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43.竜帝が姿を現し、少年と姫がそこにいた。

天地は荒れ果て、雪は氷の毛布のごとく人の息吹を覆い隠していた。


灰色の石畳に点々と血が滲む広場。その霧けぶる早朝の淡い光の中、孤高の人影がただ一人、厳然と佇んでいた。まるで冬空を支える柱のように。


もはや誰一人として前へ出ようとする者はいなかった。数百の兵が凍える大地にうずくまり、鎧は砕け、槍は折れ、まるで神の怒りに呑まれた戦場の墓場のようだ。だが、奇妙なことに――誰も死んではいない。ただ、全員が廃人の如く手足は砕け、血流は乱れ、内臓を貫かれたかのようでありながら、鮮血すら見当たらない。


それは、そこに立つ者が――天龍だったからだ。


虎皮の外套には霜雪がまとわりつき、半分は漆黒、半分は龍の紋様を宿した仮面が雪の光を浴びて金色に淡く輝く。風が吹くたびに、彼のマントはひらりと舞い、まるで竜の鱗が嵐の中で震えているかのよう。


彼は立っていた。傲然と、冷ややかに。片手は背中の龍魂剣の柄を軽く握り、もう一方の手には――湯気を立てる肉まんが握られていた。


彼はひと口、静かにかじる。そして血と雪に覆われた広場を一瞥し、まぶたをわずかに伏せて、唇の端を僅かに上げる。


> 「百四十二人――たった十二手。弱すぎる。」




その声は柔らかくも、まるで万丈の深淵から響くかのように、広場全体に鳴り渡った。誰も答えられず、誰も息すらまともに吐けない。ただ風の唸りと、彼の口中で潰れる肉まんの音だけが響く。


肉まんを食べるその瞬間でさえ、彼の放つ威圧は人をして正視を許さなかった。


血に染まった老兵が一人、胸を押さえながら這うように近づく。その声は掠れ、弱々しかった。


> 「お前は…一体、何という怪物だ…」




天龍は振り返らなかった。答えもしなかった。ただ静かに歩き出す。布の靴が雪を踏みしめ、ざくりざくりと不気味な音を立てる。一歩ごとに、彼の周囲の空気が裂けるかのような異様な圧が広がる。それは気功でも内力でもない、凡人の限界を超えた者だけが持つ生と死の威圧感だった。


一人の将校が道を塞ごうと飛び出した。だが、わずか一歩踏み出した瞬間、天地が傾いたように感じた。天龍の視線が走る――それは目ではなく、刃のような意志。たったそれだけで、将校は心を突き刺され、その場に崩れ落ちた。打たれたわけでもないのに、気絶していた。



---


雪に覆われた丘の上。


白馬に跨る二人の少女が、静かにその場を見下ろしていた。


一人は純白の毛皮を纏い、顔を覆う薄布が風に揺れている。瞳は雪を映した秋水のように澄み渡り――彼女こそ、現王朝の第二皇女・趙玉。恐れを知らぬ高貴な姫であったはずの彼女は、今、胸の鼓動が自らの意思を超えて速まっていることに気づいた。


その傍らに立つのは、別の若き女性。鋭く冷ややかな眼差し、しなやかな肢体はまるで雪豹。泰清武道の弟子にして、百年に一人の才女と謳われる曽無双である。


趙玉は手綱を握りしめ、目を逸らすことなく彼を見つめながら、声を震わせてつぶやく。


> 「あの人…一瞬で百人以上を…人か、神か…無双師妹よ…」




曽無双は即答せず、静かに目を閉じた。戦場の余韻に残る気の流れを感じ取ろうとする。


そして感じたのは――名もなき力。まるで拳意が魂の形を成し、龍となって天地の呼吸の合間を蠢くような…


曽無双は目を開けた。その瞳には、かつてない重みが宿っていた。


> 「あれは…人ではない。近頃、江湖で密かに語られる禁名――龍帝。おそらく、奴だ。」




趙玉は小さく震えた。


彼女もその名を耳にしたことがある。門派も師も持たぬ謎の存在。現れた場所ではすべてが伝説に変わる。影に潜み、嵐のように駆ける、誰も正面から対峙しようとしない生ける伝説。


彼女は唇を噛みしめ、心に満ちる数多の感情を言葉にできず、ただ見つめ続けた。雪の彼方へと遠ざかる少年の姿を。


その胸には、彼女自身も認めたくない感情が芽吹いていた――敬慕、畏怖、そして…知りたいという渇望。



---


> 「あの者ならば…この天下すら揺るがせよう。

もしこの世界が変わるなら――私は、この目でそれを見届けたい。」

雪はまだ降り続いていた。しかし、その瞬間——雪片ひとつひとつが、まるで空中で凍りついたかのように、時を止めた。


なぜなら……あの人が近づいてきたからだ。


馬の蹄の音が遠くから響く。だが、それは姫やその妹弟子の方角ではなく、丘の斜面の下から聞こえてくる。その場所から、虎模様の衣をまとった一人の影が、あたかもこの世に立ち塞がるものなど存在しないかのように、悠然と歩いてきた。


彼の歩みごとに、雪上に深い足跡が刻まれる。しかし、その足跡の周囲の雪はすぐに溶けてゆく——まるで彼の体内には、寒気すら焼き尽くす隠された真炎が宿っているかのように。


斜面を斜めに横切りながら進むその瞬間、彼の仮面の奥の冷たい視線が、偶然にも——白馬の上に立つ姫、秋の湖のように澄んだ瞳を持つ趙玉の目と、交差した。


ほんの一瞬。


ただの一瞥——


だが、その刹那、世界は息を止めたかのようだった。



---


「…あの瞬間のことを、私は今でもはっきりと覚えている。」

それは後のことであるが、趙玉の心に深く刻まれた。


絹と礼節、皇族の威厳と数多の崇拝のまなざしに包まれてきた彼女の心は——

その一刹那、ひとりきりの孤独の中で、脆くも砕け散ったのだった。


あの眼差しは…


血に飢えた狂人のものではない。

冷酷な刺客でも、傲慢な覇者のものでもない。


——それは、生き返った者の眼だった。

死の淵に立ち、絶望と孤独を味わい、自らの「弱き我」を葬り去り、大地と空の間に真の帝王として立ち上がった者の眼差しだった。



---


「彼は……誰なの?」

趙玉は心の中で呟く。だが、その瞬間、全身があの視線に見透かされているような錯覚に襲われた。


見られているのは、肉体ではない——

魂、渇望、そして王女の胸奥深くに隠された、誰にも知られぬ夢と願いだった。



---


傍らで、曾無双そう・むそうが眉をひそめた。彼女もまた、その異様な圧を感じ取っていたが、歯を食いしばって気を保とうとしていた。


「趙玉、彼の目を見つめすぎてはダメ!」

曾無双は厳しい声で警告した。

「彼の武功は尋常ではない……眼差し一つで他人の精神を制圧できる、妖しき神念術を修めている可能性がある!」


趙玉は我に返って視線を逸らしたが……もう遅かった。


熱いものが背筋を這い、心の奥まで一気に駆け抜けた。

それは内力でも幻術でもない——

ただ一つ、これまで「ときめき」という言葉すら知らなかった姫の心を、静かに揺り動かす「感情」だった。



---


その時、下方で歩いていた天龍てんりゅうが、ふと足を止めた。


彼は何も言わず、

ただ静かに首をかしげ、冷ややかな光をその瞳に宿す。


次の瞬間、彼の足元がわずかに沈んだかと思うと——

その身は黒煙のように宙を舞い、まるで鷹が雲を裂くように、二人の少女の頭上をかすめて飛び去った。


天空踏雲歩てんくうとううんほ…!」

曾無双は目を見開き、つぶやいた。

「それは……太古の書にしか記されていなかった、失われし仙剣時代の武術!」



---


空が破れたかのように、虎衣の身影が雷光のごとく駆け抜ける。


黒髪が背後に舞い散り、その一本一本がまるで天下を象徴するかのように風にたなびいた。

孤高なる影、一瞥の冷たさ、この世に属さぬ身法——


趙玉の目は、ひとときたりとも離れなかった。

その一瞬で、彼女は見たのだ。


嵐の姿を、少年の姿に秘めた存在を——

それは、天下すら飲み込む嵐だった。



---


天龍が丘の背後へと降り立ち、舞い上がった雪の粉だけが名残を残す中、趙玉はまだ我に返れずにいた。


彼女の手は無意識に手綱を握りしめ、胸の鼓動は止まらなかった。


「彼こそ……運命…」

自分がいつそう呟いたのかさえ、彼女にはわからなかった。


曾無双は横目で姉を見つめた。


その瞳には疑念が宿っていたが——

それと同時に、言葉にはできぬ共鳴の光も、ほのかに揺らめいていた。



---


遥か彼方、天龍の影が霧の中に消えていく。


風が岩の狭間を吹き抜け、

再び世界は静寂に包まれた。


だが、人の心までは、もう……元の静けさには戻れなかった。

雪はさらに激しく降り積もっていた。


風は唸り声を上げ、まるで天地そのものが、何か恐ろしい出来事の前兆を告げているかのようだった。


白銀に包まれた果てしなき高原。その中に佇む二人の少女の姿は、まるで憂いを帯びた油絵のように浮かび上がっていた。

趙玉チョウ・ギョクは、あの不思議な少年のまなざしからまだ心を取り戻せずにいた。

胸の奥には、名も知らぬ、騒めきが生まれていた。


曾無双ソウ・ムソウが何かを言いかけたその時——


「ビュン!」


耳元を裂くような鋭い風切り音が響いた。



---


「気をつけて!」

曾無双が叫びながら、瞬時に身を躍らせ、趙玉の前に立ちはだかろうとした。


だが——


その動きよりも速く、黒い影が空を斬り、上空から一筋の雷のごとく舞い降りてきた。


毒矢だった!


三尺近い長さの矢。黒鉄の矢尻が恐ろしい速さで空を裂き、趙玉の胸を貫かんと迫っていた!



---


> 「もう間に合わない…!」

趙玉は呆然としながら、ただそう思った。




しかし——


「カシッ」


幻のように、彼女の前に一つの手が現れた。


大きく、逞しく、それでいて温かさを帯びた掌だった。


その二本の指が、矢を宙で完全に受け止めていた。


折れたのではない。止まったのだ。

まるでその矢の力が、最初から存在しなかったかのように。



---


天龍テンリュウが戻ってきた。


矢が放たれた瞬間、彼は虚空の中に潜む殺気を感じ取り、すぐさま《天空踏雲歩てんくうとううんほ》を発動し、風を裂いて舞い戻ったのだ。

そして、宙に舞う矢を掴み取り、片手をそっと趙玉の腰へ添えた。


> 「後ろに気をつけろ、姫君。」

その声は低く、風のように優しく、だが聴いた者の魂を深く震わせる力があった。





---


趙玉の目は大きく見開かれ、息をするのも忘れるほどだった。


彼の腕の中に、自分の身体がすっぽりと収まっている。

逞しい胸板、近づく呼吸、松の香と雪の冷たさが混じったような匂い。

その手のひらに包まれて、彼女の全身が震えた。それは恐怖ではなく…名もなき想いの震えだった。


> 「あなたが……天龍なの?」

思わず、彼女の唇からその言葉がこぼれた。




彼はすぐには答えなかった。


ただ静かに彼女を見つめて——

銀色の仮面の奥から、冷たい眼差しを送りながらも、口元にはわずかに笑みが浮かんだ。


> 「名などどうでもいい。大切なのは——君がまだ生きているということだ。」





---


その瞬間——


「ビュビュビュッ!」


木立の中から、再び一斉に矢の雨が放たれた!


十二本の矢が陣形を組み、流星のごとく三人に襲いかかってくる——

趙玉、曾無双、そして天龍自身にも!



---


> 「暗器だ!」

曾無双が叫び、両掌を回しながら、《玉女天心掌ぎょくじょてんしんしょう》を発動した。

蓮の花のような掌力が彼女の周囲を守る結界となった。




天龍は——


ただ、眉をひそめただけ。


彼は《虚空震天勁こくうしんてんけい》を発動。

片手で趙玉を支えたまま、もう片方の手を、蝶を放つかのように柔らかく差し出した。


> 「やぶれ。」

そう一言だけ呟いた。





---


風が爆ぜるような気流が巻き起こった!


掌から放たれた無形の衝撃波が爆発的に広がり——

十二本の矢はすべて空中で震え、そしてあり得ぬ軌道で逆戻りしていった!



---


「ぎゃああっ!」


木立の奥から、断末魔の叫びが響いた。


黒衣の刺客たちが、自らの暗器に貫かれ、血飛沫を上げながら次々と地に倒れた。



---


天龍は動かない。


趙玉は、まだ彼の腕の中にいた。


風がその衣を翻し、肩に降る雪は虎柄の外套に静かに溶けていく——

それはまるで、英雄の伝説が今ここに、血と魂で刻まれているようだった。



---


> 「あなたは……いったい何者なの……?」

趙玉は再び心の中で問うた。

だが、今回は好奇心からではない。




彼女は——

本当に、知りたいと願っていた。


風雪は、なお止まず。


だが、白く霞む空の下──

かつて空中の矢を指先で受け止めた、あの銀の仮面の男が、

虎皮の外套を翻し、無言のまま背を向けて去ってゆく。


彼が残したのは、雪の上のただ一つの足跡だけだった。



---


趙玉ちょうぎょくは、胸に手を当てて立ち尽くす。


彼の胸板に抱かれた時の感触、冷静沈着な瞳の奥の静けさ、

そして──あの短い言葉が、今も脳裏に鮮明に残っていた。


> 「大切なのは……お前がまだ生きているということだ。」




たった一言で、心の奥底まで突き動かされた。

これまで誰も、彼女を壊れやすい存在として見たことはなかった。

誰もが「姫」として、政の駒としてしか扱わなかった。

だが、彼だけは──彼女を“ひとりの人間”として見ていた。



---


> 「あんな人に……会ったことがない……」

趙玉は呟いた。視線は、風に舞うように彼の背中を追っていた。





---


その隣に立つ曾無双そう・むそうは、言葉を発さなかった。

彼女の視線もまた、彼が去っていった方角を向いていたが──

そこには趙玉とは異なる、静かな深淵が宿っていた。


そこには、理解と、そして一抹の諦めがあった。


名門・玉女派の優秀な弟子として、幼い頃から

感情を律し、「仁・義・利・情」を見極める術を教わってきた。

だが──彼が現れたあの一瞬で、すべてが揺らいだ。



---


> 「彼は強く、潔く、感情を見せずとも……すべてを守っていた。」

「誉れも感謝も求めない。彼はただ……風のように、行く。」





---


曾無双は、そっと目を閉じた。


共に幼少期を過ごし、桂花の菓子を分け合い、

武術の修行を隠れて行っていた趙玉の姿が、脳裏に浮かんだ。



---


> 「貴女が……好きになったのは、彼かもしれないね」

彼女は静かに、まるで独り言のように呟いた。




趙玉ははっとして、彼女の方へ向き直る。

その瞬間、言葉は交わされなかった──

だが、ふたりの視線が交わったとき、互いの心はすべてを理解していた。



---


> 「無双姉さん……」

趙玉の声は、かすかに震えていた。




曾無双は春の雨のように穏やかに微笑み、こう言った:


> 「あなたは姫。私よりも……彼の世界に近い人。

 私はただの、江湖を渡る女。彼のそばに立つ縁は……ない。」





---


趙玉は唇を噛みしめた。

胸の奥が、締めつけられるように痛んだ。


> 「違う……私は誰かを奪いたいんじゃない。

 ただ……あの人に抱かれた時、時間が止まってほしいと思ったの……」




その声は、まるで罪を告白するように小さくなっていった。



---


ふたりは、静かに立ち尽くしていた。


雪は、絹のように静かに降り続く。


果てしなく広がる白銀の山野には、

ただ一筋──仮面の少年の足跡だけが北へと伸びていた。

そこは、龍帝りゅうていの伝説が囁かれ始めた地──



---


曾無双の心の内にあった何かが、

静かに、雪のように溶けて消えていく。


掌の上に舞い降りた雪が、肌に溶け込むように。


彼女は背を向け、ゆっくりと口を開いた:


> 「行きなさい。

 もし、彼の世界に入れる機会があるのなら──迷わず進みなさい。

 私は……その背中を、ずっと守っているから。」





---


趙玉の頬を、冷たい風に赤らんだ涙が伝う。


彼女は駆け寄って、無双を抱きしめた:


> 「お姉ちゃん……バカだよ……」




> 「姉というものは……少しだけバカでなければならないの」

無双は微笑んだ。けれど、その声はどこか震えていた。





---


遠く──


雪に霞む森の彼方で、

天龍てんりゅうは一瞬だけ足を止めた。


そして丘の上、淡く白い二つの影を見つめる。


風が仮面の隙間をすり抜け、彼の呟きを運んだ:


> 「情というものは……もっとも脆く、もっとも抗いがたいものだな……」




そう言って彼は再び、風の中を歩き出す。


ただひとり、雪の人世を往く──孤高の龍帝。


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