澄んだ眼差しを持ち、息遣いは静かで力強い。まさに正統たる少林の弟子であった。
—「はい、師父!」
—
老僧は天龍に向き直る。
—「こちらの二人は拙僧の高弟にして、一人は『護法拳』、一人は『金剛棍』を極めし者。もし施主がお望みなら、どちらかと手合わせ願いたい。大会前の火入れとして。」
—
天龍はすぐには答えなかった。一歩前へと出て、静かに二人を見比べた。そして、無言のまま左手を《龍魂剣》の柄に添え、すぐにそれを離した。言葉なき挑戦の印。
—
弟子たちはそれを見て同時に半歩退き、選ばれる瞬間を待った。
老僧は内心で感嘆した。
「山の如き威圧感を放ちながらも、見せびらかさぬ。…只者ではない。」
—
やがて、天龍が低く呟いた。
—「二人まとめてで構わぬ。選ぶのは性に合わん。」
—
老僧の目に一瞬驚きの色が走るも、すぐに微笑を返した。
—「承知しました。ですがどうか、手加減をお願いいたします。まだ若輩者ゆえ。」
—
天龍は小さく頷き、二人の弟子をまっすぐに見つめた。
—「かかってこい。三手で済む。」
—
弟子たちは目を見交わし、気合いの声を上げた。
—「失礼いたします!」
—
一人は身を翻して棍を振るい、風を切って雪を裂いた。もう一人は連打の拳で突進し、地を踏むごとに雪煙が舞った。
—
しかし、天龍はただ左足をわずかに動かしただけで、その身は一瞬にして二人の背後へと流れるように移動し、右手の指先でそれぞれの背に軽く触れた。
—「一。」
—
二人はその場で動きを止めた。腕が痺れ、力が抜け、棍は落ち、拳は風に任せて崩れた。
—
老僧は驚愕に目を見張り、数珠が一連、手から滑り落ちた。彼の瞳は、先程よりもはるかに深い光を湛えていた。
—
天龍は涼やかに背を向け、何事もなかったかのように歩き出した。
—「終わった。三手…少し多すぎたな。」
二人の少林の弟子が雪の上に膝をついた。顔にはまだ驚きと動揺が残っていた。一人は地面に手をつき、歯を食いしばって立ち上がる。その目には、尊敬の色が満ちていた。もう一人は痺れた肩を押さえながら、怒りではなく、隠しきれぬ衝撃を目に浮かべていた。
—
一人が大声で言った。
――「御仁の招式は幻のよう、身法は夢のごとし……我ら、心服致しました!」
—
もう一人が続ける。声は朝の鐘のように低く響いた。
――「我ら二人、法に則って技を繰り出し、連携も完璧であった。だが、それでも御仁の動きは見えなかった……これはただの高い武功ではなく、一つの境地だ。」
—
二人は同時に手を合わせ、天龍に向かって深く一礼した。
――「御教示、誠に感謝致します!」
—
その言葉が終わると、訓練場全体が一瞬静まり返った。武者たち、通りすがりの者、他の門派の弟子たちまでもが中央の場に注目した。はっきりと見えなかった者も、ただ一人の若者が虎皮の上衣を羽織り、瞬きの間に少林の名高い弟子を三手で退けたことだけは知っていた。
—
一人の老僧がゆっくりと歩み寄り、弟子二人に頷いて賞賛を示し、天龍に向かって、朝の鐘のように深く響く声で語った。
――「御仁の手加減は見事。気脈を調整する要穴を正確に突きながらも、一切の傷を与えず、しかも相手の心を服させる……その寛大さと修為、尋常ではありません。」
—
老僧は少し間を置き、眼差しに明確な勧誘の光を帯びさせて続けた。
――「もし御仁が未だ門派に属しておらぬなら、貧僧はこの武林大会で各門派の掌門に御仁を推薦したく思います。御仁のような者が大会に出れば、きっと武林の注目の的となりましょう。」
—
天龍は黙して立っていた。風が頭上を吹き抜け、虎皮の裾がふわりと揺れる。彼の視線は誰にも向けられず、ただ遠く、建設中の武台を静かに見つめていた。
—
――「注目の的……か。ふむ、それも面白そうだな。」
—
口元がわずかに持ち上がる。その微笑は傲慢とも、あるいは生まれ持った静かなものとも取れた。
—
――「俺はどの門派にも属さない。だが、もし参加するのなら……その理由に値する何かを、俺に見せてくれ。」
—
老僧はその言葉に怒るでもなく、落胆するでもなかった。ただ静かに合掌し、頭を垂れた。
――「南無阿弥陀仏。仰る通りです。己の道理を見い出した時こそ、武林の者は真に全身全霊で拳を振るうのでしょう。」
—
若き武生が横から口を挟まずにはいられなかった。
――「でも……この前輩の実力であれば、武林の覇者になりたくはないのですか?」
—
その問いは実に素直なもので、その場の者たちの関心を集め、多くの目が天龍へと向けられた。
—
天龍はふと笑った。その笑みは風のように軽く、だが内に秘めたる火のようでもあった。
――「覇者か?……山が己の高さを知っていれば、他の山の頂に立つ必要はない。」
—
その一言が、水面に石を投じたように、人々の心に波紋を生んだ。
—
老僧はそっと頭を振り、深く微笑みを浮かべた。
――「御仁……まことに道を持つ者よ。」
—
天龍は老僧を見やり、未完成の武台に一瞥をくれた後、ゆっくりと背を向けた。
――「俺は戻ってくる……その時、拳を振るうに値するものがあればな。」
—
そして、彼は来た時と同じように静かに歩き去った。誰もその歩みを止めることはなかった。彼の姿は、静かに舞う雪の帳の中に溶けていった。
—
白い雪が、地面に斜めに突き刺さった二本の棍に積もっていく。それは、短くも衝撃的な一戦の証であった。
—
雪はさらに激しく降り始めた。白く柔らかな雪が肩に、髪に降り積もる。少林の弟子たちは忙しなく足場を組み、板を運び、鉄枠を組み上げていた。その中に、一つの人影が突然戻ってきた――見慣れた歩き方、虎皮の上衣が舞い、百戦を超えたような確かな足取り。
—
天龍が、戻ってきた。
—
老僧は目を細め、やや驚いたように合掌して問うた。
――「御仁……何かお尋ねですか?」
—
天龍は周囲を一望し、普段は冷ややかなその目が、今はどこか沈んだ色を帯びていた。彼は静かに口を開いた。
――「大師よ。もしご迷惑でなければ……しばらくここに滞在させて頂きたい。」
—
老僧は意外そうに目を見張った。
――「南無阿弥陀仏……滞在、ですか?」
—
天龍はためらいなく頷いた。
――「大会は目前。皆、準備で忙しいだろう。人手も足りぬ。俺は門派に属さぬ身だが、少しでも力になれれば、それは道理に背くことではないはず。」
—
そう言いながら、よろける武生の手から重い板を受け取り、軽々と所定の場所に収める。その動きは無駄がなく、落ち着いていて、周囲の人々の敬意を引き出した。
—
髪の薄い小さな沙弥が慌てて頭を下げた。
――「ありがとう、お兄さん!」
—
老僧はその光景を見て、胸に温かい感情が湧き上がった。深く頭を下げ、重々しく言った。
――「そのような御心、千金にも勝る。この大会は武林のため、大義のため。志ある者は、たとえ門外漢であろうと、尊ばれるべきです。」
—
天龍は何も言わなかった。ただ黙って材木置き場へと歩き出し、木を運び、杭を打ち、板を貼った。その手は、かつて百の敵を倒したが、今は武林の祭典の礎を築いていた。
—
山の風が静かに吹き、雪が白い花のように空を舞った。
—
周囲の武生たちは、最初こそ疑いの目を向けていたが、やがて天龍と息を合わせるようになった。ロープを運ぶ者、水を運ぶ者、骨組みを建てる者――そこにはもはや門派や地位の区別などなかった。
—
白雪の冷気の中、木槌の音、笑い声、活気に満ちた音が響く中で、天龍はふと笑った。
――「悪くない……嵐の前の、わずかな静けさ……」
—
だが、その瞳の奥では、一筋の冷たい光が静かに瞬いていた。彼は分かっていた。この静寂は、序章にすぎないことを。
大会が始まれば、すべてが変わるのだと。
—
彼の手は、背の龍魂剣の柄をしっかりと握った。
—
遠くの幕舎の中では、強者たちが集まり始めていた。抜かれようとする剣。決着を待つ因縁。そして、武林の中心にて、嵐は密かに動き出していた――。
—
彼の手は、再び龍魂剣の柄を握る。
—
その時、天龍が大きな梁を担ぎ、身を屈めた瞬間――
大きな幕舎の後方から、風のような身影が一閃した。
「きゃっ!」
—
軽い衝突。
—
天龍が顔を上げた。目の前には、見知らぬ少女。濃い紫の薄いマントを纏い、長い黒髪が風に揺れる。フードが風にずれ、顔の半分があらわになった。
彼女は彼と目が合った瞬間、一瞬だけ動きを止めた。そして、何事もなかったように静かに身を翻し、人混みに紛れて姿を消した。
—
天龍は雪の中、じっと立ち尽くした。
その目が、わずかに細められた。
—
……一筋の、異様な気息。
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