41.再び現れたあの日の月の下で
旧い宿を出たあと、天龍は一度も振り返らなかった。
月光は古びた石畳の道を一面に照らし、まるで銀の絹が西の町外れへと導いているようだった。
夜風が冷たく彼の長い髪を揺らし、虎革の外套の裾が一歩ごとにひらめいた。
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「物語はまだ始まっていない……ならば、俺が戻ったことなど、世に知られるべきではない。」
彼はそう独りごちた。
その瞳は、月の下で静まり返った湖のように、深く、揺るぎなかった。
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新たな宿は、街の喧騒から遠く離れた竹林の脇にひっそりと佇んでいた。
雨風に晒された木製の看板には、かろうじて“草庵宿”の文字が滲んで残っているだけ。
天龍が中へ足を踏み入れると、威風堂々としたその姿に、小さな広間は一瞬で静まり返った。
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宿の主人――小柄で痩せこけ、目ばかりがぎょろつく老人が顔を上げ、天龍の姿を見た途端、びくりと震え、慌てて頭を下げた。
「お、お客様……ご所望は何でございますか?」
天龍は卓に銀の延べ棒を一つ置き、淡々と告げた。
「一人部屋。静かなところを頼む。誰にも邪魔されたくない。」
「は、はいっ。すぐにご案内いたします。」
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部屋は二階の廊下の一番奥。広くはないが、竹の寝台と小さな机、水桶一つが置かれているだけの簡素な造りだった。
扉を閉めると、天龍はふうと静かに息を吐いた。
山野を寝床にすることに慣れていても、この場所にはどこか奇妙な安らぎがあった。
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龍魂剣を寝台の脇に置き、外套を脱ぐと、壁に掛けられた小さな銅鏡の前に立つ。
窓から差し込む淡い月光の中、彼は己の顔を見つめた。
冷たい瞳、風雪に鍛えられた肌、
そして長年の修練が彫り込んだような鋭い輪郭――今の彼には、昔の柔和な面影など一切なかった。
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うっすらと顎を覆う無精髭が、彼に漂泊の色気と危うさを添えていた。
「……いつまでも素顔でいるわけにはいかぬな。」
彼は低く呟き、荷を開いて剃刀を取り出す。
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一刃ごとに、まるで剣を振るうような精密さ。
その鋭さは、風すら切り裂くかのようだった。
髭はたちまち剃り落とされ、その下からは白く滑らかで、不思議なほど無傷の肌が現れる。
死地を何度もくぐり抜けた侠客とは思えぬほどに。
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剃り終えると、彼は鏡の中の自分に向かって、口元をほんの僅かに歪めた。
「――生きている限り、戦わねばならぬ。」
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彼は布を一枚羽織り、風呂場を探して階下へ向かう。
古びた宿にもかかわらず、裏手には露天の温泉があった。
竹に囲まれたその湯舟には月光が差し込み、水面はまるで銀の鱗のようにきらめいていた。
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湯に身を沈めると、熱い水が体を優しく包み込む。
凝り固まった筋肉がほぐれ、心まで緩んでいくようだった。
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「三年……何度、命を落としかけたことか。
それなのに、今こうして安らぎを感じているとは……」
彼は思わず目を閉じ、湯の中に身を預けた。
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と、不意に体内の気が、呼吸に合わせて蠢き始める。
まるで眠っていた龍が目を覚ましたように、
荒々しい原気が全身を巡り始めた。
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ドンッ!
地が微かに揺れた。
湯舟の縁を囲む石がひび割れ、見えない波動が周囲に放たれる。
すぐ近くの部屋からは、軋む音と小さな叫び声が聞こえてきた。
「地震か!?」 「何事だ!?」
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天龍は目を見開き、すぐに正気を取り戻す。
「……いかん、油断は禁物。」
彼は瞬時に《最上不滅心法》を起動し、気を丹田へと沈めた。
たちまち暴れる真気は静まり、水面も再び穏やかになる。
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「……ただの一呼吸すら、世を揺るがす――か。」
彼は冷たく笑い、瞳に一閃の寒光が走った。
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風呂を出ると、部屋へ戻り、窓をしっかり閉める。
だがその夜、彼は眠れなかった。
外の月が、まるで何かを語りかけてくるように輝いている。
天龍は音もなく窓を開け、ひと蹴りで屋根の上に舞い上がった。
まるで風に乗った葉のように軽やかだった。
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風が彼の髪と衣を翻す。
彼は静かに座り込み、星が瞬く夜空を仰ぎ見る。
「この三年で……この世はどれほど変わったのか。」
「そして俺には、まだ居場所が残っているのか……?」
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懐から一片の虎革を取り出す。
手元の油灯がわずかに照らす中、彼は慎重に、魂を込めるようにしてその革を削り始めた。
一刀ごとに、意志が刻まれてゆく。
そして仮面は形を成していく――
片側は完全なる闇、もう一方は、うねる龍の紋が命を持つかのように踊っていた。
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ついに完成した仮面を、彼は月光にかざし、静かに呟いた。
「今より、江湖に“天龍”の名はない。
俺は――“龍帝”とならん。」
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夜風が唸る。屋根瓦がかすかに軋む。
遠く町の端で、ふいに炎が立ち上る――
それは災厄の前触れだった。
だが、彼は微動だにせず、ただ月を見つめ続けた。
「……待っていろ。もう十分、待たせたな。」
夜の風はまだ肌寒く、天龍は衣を替え、淡い茶色の粗布の上着を軽く羽織り、狼の革紐で腰を締めた。その姿はまるで長い旅を終えて戻った貧しい旅人のようでありながら、彼の一歩一歩、ひとつひとつの眼差しには、人の目を逸らさせぬ不思議な威圧があった。
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腹の中から小さな音が鳴った。
「……お粥か」彼は独り言のように呟いた。「俗世の味、久しく口にしておらぬな」
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町の中心へと続く細い土道には、霧の中にぼんやりと油灯が揺れ、数軒の夜粥屋が並んでいた。湖のほとりにひっそりと佇む小さな店、その看板には素朴な筆で「牛翁夜粥」と書かれ、炒ねぎと生姜、胡椒の香りが鼻をくすぐった。
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天龍が足を踏み入れると、店主の老人が大鍋をかき混ぜながら目を細めて言った。
「おや、旅の方かね? 魚粥か、緑豆粥か?」
「白粥を一杯。生姜を多めに。塩は控えめに」
「ふむ、山の人か。粥の味を知っておるな。少々待たれよ」
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彼は窓際の席を選び腰を下ろした。外の湖面は静まり返り、月が銀の破片のように反射していた。風が通り抜け、風鈴がかすかに鳴る。
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店内には十数人の客がいた。中央の大きな卓では五、六人が賑やかに語り合っていた。声は高くなかったが、幼い頃から戦場で心音を聞き分けてきた天龍の耳には、すべてがはっきりと届いた。
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顎髭の男が声を潜めて言った。
「聞いたか? あの天龍って奴……生きてるらしいぞ」
黒衣の若者が眉をひそめた。
「三年前に死んだんじゃなかったのか? 無心谷で囲まれ、三人の大宗師に囲まれて……」
顎髭男は鼻で笑った。
「甘いな。奴が誰か忘れたのか? かつて一人で風雲幇を潰し、少林の長老を一撃で倒した男だ」
別の者が口を挟んだ。
「聞いた話じゃ、天龍は『虚空震天撃』を会得したらしい。神兵すら砕く一撃……もし奴が生きてるなら、今回の英雄大会は荒れるぞ」
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黒衣の男が低く問うた。
「奴……来ると思うか?」
「間違いない。今回は武林の全勢力が集う。新たな幽冥天尊教の教主も来るし、玉女派と寒雲門の二人の姫君も出るらしい……奴が来ないわけがない」
「あとどれくらいだ?」
「十日と半日。場所は万福寺、七大勢力の境界地。今回の優勝者には“龍令”が授けられる──中原武林の最高象徴だ」
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熱い粥が運ばれてきた。天龍はゆっくりと匙を取り、静かに啜った。立ち上る湯気が頬を包むが、それ以上に彼の内心は燃え盛っていた。
「……龍令。失われたと思っていたが」心中で呟き、匙を握る手に力がこもる。
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背後では会話がまだ続いていた。
「風雲幇は今回、西域から刺客を呼んだらしい。“白血髑髏”とかいう、かつてラク国の王すら暗殺しかけたとか」
「少林の新長老も凄いらしい。“魔心に仏を悟った男”、法号は“魔禅”」
「そんな奴らが集まって何になる? またあいつにやられるだけだろ。はは!」
「……静かに。もし本当に天龍が戻ったのなら──今回の戦いは勝つためではない、生き残るためのものになる」
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天龍は椀を置き、口を拭い、冷たい眼差しで西南の夜空を見つめた。
「十日か……充分だ」立ち上がる。
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店主が慌てて声をかける。
「お、お代は──」
天龍が手を翻すと、一枚の枯れた楓の葉が卓の上に落ちた。月光に照らされて黄金色に輝くそれは、刃のように鋭かった。
店主が何か言いかけたとき──葉は木の縁に鋭く突き刺さり、卓が震えた。店内は静まり返った。
天龍は一言だけ残し、背を向ける。
「威で払う」
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彼の姿は夜霧の中に消えていった。さっきまで話していた者たちは口を噤み、黒衣の若者が震えながら言った。
「ま、まさか……今の全部聞かれてたのか……?」
顎髭男は唾を飲み込んだ。
「や、奴の粥……まだ湯気が立ってたのに……いつ、入ってきたんだ……?」
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そして、店の屋根の暗がり。もう一つの影がわずかに動く。白い外套の女、剣のように鋭い眼差しをもって、天龍の背を静かに見送った。
「やはり……あなたなのね。あなたが、戻ってきたのね……」
その声は湖面を渡る風のように、かすかに震えていた。
静まり返った深夜、馬の蹄音と狂気じみた笑い声が霧を引き裂き、闇を蹂躙した。
――「ハハハッ! 爺さん、その子を渡せ! 貴様ごときが骸骨宗の少主を欺けると思ったか?」
お粥屋「翁牛」の裏庭――十三歳ほどの痩せ細った少女が、祖父の背に身を隠しながら、闇の獣のように襲い来る黒装束の男たちを震えながら見つめていた。
先頭に立つ男は、白狼の外套を纏い、漆黒の剣を携え、髑髏の仮面で顔を覆い、紅蓮のような双眸だけを覗かせている。
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その男こそ、西域から来た伝説の刺客――「白血髑髏」。 一度狙った獲物は、決して生かさぬ。 二撃と要せぬ死の匠。 彼に見初められた者には、地獄の門しか残されていない。
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翁牛は孫娘をかばい立ちふさがる。声は枯れ、しかし意志は鋼の如く。
「ただの粥を煮る少女に、なぜそこまでの殺意を……」
白血髑髏は、岩を裂く鉄を研ぐような声で嗤った。
「彼女は『残魂門』最後の継承者。その血に『天命封印』を解く鍵が眠っている。貴様らの死は……崇高な目的の礎だ。」
その手を振るうと、漆黒の瘴気が蛇の鞭のごとくうねり、翁牛に襲いかかった。
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ドンッ!
翁牛の身体が宙に舞い、壁に叩きつけられる。 血が口から弧を描いて飛び散る。
「おじいちゃん!」
少女が絶叫し、涙があふれる。 白血髑髏は薄く嗤いながら近づく。
「安心しろ、苦しまぬよう葬ってやる――」
その瞬間。
空間を斜めに削るような圧力が遠くから押し寄せた。 天地が一寸、沈み込むかのような圧倒的な気配――
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スッ。
少女の前に、一つの人影が立っていた。
飛んだわけでもなく、 歩いたわけでもなく、 気を放ったわけでもない。
ただ、「現れた」のだ。
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白血髑髏の全身に張りつめていた殺気が、凍てついた湖のように沈黙した。
その男は、古びた茶色の布衣を纏い、風の中の松のように静かに立つ。 左手は垂れ、右手は――ただ一本の指を前に出している。
一本。
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ただの、人差し指一本。
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「貴様は何者だ……?」
白血の声が低く唸る。 だが、剣はすでに抜かれている。
「――一杯の粥を食した者だ。」
その言葉は、風の囁きのように柔らかく、 だが魂に杭を打つように響いた。
白血髑髏。 かつて天山の剛者と対峙し、大漠の教王をも暗殺した男。 だが、「一杯の粥を食した者」――その一言に、心臓が乱打するのを止められなかった。
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彼は咆哮し、殺意を放った!
黒剣が青緑の光を纏い、毒霧が空気を蝕む。 「血影無踪」―― 七つの残像と化した白血が一斉に飛びかかる!
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だが。
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ただの一本の指。
天龍の右手人差し指が、そっと空を指しただけ。
速くもない。 強くもない。 技巧でもない。
ただ――水面を撫でる風のように。
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「虚空震天一指」
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ドォン!!!
空間が一瞬、歪み弾けた。
七つの残像が虚無と化す。
白血髑髏の額に、その指先が触れた――
宙に浮かんだまま、彼は硬直した。 呻くことも、叫ぶこともできず。 その瞳にはただ、驚愕と、理解の及ばぬ絶望が浮かんでいた。
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パキン。
額の中央に、一本の亀裂。
次の瞬間、全身が――まるで蝋像が炎に溶けるように―― 数十万の破片となり、 血も残さず、 黒い灰となって風に消えた。
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粥屋は、息を呑むような沈黙に包まれた。
少女は呆然としながら駆け寄る。
「おじいちゃん!」
翁牛を抱き起こし、彼の目もとが震える。
「お…お前は…いったい……」
天龍は振り返らず、ただ背を向けて歩き出した。 その背に残された言葉は、まるで夢のように微かだった。
「この夜に血を流すべきではなかった。 だが、奴は……殺す相手を間違えた。」
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少女が慌てて追いかけ、息を切らしながら叫んだ。
「ご恩人様! お名前を…せめてお名前だけでも!」
天龍は月光の下に立ち止まり、風が衣を柔らかく揺らす。
彼は振り向かず、 ただ、静かに告げた。
「――名は、龍。」
静かに屋根の上に掛かる月明かりの下、天龍の長いマントの影が、凹凸だらけの石畳の上にまるで漆黒の雲のように広がっていた。彼はそこに立っていた。一歩も動かぬその姿はまるで山岳のよう。彼を取り囲むように、四方八方から百を超える黒い影が襲いかかってくる——骸骨白血の残党、冷酷非道を信条とする忠実な殺戮者たちだった。
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だが、彼らが一声も上げる間もなく——
天龍はただ眉をひそめ、深く息を吸い込んだ。
天地の風が止まり、天上の月すら、その動きを凍らせたかのようだった。
そして…
「ボンッ」
まるで天地の太鼓が大地の奥底を打ったような、微かな爆音。
剣ではない。掌でも、指技でもない。
ただ一つの呼吸——
それだけが、彼の無双なる霊体から無造作に放たれた。
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その瞬間、天地が反転した。
灰色の装束を纏った兵たちは、落葉の如く嵐に吹かれ、空へと舞い上がった。身体は折れ、武器は粉砕し、驚愕の表情を浮かべる間もなく、万丈の彼方へと弾き飛ばされた。まるで天雷の鞭が彼らを打ち据えたかのように。
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風が止み、月の光が再び穏やかに照らす。
戦場に残ったのは、たった三人。
天龍、老舗の主人、そして震える少女。
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「終わった……」
天龍は静かにそう言い、マントを脱ぎ、恐怖にすくむ少女の肩にそっと掛けた。
店主の老人は震える手で天龍の手を掴み、感謝の涙を滲ませて言った。
「お…恩人よ…お若殿がいなければ、わしらは…」
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天龍は何も答えず、ただ頷いた。そして二人を優しく抱えて、裏手の休憩部屋へと運んだ。
質素な部屋、油灯の明かりが木壁に優しく揺れる。
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少女は——
その大きな瞳にはまだ涙が宿っていた。
黙って天龍の前に座り、紅潮した頬と小さな手で彼の衣を強く掴みながら、一言も発せずにいた。
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彼女は砂嵐の中に咲く一輪の野花。
誰にも守られることなく、ただ風に耐えて生きてきた。
そこへ現れたのは、天より舞い降りし神の如き者。
天地を震わす威をもって、彼女を救い出した。
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「わたし……この命すべてをかけて……
この恩に報いたいの……」
彼女の声は、夜風が柳をすり抜けるようにかすかだった。
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天龍は彼女を見つめた。
灯の揺れが彼女の睫毛を春先の蝶のように震わせ、
その瞬間、天龍の胸の奥に何かが鳴った。
それは剣の音ではなかった——心の音だった。
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彼はその頬に、震える唇に、宿る瞳に気づいた。
そこに宿るのは、俗世の欲望ではない。
ただ「生きたい」「自由でありたい」「この空を揺るがす者と共に在りたい」——そんな純粋な願いだった。
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「命の恩に、身体を捧げる必要はない。」
天龍の声は、雲を溶かすように優しく柔らかい。
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「けれど……この心を捧げたいと思ったら、どうするの…?」
少女は顔を上げ、霧の朝が雪嶺を照らすような瞳で、彼を見つめた。
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天龍は黙した。
外では、月が真上に昇り、
その銀光が彼の長い黒髪を優しく照らす。
強靭な肩、誇り高き額、そしてあの北風のように冷たい瞳の奥——
今、そこに微かな柔らかさが宿っていた。
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誰も知らない。
あの夜、何があったのかは。
ただ翌朝、庭の隅に咲く桃の花が一日早く開き、
奥の部屋の枕には、いつまでも消えぬ甘い髪の香が残されていた——