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Episode 140

【早朝 ― 張家の城館】


カーテンの隙間から差し込む朝日が、裸の肌にそっと触れた。

部屋は静まり返り、聞こえるのは自分の胸の鼓動だけ──規則正しく、けれど混沌としている。


天井を仰ぎながら、仰向けで横たわる。

一晩のうちに、あの木目模様が少しでも変わったかなんて、わかるはずもない。

ただ、心の中で何かが掻き乱され、天地が反転したような感覚だけが残っていた。


動けなかった。

隣に──彼女がいたからだ。

私のすぐそばに寝そべり、乱れた髪を揺らしながら、腕を私の腰に回していた。

白い肌にはまだ昨夜の痕跡が、かすかに残っている。


ひとつのベッドに、ふたつの身体──そして、淡い紅の跡。


指先を軽く握ると、胸の奥に冷たい石が詰まったような感覚がした。


> 「……オレ、本当に……」

私は乾いた唇で、かすれ声を漏らす。




頭の中で、あいつの声が響いた。

あいつは、どこにでも割り込んでくる。


> 天龍:

「おめでとう。お前はもう、引き返せない一線を越えた。

奪ったのは肉体だけではない。

彼女の信頼、願い、そして少女としての青春そのものだ。

これからは、それを守る責任を学べ。」




私は沈黙した。


そうだ。

もう、戯れでは済まされない。

一時のときめきなんかじゃない。


彼女を見つめる。


彼女は目を開け、微笑んだ。

あの、言葉を奪うような微笑で。


> 「ん……朝なの?」

彼女は目をこすりながら、まるで私が消えてしまうのを恐れるかのように、私を抱きしめ続けていた。

「起きてよ、ダーリン……今日は授業もあるでしょ?」




私は……長くは見つめられなかった。

けれど彼女は、まるで昨夜のすべてが、ずっと望んでいたことだったかのように、私を見ていた。

躊躇いも、恥じらいもない。

彼女の瞳には、ただ一片の後悔もなかった。


> 「昨日の夜……夢じゃなかったんだよね?」

彼女のささやきは、まるで美しい夢を壊したくないかのように、か細かった。




私は頷いた。


言葉はいらなかった。

その一つの頷きが、すべてを語っていた。


しばらく、何も話さずに横になったまま。

ただ──この温もりだけが、もうすでにお互いの一部になっていた。


> 「ねぇ……学校まで送って、旦那さま♡」

彼女はそっと言って、布団を引き寄せながら髪を整えた。

その瞳は、新月の光のように潤んでいた。




私は笑った。


嬉しいからじゃない。

──自分がもう、子どもではいられないと悟ったからだ。


【学園への道 ― 早朝】


バイクを走らせ、彼女は背中にぴったりと身を預けている。

その温もりは、確かにそこにあった。

風が耳元を通り過ぎ、彼女の髪の香りが空気と混ざり合い、まるで私の血肉にまで染み込んでいくようだった。


> 「ねぇ……なんだか変な感じ。」

彼女が背中に顔をうずめながら、囁くように言った。

「変って?」

「自分がもう子どもじゃない気がする……昨夜のせいかな……」




私は答えなかった。

けれど、私も同じだった。

一夜の出来事だけじゃない。

──あの夜を経て、心の中の何かが変わり始めていた。


> 「ねぇ……」

彼女の声が、また呼びかけた。

「ん?」

「もし……赤ちゃんができたら、名前どうする?」




私はブレーキを思いきり握り、道端に飛び出しそうになった。


> 「ちょっ……朝っぱらから何言ってんの⁉」

「ふふっ、冗談だよ〜♡」

彼女はくすくす笑いながら、私の背中をぎゅっと抱きしめた。

「じゃあ、もし本当にできたら?」

「そしたら……ちゃんと産む。

もし逃げたら、霊界裁判に訴えるからね!」




私は笑った……けれど胸が少し痛んだ。

怖いんじゃない。

──自分が、本当に“まともに生きなきゃ”って思えたからだ。



---


【ステラ学園・校門前】


バイクが止まり、彼女が降り立つ。

白いスカートが風に舞い、長い髪が揺れる。

周囲の男子たちが、彼女に目を奪われるのが分かる。

私はバイクに寄りかかり、腕を組んでそれを見ていた。


> 「ねぇ、妬かないの?」

彼女がいたずらっぽく笑いかけてくる。

「妬かないよ。だって、昨夜誰と手を繋いでたか、俺は知ってるから。」

「やるじゃん♡ その答え、減点なし〜♪」




彼女はつま先立ちして、私の頬に軽くキスをした。

学園中の生徒たちの前で。


私は呆然と立ち尽くし、顔が真っ赤になっていた。


> 「じゃ、行ってきま〜す、ダーリン♡」

彼女は手を振りながら走り去っていった。




私はしばらくその場に立ち尽くしていた……

すると、背後から聞き慣れた声が響いた。


> 「うわ、結婚式にでも行くつもり?

昨日の夜、デート?それとも儀式?」

「……クォック・クオン。」

「顔、真っ赤じゃん。まさか──おいおい、

まさか本当に“壁越えた”んじゃないだろうな⁉」




私は何も答えず、肩をすくめた。


> 「うっそ……マジで⁉

オレ、お前が女に興味ないと思ってたのに!」

「……俺もそう思ってたよ。昨夜まではな。」




クォック・クオンは、しばし絶句した。


> 「……で、どうだった?」




私は彼を見て、真剣な目で言った。


> 「……快楽じゃない。

……重み、だ。」




彼は黙った。


私はバイクのシートに手を置き、

学園の門の上に広がる青空を見上げた。


> 「俺たち、ずっとガキのままだった。

“責任”って言葉の意味なんて、誰も本気で考えたことなかった。

でも今は……それが重荷じゃないって、初めてわかった気がする。」




> 「──それは、“人”なんだ。」




> 「生きる理由になる、たった一人の。」





---


【校庭 ― 数分後】


クォック・クオンは、教室へ向かう道すがら無言だった。


階段の手前で、彼が私の肩を叩いた。


> 「なぁ……これから、どうするつもり?」




> 「どうって?」




> 「もうすぐ戦技大会だろ。

彼女、出場させるつもりか?

それとも、お前が代わりに戦うのか?」




私は立ち止まった。


風が吹き抜ける。


脳裏に一瞬浮かぶのは──

戦闘服に身を包み、槍を構えて闘志に満ちた彼女の姿。

けれど、次の瞬間に思い出すのは──

昨夜、小さく漏らした声。

私の手を握りしめる、あの小さな手。

ベッドの上に残った、あの紅の痕。


拳を握る。


> 「俺が戦う。」




> 「ひとりで?」




> 「ひとりで。」




> 「彼女のために?」




> 「ああ。」



【月曜早朝 ― ステラ学園・大講堂】


まだ陽も昇らぬうちから、空気はじっとりと熱を帯び、

人の波は、まるで新年の村祭りのような賑わいを見せていた。


俺とアンダオは、生徒の群れをかき分けながら進んだ。

前方の舞台には、水田ほどの大きさの巨大スクリーンが鎮座している。

その前には、銀髪で細身、まるで洗濯竿のような姿の風紀教官が仁王立ちになり、険しい目を光らせていた。


> 「静粛にッ!

第八回戦技大会・公式対戦リスト──今より発表するッ!」




ざわついていた生徒たちは一斉に口をつぐむ。

何人かは浅い呼吸を繰り返し、喉を鳴らして唾を飲み込んだ。


スクリーンには、エリアごとにペアの名前が次々と表示されていく。


俺は呼吸を整えながら画面を見つめた。

アンダオは俺の手を握り、すでに汗ばんでいる小さな掌は、搾りたてのレモンのように湿っていた。


そして、13行目──まるで真夏の空に雷が落ちたように浮かび上がる文字。


> ペア:ディエット・ニャン & チュオン・アインダオ

エリアD ― 死神ゾーン




俺は眉をひそめた。アンダオは息を詰まらせて咳き込みながら呟く。


> 「……やばいよ……本当に死神ゾーンに入っちゃったじゃん……」




俺は静かに立ったまま、腕を組んで表示を見つめた。

まるで自分の墓標を眺めているような気持ちで、しかし微塵の恐れもなかった。


> 「ああ。でも、まだ死んじゃいない。

生きてるなら──ぶっ潰せるってことだろ。」




会場が一斉に騒ぎ出す。


> 「一番注目のペアがDブロックだってよ!」

「リ・トゥアンもいるし、あの蒼髪の流星ちゃんも同じブロックじゃん!」

「うわぁ……あいつら、詰んだな……」




俺は何も言わず。

アンダオはそっと俺の背に寄り添い、風が過ぎるような声で囁いた。


> 「もし私死んだら……あんた、一生独り身だからね……」




俺はふっと笑って、彼女の頭を撫でた。


> 「俺が先に死なない限り──そんな心配いらねぇよ。」





---


【大講堂・反対側 ― 特別選手席】


目線を送ると、すぐに目に入った。リ・トゥアン──


初対面のときとは、まるで別人のようだった。

黒いマントは蝙蝠の翼のように揺れ、赤く燃える瞳は火山の奥底のように暗く、静かに灼いていた。

背に負った剣から漂う殺気は、まるで砕かれた戦神の像が、命を集めて再び立ち上がろうとしているかのよう。


彼の隣には一人の少女がいた。

ひと目見てわかる──只者ではない。

長い蒼い髪、そして北斗の氷よりも冷たい目をしていた。

見るだけで、背筋が粟立つほどの冷気を纏っていた。


そして、彼女が甘くも冷たく凍りつく声で尋ねた。


> 「あれが……ディエット・ニャン?

弟くんが一週間も家族と口をきかないほど怒ったっていう、あの?」




リ・トゥアンは俺を一瞥する。

その笑み──それは喜びではない。

墓に花を手向けるような、哀しき宣告のような笑みだった。


> 「あいつは、闘技場で死ぬ。

そしてアインダオは──いずれ、俺のものになる。」




──俺には聞こえていなかった。

だが、目で語られた言葉は、すべて読み取れた。



---


【スクリーンの裏側 ― 誰も知らぬ場所】


学園のどこか、秘密の通信室。

黒服の影たちが、別のシステムで会場の映像を監視していた。


> 「神級ターゲットがついに闘技場へ送られたか……」




別の男が、蛇の抜け殻のように乾いた声で応じた。


> 「まずいな……

もし奴が全勝すれば、565番境界区の支配権がステラ側に傾くぞ。」




最後の一人が、かすかな声で告げる。


> 「……諜報工作、発動のときだ。」




──その時、俺はまだ何も知らなかった。


だが、自分の名前が“エリアD”に刻まれた瞬間──空が少し傾いた気がした。


恐怖ではない。


俺は知っていた。

──今回は、ただの「敗北」じゃ済まない。

……立ち上がれないように、される。



---


【校庭の片隅 ― 臨時ベンチ】


アンダオが石のベンチに腰を下ろし、両頬を手で支えて俺を見つめる。


> 「ねぇ、正直に答えて。

私とペア組んで、楽しい?」




俺は隣に腰を下ろし、ペットボトルの蓋を開けて渡した。


> 「楽しいさ。

お前が背中に隠れるたびに──

俺の心臓には、“守る意味”が蘇る。」




アンダオは吹き出して、水をひと口飲んでから、ふくれっ面で言った。


> 「みんな私のこと、“ただの飾り”って言うのよ。

人数合わせの“電球”だって。」




俺はそっと彼女の手の上に、自分の手を重ねた。


> 「電球だって──

光るべき瞬間に、ちゃんと輝ける。

……それに、お前だけが、俺を“壊せる”女だ。」




アンダオの頬が赤く染まる。

小さく舌打ちしてから、目を細めて聞き返した。


> 「じゃあさ……

もし夜、私がうっかり男子寮に迷い込んじゃったら……

“壊れる”?」




俺は彼女の瞳を見つめ、静かに微笑んだ。


> 「壊れないよ。

……俺は、守る。

開けるときが来るまで──ちゃんと閉じておく。」





---


死神ゾーンは、まだ扉を開いただけ。

けれど、俺にはわかる。


あの中にあるのは──

武器よりも危険なもの。


それは、人間。

感情。

そして、闇。


──俺は、すでに腹を括っている。



その日、朝日は早く昇った。

空は澄み渡りながらも、風は穏やかではなかった。

まるで――世界が何か大きなことを予兆しているかのように。


俺は桜と一緒にA区画で訓練していた。

学園の隅にある、年季の入ったその練習場は、

かつて命を懸けた者たちの汗が、一枚一枚の石床に染み込んでいる場所だった。


目を閉じ、彼女の風の一撃を一つずつ受け流す。

軽やかに、遊ぶように――

けれど、心はどこか落ち着かなかった。


さっきから…奇妙な気配を感じていたのだ。



---


> 「あなたが…“ジツメツニン”?」




その声は背後から響いた。

冷たく、それでいて澄み切った…

まるで夜明け前の霧が草原をなぞるような響きだった。


俺は目を開け、振り返る。


そこにいたのは――少女。

いや、“美”という存在が形をとったような、生きた幻だった。


月光の川のように流れる銀髪、

氷に似た銀色の瞳――冷たいのに、空虚ではない。


彼女は俺をじっと見ていた。

まるで俺という謎を、解くべき問いとして見つめている。

興味ではない――確信のために。


> 「私はハ・タニギ。

装備を届けに来た…それと、同じ《死神リスト》に名を連ねる者の顔を、

この目で確かめるために。」





---


俺は微かに笑った。


> 「ってことは――俺たちは、同じ運命を背負ってるわけか。」




桜が歩み寄り、俺の隣に立つ。

首を傾げ、問いかけた。


> 「あなた…リ・トゥアンとペアになった子?」




彼女はすぐには答えなかった。

視線は俺から離れず――やがて、氷の隙間から漏れる風のように、囁いた。


> 「あなたは…今まで出会ったどの戦士とも違う。

体の奥に…何か古いものがある。

まるで深淵の底に眠っていた、太古の力の気配。」




俺は肩をすくめた。


> 「そんな大したもんじゃない。

ただ…隣にいる人を、守れるようになりたいだけさ。」





---


彼女は背を向けた。

銀の衣が風をはらみ、氷のごとき歩みに従って流れていく。

まるで地面に触れていないように。


だが、光の壁の奥に姿を消す、その刹那。

彼女の視線が一度だけ、振り返った――ほんの一瞬、見逃しそうなほどの微かな目線。


俺はそれを、見逃さなかった。


それは、獲物を狙う者の目ではなかった。

不意に芽生えた何かに、心が揺れた者の、かすかな動揺だった。



---


【カット・学園西区訓練場】


リ・トゥアンは剣を振っていた。

かつての貴族の坊ちゃんの面影は、もうどこにもない。


今の彼は、ただの刃。

切るためだけに研がれた、赤い目の狂気の剣だった。

漆黒の鎧、背に帯びた剣からは死気が漂う――まるで地獄から逃げ出した鬼のようだ。


ハ・タニギが現れた。

肩には白銀の装甲――“白金神氷”の箱を背負っている。

氷の一族・バン族の紋章を胸に、彼女の衣は淡く輝く雪色。


伝説では、彼女の一族はただの“吐息”で惑星間の氷河系を凍結させたという。


> 「一族の要請通り、装備を持参したわ。」

彼女の声は、まるで音の単位そのもののように無駄がない。




リ・トゥアンが振り返る。

彼の視線は、彼女を埃のように払った。


> 「まだ物運びが好きかよ?」

その声には、嘲りと、わずかな挑発が滲む。




> 「いいえ。今回は――私も戦う。

試してみたい“新しい力”があるの。」





---


俺と桜は、少し離れたところで見ていた。

あの二人の冷たい応酬を見ても、心に波は立たなかった。


だが、あの女――ハ・タニギが俺に視線を送る。


ほんの一秒。

でも、俺にははっきりわかった。


彼女の鼓動が…一瞬、狂った。


俺は静かに笑った。

優越感じゃない。

ただ…その眼差しには、見慣れていた。


かつて氷の中に生きていた者が、

初めて“火”という存在を見つけた瞬間のまなざしだった。



---


> 「あの女…何見とるんやろな?」

桜がぽつりと聞く。唇を引き結んだ声には、抑えきれぬ嫉妬の熱があった。




> 「さあな。けど――あの目は、弱き者のものじゃない。」

俺の視線は、まだ彼女を追っていた。




去りゆく彼女の足取りは、さっきまでの完璧さを、わずかに欠いていた。



---


【裏庭・上級生たちの囁き】


> 「聞いたか? あのハ・タニギ、指先ひとつで都市を凍らせたことあるってさ」

「バン族の族長の娘だろ? 純血だってよ」

「そんな子が、なんでジツメツニンを気にするんだろ…」

「おいおい、勝手なこと言うな。たぶんただの警戒心さ…あいつ、危険だからな…」





---


俺はポケットから手を抜き、空を見上げた。


陽射しはまだ強い。

けれど、もう温かくはなかった。


なぜなら、俺の心の奥に――

銀の瞳をした、“一陣の寒さ”が忍び込んだからだ。



---


【ステラ技術部・個室】


クオック・クオンは新型エネルギー銃の調整中だった。

目は真剣でも、口元には意味深な笑み。


> 「ハ・タニギ、か…

あの目は完全に《心封じの術》にかかってる顔やな。」




横の技師が小声で尋ねる。


> 「…どうして分かるんです?」




> 「典型的な症状や。

最初に目線送り、その直後に風邪ひいたみたく顔そらす。

歩幅が0.3秒ズレる。呼吸も短くなる。

――片想い初心者にはありがちな兆候やな。俺も昔《戦心学科》で学んだわ。」




> 「でもさ…ジツメツ、

アンザクラちゃん、ちゃんと守りなよ?

あの子が《氷が溶けるその理由》なんて技を発動したら――ヤバいぞ。

氷は炎で溶けるけどな、

“溶ける覚悟を持った氷”は…たった一つの理由しか持たん。」





---


俺は、その部屋の前を通りかかり、全部聞いていた。


けれど、何も言わなかった。

説明も、否定もしない。


なぜなら――

未来がどうなるかなんて、分からなくてもいい。


ただ一つ、分かっているのは。


誰かが選ばなければならないということ。

すでに熟した愛を守るか、

それとも――芽吹いたばかりの冷たい痛みに、終止符を打つか。



---


> 「俺は強くない。ただ――

誰かが俺のせいで傷つくのが…嫌なだけ。」




そう呟いた俺の目に映るのは――

陽射しの中、遠ざかっていくハ・タニギの姿。


氷はもはや彼女の鎧ではなかった。

それは――心に刻まれた、傷跡だった。


車はゆっくりと張家の裏門へ向かって走っていた。夕暮れが空を染め、木々の合間からこぼれる柔らかな光が車内に影を落とす。


運転席に座る俺は、バックミラーに目をやりつつ、耳は風の音を聞きながらも、心は隣にいる彼女に向いていた。アン・ダオ――俺の彼女は、さっきからまるで木彫りの人形のように黙り込んでいる。窓の外では景色が流れ去っていくが、車内には彼女の静かな吐息だけが響いていた。いつもはほんのり紅い頬が今はしぼみ、目は腫れている。たぶん、こっそり泣いたんだろう。


俺はため息をつき、水面のように柔らかい声で言った。


> 「さっきから一言もしゃべらんやん。まだタン・ギのこと根に持ってるんか?」




彼女は窓の外を見たまま、答えない。ただ一度、小さく鼻をすすった。それだけで、まるで嫉妬と哀しみを一度に飲み込んだようなため息に聞こえる。


俺は頭をかきながら、空気を和らげようと苦笑いして言った。


> 「あのな、別に何もしてへんやろ。あの子はリー・トゥアンに荷物届けに来ただけや。俺には関係ないっちゅうに。」




その一言で、彼女はくるりとこちらを向いた。目には涙がいっぱいだが、それでも必死に気丈な顔を保とうとしている。か弱さと怒りがせめぎ合うようなその表情に、胸が締め付けられる。


> 「アンは……あの子の目つき、見えへんかったん?普通ちゃうやんか。けどな……しゃーないよな。うちは、あの子みたいに綺麗でもないし、魅力もないし…」




俺はブレーキをキュッと踏み、車を路肩に寄せた。ウインカーの光がチカチカと点滅する中、心の中の焦りがそれ以上の速さで点滅する。彼女の手を取り、優しい目で見つめながら言った。


> 「アン、何言うとるんや?お前の純潔を奪ったのは誰?毎晩、胸に抱かれて眠る相手は誰?昨日の夜、『もっと強くして…』って言ったのは、誰やった?」




彼女はぷいと顔を背け、真っ赤になった顔で俺を睨む。でもその目にはまだ涙の光が揺れている。猫みたいに怒ったふりをして、甘えてるんや。


> 「そんなこと……公の場で言わんといてよ…」




俺はそっと笑いながら、彼女の手を胸元にあてた。俺の心音が、彼女に伝わるように。


> 「アンに伝えたかっただけや。俺が好きなんはアンや。ずっと、アンだけや。初めて武術の練習でバナナの茂みに隠れて、こっそり泣いてたアンを見た時から…今まで、誰も心に入り込めてへん。」




アン・ダオは俺を見た。潤んだ瞳で、唇を少し噛みしめて。次の瞬間、彼女は体を寄せ、俺の首に手を回し、顔を俺の肩にうずめた。まるで安心できる匂いを探す子猫のように。


> 「……もうええわ、怒ってへん。でも……今夜は昨日の倍な。まだ足りひんねん。」




俺は声を上げて笑った。彼女の背中をそっと撫でながら、冗談っぽく言う。


> 「倍やて?ほな、今夜は寝られへんなぁ。」




彼女は俺の腰をつねって、耳元で甘えた声でささやいた。


> 「誰が……寝ていいって言うたん?」





---


【車外 ― 紫の花咲く丘に夕陽が沈む】


最後の一筋の陽光が空を金色に染め、窓ガラスに反射していた。車内にはもう何の音もない。ただ、心臓の鼓動、髪の香りが混ざり合う音、そして言葉にならぬ誓いが、そっと満ちている。


俺は彼女の手を強く握った。心の中で、ひとつの決意だけがこだまする。


> 「今夜……どんなことがあっても、アンをもう一度笑顔にしてみせる。」





---


午後四時ごろ、俺たちは中心公園に立ち寄った。すると、アン・ダオの顔色がぱっと明るくなった。どれだけ怒ってても、屋台の食べ物を見た瞬間に目が輝くなんて――ほんまに、かわええやつや。


> 「ねぇねぇ、鯛焼き食べたい~!それに、いちごアイス!あと黒糖ゼリー豆腐もっ!」




俺は肩をすくめ、彼女の手を引きながら笑った。


> 「あんた…市場ごと食う気ちゃうやろな?」




> 「だって今日は奢りやもん~♡」――彼女は舌を出して、イタズラっ子みたいに笑った。





---


人混みの中を並んで歩く。風が心地よく吹き抜け、焼き串の香ばしい匂い、キャラメルの甘い香り、子どもたちのシャボン玉遊びの声が、スピーカーの音と混じり合って賑やかに響いていた。


アン・ダオは黒糖ゼリー豆腐を抱えて、目を閉じてうっとりしている。まるで、心まで癒されるような表情で。


> 「昔な…よくお母さんとこうして来ててん。あの人、生きてた頃は、いっつも『女の子なんやから、食べたいもんは食べなさい。お腹にちょっとお肉ついてても、ホンマに好きな人はまるごと抱きしめてくれるから』って言うてたんよ。」




俺は黙ってうなずき、そっと彼女の額に手をあてた。


> 「その『ホンマに好きな人』……今、目の前におるやん。」





---


スケート場まで歩いてくると、アン・ダオが無理を言い出した。スケート靴を借りたいって。明らかに初心者なのに…。でも、あの目で頼まれたら、断れる奴なんかおらんわ。


三周で派手に転倒。尻もちをついて、顔をしかめてる。


> 「なんなんこの床!めっちゃ滑るやん…ほら、起こして~!笑わんといてよ!」




俺は笑いをこらえながら手を差し出す。


> 「誰もスケートせぇ言うてへんやん。調子乗ったら転ぶで~?」




> 「ええねん…アンを助けてくれるんやったら、百回転んでもええ。」――彼女はそう言いながら、頬を赤く染め、瞳をうるませて笑った。





---


日が暮れてきた。


帰り道、彼女は俺の背中におぶさって眠そうにしていた。お菓子、スケート、そして感情の波――全部に疲れているのが、伝わってきた。


> 「なぁ…帰ったら何するん?」――彼女は耳元でささやいた。




> 「風呂入って、ちょっと横になって、マッサージしてあげるわ。」――俺は素っ気なく答える。




> 「やや……アンは別のがいいの…でも今はもう……眠たいから……明日の夜にしよ?」




> 「ええよ。」――俺は静かに笑った。――「明日…絶対容赦せぇへんで?」




> 「ふふ…容赦してほしいなんて……誰が言ったん?」





---


帰りの車の中。彼女は俺の肩にもたれて眠っていた。静かな呼吸だけが、車内に漂っている。


俺は窓の外を見つめながら、心の中でそっと思った。


――他に何もいらん。ただ彼女が笑って、そばにいてくれたら、それでいい。


毎日、ただそれだけでいいんや。


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