4.伝説の秘境
~ 不敗の道の起源 ~
冷たい風が何度も吹きすさび、天龍の顔を激しく打ちつけた。空は次第に暗雲に覆われ、不吉な予感を孕んだ気配があたりを支配していた。遠くで微かに閃く稲妻の光が、灰色にくすんだ岩を照らし、不気味な冷たさを放ちながら、荒涼たる峡谷全体をまるで異界のような雰囲気に染め上げていた。
天龍は立ち止まり、目を細め、眉間に深い皺を寄せた。彼は三刻前からこの地に足を踏み入れており、何者かに導かれるような奇妙な気配を感じていた。しかし、奥へ進めば進むほど、その感覚はますます曖昧になっていった。誰かが自分を見ているような気がして振り返っても、そこにはただ静寂と霞む景色が広がるばかりだった。
「おかしいな……確かに何かに導かれている感覚があるのに……まさか幻覚か?」
天龍は独りごちたが、心中には拭えぬ疑念が渦巻いていた。彼は幻惑や幻影ごときに容易く欺かれる男ではなかった。だが、この不自然な気の流れには、どうしても無視できぬ異様さを感じた。
その時、彼の足元が微かに脈動するように震えた。天龍は即座に後退しようとしたが、反応が間に合わなかった。足元の地面が突如として崩れ落ちたのだ!
ドオォォン!!
轟音と共に地面が裂け、深く暗い奈落の如き穴が口を開いた。底から引き寄せるような強烈な力を感じ、天龍の身体はバランスを失い、自由落下していった。彼の体はまるで岩石のように落下し、左右の崖が闇の中で影のように流れ去っていく。耳元には風の悲鳴だけが鳴り響いていた。
だがその刹那、天龍は少しも怯まず、すかさず絶技「龍魂降天手」を発動させた。手を伸ばして岩壁を掴み、足で力強く岩を踏ん張った。摩擦と反動を最大限に利用して落下速度を緩めようとしたが、地面はあまりにも滑りやすく、やがて彼の体は深い闇の底へと吸い込まれていった。
ドガァン!!
激しい衝撃音と共に岩屑が宙に舞った。天龍は即座に気を練り護体を施し、大きな怪我は避けたものの、背中に鋭い痛みが走った。彼がゆっくりと立ち上がると、目に飛び込んできた光景に、思わず息を呑んだ。
そこには、巨大な洞窟の入口があった。暗く冷たい気配を放ち、まるで巨大な獣が口を開けているかのようだった。入口はすべて黒い石で形作られ、艶めき、どこか神秘的な輝きをたたえていた。表面には無数の古代文字が刻まれ、緑色の淡い光を放ちながら、不可思議な霊気を漂わせていた。
洞窟の中央には、ひときわ目立つ大きな石碑が立っていた。表面には青苔が覆い尽くしていたが、刻まれた文字は何千年も経ったとは思えぬほど鮮明だった。
《絶地無回──入る者、帰る道なし。ただし、天命を持つ者に限り──ここが不敗の根源となる》
「天命……?」
天龍は心の中で呟き、瞬きをしながら石碑の言葉の意味を測りかねた。彼は無意識のうちに石碑へ近づき、手を伸ばしていた。何か得体の知れない力に引き寄せられるように──。
カァァァン!!!
その瞬間、石碑から冷気が伝わり、まるで稲妻のような激しいエネルギーが彼の掌から全身へと流れ込んだ。天龍は思わず冷たい息を吸い込み、地面の振動を感じ取った。すると、重厚な石の扉が音を立ててゆっくりと開かれていった。
ゴゴゴゴォォォ!!!
扉が開かれると、彼の前には、まるで別世界のような広大な空間が広がっていた。無数の黒い石柱が天を突くかのようにそびえ立ち、空気中に妖しい光を放っていた。あちらこちらで青白い炎が揺らめき、古の気配と異様な霊気が渦巻いていた。
周囲の壁には、伝説の戦士たち、天地を震わす戦い、未知なる武技が描かれた壁画と古代文字が無数に刻まれていた。一つ一つがまるで壮大な物語を語りかけてくるかのようだった。
天龍の視線は自然と中央に置かれた巨大な石像へと引き寄せられた。それは、銀髪をなびかせた壮年の武人が大刀を手に、堂々たる威厳を漂わせた姿をしていた。石像の目はすべてを見通すかのように、虚空をじっと見つめていた。
石像の足元には、ひっそりと小さな石碑が置かれていた。そこには、こう刻まれていた。
《十絶秘境──失われし武学が集う地。選ばれし者のみが踏み入るを許される。極めれば、人知を超える境地に至る》
天龍の心臓は激しく脈打ち、言葉にできない高揚感が胸にこみ上げてきた。
「これが……古文書に記された、誰も信じなかった武学の伝説……」
彼は疑念と好奇心に満ちたまま、目の前の光景を見つめ続けた。
この地に足を踏み入れた瞬間──天龍の運命、ひいては世界そのものが、大きく動き出すことになるのだった。
融合の感覚が頂点に達した瞬間、天龍の全身は突如として激しく震えた。
陰陽混玄巻から放たれた白金色の光が、一直線に彼の丹田へと突き刺さり、細胞の隅々、血管の一本一本へと深く染み渡っていく。
ドォンッ!!
恐るべきエネルギーが爆発した。
「気が……本当に再生している!」
天龍は低く唸り、全身を歓喜と苦痛が交錯しながら震わせた。一瞬のうちに、五臓六腑が生まれ変わるような感覚に包まれ、膨大な内力が津波のごとく経絡を押し流していく。
「陰と陽は対立するものではなく、無限に巡る輪である……。これらが一体となるとき、“混玄之体”――すべての限界を超越した体質が生まれる……。」
その声は、まるで千年もの時を経た金属が岩を叩くような響きで、天龍の魂に一字一句を注ぎ込んでいった。
次の瞬間、見たこともない奇妙な技が彼の周囲に現れ始めた――
ある技は月光の舞のように柔らかく、姿を消すほどに滑らかであり、
またある技は雷鳴の如き爆発力を持ち、刀剣が空間をも切り裂いた。
その一挙一動はすべて、古代武学の精髄であり、もはやこの時代には存在しないものだった。
シュッ――
一筋の黒い影が彼の頭上をかすめた。
人影か? いや――それは「九極奪魂手」の残影だった。
天龍は思わず手をかざして受け止めようとした。
しかし彼の手は、無意識のうちに対応する防御の型を取っていた。
「俺は……学んでいるのか?」
天龍は驚愕した。
誰に教えられたわけでもない。
指導もない。
それでも、次々と迫る技に対して、彼の体は自ら反応し続けた。
彼の意識は、まるで見えない千年の修行を経たかのように、武道の流れに溶け込んでいた。
「これは学びではない……“伝承”だ。」
再び、あの神秘的な声が優しく、しかし親しみを込めて語りかけてきた。
虚空から一筋の光が降り立ち、白衣を纏い、長い髪を風に任せた人物へと姿を変えた。
その顔は朧げで判別できなかったが、存在そのものが天地を生み出したかのような威厳を放っていた。
「お前は誰だ?」
天龍は問うた。心の中には無数の疑問が湧き上がっていた。
「私は武学の一部、混玄古道の継承者だ。
ここは――第一の試練の場。
これを乗り越えたなら、“界を開く者”として選ばれるだろう。」
「界を開く者……?」
天龍は眉をひそめた。聞き覚えのない呼称だったが、心臓は強く脈打った。
白衣の者は続けた。
「界を開くとは、単なる武功の限界を破ることではない。
人体と魂魄の全ての限界を解き放つこと――
もはや如何なる絶技も定義できぬ境地へ至ること。
“界を開く者”となれば、法則さえも……消し去る存在となる。」
「……」
天龍は沈黙した。
武学空間に張り詰めた空気の中、虚無から微かな反響音だけが響いていた。
突然、白衣の人物が腕を振った。
一筋の光が銀の剣へと変わり、天龍の目の前に突き刺さった。
剣先からは白い煙が立ち上り、刃には古代文字が刻まれていた。
「道虚無――剣無象――心無我」
「お前に悟れるか?」
白衣の者が問うた。
天龍は答えなかった。
彼は一歩踏み出し、剣の柄を握った。
ビリビリと、何万本もの雷が魂を直撃するかのような抵抗が彼を襲った。
パキッ
脳内で何かが砕ける音がした。
「うあああああああ――!!」
天龍は膝をつき、目に涙を滲ませながらも、剣の柄を手放さなかった。
過去の断片、記憶の一片一片が粉砕され、
「武学」という概念そのものが彼の中で打ち砕かれ、
そして、何かまったく新しいものに書き換えられていった――
それはもはや「武学」ではなく、「虚無之道体」と呼ばれる存在だった。
彼の肉体は光り始め、胸から全身へと広がり、奇妙な紋様を描いた。
それは、かつて名前すら持たなかった遠き世界の象徴だった。
そして――
「チィン!」
虚空に響く一声。
陰陽混玄巻が自ら開かれ、最初の一頁が光り輝く。
そこに現れた古代文字:
「第一層――混玄開基:陰陽を統一し、人道を破り、体式を再構築する。」
それこそが、無敗の道の始まりだった。
十日間。
十夜。
光もなく、時間もなく、飢えも渇きもない。ただ一つ、存在するのは武学の感覚のみだった。
虚無の中で、天龍はゆっくりと目を開けた。
心脈から温かな光が全身に広がり、天地万物が彼の丹田に収束していくかのようだった。
「──ドン……!」
内側から響くような音が微かに鳴った。風の囁きのように軽やかでありながら、心の奥底に雷鳴の如く轟き渡る。
天龍は拳を軽く握ると、全身から仄かな寒光が滲み出し、肌の一寸一寸に溢れんばかりの内力が秘められていた。
陰陽混玄経の第一の技──導玄入脈は、完全に彼の経脈に融合したのだ。
一見単純な技だが、絶対無敵への礎であり、陰気と陽気を融合させ、らせん状に全身を巡らせる技術だった。
彼は低く呟いた。
「──陰陽が融和できるなら……この天下に敵など存在しない。」
その瞬間──
「──オオオ……!!」
洞窟の向こう側の岩壁が紫色に爆ぜた。
岩がゆっくりと割れ、まるで神の手が数千年の眠りから古き道を開いたかのようだった。
奥深くへと続く暗く細い通路──
風も匂いも空気さえもない。
だが、天龍の背筋を冷たく震わせた。
彼は深く息を吸い込み、進み出た。
──ドン!
異なる地面に足を踏み入れたその瞬間、頭上に雷鳴が轟き落ちた。
傷つきはしなかったが、それは冷酷な宣告だった。
「──武を修める者、もし不敗の心なき者──即ち死。」
第二の洞窟の空間は、もはや朧げではなかった。
すべてが鮮明に映り、鋭利な岩柱が獣の牙のように地面から突き出し、壁面は爪で引き裂かれたように荒れていた。
乾ききった血痕が、幾世代にも渡る殺戮を物語っている。
中心には、三丈もの高さの石碑が天から落ちた隕石の如く聳え立っていた。
そこには、古代の大文字が刻まれていた。
「乾坤太極」
その下に小さく──
「反者道なり(はんしゃどうなり)」
天龍は小さく呟いた。
「──また…絶技か。」
彼の目が、燃えるような渇望で輝いた。
手を伸ばし、碑面に触れた。
──ドン!!
突如、凄まじい衝撃が天龍を十数丈も後方へ吹き飛ばした!
背中が岩に激突し、口元から血が滲んだ。
だが、彼の眼光は微塵も揺るがなかった。
血を拭い、彼は冷ややかに笑った。
「──反者道なり……反逆してこそ真理に至る……天道に逆らう、か。面白い。」
迷うことなく、再び天龍は石碑と対峙した。
だが、今度は力で挑まず、導玄入脈を運行させ、内力を逆流させた。
陰気が頭頂へと駆け上がり、
陽気が丹田へと沈み込む。
二つの極が互いに拒みながら、やがて──融合した!
ヴォォォォォ……
──グォオオオオオオッ!!
石碑が震え、刻まれた古文字が眩い光を放った。
その瞬間──
石碑内部から凄まじい奔流が放たれ、天龍の精神を一気に飲み込んだ!
「──あああああ──!!」
彼の全身が硬直し、目は真っ白にひっくり返り、首筋と額には青筋が浮かび上がる。
汗は滝のように噴き出した。
彼の意識の中には、万を超える武学の構図が閃いた。
逆転。回転。吸収。反転。天地再構築──
言葉にならない叫びが心の奥から轟いた。
「乾坤──倒化──逆輪創世!!」
天龍は地に崩れ落ちた。
身体は震えたままだが、心臓は燃えるように熱かった。
「──これが……一瞬で戦局を変える力か。」
彼はそう確信した。
こうして彼は、乾坤太極倒化経の第一奥義──
「倒逆玄機」
──弱者が強者を制し、退いて進撃に勝ち、不動で万の殺気を化す逆天の技を会得したのだった。
---
三日間──
天龍はその場を一歩も動かなかった。
二本の巨柱の間に座し、両手にそれぞれ陰気と陽気を宿し、光が絶え間なく流転した。
相反する二つの気が、彼の手中でまるで舞うように融合していた。
彼は静かに呟いた。
「──技を覚えるだけでは足りない……武を、己の本能とせねば。」
彼は武学を学んでいるのではない。
武学と共に生きているのだ。
──そして、月も星もない夜──
「ギ……ギギ……ギギギ……」
乾いた軋み音が洞窟の奥から響いた。
黒い石でできた扉が、静かに開かれる。
中から、紫色の冷たい霧があふれ出し、空気すら凍らせた。
やがて、朧げな人影が姿を現した。
その声は、万年を漂う亡霊の如く冷たく響いた。
「──貴様……
深淵へ足を踏み入れ、明星吸血道を極める覚悟はあるか?」
天龍は一切ためらわなかった。
振り返ることもなく、氷のように静かな声で答えた。
「──力を得るために血を捧ぐなら──
……俺は血を流す。
だが、それは……俺の行く手を阻む者の血だ。」
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