23.片隅に咲く花──劉情児
早朝の玉女山の頂では、まだ霧が銀の絹のように空を覆い尽くしていた。花草の香りがそよ風に乗って古松の並木を通り抜け、まるで仙境のような幽玄な空気を漂わせていた。
静寂な中庭の中央、純白の衣を纏った少女が白玉台の前に端然と座っている。まるで静かな湖面に浮かぶ一輪の清らかな蓮の花のようだった。
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彼女の瞼はうっすらと閉じられ、長い睫毛が穏やかな呼吸に合わせてわずかに震えていた。身体の周囲を流れる気の流れは自然そのもので、まるで薄霧が漂うように空間に溶け込んでいた。
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彼女の名は劉情児。玉女派の唯一の継承者であり、武林でも名高い女性門派のひとつ。幼い頃から厳格な教えの下に育ち、医術と武術の両方を習得してきた。その気質はしなやかでありながら、雪中の柳のように芯の強さを持ち合わせていた。
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彼女の隣には、玉の柄を持つ長剣が静かに石台の上に横たわっていた。銀の鞘は秋の川の水面のように光を反射していた。剣の冷たい光が彼女の顔に映り込み、その美しさは俗世を超えた高潔さと清廉さに満ちていた。
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ドンッ! 突然、霧に覆われた空に雷鳴が轟き、大地が震えた。遠くから吹き付ける激しい風が彼女の白衣を空へとはためかせ、鶴が羽ばたくかのようだった。
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その時、背後から落ち着いた女性の声が響いた。冷たくも熱くもないその声は、まさに頂点に立つ者の風格を湛えていた。
> 「情児よ、今回お前が宗主の位を継ぎたいと望むならば、
最後の三つの試練を乗り越えなければならぬ。」
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劉情児は静かに目を開けた。源流の湖のように澄んだその瞳には、揺るぎない決意だけが宿っていた。
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彼女は立ち上がり、ゆっくりと身を翻して後方に一礼した。
> 「母上、情児はすでに覚悟ができております。」
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声の主は、玉女派の現宗主であり、彼女の母親でもある女性であった。厳格で一切の妥協を許さず、門派の教えに生涯を捧げた人物である。
彼女はうなずき、こう告げた。
> 「この三つの試練は、単に地位を継ぐためのものではない。
それはお前自身の内面を見つめる旅でもある。」
> 「もし乗り越えられたならば、
お前はもはやこの地で修行するただの少女ではなくなる。
門派の命運を背負い、武林の嵐に立ち向かい、
人の心の闇や、終わらぬ怨恨と対峙する者となるのだ。」
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劉情児は静かに、それでいて力強く答えた。
> 「情児、理解しました。母上の御導きを、どうか賜りますように。」
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【試練一:三剣無間】
三人の高弟たちと連続して対峙する。各人は異なる剣術を持ち、冷徹な剣気、幻のような軽功、巧妙な攻防を駆使する。彼女は剣術だけでなく医術の知識をも用い、相手の弱点を見抜き、致命の一撃を受けずにかわす必要がある。
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【試練二:錬丹心鑑】
自身の手で「回生丹」という高級な回復丹薬を錬成せねばならない。調気は一糸乱れず、炉火は呼吸のごとく整えねばならない。ほんの僅かな誤差でも即座に失敗する。
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【試練三:七情劫】
玉女派歴代宗主が受けてきた神秘的な精神試練。武力や知恵ではなく、内なる苦しみ、恐怖、欲望、憎しみなど、人の心の最も深い部分を暴かれる。これを越えられなければ、生涯、心魔に囚われることとなる。
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助けは一切ない。
逃げ道もない。
ただ、自らの力のみが頼りである。
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宗主は背を向けて去っていく。劉情児はひとり、中庭に立ち尽くしていた。風に舞う白衣のその背中は、しかし、微動だにせず揺るぎなかった。
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劉情児は拳を固く握る。
心は静かでありながら、胸の奥では波が渦巻いていた。
これまで幾多の修練を積んできた彼女でさえ、心と肉体の両方を試されることは初めてだった。
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彼女は顔を空に向け、唇を静かに開いた。
> 「この広き天の下――
己自身を本当に超えられる者など、果たしているのでしょうか……?」
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ふと、武林で囁かれている噂を思い出す。最近、若い弟子たちの間で語られているひとりの少年の名――
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> 「彼の名は天龍……二十歳にも満たないのに、六大門派の高手を悉く打ち破ったとか……」
「一撃で風雲幇の三長老を倒し、少林の仏光大手印をも拳で砕いたという……」
「どの門派にも属さぬが、その名を聞けば誰もが震える――」
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その瞳に、ほんのわずかな光が差し込む。
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> 「まさか……そんな人が本当にいるの?」
「教義に縛られず、権力に怯まず――自由で、覇道を行く者……」
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なぜか分からないが、彼女は思わず微笑んだ。
その微笑みは、そよ風のように柔らかだった。
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劉情児は小さく呟いた。
> 「もし、その人に会えたなら……
この心の鎖を、断ち切ってくれるのだろうか……?」
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だが、彼女はまだ知らなかった。
ほんのわずかな時の後――
屋根からの落下、
ふとした視線、
運命の衝突、
それが彼女の人生を永遠に変えてしまうことを――
玉心台 武術修練場――昼。
厚い雲の隙間から射し込む陽光が、雪のように白い岩に囲まれた広場に斜めに差し込み、まるで霊境のような幻想的な光を作り出していた。地面には白玉で描かれた陣法がすでに描かれており、その中心には凛とした眼差しを持つ劉情児が立っていた。
彼女の正面には、すでに灰色の衣をまとった三人の人影が腰を下ろしていた。彼女が幼い頃から歩き方や言葉遣いまで教えてくれた、玉女派の三人の筆頭師姉たちであった。
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一人は静かに、糸のように細い剣を抜き、鋼の光が冷ややかな顔に反射する。
もう一人は武器を持たず、掌に内力を運らせ、何重にも重なる掌影を浮かび上がらせる。
最後の一人は...じっとその場に立ったまま、目を閉じてまるで眠っているようだったが、放たれる気はまるで立てた剣のように鋭かった。
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風のように静かな声が響いた:
> 「情児、これは本物の試練よ。私たちは...容赦しない。」
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劉情児は丁寧に手を合わせ、礼を取った:
> 「師姉たち、情児はすでに覚悟を決めております。 どうぞ、全力でお越しくださいませ。」
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スッ――!
息をする間もなく、剣先が稲妻のように突き出された。第一の師姉が繰り出した初手は「玉女白雪剣」の一式、寒風無影。あまりにも速く、周囲の空気さえ吸い取られるようだった。
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情児は半歩身を斜めにし、絵を描くように剣を抜く。風を切る音とともに銀の刃が唸りを上げる。
> 「なんて速い剣...!」
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突然、左側から波が岩を打つような「ブンッ!」という音とともに掌力が迫る。第二の師姉が繰り出したのは、派の特徴的な掌法――玉影心魄掌。柔らかさの中に殺意を秘めた技だ。
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> 「この掌が玄機穴に当たれば…腕が完全に痺れる!」
――情児は瞬時に心中で計算した。
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すぐに、彼女は剣の先を弧を描くように振り上げ、掌力の軌道をずらす。糸のような力でも、十分に掌法の方向を半分ずらすことができた。
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ドンッ!
掌気が地面を打ち、掌の大きさほどの凹みを生み出した。
> 「一撃で命の危機...これは、もはや稽古などではない。」
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息を整える暇もなく、背後から鋭い殺気が迫ってきた。今まで静かに立っていた第三の師姉が、ついに動いたのだ!音も気配もなく、昼間の影のように滑るように近づき、その掌は空気を貫くような一撃だった。
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情児は素早く体を反転させ、剣を引き戻して弧を描くように横へ振る。
「キィン!!」
とてつもない衝撃が腕に返ってきて、彼女は三歩後退した。体内の血脈がわずかに震えた。
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> 「この殺意に満ちた技は、力で受けるべきではない。医道の応用で対処するしかない。」
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情児はそっと陣の外に身を滑らせ、右手を丹田の経脈に沿って撫で、内力を用いて血流を調整し、経脈の乱れを一時的に安定させた。
その後、深く息を吸い込む。
> 「勝ちたいなら、防御だけでは駄目。戦法を分析し、相手一人一人の隙を見抜かねば!」
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彼女は一瞬、目を閉じた。頭の中に浮かぶのは、経脈図、体の弱点、動作中にバランスを崩しやすい箇所――彼女が苦労して学んだ医道の理論だった。
> 「第一の師姉――剣を放つとき、右肩が三分ずれる。」 「第二の師姉――左手の力が右手より強い。支点がずれている証拠。」 「第三の師姉――三手以上の連続攻撃なし。内気の流れが遅く、太淵穴に弱点あり...」
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シュッ!シュッ!シュッ!
三人の影が再び一斉に襲いかかってくる!
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情児は体を回転させ、剣法を守勢から攻勢へと切り替える。
長剣は月光のように霧の中を滑り、放たれる剣の一撃一撃は急所ではなく、相手の気の流れを乱し、技を崩すための場所を狙っていた。
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第一の師姉は、剣が腰の右側のバランスの崩れやすい箇所を掠めたことで、足元を滑らせた。
第二の師姉は、掌の烈缺穴を突かれたことで、掌法の運行が一時的に停止し、三歩後退した。
第三の師姉は…三手目に入った瞬間、情児は太淵穴を軽く突き、気の流れを断ち切った。
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一手、二手、三手――すべてを解き明かした。
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「止まりなさい!」
高台から掌門の声が響く。三人の師姉たちは同時に技を収め、後ろへと下がった。
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その中の一人が微笑み、少し誇らしげな眼差しで言った:
> 「まさか情児が、戦いながらここまで精妙な医理を応用するとはね。」
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もう一人も頷く:
> 「『玉女心妙手』の名を継ぐ資格、十分にあるわ。」
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情児は大きく息を吐き、額に汗が滲む。立ってはいたが、内力の衝突により掌の中はすでに痺れていた。
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彼女は頭を下げた:
> 「三人の師姉方、ご教示ありがとうございました。情児、生涯忘れません。」
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掌門は何も言わず、ただ静かに頷いた。深い眼差しで娘を見つめる。
> 「準備しておきなさい。明日は…第二の試練よ。」
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劉情児は静かに部屋へ戻った。
心は落ち着いていたが、手はまだ微かに震えていた。先ほどの戦いは、三人の高弟との対決だけではなく、自身の限界との闘いでもあった。武学も、医理も、内功も、知恵も――すべてを総動員する必要があった。
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だが、心の奥底で…ふと、ある想いがよぎる。
> 「あの天龍という男なら―― 一手で三人を倒すことも…可能かもしれない。」
> 「そう思うと…私がどれだけ努力しても、意味があるのかしら?」
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彼女はふと微笑んだ。あの名が…どうして、頭から離れないのだろう?
その夜――劉情児の休息室にて
質素な部屋の中、淡く揺れる灯籠の光が花模様の竹机に反射し、静かな夜の呼吸のようにゆらゆらと揺れていた。
劉情児は黒檀の木で作られたベッドに横たわり、厚い医道の書をそっと抱えていた。だが、その瞼はすでに重く、まるで微風のような規則的な吐息とともに、深い眠りへと沈んでいく――
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夢の中――雲が渦巻き、白い霧が天山を覆い尽くす。
それは三ヶ月前の情景――玉女派が混乱に陥った、あの日の記憶。
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ドンッ!
天地を揺るがすような轟音と共に、石造りの回廊が神の武器で打ち砕かれたかのように裂けた。
当時、湖のそばで剣の修練をしていた劉情児は、驚愕して振り返った。見たこともない、そして常軌を逸した覇気が空間を圧倒していた。
>「誰だ! 玉女の聖地に踏み入る者は!」
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門主の怒声がこだまする:
>「何者だ! 勝手に立ち入るとは無礼千万! 直ちに引き下がれ、さもなくば玉女派の情け容赦はないぞ!」
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そして――彼女は「彼」を見た。
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黒衣の影が竹林を駆け抜ける。
彼の目は、まるで雪空に燃える氷の星のように鋭く、冷たく、そして激しく輝いていた。
彼の手にあるのは、丈余の黒き刀。墨のように漆黒で、不気味な音を立てていた。
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彼は言葉を発さなかった。
ただ、白一色の空の中に静かに立っていた。まるで、天より舞い降りた孤独な龍のように――
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>「その顔立ち…妖しくも、なぜか異様に美しい…」
「なぜ…あの眼差しは私の心の奥を覗いているように感じるの…?」
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ドンッ!
玉女派の長老が掌を繰り出す――「玉心天音」。その一撃が彼に向けて放たれる。
だが黒衣の男は、ただ手を上げただけで…
「ドォォン!!」
長老の背後にあった石の建物群が、一瞬で粉々に崩壊した――!
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>「彼は…受け止めず、打ち返さず…ただ、息を吐いただけで…すべてを無に?」
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「これは…何という武術なの…?」彼女は自問した。
だがその胸には、名もなき恐怖が湧き上がっていた。
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そのとき――彼が首を少し傾け、彼女の方を見た。
>その一瞬だけで…
彼女の心臓が、まるで止まったかのように跳ねた。
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彼は何も言わない。
だがその瞳には――冷酷、無情でありながら、千年の悲しみが宿る孤独の色があった。
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夢の中に、女の声が響く:
>「お前は誰? なぜ女子の修行の地に踏み入った? 死にたいのか?」
彼は答える――声は低く、深淵の底から響くような調べ:
>「ただ一つ、証明したいことがある。」
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>「男でも――この地に足を踏み入れる資格があると。」
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ドォン!!
その一撃――「降龍無極連皇神掌」!!
天を真っ二つに裂くような威力。気流が渦巻き、長老たちはまるで落葉のように四方に吹き飛ばされた。
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劉情児はただそこに立ち尽くし、石のように固まった。
怖くなかった。
恨みもなかった。
ただ…引き寄せられるように、炎へ飛び込む蛾のように――
>「彼は…誰なの…?」
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そして情景は白い霧の中で消えていく。
夢は裂かれた絹のように、ぷつりと途切れた。
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情児は激しく息をつきながら飛び起きる。
部屋は静まり返り、ただ窓から風がそっと吹き込んでいた。
汗で髪が額に張り付き、頬は紅潮している。胸の鼓動は、まるで夢から覚めきらぬように、激しく脈打っていた。
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>「夢…だったのか?」
「いや…違う。あれは現実だった。三ヶ月前…私はこの目で彼を見た。」
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情児は胸に手を当て、乱れた鼓動を確かめる。
>「なぜ…あの一瞬の視線だけで、忘れられないの…?」
>「彼は…江湖のどんな者とも違う。悪でもなく、正義でもない。」
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>「彼は…何なの? 神? 魔? それとも…刻まれた孤独そのもの?」
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彼女はしばし、月明かりの差し込む窓辺に静かに座った。
光の中で、舞い上がる塵の粒がきらきらと揺れ動く。儚く、そして静寂の中で――
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そして深い夜の中、心を湖面のように静めよと教えられてきた劉情児は、初めて「乱れ」というものを知った。
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その名は、まるで心に刻み込まれたように――
>「天龍…」
翌朝――玉女派の裏山、修練場にて。
濃い緑の松の枝に朝露が滴り、そよ風が草の香りを運んでくる。
白い絹の衣をまとった劉情児が平坦な修練場の中央に立ち、長剣を手にし、真剣な眼差しを浮かべていた。
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> 「心を鎮めなければ……今日は決戦の日。第一の試練――絶対に失敗できない。」
彼女は深く息を吸い、ゆっくりと剣を掲げた。
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「玉舞飛風――第一式!」
ヒュッ!
長剣が空を裂くように軽やかに動き、まるで白い絹が空を舞うかのようだった。
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だが、体を捻り次の式に移ろうとした瞬間――彼の姿が脳裏をよぎった。
黒衣の男。
氷のように冷たいが底知れぬ深みを湛えた眼差し。
低く、魔性を帯びた声。
> 「俺はただ……あることを証明したいだけだ。」
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「だめ……だめよ!」情児は眉をひそめ、慌てて第二の式へと身を翻す。
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> 「玉心玄武――第二式!」
しかし、動きは途中で止まり、剣は傾き、内力が乱れる。
> 「ありえない……」
彼女は剣を放り出し、荒く息をつきながら、遠く霞む空間を虚ろな目で見つめた。
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> 「なぜ……この時に彼を思い出すの?」 「天龍……あの名前が……また心に浮かぶなんて?」
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昨夜の夢の記憶が、ゆっくりと甦る。
> 彼の顔は氷のように冷たくも、海のように深く… その風貌は傲慢で、自由奔放――これまでの誰とも違っていた。
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彼女は草の上に腰を下ろし、胸中は乱れに乱れる。
片手を左胸に当て、激しく脈打つ心臓を感じた。
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> 「私は……本来、玉女派を継ぐはずの者。」 「清らかで、俗に染まらぬ心を持つべき人間なのに……」
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> 「それなのに、たった一つの眼差しだけで……」 「たった一度の出会いで……」
彼女は、呆然としたまま動けなかった。
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> 「情児……あなた、何を考えているの?」彼女は小声で囁いた。 「あなたは何者? そして彼は……一体誰?」
だが、心は理性の命令に従おうとはしなかった。
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再び浮かぶ彼の姿――冷たい瞳、黒衣を翻し天地の間に佇むその影。
百人の高手を相手にしても、一歩も退かぬその姿。
> 「あんな人を……心が動かぬはずがない。」
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風が木々を揺らし、まるで彼女が言えない想いをそっと囁いてくるかのようだった。
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> 「私……恋をしてしまったの?」
彼女はそっと自らの唇に触れた。そこにはまだ夢の中の熱が残っているような気がした。
頬は赤く染まり、目はうつろに、鼓動は軍鼓のように鳴り響いていた。
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> 「これが……七情劫? 心の試練というの?」 「違う……これは現実。私の人生で初めてのときめき。」
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情児はゆっくりと立ち上がり、剣をしっかりと握る。
だが、その眼差しはもはや鏡のような静けさではない。
消せぬ炎がその奥に燃えていた。
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> 「もし運命が彼に出会わせたのなら――」 「すべてを捨てても、私は後悔しない。」
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そして、彼女は理解した。
この瞬間から、自分の信じてきた理想も、守ってきた秩序も、すべてが覆されると。
なぜなら――
> 彼女は、天龍を愛してしまったのだから。
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第23章・完




