22.朝廷の嵐の中に佇む少女の影
秋の訪れがわずかに感じられる頃、陽光が武芸修練の庭「四万城」全体を金色に染め上げていた──皇宮内に特別に設けられたこの場所は、皇子や皇女、近衛の精鋭たちが武芸を鍛えるための修練場である。
白樺の梢を優しく撫でる風が、黄ばんだ葉をくるくると舞い落とし、青石が敷き詰められた地面に静かに降り積もる。その堅牢な石床の上には、シュバッ──という鋭い風切り音が連続して響いていた。
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広々とした演武場の中央、純白の衣をまとった一人の少女が、しなやかで柔軟な身のこなしで三人の近衛武人と対峙して剣舞を繰り広げていた。蝶が花を舞うように優雅な身のこなし、しかし一撃一撃の剣閃は鋭く、空気をも裂かんばかりの鋭利さを帯びていた。
──趙玉。
現皇帝の第二皇女である。
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絢爛たる宮廷に生まれ育ちながらも、彼女は他の貴族令嬢のように柔弱さを見せたことはなかった。
幼き頃より胸の奥に宿した意志──それは、金の鳥籠に閉じ込められる花であることを拒み、
そして、権力の波に流されるだけの存在では終わらぬという、強き決意であった。
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「姫様、次の一撃は危険です! どうかご注意を!」
中年の近衛が険しい声で忠告しながら、一閃、剣を横薙ぎに振るう。
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キィン──!!
鋼が鋼を打つ音が耳を突き、火花が陽光の中に散る。
趙玉は体をひねって回避し、風になびく黒髪が絹のように空を舞う。そのまま体を回転させ、右手の剣を滑らかに振り返し、反撃に出た。
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「おお……見事だ!」
一人の近衛が後退しながら手を震わせ、唇を引き結ぶ。
「姫様は……もはや以前の姫様ではない。」
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今の彼女の剣術は、もはや宮女たちから教わった初歩の型ではなかった。
踏み出す一歩ごとに“湧泉”のツボへと力が集まり、
一太刀ごとに、微かな殺気が漂う──まだ人を殺すには至らぬが、見る者に畏怖を与えるには十分だった。
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「この一年……姫様は一日も休まず剣を振り続けておられた。
王族でこれほどの意志を持つ者を、私は見たことがない」
三人目の近衛がそう呟き、彼女を敬意に満ちた眼差しで見つめた。
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しかし──
ドンッ!!
趙玉は息を荒げ、剣を持つ手が一瞬震える。
先ほどの一撃に、全ての内力を込めて三人の連携を防いだが、直接受けてはいないとはいえ、衝撃が胸に響き、気血が逆流する。
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「……ゴホッ」
小さく咳き込み、薄紅の唇が震える。額には汗が滲み出ていたが、瞳はなおも澄んで輝いていた。
誰も口には出さぬが、三人の近衛はすでに認めていた──
もし一対一で戦えば、彼女の十手を凌げる者は誰一人いないと。
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「あと少し……ほんの少しだけ気脈が深まれば……
姫様は、近衛将軍ですら恐れる存在となろう」
誰かが、そう呟いた。
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趙玉は剣を下ろし、一歩後ろへ退く。
呼吸を整える彼女の頬は、内力の巡りによって紅潮していたが、
その瞳には、どこか悔しさが滲んでいた。
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「私は……まだ足りない……」
風のささやきのように小さな声で、自らに言い聞かせる。
「この程度では、後宮の波に呑まれずに立ち続けることなどできぬ。
まして……彼の隣に立つ資格など……」
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ゆっくりと顔を上げ、遥かなる蒼天を仰ぐ。
その煌めく瞳には、忘れ得ぬ一つの名が、はっきりと刻まれていた。
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「天龍──」
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彼が忽然と姿を消してから三年、
それでも、その名は未だ彼女の心に嵐のように渦巻き、静まることはなかった。
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今もなお、江湖では語り継がれているという──雷鳴のごとき噂が。
「天龍──百の高手を一夜で打ち倒した神童!」
「ただ一人で天師少林へと乗り込み、三撃で玄覚神僧を破った!」
「太清武道までもが捕縛を試みたが、派遣された全員が返り討ちに遭った!」
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一人──一剣──そして一つの江湖。
一人──一志──そして一つの天下。
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その気高き皇女は、そっと呟いた。
「もし本当にそんな人物が存在するなら……
私たちのような小さき者に、この世に居場所など残されているのだろうか……」
「もし機会があるのなら──たった一度でいい、彼に会ってみたい……」
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秋風が再び舞い、落ち葉の音がそっと耳元を撫でる。
陽光の中、彼女の長い髪が風に舞い、
その儚き姿は、まるで霧の中に咲く雪蓮のように、孤高にして美しかった。
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だが誰も知らぬ──
運命はすでに動き出していたのだ。
やがて彼女は、嵐の中心に立つ彼の傍らへと導かれるだろうことを──
夕暮れ時、黄昏の光が四万城の城壁を淡い金色に染め、まるで蜜のようにきらめいていた。太陽は遠くの山々の向こうへと沈みかけ、かすかな光だけが皇宮の古めかしい建物を照らしていた。湿った土の匂いが風に溶け込み、ひんやりとした静けさがあたりを包んでいた。
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趙玉は自分の刺繍室に座っていた。そこは静かで温もりのある空間だった。手には鋏を持ち、白い布の刺繍に集中しているように見えたが、その心は別のところにあり、江湖から伝わる数々の噂へと意識が流れていた。
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目線を上げると、部屋の扉が静かに開かれ、ひとりの禁衛軍が入ってきた。彼の手には巻物が握られており、顔は厳しく引き締まっていた。彼は深く頭を下げ、恭しく言った。
> 「姫様、こちらは江湖より届いた天龍の肖像画でございます。朝廷の命により、お届けいたしました。」
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趙玉は一瞬驚きの表情を浮かべ、顔を上げた。その瞳にはわずかな高揚と、抑えきれない好奇心が交錯していた。彼女はすぐに立ち上がり、巻物を受け取って慎重に開いた。
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巻物の中に現れたのは、ひとりの少年の姿だった。
彼の目は深く、決断力に満ちていながらも傲然とした光を秘めていた。端正で傷一つない顔立ち、玉のように白く輝く肌。だがその中には、まるでこの世のものではないかのような冷ややかさが漂っていた。漆黒の衣に神秘的な紋様が刻まれ、その姿は他を圧倒する威光を放っていた。
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彼女はその姿に目を奪われた。まるでその目の奥に潜む力を感じ取るかのように――見る者すべてを見透かすような視線だった。趙玉はその肖像から発せられる冷気に、全身が包まれるのを感じた。彼はまるで、この世の一切を煩わされぬ存在のようだった。
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「天龍……」趙玉はその名を小さく呟いた。胸の内に、言葉にならぬほどの強烈な感情が湧き上がった。
生まれて初めて、彼女は説明のできない渇望を感じた。
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彼女の手が肖像の上を滑り、瞳は決意の光を宿していた。
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> 「この男は誰なの……?江湖の噂が真実なら……きっと、ただ者ではない。」
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禁衛軍の兵士は黙ったまま立っていたが、彼の眼差しには慎重さが浮かんでいた。彼は知っていた。趙玉にとって、天龍のすべての情報は極めて重要であることを。
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> 「その通りでございます、姫様。」と禁衛兵は静かに口を開いた。「江湖では、彼は数百年に一人の天才武人と呼ばれております。六大門派ですら警戒しており、数々の武林の強者たちとの戦いにもすべて勝利したと聞きます。」
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趙玉は眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。
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窓の外では風がそよぎ、落ち葉がカサカサと音を立てていた。黄昏は徐々に色を失い、闇が世界を包み始めていた。しかし、趙玉の思考は肖像の彼――天龍から離れることはなかった。
彼はもはや「名前」ではなかった。彼は彼女の心に住みついた影となった。
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それは彼しかいない。
ただ彼だけが、趙玉のすべてを忘れさせることができる。
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趙玉は心の中で問いかけた。
天龍こそが、自分の運命を変える唯一の存在なのではないか――?
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彼女の脳裏には、再びあの噂がよみがえった。
> 「天龍――ひとりで天下に立ち向かい、今やその名を知らぬ者はいない。彼はもはや人間ではない、“力の象徴”だ。」
> 「彼は江湖を吹き抜ける新しい風。古い秩序を打ち破り、もはや誰も彼を止めることはできない。」
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趙玉の胸に、言いようのないときめきが湧き上がった。ずっと心の奥で燻っていた願望が、いま爆発した。自由、力、そして誇りに満ちた感情が、彼女の心を激しく震わせた。
彼女は初めて、自分の中に燃え上がる炎を感じた。
それは解放だけでなく、巨大な力への渇望だった。
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「彼は……伝説などではない。」
趙玉は静かに言った。目を上げ、天龍の肖像を見つめる。その瞳は、夜空に瞬く星のように輝いていた。
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彼女の声が響いた。しかし、刺繍室の静寂の中、応えるのは自らのため息だけだった。
夜がすっかり訪れ、四万城の空には星々がきらめいていた。しかし、趙玉の小さな部屋にはまだ灯りがともされ、その柔らかな光は、彼女が丁寧に刺していた白く輝く布に映えていた。
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趙玉は小さな机の前に座っていた。手には彼女が武術の稽古でいつも使っている木剣があったが、今回は稽古のためではなかった。彼女の目は、禁衛から届けられた天龍の肖像から離れることができなかった。
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彼女は静かに絹の布を撫でながら、少年の姿に心を奪われていた。その姿は幻のようでありながら、心の中では鮮明に焼きついていた。その中には、もっと知りたいという思い、会ってみたいという願い、その強さをこの目で確かめたいという渇望が渦巻いていた。
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なぜだか分からない。ただ、どうしようもなく強く引き寄せられているような感覚だった。
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趙玉は立ち上がり、刺繍の机へと歩み寄った。彼女は途中まで仕上げた白い布を見つめながら、胸の中に新たな感情の波が押し寄せてくるのを感じた。考えるより先に、心の嵐が彼女を突き動かしていた。
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彼女は天龍の肖像を手に取り、数日前から縫い始めていた衣に、その姿を刺繍し始めた。針が布に触れるたび、まるで心臓が静かに鼓動を打つかのように、ひと針ごとに想いが込められていった。
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彼女の手は糸の上を優雅に滑り、細く繊細な刺繍の線が、彼女の手によっていっそう柔らかく、美しくなっていった。しかし、今この瞬間、彼女が縫っていたのは単なる衣ではなかった。そこに縫い込まれていたのは、彼女の想い、届かぬ憧れ、言葉にならない願いだった。
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天龍の姿は、一本一本の刺繍の線に浮かび上がっていった。鋭い眼差し、少年の毅然とした顔立ち。そのすべてが、細部まで完璧に描かれていた。
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時は静かに流れ、趙玉は夜通し刺繍を続けていたことにも気づかなかった。窓から朝日が差し込むころ、ようやく刺繍は完成した。
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だが、語るべきは衣が完成したことではない。彼女はその衣を抱いたまま、眠りについていたのだった。
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まだ完成していない衣を胸に、彼女は天龍の肖像をそっと抱きしめ、深い眠りの中へと沈んでいった。その夢の中、天龍の姿はかつてないほど鮮明に浮かんでいた。
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夢の中で、彼女は高くそびえる山の頂に立っていた。そこには天龍も立っていた。彼の眼差しは彼女を見ず、ただ前を見つめていた。まるでこの世に恐れるものなど存在しないかのように。
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趙玉は言葉を発さなかった。ただその瞬間、彼女は彼の目に宿る強さと揺るぎなさを感じ取っていた。それは、彼女が長い間、心の奥で求めていたものだった。
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目を覚ましたとき、朝の光が瞼を照らし、彼女は自分が刺繍した衣を抱いたまま眠っていたことに気づいた。しかし、夢で見た天龍の姿は、まだ心の中に鮮明に残っていた。
彼の眼差し、その気迫――すべてが、彼女の心の奥深くに刻まれていた。
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彼女は静かに息をつき、心の中で問いかけた。
> 「もしいつか……本当に彼に会えたなら、私は彼の人生の一部になれるのだろうか?」
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その問いに、答えはなかった。
あるのはただ、朝の光が部屋を照らし、彼女の心の暗闇を少しだけ和らげること。そして、それと引き換えに、決して消えることのない印を胸に残していった。
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天龍の影――
それは、決して彼女の心から離れることはない。
朝の陽射しが古木の枝葉を通して屋敷の小道に降り注いでいた。
清楚な衣を身に纏った趙玉は、石畳の道を静かに歩いていた。時折、舞い落ちる花びらを見つめるが、心はどこか上の空だった。
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今日は屋敷の周囲を散歩していた。
天龍の噂を耳にしてから、説明のつかない感情が胸に宿り始めていた。
その名を聞くたびに、背筋を電流のようなものが走る。
それはただの憧れではなく、深い情愛――そして、これまで感じたことのない激しい渇望だった。
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彼女が民家の並ぶ通りを歩いていたとき、ひそひそとした話し声が耳に入った。
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> 「天龍は私たちの唯一の希望だ……」
「彼ほど強い者はいない。彼が立ち上がれば、すべてが変わるはずだ!」
「この数年、彼はすべての強者を打ち破ってきた。彼を止められる者などいない!」
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その称賛の声は波のように広がり、趙玉は思わず立ち止まった。
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彼女は周囲の人々を見上げた。
母親たちも、村の老人たちも、誰もが笑顔で天龍の話をし、希望に満ちた言葉を交わしていた。
彼らは、彼こそがこの時代の真実であり、唯一の希望だと信じているのだ。
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趙玉はゆっくりと歩を進め、彼らの言葉をもっとはっきり聞こうとした。
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> 「天龍が立ち上がれば、もう朝廷の圧政に苦しむことはない」
「彼こそが古き規律を打ち壊し、すべてを変える者だ」
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趙玉の心に、不思議な感情が込み上げてきた。
自分は高貴な身分の皇女。これまで何度も賞賛の言葉を耳にしてきたが、
名も知らぬその男――天龍の話だけが、なぜか胸を締めつけるように感じられた。
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彼女はしばらくその場に立ち尽くし、称賛の声に耳を傾けた。
やがて気づいたのは、村人たちの視線が一斉に天龍へと向けられているということ。
まるで、彼は神のように崇められていた。
その事実が、彼女の心にかつてないほどの渇望を生んだ。
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彼女がさらに近づこうとしたその時――
母親たちや村人たちは皇女の存在に気づき、
まるで何かを隠すかのように、急いでその場を立ち去った。
趙玉には、それが彼らの何かを守ろうとする姿に見えた。
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彼女は去っていく人々の後ろ姿を見つめながら、
胸の奥に曖昧な疑念が湧き上がってくるのを感じていた。
だが、視線を前へ――天龍へと向けた瞬間、
その迷いは決意に変わっていった。
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趙玉はきびすを返し、早足で宮殿の方へ向かった。
「希望の光」「すべてを変える者」――
その言葉が、心の中で何度も繰り返されていた。
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そして、一つの強い決意が彼女の胸に芽生えていた。
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趙玉は顔を上げ、果てしない空を仰いだ。
その瞳には、何か大切なことを深く思い描く光が宿っていた。
もはや、彼女を止められるものなど何もなかった。
心の中には、はっきりとした一つの像が浮かび上がっていた――
それは、天龍。
彼に会いたい。彼の世界の一部になりたい。
ただの戦友ではなく、彼と共に一生を歩む存在として――
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趙玉は静かに、しかし力強く心に誓った。
> 「必ず……私は彼の妻になる」
「誰であろうと、どんな勢力であろうと、私は絶対に邪魔させない!」
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こうして、その決意は趙玉の胸に深く刻まれた。
揺るがぬ瞳で未来を見つめ、彼女は確かな歩みで前へ進んだ。
そこには、天龍が待っている。
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― 第22章 終 ―




