40.竜帝 降臨
遥か彼方の地平線から、黒雲が渦を巻いて押し寄せ、風は地鳴りのように唸りを上げて天地の警告を告げていた。その空を翔けるひとつの影──まるで天界より降臨した神龍の如き威圧感を纏い、幾重にも折り重なる白霧を切り裂きながら、雲の層を滑るように駆けていく。その男こそ、他でもない──天龍であった。
その身体から淡く光が滲み出し、まるでこの世の者ではなく、天命を背負い下界に遣わされた者のように見える。
彼の真下には「天霊山」と呼ばれる連山が横たわり、眠れる大蛇の背骨のように静かに広がっていた。山風が岩壁の隙間を駆け抜け、垂直にそそり立つ絶壁が道行く者を拒むかのようにそびえ立つ──だが天龍にとって、それはただの旅路の一部に過ぎない。彼の身は電光の如く、岩壁を越え、樹木の頂を滑り、密林をも穿ち、瞬きの間に空を縦横に舞った。翻る黒衣は、まるで夜空を裂く銀河の断片。
山の麓には名もなき小さな町が、風に削られた土道の傍にひっそりと佇んでいる。苔むす屋根、凸凹な石畳、細道の奥から子供たちの笑い声が響き、働く母たちの呼び売りの声が混じり合う。──だが、その平穏の裏側には警戒の視線が交差し、不安に染まった顔が見え隠れする。それはまさに、江湖の闇がこの地を獲物と定め、爪を伸ばしている証だった。
天龍は静かに、ある広場の片隅に降り立った。一片の音すら立てず、あたかも水面に落ちる枯葉の如く。ゆっくりと顔を上げる。焦りのないその眼差しは冷たく、そして深遠。夕陽に照らされた瞳は、まるで宇宙のすべてを映していた。
──誰も、その者が王の気を纏っていることに気づかない。
──誰も、この瞬間に武林の歴史が静かに動き始めたことを知らない。
彼が選んだのは通りの端にある古びた宿「落水亭」だった。くすんだ木造の屋根、ひび割れた土壁、しかしどこか不思議な温もりを宿していた。天龍が扉を開けた時、木戸が「ギィ」と小さな音を立てた──が、その音はまるで空間全体を目覚めさせたかのようだった。
内部は薄暗い提灯が揺れ、歪んだ椅子と机、空気には酒と血の入り混じる匂いが漂う。数人の荒くれ者が無言で座り、鋭く光る目だけが野獣のように獲物を狙っていた。
天龍は窓際に腰を下ろし、長い袖をそっと垂らして誰にも視線を向けなかった。怯えた若い従業員が震える手で茶を差し出したが、何も言わずに立ち去った。天龍は静かに一口含んだ。若葉の香りが広がるも、その眼差しの冷気を和らげることはできなかった。
外の風が土埃と刀の匂いを運んできた。突如として、扉が激しく開かれる。六人の男たちが入ってくる。色褪せた黒マント、手に曲刀を握り、顔には暴力の痕跡。彼らの目は鋭く辺りを見回し──そして、天龍に止まった。静かに座るその姿、汚れなき衣装、無言の威厳。あたかも闇に咲く炎。彼らの血が沸騰した。
その中の頭目は顔に無数の傷跡を持ち、酒と殺気に赤く染まった目で天龍に近づき、刀の柄で床を打ち鳴らして威嚇する。声は濁り、血の臭いが混じっていた。
「てめぇ、何者だ? 一人でここに座ってやがって……懐には銀がたっぷりか?」
嘲るように笑いながら、男は手を衣の内へと滑り込ませる。だが、天龍は一度も彼に目を向けなかった。
沈黙のまま、天龍はもう一度茶を啜る。それは風が草原を撫で、石が深淵に落ちるような、無反応という名の静寂。
傷顔の男が眉をひそめた。「ふん、粋がりやがって……野郎ども、こいつを引きずり出せ! 銀を奪って……殺せ!」
椅子が倒れ、剣が抜かれる。六本の刀が一斉に光を放ち、天龍の周囲に迫った──その瞬間。
何も見えぬはずの力が突如、天地の果てより爆発する。誰も、天龍の動きを見なかった。ただ、彼の手がゆるりと空気に触れる──まるで露を払うように。
轟!
六人の盗賊は空中で凍りついた。見えぬ力が彼らの身体を締め上げ、骨の軋む音が空間に響く。頭目は絶叫する。
「お……お前は何者だッ……!」
返ってくるのは氷のごとき眼差し──裁く神のように、無言の威圧が彼らを貫いた。
天龍が手首を軽く捻った。
鳳!
龍の形をした衝撃波が宿の中を走り抜ける。風が咆哮し、血と恐怖の臭いを巻き上げ、盗賊たちは嵐の中の枯葉のように吹き飛ばされた。壁に、扉に、無残に叩きつけられ、無様に転がった。
呻き声が静けさを破る。
傷顔の男は血を吐きながら這いつくばり、信じがたい表情で口を開く。
「お、お許しを……御仁! まさか、そんなお方とは……!」
天龍は静かに立ち上がる。大地すら震えるようなその姿に、誰も声を出せなかった。
彼はただ歩き出す。そして、通りざまに一言だけ──
「龍帝。」
たった二文字。
しかし、その言葉が放たれた瞬間、天地が凍りついた。傷顔の男は全身を震わせ、地面に額を擦りつけた。彼は知っていた──最も触れてはならぬ存在に触れてしまったと。
「消えろ。二度と私の前に姿を現すな。」
──それは死刑宣告の猶予に他ならなかった。
盗賊たちは返事もできず、四つん這いで逃げ去った。犬のように、野に捨てられた獣のように。
宿は、静寂に沈んだ。
誰ひとり、呼吸すらせず。誰も、動けない。
宿主は蒼白の顔で、震える手で茶を注ぐ。その手に天龍はひとつの銀を置き、まるで何もなかったかのように宿を後にした。
外には、再び風が吹いていた。
天龍は顔を上げる──「天師少林」の山々、その先に待つ険しき道を見つめていた。先ほどの戦いなど、旅の序章に過ぎぬ。彼は口元に微笑みを浮かべ、静かに呟いた。
「龍帝──この名、今日より天下に刻まれん。」
まるで全てが終わったかのように思われた――だが、たった一刻も経たぬうちに、先ほど天龍によって吹き飛ばされた盗賊どもが、再び姿を現した。
だが、今度は奴らだけではなかった。
街路の向こうから、怒涛の足音が押し寄せる。地面がかすかに揺れ、風が吹き上げ、旅館の前に土埃を巻き上げる。
黒衣に身を包み、顔を隠した三十人近くの男たちが、抜き身の刀を構え、血の気を孕んだ殺気を漂わせながら突進してきた。宿の前一帯を完全に包囲する。
周囲の住民たちは恐怖に駆られ、家の扉を固く閉め、誰一人として外を見る勇気すら持たなかった。
その中に、頭を剃り上げ、大剣を背負い、口に煙管をくわえた男がいた。
鋭い眼光を放ちながら、地響きのような声をあげる。
「どこのどいつだ……うちの『血影幇』の人間に手を出した奴は?」
その隣には、鼠のような顔をした背の低い男がいた。
卑しげな笑みを浮かべ、甲高い声で言い放つ。
「中の白面公子さ。たった一人でイキがりやがって!」
周囲の盗賊どもが一斉に叫ぶ。
「囲め!逃がすな!」
刀光剣影がきらめき、血の欲望にまみれた顔々に反射する。
中には鎖や鉄棍を振り回す者もおり、天龍を武力でねじ伏せようとしていた。
だが、宿の中では――
天龍はただ、静かに茶を啜っていた。まるで、何事も起こっていないかのように。
初めから終わりまで、微塵も動じる気配はない。
その穏やかで落ち着いた風格こそが、逆に盗賊たちの神経を逆撫でするのだった。
一人が怒号を上げた。
「まだ恐れてねえのか!?かかれぇぇぇ!ぶっ殺せ!」
三十人近くの盗賊が一斉に咆哮を上げ、血に飢えた狼の群れのように襲いかかる。
風を裂く音が響き、刃がきらめく。まるで夜を裂く死神の鎌のように――
しかし――
その瞬間、天龍はわずかに眉をひそめ、茶碗を卓に置き、顔を上げて――
「ハクシュン!」
――くしゃみをひとつ。
ただのくしゃみ……それは、風のように軽やかで――だが、天地を揺るがす激震を引き起こした!
瞬時に、空間が炸裂する。
まるで目に見えぬ斬撃の嵐が、大地を切り裂くがごとく天龍を中心に放たれた。
ドォン!!!
天地を揺るがす轟音が街中に響き渡る。旅館全体が大きく震え、壁に亀裂が走り、風が渦となって竜巻のように巻き上がる。
扉に近づいた盗賊たちは、嵐に吹き飛ばされた枯葉のごとく空中に舞い、壁に激突し、地面に叩きつけられる。
口や鼻から血を吹き、誰一人として立っていられない。
「うわあああ!」
「助けてくれぇ!人間じゃねぇ!あいつは……!」
「妖怪だっ!あいつは魔神だっ!」
――たった一度のくしゃみで、三十人もの盗賊どもは、骨を折られ、気を失い、ある者は吹き飛ばされて隣の屋根の上に叩きつけられ、菜園のど真ん中に破れた袋のように転がった。
風が止む。
空の雲も動きを止め、鳥たちは飛び去り、沈黙が世界を包み込む。
通り全体が、まるで死んだように静まり返った。
近隣の住民たちは恐怖のあまり、家の中でひざまずき、震えながら手を合わせる。
ある老人がかすれ声でつぶやいた。
「……仙人だ……天より降りし神の御方だ……」
天龍は静かに立ち上がり、袖を払う。
目を落とした先には、地べたに這いつくばる、蟻のような存在たち。
ゆっくりと歩みを進め、先ほどの禿頭の男の前に立つ。
その男は、今や木の根元で痙攣し、顔中が血にまみれながらも、恐怖に目を見開いていた。
天龍は身をかがめ、天から雷が落ちるかのような声で告げた。
「――たったひとつのくしゃみで、貴様らなど全て消し飛ばせる」
その声は大きくなかった。
だが、まるで脳に杭を打ち込まれたかのように、盗賊たちの意識を貫いた。
もはや誰一人として抵抗できず、地面にひれ伏して叫ぶ。
「お、お願いだ……命だけは……竜帝様!竜帝様あっ!」
「殺さないでくださいっ!俺たちが間違ってたんですぅ!」
天龍の目に情けの色はなかった。
彼にとって、このような者たちは斬る価値すらない。
だが――それでも、「教訓」は残しておく必要がある。
それは、江湖全体への宣言であった。
――竜帝に手を出すな。さもなくば、魂すらも滅び去る。
彼は片手を掲げ、気で空中に印を描く。
龍の形をした印が光を放ち、空間に浮かび上がると、勢いよく地面に突き刺さり、石畳に深く刻み込まれた。
「竜帝降臨」
誰一人、動けなかった。
誰一人、息をすることすら恐れた。
残されたのは――
ただ、天龍の足音だけ。
その一歩、一歩が、江湖の震える心に刻み込まれるのであった。
風が静まり、空がまだ穏やかでないうちに、ひとひらの葉のような軽い足音が無音の中に響き渡った。天龍は倒れている者たちを一人一人踏み越えて、ついにその足を止めた。目の前には、どうやら盗賊団の副頭目と思われる者がいる。
その名は雷狗—通称「狗爪金猴」。南方三省で暴れ回り、数えきれないほどの家を襲い、さらには女性を無理矢理妻として奪うことで悪名を馳せた男である。今、この瞬間、彼は震えながら天龍の足元にうずくまっており、その目は必死に助けを求め、口からはうめき声を漏らしていた。
— す、すまぬ…すまぬ、殺さないでくれ…
言葉が途切れる間もなく、天龍の鉄のような手が彼の喉を掴み、地面から引きずり上げた。雷狗の目は血走り、手足は空中でばたつき、全身の力は天龍の片手に完全に封じ込められ、まるで市場で首を絞められた鶏のように無力であった。
天龍の声は氷のように冷たく、鋭い刃が研がれるように言い放った:
— 何年も人々の財産を奪い、金はどこに隠している?今すぐに答えろ。
雷狗は言葉を発することもできず、息を荒げることしかできなかった。目は死に物狂いで開こうとし、まるで目玉が飛び出すようだった。しかし、天龍は一切情けをかけることなく、さらに力を加えていった。その力で雷狗の体はびくびくと震え、まるで血を抜かれた魚のように激しくけいれんしていた。
— 最後にもう一度聞く... — 天龍は雷狗の耳元に近づき、悪魔のように囁いた — 金を全て出さなければ、この場で首をへし折る。さらに、俺はお前の六人の女たちを順番に訪ね、全部妻にして俺のものにする。そしてお前は土に埋められることもなく死に、残りの女たちは一生俺の床の中で寝ることになる。どう思う?
天龍の目に冷徹な光が宿り、手を少しだけ締め付けた。雷狗はすぐに白目をむき、手足をバタバタさせ、必死に何度も頷いた。そして、震える手で手首にある翡翠の腕輪を指さして言った:
— ほ、宝の隠し場所は…死雲の洞窟、石門山の裏山…暗証番号は…「狗爪無影」…
天龍は手を放した。
「ドスン!」
雷狗はまるで袋のように倒れ、喘ぎながら咳き込んで血を吐き、涙と鼻水が流れ出た。彼はよろけながら立ち上がり、体からぼろぼろの地図を取り出し、震えながらそれを天龍に差し出した:
— こ、これが地図…どうか命だけは助けてくれ…あの女たちを…どうか奪わないでくれ…彼女たちは…私が買った芸妓だ…
— 芸妓?
天龍は軽く眉をひそめ、冷笑を浮かべて言った:
— お前のような小物が、女を手に入れる資格があると思うか?大切にしないなら、何のために持っている?
天龍の目は地図に描かれた六人の女性の肖像に止まった。どの顔も皆、天下無双の美貌を持ち、優雅な者、情熱的な者、氷のように冷たい者もいる。天龍は軽く鼻で笑った:
— 一人一人訪ねてやる。覚悟しておけ。
雷狗はその言葉を聞くと、泡を吹きながら気絶しそうになった。周りの仲間たちは誰一人として口を開こうとしなかった。
高い空はまるで圧迫されているかのように感じられ、黒い雲が集まり、再び風が吹き荒れ、まるで天と地が再び降りてきたかのように、天龍の威光に頭を下げているかのようだった。
夜風が街の隙間を吹き抜け、鋭い刃のような冷気が肌を撫でる。罪を重ねて生きる者たちは、許されると思っていたが、違う…。天龍の目は鉄のように冷たく、宿屋の灯火がその顔に反射し、まるで冥界から来た閻魔大王を見ているかのような印象を与える。
突然、彼は手を一振りした—空中に筆で一画を描くように軽く。
「バン!!」
刀や剣、または複雑な技もなく、ただの一振りの手のひら。しかし、その威力はまるで雷鳴のように天を揺るがす。強烈な渦巻く気流が盗賊の集団の真ん中で爆発した。空間が一瞬で歪み、盗賊一人一人の体が、まるで熟れた果実がつぶれるように炸裂し、血と肉が天井の木材に飛び散り、その叫び声は喉を抜ける前に消えた。
盗賊たち... 全員が瞬時に命を落とした。
死にゆく間もなく、自分が死んでいることに気づくことはなかった。逃げ場はない。許しの場所もない。
天龍は手を引き、振り返らずに歩き出した。無感情に、まるでゴミを片付けたかのように。
—
石門山の頂に月が昇った。天龍は雷狗の別荘の前に立っていた。これは森の中にある豪華な邸宅で、粗末な陣法と手下たちの武力によって守られていた。しかし、今、すべての封印は彼の一瞥で粉々に砕け散った。
扉が開き、内部から叫び声が響く:
— 誰だ?! 引き下がれ—
「バン!」
その言葉が終わる前に、彼の体は肉片に分解された。天龍は番人の死体を踏み越え、冷たい目で周囲を見渡した。
裏庭では、十人ほどの女性たちが手を鎖で繋がれ、目は空虚で、ぼろぼろの服を着ていた。彼が入ってくるのを見て、一部は驚きで後退し、一部は顔を抱えて泣き、一部は黙って涙を流していた。彼女たちは、無情な者たちに玩具のように扱われ、長い間抑圧されてきたのだ。
天龍は一言も発せず、手を一振りした。すべての鎖が鉄屑のように砕け散った。
— これで自由だ。お前たち... もう奴隷ではない。
髪が乱れ、かつて美しかった目が疲労と苦しみによって腫れ上がった一人の女性が、涙を流しながら叫んだ:
— あなた... あなたは誰? どうして私たちを助けてくれるの?
天龍は彼女を見つめ、何も言わずに、雷狗が財宝を隠している地下室に向かって歩き出した。一振りの手で、鉄の扉が開かれた。金銀宝石、翡翠や象牙が山のように積み上がっている。彼は周囲を一瞥し、そして無感情に大声で言った:
— この財産はすべて... 今日からお前たちのものだ。
— 私たちのもの?
— そうだ。
彼は振り返り、夜の風が崖を切り裂くように低く響く声で言った:
— これはあの男が血と涙、そしてお前たちの身体を犠牲にして奪ったものだ。私はお前たちが失ったものを返すことはできないし、心に刻まれた傷を消すこともできない。しかし、せめて、これを小さな償いと見なして、もう一度立ち上がるために—誇りを持って、そしてもう二度と誰の前でも膝をつかないように。
誰も言葉を発しなかった。女性たちは涙を流したが、それは解放の涙であった。
—
屋敷の門を出ると、夜風が天龍の袍を揺らした。空には雲が次第に散り、月の光が前方の道に降り注いでいた。その光は彼の姿を照らし、孤独で力強い影を長く引き伸ばしていった。まるで、真の龍帝が自分の選んだ道を誇らしげに歩んでいるかのように—悪の血で染まり、無実の者たちの涙で濡れた道を。
空には... 遠くで龍の咆哮が響いた。




