Episode 148
【チャン家の城館――翌朝 午前8時12分】
朝の光がそっとカーテンをすり抜け、まるで春の霧のように柔らかな黄金色のヴェールを、私の頬にそっと塗り重ねていく。
私はまだ怠け者のようにベッドに横たわったまま、片手を額にあてていた。夢と現実の狭間に漂いながら、脳裏はまだ朧げな靄の中にあった。
カチャリ――
扉が静かに開く音。
足音はまるで霧の中の影のように微かで、気配だけが忍び寄る。
そして、あの慣れ親しんだ、どこか甘く調子っぱずれな声が響いた。
> 「ねえ、ダーリン〜♪ 起きて〜!チケット取ったよ〜ん!」
私はうめき声を漏らし、布団を頭まで引っ被った。
> 「……また何のチケットよ……やっと寝ついたばっかなんだけど……」
> 「ハロン・オーシャン・ギャラクシーへの旅行チケットだよ〜!四日三晩のパッケージ♪」
私は小さく舌打ちした。
> 「……行かない。灼けるような太陽、足にまとわりつく砂、人混みに荷物の山……疲れるだけだろ……」
> 「へぇ〜?でもこの前、あの20メートル級の怪獣に、まばたき一つせずに飛びかかった人がそんなこと言うんだ?」
> 「あれは生き残るための戦いだ。これは……旅行だ。旅行ってのはな、ある意味もっと疲れるんだよ……」
> 「つまり――奥さんとの旅行のほうが、モンスターとの死闘より怖いってことね?」
声の調子が、すうっと冷たくなっていく。
返事をする間もなく――
バキィ!!
> 「あだっ!あだだだッ!!耳っ!耳ちぎれるっ!!」
私はビリビリに電流が走ったように跳ね起きた。
> 「行く?行かない?」
> 「……行きます……今すぐでも……」
私は耳を押さえながら呻いた。
(なんでだろう……この子の耳ひねりは、この前の“天王柱牙”の蹴りより遥かに効く……)
---
【三十分後――一階にて】
私がまだトーストを咀嚼している間にも、彼女はすでにノートパソコンをカタカタと忙しなく叩いていた。口調は弾むように軽やかで、止まる気配がない。
> 「行きはね、超高速船“ステラ号”にしたよ〜。ハロン直通で、プレジデント・ビューのお部屋を予約済み!朝食ビュッフェに、インフィニティプール、プライベートビーチ付き♪……それにね、屋外のウェディングステージもあるんだって♡」
私は、カリッとトーストを噛みながら手が止まった。
> 「待って。ウェディング……ステージ?」
> 「あ〜あ〜〜間違えたぁ〜!えへへっ、誕生日パーティ用のステージって意味〜!変な疑いかけたら、楽しくなくなるよ〜?」
そう言って彼女はベーッと舌を出した。
私は目線を横に流しつつ、喉の奥でフフンと笑った。
> 「……俺の誕生日、まだ数日先じゃん。準備早いな?」
> 「何言ってるの?当日になって予約取れなかったらどうすんのさ?」
彼女はそう言いながら視線を逸らした。
けれど私は気づいていた。
その一瞬の横顔――
あれは「嘘」ではなかった。
何か……もっと深い「想い」を、隠そうとしていたのだと。
---
【私は彼女の背中を見つめた――予約確認メールを打っている間】
髪はゆるく結われ、背筋はすっと伸びている。指先がキーボードの上を滑るように踊る。
ふと、私は思った。
――いつからだろう、こんなにも穏やかな朝を迎えるようになったのは。
警報もない。
逃げ惑う必要もない。
血の匂いも、硝煙もない。
あるのは、静かに響くキーボードの音。
部屋に漂う薄いコーヒーの香り。
そして、ホテルの予約が取れたときに、ひとりでふわっと微笑む彼女の横顔だけだった。
---
【彼女――アンズの内心(昨夜の独り言)】
私は眠ったふりをしていたけれど、本当は――全部聞いていた。
> 「十八歳……彼が本当に“大人の男”になるとき。」
> 「そのとき、最初に手を取るのは、私でありたい。」
> 「海辺の砂の上で、夕焼けを浴びながら……彼の手を握って、こう言いたい。」
> 『ジエ・レン、私は……あなたと婚約したい。みんなの前で。』
そのときの声が、今も胸の奥に焼きついて離れない。
---
私はベッドの下から古いリュックを引っ張り出して、荷造りを始めた。
耳の痛みのせいか、それとも別の理由か――わからないけれど。
ただ、確かに感じていた。
「……行きたい」と。
海のためじゃない。
誕生日のためでもない。
あの瞬間――彼女がその言葉を口にするときの「目」を、どうしても見てみたくて。
---
【ハロン、俺たちは今――向かっている】
【超高速船“ステラ号” | カプセルベッド内 午前10時46分】
船はまるで夢の中を進むように、静かに、滑るように走っていた。
廊下の間接照明が淡い金色の光を投げかけ、それが静かに私の頬を撫でる。
私は横向きに寝そべり、頬に手を添え、前髪が少し額に垂れていた。
――なぜだろう。
幾多の死線を越えてきたはずなのに、こんなにも深く、静かに眠れるのは初めてだった。
轟音もない。
金属音も怒号もない。
ただ、隣のベッドから聞こえる、一定の呼吸と、安らかな心音だけがある。
そのとき――
布団の中で、小さな音がした。
くすくすと微かな笑い声。
アンズだ。
私は寝たふりを続けた。
彼女は私が熟睡していると思ったのか、毛布を頭までかぶりながらスマートフォンを取り出し、ある番号を押した。
ツー…ツー…
相手が出る。
男性の、落ち着いた低い声。
アンズの父――グオ・クアンだった。
> 「……もしもし?」
> 「……パパ?少しだけ、いい?」
> 「うん。もう着いたのか?」
> 「ううん、まだ船の中。でも……別のことで話したくて……」
私は眉をひそめた。
こんなふうに、こっそり父親に電話するなんて――
> 「パパ……ジエ・レンの誕生日、もうすぐでしょ?」
> 「ああ。何か考えてるのか?」
> 「……彼に、婚約を申し込もうと思ってるの。」
鼓動が、一瞬止まった。
アンズ……
> 「海の上で、静かに……でもちゃんとした舞台で。ゲストも呼んで、サプライズにしたいの。」
唇を噛んだ。
驚きと、……それ以上の震え。
殺し屋として生まれた私が、
誰かに、
それもこんなに綺麗な女の子に――
「婚約したい」と選ばれるなんて。
心臓の鼓動が、痛いほどに響いた。
父親の声が、数秒間の沈黙のあとに、低く、けれど深く暖かく響いた。
> 「……バカだな、お前は。」
> 「パパ?」
> 「父親が自分の娘を託す相手なら……“18歳になってから”なんて条件はいらない。」
胸が詰まった。
アンズはきっと――泣いている。
見えないけれど、私は感じる。
> 「パパ……それって……」
> 「承知どころか、オーシャン・ギャラクシー側に直接連絡して、式の準備を整えてやる。ジエ・レンを、正式に……私の婿として迎えたい。前から、そう思っていた。」
私は布団の縁を握りしめた。
胸の奥が熱い。目の奥も熱い。
私が……「受け入れられた」。
父としての言葉で、彼はそう言った。
> 「……パパ……」
> 「二人が幸せであるなら、それだけで十分だ。」
通話が切れた。
毛布の中で、彼女の呼吸がわずかに乱れる音。
たぶん彼女は、スマホを胸に抱きしめている。
たぶん、目を赤くしながら、微笑んでいる。
私は振り向かなかった。
ただ、天井を見つめていた。
その間接照明が、まるで星の帯のように続いていた。
> 「婿」――たった一言で、人生のすべてが変わったような気がした。
枕の下で、私は拳をぎゅっと握った。
もう私は、殺し屋じゃない。
もう私は、拒絶された迷い子じゃない。
私は、ジエ・レン。
彼女が選んだ男。
彼女の父が、「婿」と呼んでくれた、ひとりの人間。
そして今――私は、初めて本気で願っている。
「普通の人生」を。
アンズのために。
あの目を見たいから。
彼女が、あの言葉を言うときの――
> 「今度こそ、絶対に、あなたを逃がさないからね。」
【ハロン・オーシャン・ギャラクシー・リゾート ― メインロビー 午後2時02分】
自動ドアが滑らかに開くと、海風が一陣の光とともに流れ込んできた。
潮の香りと、遥か彼方から届く波音が、夏の夢の始まりを告げるようだった。
天井高く伸びるクリスタルのアーチは太陽を映してきらめき、
磨き上げられた白い石の床に、ピアノの音色がやわらかく降りそそぐ――
まるで、昼下がりの海辺で揺れる潮騒そのもののように。
ジエ・レンは片手でスーツケースを押し、もう一方の手をポケットに突っ込んでいた。
その表情はどこかけだるく、眩しさに目を細めている。
アンズが腕を絡めてくる。白いワンピースが風にふわりと舞い、髪が気まぐれに空を撫でる。
彼女の瞳は宝石のように輝き、辺りを見回していた。
> 「映画のワンシーンみたい……
ねえ、すっごく高そうじゃない?」
> 「前回の屋根裏部屋よりは、な。」
ジエ・レンは肩をすくめた。
> 「ちょっとぉ、それは…まだ好意なかった時でしょ? 今は?」
アンズは指先で彼の額を軽く弾いた。
---
「いらっしゃいませ――」
フロント係の声が、優しく響く。
だが、その直後。聞き慣れた声が、背後から割り込んできた。
> 「チェックインは不要だよ。俺がこのリゾートのオーナーだから。」
現れたのは――リ・トゥアン。
白いシャツの袖をまくり、首元のボタンは数個外している。
鎖骨が覗く胸元に、銀色に輝く銀河のロゴ――リ家の象徴。
> 「うちのリゾート、三つのうちの一つだよ。今日たまたま視察で来たんだ。
まさか……国民的カップルに遭遇するとはね。」
ジエ・レンは眉をひそめ、警戒を隠さない。
> 「そんな偶然、寒気がするな……」
一方でアンズは、ふっと笑みを浮かべ、横目でリ・トゥアンを見ながら優しく言った。
> 「だったら、いい機会かもね。」
> 「ん?」
彼は目を細めた。不思議な胸騒ぎが、心に差し込む。
> 「手を貸してほしいの。
大きなことを――
頼みたい。」
---
【三階 会議室 ― 午後3時】
ステージの設計図、宴会の座席配置、招待者リスト――
アンズは次々と資料をテーブルの上に広げていった。
リ・トゥアンは腕を組み、あごに指を添えてじっと見つめる。
その眼差しには、一瞬の揺らぎもなかった。
> 「婚約式?
しかも、ビーチで?
しかも、本人にはまだ何も知らせてないのか?」
> 「うん。」
アンズは静かにうなずいた。
「夕暮れ時。
キャンドルと花火、そして親しい友人たち。
父も一緒にステージに立つ。
静かで、それでいて荘厳な……そんな時間にしたいの。
協力してくれる?」
リ・トゥアンは窓の外を見た。
夕暮れが海を染める。
空の色は徐々にオレンジへと変わり、波のきらめきは砕けたクリスタルのようだった。
やがて彼は、小さく息を吐いた。
> 「……昔、あの場所に並ぶのは、自分だと思ってたよ。」
アンズはそっとノートを抱きしめた。
> 「トゥアン……」
彼は微笑み、静かにうなずいた。
> 「心配するな。
浮きステージも、花火も、指輪も――
全部、俺が手配する。
うちは毎月ウェディングやってるから、慣れてるよ。」
> 「ありがとう……
ほんとに、ありがとう。」
リ・トゥアンは斜めに首を傾けた。
その視線は、彼女の心の奥に触れたかのように、深く、穏やかだった。
> 「でも、ひとつだけ――」
> 「彼に、涙を流させないでくれ。
二度と。もう……絶対に。」
アンズは唇を噛み、ただ小さくうなずいた。
何も言わずに。
---
【オーシャン・ギャラクシー プライベートビーチ ― 午後5時前】
潮風が心地よく吹き、細かい砂が足元に沈む。
海の香りが頬を撫で、遠くには波の音が微かに響いていた。
目の前の浜辺は静かで、工事の音だけが響く――
木材を打つ音。金属の擦れ。数人の作業員が舞台らしきものを組み立てている。
私は眉をひそめた。
……あれは、一体?
> 「ねえジエ・レン!UFOスライダーしよーよー!」
遠くからアンズの声が聞こえた。
振り返ると、彼女が水遊び場の近くに立っていた。
濡れた髪が頬に貼りつき、腰に巻いたバスタオル。
手には氷入りのドリンク。滴る水が手の甲を濡らしている。
私は目を細めて見つめながら、彼女の方へ歩み寄った。
> 「さっきは一緒にやらなかったの?」
> 「一回すべったら、もう十分!心臓止まるかと思った~」
> 「ふふ、女の子って案外怖がりなんだな。」
> 「怖がりじゃないよ。ちゃんと“引き際”を知ってるだけ。」
私は笑った。
言い返さないことにした。
彼女の、そんな少しズレた強がりが……不思議と、胸を掴んで離さない。
> 「今夜、何食べる?」
私は砂を蹴りながら聞いた。
> 「ひ・み・つ♡」
> 「えぇ?荷物少ないんだから、豪華なとこ行けないよ?」
> 「大丈夫。何着ててもいいよ――
来てくれさえすれば。」
> 「……なんか、何か企んでるだろ?」
> 「うん。」
> 「こわいわー……」
私はじっと彼女を見た。
彼女は視線を避け、ストローを噛みしめる。頬が、ほんのり赤く染まっていた。
---
【水のアトラクションの中 ― 石段にて】
私はびしょ濡れのまま石段に座り、心臓の鼓動がまだ落ち着かない。
隣に座るアンズが、ペットボトルを差し出してくれた。
受け取り、一気に飲む。
> 「なんかさ、お前変だよ?」
> 「え?どこが?」
> 「ずっとスマホ見て、海見て、またスマホ。何かあった?」
アンズは首を振った。
そして、静かに私の目を見つめながら言った。
> 「待ってるの。ただ――ひとつの瞬間を。」
> 「どんな?」
> 「……来ればわかるよ。」
私は肩をすくめた。
こういう曖昧な言い方、彼女は得意だ。
でも最近になってやっと、私は見えてきた気がする。
その「ふざけて見える」彼女の奥に、
ちゃんと未来を考え、
何かを守ろうとしてる女性が、確かに存在してることを。
---
【夕暮れどき】
太陽が海の端に沈みかけ、空と海が金と赤の光で満ちていた。
風が強くなり、波が白く泡立つ。
私は手すりにもたれ、遠くを見つめていた。
どこかで、舞台が組み上がっているのかもしれない。
灯りがともり、白いドレスが吊るされ、誰かがその瞬間を……何年も待ち望んできた。
だけど今の私は、ただこの瞬間を感じていた。
初めて手にした静けさ。
だけど同時に、
「自分には、これを守る資格があるのか?」という、得体の知れない不安。
> 「……ジエ・レン。」
後ろから、アンズの声が囁くように響いた。
振り返ると、彼女が近づいてくる。
風に揺れる白いワンピース。
目が、沈む太陽と重なって光っていた。
> 「着替えてきてね。
今夜、話したいことがあるの。」
> 「……どんな話?」
> 「一生、忘れられない話。」
> 「なんか、意味深……」
> 「意味深っていうか……セクシーなだけ♡」
私は吹き出しそうになった。
そんな言い回し、彼女だからこそ言えて、嫌味がなくて……
心が、ふわっと温かくなる。
> 「ジエ・レン、信じてる?」
私はうなずいた。
> 「ひとつひとつ、全部。」
彼女は微笑んだ。
その瞳は、夢見る少女と、大人の女性を同時に映していた。
> 「じゃあ、今夜――逃げないでね。」
> 「もし、逃げたら?」
> 「……探しに行く。」
> 「じゃあ、逃げ場所を見つけとくかな。」
> 「……それでも、泣きながら探す。」
> 「……」
> 「……見つかるまで、ずっと。」
私は黙ったまま、彼女を見つめた。
なぜだろう。心の奥が、ふわりとほどけた。
> 「探さなくていいよ。
……ちゃんと、そこにいるから。」
> 「本当に?」
> 「本当だ。
君がいる場所が――俺の居場所なんだ。」
---
私はまだ知らなかった。
この日の夕暮れが、どれほど深く、
どれほど決定的な“何か”を変えるかということを。
ただひとつだけわかっていたのは――
この瞬間から、もう“ひとり”ではなくなるということだった。




