14.太清宗主との決戦
夕方の風が嵩山の頂を吹き抜け、天地の嗚咽のように胸を締めつける。
斜めに差し込む夕陽が白い石畳の広場を照らし、そこに――
数千の視線を浴びながら、一人の少年が静かに佇んでいた。
白衣の少年。
背に斜めに背負った木剣。
袖に挟まれた、黄金色に輝く秘伝書。
そして……
神か魔かと思わせるほどの気迫――天地すら沈黙する。
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「……や、奴が……本当に出てきた……」
「一人で……誰にも止められずに……」
ざわめきは泰清の弟子たちの列の間を風のように流れ、
その誰もが息を呑み、心の中に波が立つのを止められなかった。
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その時、広場の奥から、
年老いながらも威厳を放つ一人の人影が歩み出る。
泰清宗の掌門――青玄真人。
風にはためく道服、身にまとった気迫は人を圧倒する。
少年を見据えるその眼差しは石像のごとく重く、
その奥には隠しきれぬ警戒と怒りが光っていた。
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「天龍よ!」
その声は天地に響く低く重い怒声だった。
「お前は宗門の秘伝書を奪い、弟子たちを重傷に追いやった。
本日――平穏に去れるとは思うな!」
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天龍はふと足を止め、頭を傾けて老者を見やる。
その唇には、わずかに嘲るような笑みが浮かんでいた。
> 「あぁ……止めたいのか?」
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怒りもなく。
焦りもない。
ただの問いかけ。
だがそれだけで、泰清の弟子たちの首筋に冷たい刃が触れたかのように震えが走った。
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青玄真人が剣を抜く――「シャキンッ!」
金属音が火のように紅い夕陽を映して鳴り響く。
> 「たとえ“泰清無極経”を悟ったとしても――
この泰清武道の威厳を、奪えると思うな!」
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「ほう……」
天龍は小さくため息をつき、首をかしげながら興味深そうに言った。
> 「ちょっと借りただけさ。読み終わったら返すかも。……返さないかも。
それだけで、ここまで大げさに?」
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風のように軽い言葉。
だが、その一言一言が、聞く者の胸を鋭くえぐった。
「借りただと……?」
彼にとって、千年の秘伝書などただの借り物か?
青玄真人は歯を食いしばり叫ぶ。
> 「傲慢な奴め!――この一太刀、受けてみよ!」
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ドンッ!!!
老者が地面を蹴ると、その体は空へと舞い上がり、
剣気が嵐のように巻き起こり、天を裂く!
「泰清破雲剣!!」
天地を逆らう剣――!
青い剣気が大気を切り裂き、空に長い亀裂を刻んだ。
まるで天を裂く傷口、血を流すかのように――
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広場全体が息を呑む。
誰もが目を見開き、
誰の心も激しく脈打つ。
> 「宗祖様が……あの技を……!
かつて西域の覇王を退けた、伝説の絶技を……!」
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だが――
渦巻く剣気の中心にて、
天龍はまったく動かなかった。
ただ、軽く――まるで肩の埃を払うように――片手を上げたのみ。
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シャッ……
白い光が一筋、天空へと走る。
剣気ではない。
掌打でもない。
それは――
ただの、一指し指の微かな動きだった。
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ドンッ!!!
空間が震えた――!
剣気の嵐は空中で止まり、
ひび割れ、砕け散り、
万の蒼き光となって流星のように地に降る!
青玄真人――空中で後退!
「ぐっ!!」
喉を詰まらせるような呻きとともに、
老いた体が弧を描いて吹き飛び、
空に一筋の血の線を描いた。
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「そんな馬鹿な――!!」
「宗祖様が……たった一本の指で……!?」
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誰もが信じられなかった。
誰もが言葉を失っていた。
泰清の弟子たちは全身を強張らせ、心臓が戦鼓のように打ち鳴る。
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天龍は静かに手を下ろし、
その瞳はただ一枚の落ち葉を見つめるかのように、平然としていた。
> 「もう一度忠告する……無駄なことは、やめておけ。」
広場の空気は今にも張り裂けそうなほど重苦しく、千人を超える視線が対峙する二人に注がれていた。天龍は泰然と立ち尽くしていた。一方の手には泰清無極経を、もう一方には何の変哲もない木剣を握っており、まるで一片の重みも感じていないかのようだった。
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青玄真人は冷や汗を流しながらも、必死に直立していたが、その足元は既に震えていた。先ほどの一撃で、自分がこの少年を侮れない存在であることを痛感していた。それでも、老練な意地が彼を支えていた。剣を強く握りしめ、戦意を込めて叫んだ。
> 「こんな奇襲程度で、わしに勝てると思うなよ!」
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天龍は冷たく笑みを浮かべた。その目は氷のように冷たく、しかしその笑みに込められた挑発は明白だった。
> 「奇襲? ただ、試しただけさ。お前がどこまでやれるのかをね。」
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そう言うと、天龍は軽やかに木剣を振るった。その一振り一振りは、まるで目に見えぬ斬撃のようでありながら、天地をも貫くような精密さを備えていた。殺気は皆無だったが、その剣技はまるで嘲笑の舞のようだった。
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「シュッ!」
木剣が空を裂くように振るわれた。青玄真人はそれを防ぐことができず、咄嗟に身を引いて避けるしかなかった。
> 「気をつけろよ、また転ぶと危ないぜ、老いぼれ。」
天龍は笑いながらそう言ったが、その言葉に敬意の欠片もなかった。むしろ、明らかな嘲りだった。
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青玄真人の怒りは頂点に達した。彼は大声で怒鳴り、剣を振りかざして突進した。
> 「今日は貴様に、敬意というものを叩き込んでやる!」
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「シュバッ!」
老真人の剣が空間を裂くように光を放ち、泰清剣道の精髄を込めた一撃が天龍に襲い掛かった。
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だが天龍は、一歩も動かず立ち尽くしていた。彼の手にあるのは、まるで竹の棒のような木剣。恐れも、焦りも一切なく、軽く一振りしただけだった。
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「シュッ!」
風が過ぎるかのような微かな音がしたが、それだけで青玄真人の剣技はすべて遮られた。剣気が木剣にぶつかった瞬間、まるで何の影響もなかったかのように、木剣はただ小さく震えただけだった。
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青玄真人の目に混乱の色が走る。彼の視線は天龍の木剣に注がれ、信じられぬ表情を浮かべた。木剣ごときが、彼の剣法を受け止めたのか!?
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天龍は微笑み、木剣を軽く掲げた。それは戦いというより、まるで遊びのようだった。彼は老真人に目をやり、嘲るように言った。
> 「そんな目で見るなよ、老いぼれ。年取ったら、もっと体に気をつけないとさ。」
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> 「貴様ぁ……!」青玄真人の顔は怒りで真っ赤に染まり、剣を握る手が震えた。彼は理解していた。今すぐ本気を出さなければ、自分はこの少年に完全に侮辱されるだけだ。
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彼は咆哮を上げ、身体を閃光のように動かし、剣気は洪水のように押し寄せた。その圧力は尋常ではなく、すべてを飲み込むかのようだった。
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天龍は微動だにせず、ただ軽く一歩踏み出して木剣を振るった。それだけで十分だった。木剣は空間に音を残し、青玄真人の攻勢を断ち切った。
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> 「え? それだけか?」
天龍は肩をすくめ、まるで遊びの一環かのように笑った。
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青玄真人は冷静さを取り戻そうとした。今のままでは勝ち目はないと悟り、彼は最後の手段に出た。全気力を集中し、掌に込めて放つ――
> 「雷霆剣!!」
彼は叫び、雷の如き剣気を放って天から落ちる雷鳴のように襲いかかった。その一撃一撃が空間を破壊するかのような威力だった。
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しかし、またしても天龍は一歩だけ踏み出すと、静かに木剣を一振りしただけだった。その動きにより、すべての剣技が空気中で霧散し、風に消される炎のように無に帰した。
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> 「雷霆剣…?」天龍は冷笑を漏らした。
> 「ふーん…それだけかよ?」
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その瞬間、彼は木剣を一閃した。まるで老真人の威圧を弄ぶかのように。その木剣が青玄真人の剣気と接触した瞬間、広場全体が震えるような音が鳴り響いた。
「ドォン!!」
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青玄真人は後退し、剣を握る両手は止まらぬ震えに包まれ、その目は苦痛と無力さに大きく見開かれていた。
ドン!!
再び、清玄真人の身体が吹き飛ばされた。手にしていた剣は真っ二つに折れ、掌から血が滴り落ちて地面を赤く染めていく。
冷たい風が広場を吹き抜け、大地と天が凍りついたように静まり返る。
太清門の掌門は片膝を地につき、荒い息を吐きながら、呆然とした混乱と虚脱が入り混じった目で前を見つめていた。皺だらけの干からびた顔には、これまでに見せたことのない困惑の色が浮かんでいた。
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天龍はなおもその場に立ち続けていた。手には木剣を持ち、白衣は一片の塵も寄せつけぬ清らかさを保っている。
彼は静かに微笑んだ。
> 「掌門…もう、十分だ。」
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清玄真人は顔を上げ、歯を食いしばりながら問いかける。
> 「お前…いったい何者だ…なぜ…なぜその木剣が我が剣道を打ち砕けるのだ…」
その目は震え、高慢も怒りももはやそこにはなく、ただ理解したい、知りたいという切実な思いだけが残っていた。
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天龍は手にした木剣をくるりと回し、穏やかな声で答えた。
> 「間違っているのはそちらだ。」
> 「我が木剣が、お前の剣道を打ち砕いたのではない。」
> 「お前の“心”が、真の道を打ち立てるほどの強さを持っていなかっただけだ。」
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「…心…?」掌門は乾いた唇で繰り返す。
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> 「お前は私が誰かと問うたな?」
天龍はゆっくりと掌門に歩み寄りながら、岩を打つ水のように穏やかな声で続けた。
> 「私は…武道、天道、そしてお前たちが必死にしがみつくこの世界の虚偽を見抜いた者だ。」
> 「お前は一生を剣に、道に捧げたというが…その“道”とは何だ?」
> 「お前の“太清無極経”など、所詮は不完全な真理の残影にすぎぬ。」
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天龍は立ち止まり、鋭い視線を掌門に突き刺すように向ける。その目はまるで剣の切っ先のように鋭く、深く、魂の奥にまで届いた。
> 「お前は“道”を求めると言いながら、権威を手放すことを恐れ、剣を学ぶと言いながら、名声と利得に心を囚われ、心を磨くと言いながら、その心は決して静まらなかった。」
> 「そのような者が…果たして“道”を悟れると思うか?」
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清玄真人の全身が、まるで晴天に雷を打たれたように震えた。
言い返そうとしたが、言葉が出てこなかった。
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天龍は空を見上げ、静かな声で呟いた。その声音は、まるで山の頂を覆う朝霧のように深く、穏やかだった。
> 「武学とは…人を打ち負かすためにあるものではない。」
> 「武学とは…己を知るためのものだ。」
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> 「勝利に執着せず、体面や名声をも手放した時、初めて――剣の一振りが、生きた剣となる。」
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掌門は呆然とし、両手が震え始める。その濁った瞳に、微かに波紋が広がり始める。
天龍の言葉一つひとつが、虚無の中に響き渡る鐘の音のように、魂の奥底を揺さぶった。
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> 「勝敗とは…幻にすぎぬ。」
「境地とは…漂う雲にすぎぬ。」
「ただ“真の心”こそが…お前を導くのだ。」
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掌門は呟く。それは自らに語りかけるようでもあり、これまで歩んできた数十年の修行を振り返る独白でもあった。
> 「我が心…未だに静まっていなかったのか…」
> 「この剣…初めからずっと、縛られていた剣だった…」
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ふいに、老いた目の端に涙があふれる。それは決して屈辱の涙ではなかった。
彼はようやく――悟ったのだ。
生涯を高慢に生きてきた自分が、まさか二十にも満たぬ若者に、自らの盲点を突かれるとは…
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天龍は黙って、地にひれ伏す掌門を見つめていた。
風がそっと吹き、彼の髪を揺らし、白衣の裾を軽やかになびかせる。
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清玄真人は深く頭を垂れた。
声は掠れていたが、まるで深い谷底に落ちて、初めて光を見た人のように真摯だった。
> 「…完敗だ。」
> 「若き侠士よ、そなたは今日、武で勝っただけでなく…我が心の闇をも打ち砕いてくれた。」
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拍手もなかった。
言葉もなかった。
千人を超える太清門の弟子たちは、皆、沈黙し、深く頭を垂れた。
彼らにもわかっていた。
そこに立つ者は、もはや“敵”などではない――“啓示を与える者”なのだと。
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天龍は静かに背を向けた。
夕日の光が彼の背を照らし、まるで嵐の後に差し込む太陽のようだった。
> 「武学とは…奪うためのものではない。
それは――伝えるためのものだ。」
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彼は勝ったのだ。
一つの戦いに…いや、一人の人生の“心”にさえも。
広大な広場に、夕陽の光が灰白の石畳に斜めに差し込み、白衣を纏った一人の少年の姿を照らしていた――
その少年こそ、泰清武道を跪かせた者であった。
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天龍は背を向けて歩き出そうとした。
左手には《泰清無極経》、右手には素朴な木剣を携えて。
その瞬間――
青玄真人が身体を震わせながら何とか立ち上がり、深々と頭を垂れて、かすれた声で言った。
> 「少侠…どうか、お待ちを。」
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天龍は振り向かず、沈黙のまま夕暮れに染まる空を見つめていた。
> 「言ったはずだ…この秘伝書は借りたものだ。」 「学び終えたら…返すかもしれぬし、返さぬかもしれぬ。」 「すべては…我が心のままに。」
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その声は穏やかでありながら、ひとことひとことが古鐘の響きのように、そこにいた全員の心の奥を打った。
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宗主は両手を合わせ、深く礼をした。
> 「誤っていたのは私だ…執着が過ぎ、門派に災いを招くところだった。」 「その秘伝書は…もはや少侠のものであり、我ら泰清にはそれを留める資格すらない。」
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天龍はふっと微笑み、視線をそらす。
> 「褒める必要はない。」 「私は天下を争わぬ。認められる必要もない。歩む道は、己の道だけだ。」
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宗主は顔を上げ、敬意を込めた眼差しで問うた。
> 「お伺いしても…よろしいでしょうか。少侠の御名を。」
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天龍は風に乱れた髪を指で撫でながら、静かに答える。
> 「天龍。」
> 「世が覚えていても、忘れていても…我は気にしない。」
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その一言は、未練も驕りもない。
だが、だからこそ――
その場にいた誰一人として、忘れることができなかった。
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山頂を風が吹き抜け、彼の白衣の裾が雲のように舞い上がる。
天龍は静かに背を向け、数千の弟子たちの間を一歩一歩、ゆっくりと通り過ぎていく。
誰も、止めようとはしなかった。
誰も、顔を上げようとはしなかった。
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「ギィィィ…」
泰清蔵経閣の石門が静かに開く。
天龍は外へと歩み出る。
一つの背中、一振りの木剣、一冊の秘伝書。
されど、その姿はまるで、天空を背負い、伝説から現れたかのようであった。
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その背後には、数千の者たちが地に跪き、かすれた囁きだけが残る。
> 「あの少年が…本当に天龍なのか?」
> 「たった一人…たった一撃で、宗主を悟らせたとは…」
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宗主はその背中が地平線に消えていくのを、静かに見つめていた。
> 「天龍…」 「お前は、ただの剣士ではない。」 「お前は…武道そのものを体現する、生きた経典だ。」
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風が吹き抜ける――まるで彼の歩みに溶け込むように。
誰も、その静寂を破ろうとはしなかった。
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その日、武林に新たな伝説が刻まれた。
> 白衣の少年、一振りの木剣。
泰清の中心で秘伝書を奪いながら、誰一人止めることすらできなかった。
一人の男――宗主をして、膝をつき、頭を垂れさせた。
そしてその名は――天龍。
永遠に語り継がれることとなる。
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