Episode 134
食堂の灯りは、柔らかな黄金色で、白いテーブルクロスの上にそっと落ちていた。
それはまるで――長い旅を終えて帰った人の顔を照らす、薄い月明かりのようだった。
外では、風が紙花棚の隙間をくぐり抜け、かすかに息を吐いていた。
そして、月はじっと耳を澄ましていた――我々が何を語り合っているのかを、黙って聴こうとするかのように。
テーブルの上には、赤ワインで煮込んだ牛肉、湯気立つ海藻のスープ、香ばしく焼かれたパン、そして摘みたてのように瑞々しいサラダの葉。
私はゆっくりと口に運んだ。
急ぐことなど、ない。
生と死の狭間を何度も往き来したあとの静寂は、金にも勝る価値がある。
そんな思いが胸に満ちていた。
国強は牛肉のかけらを箸でつまみ、数度噛んでから、不意に問いかけてきた。
> 「あっちの戦いはどうだった?何か変わったことあったか?」
私は水を一口含み、喉の奥へと静かに流し込んでから、口を開いた。
> 「風はなかった。重力もなかった。人の声もなかった。」 「一撃ごとに、自分の心臓の鼓動だけが響いていた。」
一瞬、言葉を止めた。
テーブルに反射する灯のきらめきを見つめ、小さく呟いた。
> 「戦いじゃない。…生き延びること、それだけだった。」
向かいに座る杏桃は、スープをすくいかけた手を止め、私をまっすぐ見つめていた。
> 「まるで…映画の中みたいね。」
彼女はそう笑ったが、目の奥には消えぬ不安が揺れていた。
私は知っている。
その不安は、本物だ。
だがその笑みも――やはり、本物だった。
それは私も同じ。
生きてはいるが、いつ死が訪れてもおかしくない。
国強は箸の頭をテーブルの端に軽く打ちつけ、父でもあり将でもある眼差しで私を見つめた。
> 「もうその感覚に慣れたなら、覚悟を決めとけよ。」
> 「お前はそのうち…第565銀河防衛隊に配属される。」 「ただし――うちの杏桃のことは、忘れんようにな。」
> 「ちょっと、お父さん!」
杏桃は顔を赤らめて、慌ててそっぽを向いた。
国強は声を低くして笑った。
> 「俺の娘はな、お前が思ってるほど大人しくないぞ。」 「だが…ひとたび泣かせたら、お前も俺も無事じゃ済まん。」
私は水の入ったグラスをそっと置いた。
指先にまだ冷たさが残っている。
> 「もしも――明日、何かあったなら…」
私は顔を上げ、杏桃を見つめた。
> 「俺が――彼女の前に立つ。」
杏桃は何も言わず、ただ私を見つめていた。
長い、長い沈黙。
だが彼女には、言葉にしなかった思いが伝わっているはずだ。
国強は深くうなずいた。
まるで幾度も夜を越えてきた男のように、静かに。
> 「その言葉を…最後まで守れれば、それでいい。」
私は返事をしなかった。
ただ、食事を続けた。
そして、外の風が窓の格子を抜ける音を――まるでひとつの誓いのように、静かに聞いていた。
食堂の空間は、いつもと変わらず清潔に整えられ、やわらかな黄の灯りに包まれていた。
天井の扇風機がゆるやかに回るなか、厨房からは鍋や食器の音がかすかに響いてくる。
だが今日に限って、その空気には、どこかしら重みがあった。
張り詰めた緊張ではなく――
その席の端に、滅人が座っている、ただそれだけの理由で。
宇宙の彼方で異星の存在と拳を交え、十数万キロを越えて帰還し、
そして今、海藻のスープとチーズパンを静かに口にしている――
その事実が、場の空気を言葉にできない色に染めていた。
> 「今日のビーフシチュー、美味しいね…」
杏桃はスープを一匙すくいながら、控えめに呟いた。
だがその目は、しきりに彼の横顔を盗み見ていた。
> 「多分、料理人が“空腹の人”の気持ちを、うまく味に込めたんだろう。」
滅人は口の端をわずかに上げ、手元の木のスプーンで温水をそっとかき回していた。
斜め向かいに座る国強は、まるで芋でも噛んでいるかのように黙々と食べていたが、
その耳はしっかりと会話を拾っていた。
彼は目を細めて睨み、鼻を鳴らして言った。
> 「真面目ぶるのはよせ。さっきの着陸、ハリウッドスター気取りだったじゃねぇか。ファンでも募集するつもりか?」
> 「たまたま…タイミングが合っただけさ。」
滅人は無表情で答える。
> 「たまたまねぇ。次は裏口使えよ。うちの奥さんが驚いて冷蔵庫の中に隠れそうだったぞ。」
その言葉に杏桃が思わず吹き出し、スープをむせそうになった。
> 「ちょっと、父さん…!」
> 「俺が間違ってるか?娘がいきなり『あの人!』って叫びながらカメラ回すんだぞ?
映画から抜け出してきた宇宙人かと思ったわ。」
滅人は肩をすくめ、杏桃に向き直る。
> 「配信されてた?」
> 「…聞き方がずるい。」
杏桃は真っ赤になって、俯いた。
> 「大丈夫。もし映ってたとしても――たぶん君が、こうして俺を見つめてた瞬間だけだ。」
> 「こら、お前なぁ…」
国強は呆れた顔で首を振り、
キュウリの漬物をひとつ箸で摘み、じっくりと噛みしめながら楽しそうに続けた。
> 「娘を二十年以上育ててきたけどな。こんな顔、初めて見たぞ。」 「お前に出会ってまだ一年も経ってないのに…変わるもんだなぁ。」
杏桃は慌ててナプキンで口を拭き、視線を伏せたまま、静かに食事を再開した。
【しばらくして ― デザートが運ばれる】
テーブルにそっと置かれたのは、卵で焼かれたフラン。
ほのかなバニラの香りと、薄くかけられたキャラメルソース。
使用人の女性が一礼しながら、滅人の前にそれを差し出した。
> 「新しいご主人様のお気に入りです。」
> 「え? 誰がそんなことを?」
滅人は首をかしげる。
> 「それは…お嬢様の杏桃様が。」
彼女はにっこりと微笑み、静かにその場を去った。
国強が茶をすすりながら、皮肉を込めた声でぼそりと呟く。
> 「おいおい、こんな優しい甘さのフランなんて、
まさか異星間バトルで拳振るってる奴のために出すとはな。」
滅人はスプーンを軽くすくい、フランの一口目を味わう。
そして視線を横に――杏桃へ向けた。
> 「そんなに俺のこと、観察してたのか?」
> 「…たまたま見ただけ。夜中に台所行くと…
冷蔵庫からフラン取り出すとこ、何度か見ただけで。」
> 「盗み見、してたんだ?」
> 「ち、ちがうよ!!」
杏桃は慌てて首を振り、顔を両手で隠す。
> 「おい、二人とも、俺の心臓止まるからちょっと自重しろ。」
国強は手を挙げて制しながら、テーブルに突っ伏した。
> 「昔、友人たちが“愛の形はいろいろだ”って言ってたけどな…
まさか“深夜のフラン観察”がその一つとは思わなかったわ。」
---
【食後 ― 片付け】
国強は爪楊枝をくわえながら立ち上がり、居間へ向かって歩きつつ声をかけた。
> 「杏桃、皿洗っとけ。滅人、お前も手伝え。風呂でぬくぬくすんな。」
> 「え、でも…」
杏桃は目を丸くする。
> 「いいから。二人でやれ。そういうのが“絆”になるんだ。」
そう言って彼は後ろ手に扉を閉め、にやりと笑って去っていった。
> 「お父さん、絶対わざとだよね…」
杏桃は小声で呟きながら、袖をまくってゴム手袋を取り出した。
> 「構わないさ。元々…手伝うつもりだったから。」
滅人は隣に立ち、ジャケットを脱ぎ、フックに丁寧に掛けた。
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【台所 ― 水音だけが響く中で】
> 「まさか…お皿洗うの初めて?」
杏桃は彼の手元をちらりと見た。
> 「初めてじゃない。でも――誰か“特別な人”と一緒なのは、初めて。」
その言葉に、彼女の手が止まった。
流し台の中で、洗っていた皿がわずかに揺れた。
> 「わたしって…そんなに特別?」
> 「夜中に生姜茶を淹れて、そっと俺の部屋の前に置いていく人なんて、他に知らない。」
> 「……見つからないように、してたのに。」
> 「知ってたさ。でも、見つけたくて仕方なかった。」
水滴が蛇口からぽたりと落ちた。
ほんの短い間――
だが、その沈黙は、隣に立つ少女の胸を静かに締めつけた。
> 「…心配だったの。
あんまり遠くへ行く人、雲の上にいるみたいな人は…
こんな小さなこと、忘れちゃうんじゃないかって。」
> 「俺は覚えてる。
君の目覚めたときの声も――
照れてうつむく、その仕草までも。」
彼の声は低く、あたたかく、そして確かだった。
---
【張家の館の廊下 ― 国強、耳を澄ませる】
> 「この野郎…
口だけは達者になりやがって。前は魚の開きみたいに黙ってたくせに。」
そう言いながらも、国強の目元はやわらかくほころんでいた。
まるで、大切な何かを託し終えた父のように。
【その夜 ― 居間、食器洗いの後】
国強は居間でふたりを呼び止めた。
> 「おい、こっち来い。今夜は烏龍茶を淹れてある。旨いぞ。」
杏桃と滅人は静かに腰を下ろした。
滅人は茶杯を手に取り、ひと口すすると、
その香ばしい苦味が静かに喉を通り過ぎた。
そして、国強はゆっくりと話し出す。
> 「なあ、お前……あの“星雲”に、触れたんだろ?」 「月の顔は……見えたか?」
滅人は小さく頷く。
> 「ああ、見えた。」
> 「見たとき……何を思った?」
滅人はしばし黙し、そして杯の縁に目を落としながら、ぽつりと答えた。
> 「……願ったよ。」 「その景色を、一緒に見る人がいてくれたら……って。」
国強は目を細めた。
> 「それで……今はもう、誰かと見れたのか?」
滅人は静かに首を振る。
> 「まだだ。けど、今は……自分の目を通して、その人に見せたいと思ってる。」
杏桃は何も言わなかった。
ただ、手の中の茶杯をそっと握りしめる。
その指先に、わずかな震えが伝わる。
国強は大きく息を吸い、茶の香を胸に留めながら、うなずいた。
> 「……いいな。俺は、その日を待ってるぞ。」
そして、その言葉は――
夜の静けさの中で、しずかに灯る小さな灯のようだった。
【深夜 ― 杏桃の部屋のバルコニー】
月は高く昇り、
その光が静かに欄干を照らしていた。
杏桃はバルコニーに立ち、風に髪をなびかせながら、遠い空を見上げていた。
その頬には月明かりが落ち、まるで夢の中にいるかのようだった。
そのとき、背後から、そっと足音が近づいた。
> 「眠れないのか?」
滅人の低い声が風のように響いた。
> 「うん……あなたは?」
> 「慣れてる。宇宙じゃ……昼も夜もない。ただ、心臓の鼓動だけが時間を刻む。」
ふたりは、しばらく黙って月を見上げた。
その沈黙は、気まずさではなく――ただ、心の鼓動が寄り添う時間だった。
やがて滅人が、ゆっくりと尋ねた。
> 「……願いごと、あるか?」
杏桃は少しだけ目を細めて、静かに答えた。
> 「もし……いつか、あなたが戻らなくなってしまう日が来たら……」
「せめて、ひとつだけ、言葉を残していってほしい。」
滅人はその言葉を受け止め、まっすぐ彼女を見つめた。
その瞳には、どこまでも深く、嘘のない誠が宿っていた。
> 「言葉だけじゃ足りない。」
「俺は……心ごと、ここに置いていく。」
その瞬間、風がやさしく吹き抜け、
月光がふたりの影を、ひとつに重ねた。
陽射しはまだ柔らかく、風はまるで誰かの手が頬を撫でるように優しかった。
車を降りて伸びをした瞬間、遠くからにぎやかな笑い声と靴音が聞こえてきた。
ただの黒いジャージ姿なのに――いや、ほんとにただそれだけなのに、息を整える間もなく、あっという間に人だかり。
> 「ニン先輩~!写真お願い~っ」
「うっそ!動画よりカッコいいやん!現物最強!」
「これにサインして~!金ピカの指輪買えるくらい高く売れるかもよ?」
苦笑いしながら両手を上げて降参のポーズを取った。
> 「ちょ、ちょっと!勘弁してくれよ~。まだ朝やで、教室も入ってへんのに…」
笑い声が広がる。
目を輝かせたその視線の中に、ひとつだけ違う光――
それは、朝の陽に逆らうような、曇った影だった。
それが、ダオ。
彼女は何も言わず、視線を落としたまま、わずかに肩を震わせて教室へ入っていった。
一度も、こちらを見なかった。
その一瞬、心のどこかが…ひりついた。
---
A3-01教室の朝。まだ教師の姿はない。
窓から入る風が涼しくて気持ちいいはずなのに、どこか心に冷たい。
教室に入って席に着こうとしたら、ダオの後ろに座るリ・トゥアンの声が聞こえた。
> 「なんやなんや~、今日ご機嫌ナナメ?顔に書いてあるで、『怒』って。」
> 「どっか行け。」
その返しは、氷のように冷たく、短い。
それでも彼はニヤニヤと悪ふざけをやめない。
> 「男とケンカしたんか?けどすごいな、あいつ。転校してきて数日でうちのプリンセスを撃墜か~!」
――ドン!!!
その瞬間、ダオが立ち上がり、腕を振る。
雷のような一撃が彼の顔を裂いた。
トゥアンの体が椅子から吹っ飛び、後ろの机に激突した音が教室に響く。
空気が凍りついた。
皆、固まったように見つめていた。
ダオだけが、微動だにせず、無表情のまま立っていた。
トゥアンの鼻から血が一筋流れる。
彼はよろよろと立ち上がり、怒りで目を血走らせ、拳を振り上げた――
そこへ俺が入った。
> 「おい。バイクで転んだの、まだ目覚めへんの?それとも…ワンパンもらいたいか?」
トゥアンの体が硬直した。
視線がこちらに向けられ、数秒の沈黙ののち、彼は拳を下ろした。
> 「…お前には関係ないやろ。」
視線を交わすだけで、言葉はいらん。
俺は黙ってダオの席へ向かった。
彼女はもう座っていた。腕を組み、唇を固く結んで。
隣に腰を下ろし、ちらりと覗き込んで、
> 「あれぇ?教室に急いで入ったん、俺が褒められてるの見たくなかったんか?」
彼女は窓の外を見つめたまま、何も言わない。
> 「拗ねたん?俺が人気すぎて、嫉妬しちゃったとか?」
返事はなし。視線も合わさん。
> 「朝からパンチ一発で男飛ばしといて、今は無言…ってことは、もしかして、めっちゃ嫉妬深いタイプ?」
その瞬間、彼女の目がこちらを射抜いた。氷のような瞳。
俺はそっと耳元に顔を寄せて、囁くように言った。
> 「ごめん…今日の放課後、お詫びにタピオカダブル入りのミルクティー、奢らせて?」
頬が赤く染まった。でも、顔はそむけたまま。
――この無言、つまりはもう怒ってないってこと。
あとは…ちょっと拗ねてるだけやな。
そのとき、チャイムが鳴った。
キンコーン、カーンコーン――
---
もう落ち着いたかと思いきや、
一時間目の途中、前の席からクォック・クオンが振り返り、皮肉交じりの声を投げてきた。
> 「お~、今日も盛り上がっとるな。昨日はTikTokでバズって、今日はリアルで男が吹っ飛ぶ…こりゃ、美貌の殺人兵器やな。」
俺は笑って軽く言い返す。
> 「見たくないなら見んでええよ。文句ばっか言うなや。」
> 「文句ちゃうって、ホメてんの。しかも、聞いたで~、朝から主役さんに『ガン無視』されたって?人気すぎて?」
教室中が笑いに包まれる。
ダオは顔を真っ赤にして、机に伏せた。
俺はため息混じりに返す。
> 「人気って罪か?あいつらが勝手にサイン求めてきたんやで?」
クオンはさらに笑いながら言う。
> 「それは…『美しさに殺される被害者』ってやつやな!気をつけや、次はイスごと吹っ飛ぶかもな?」
俺は肩をすくめて、そっとダオのほうを向き、小声でささやいた。
> 「な?みんなわかっとる。お前が俺のこと、ホンマに大事やから怒ったって。」
ダオは睨んでるようで、その唇は…たしかに笑いをこらえているようだった。
それを見て、俺はもう一歩、顔を近づけて囁いた。
> 「なあ、今日の最後の授業、サボってまたアイス食べに行こうや。前みたいに。奢るから。並ばなくてええで?」
> 「…誰が行くか。」
その声は、小さくて…でも拒絶には聞こえなかった。
> 「さっきからヤキモチやいてるの、誰や思てんねん。」
彼女は何か言い返そうとこちらを向いた瞬間――先生が教室に入ってきた。
二人とも背筋を伸ばし、素知らぬ顔で前を向く。
でも、俺の心には――
また、あの優しい陽が差し込んでいた。
彼女がふと笑ったときの、あの、やわらかなまなざしのように。
昼の風が、窓の隙間を通り抜けて、杏子の頬に垂れた産毛を優しく揺らした。
夏の日差しが窓ガラス越しに差し込み、机の上に静かな光の帯を描いていた。
…ただし、私の心の中だけは穏やかとは程遠かった。
私はそっと左を見やった。
杏子はまるで蝋人形のように動かず、目線はずっと黒板の方。
頬杖をついたまま、氷のような表情だった。
私は小声でつついてみた。
> 「なぁ…今朝のことでまだ怒ってるんか? その顔、冷たすぎるで。」
彼女は私を見ず、淡々とつぶやいた。
> 「ひとつだけ聞きたいの。…あんた、自分が私の彼氏って分かってる?」
頭が真っ白になった。心臓が不規則に跳ねる。
> 「え? うちらって…え? ちょ、ちょっと待って…なにか勘違いじゃ…?」
杏子がゆっくりとこちらを向いた。
その瞳は潤んでいて、それでいて声には容赦のない鋭さと…母のような威厳すらあった。
> 「昨日の晩ご飯のあと、5杯のワインを飲んだのは誰?」
「ふらふらしながら『一生、ボディーガードになってもええよ』って言ったのは?」
「私が『じゃあ、恋人になってくれる?』って聞いた時、首がもげるくらい頷いて『命まるごと預けるわ』って言ったのは誰?」
一瞬の沈黙。そして、まるで裁判官のような口調で静かに言い放った。
> 「あれ…あんたやろ?」
口が開いたまま閉じられない。
昨日の夜の断片的な記憶が、映像として頭に流れてきた。
ワイン…柔らかい照明…髪の香り…近づく顔…自分の頷き…。
あの時の言葉…もしかして……本音、やったんかも。
> 「ま、待って…それって酔ってたんやって…」
杏子は私を真っ直ぐ見つめた。まるで、安っぽい言い訳を一刀両断するように。
> 「でも、酔った時の言葉ほど、本音やったりするんやで?」
「男なら、自分の言葉に責任持ちぃ。」
私は黙って頭を掻いた。
気がつくと、顎が机に落ちそうになっていた。
> 「…じゃあ、俺…ほんまに彼氏なん?」
> 「今さら何言うてんの、アホ。」
彼女は軽く息を吐いた。だが声のトーンは、少しだけ優しくなっていた。
> 「彼氏やったらさ…他の女に写真撮られそうになった時ぐらい、『ごめん、彼女おる』って言ってくれてもええんちゃう?」
「それが言えんのなら、怒ってもしゃーないやろ。」
私は唾を飲み込んだ。さて、ここは何と言えば…?
> 「…ごめん…ホンマに覚えてへんねんけど…
でも、彼氏やっていうんやったら、ちゃんとするよ。責任持つ。」
杏子は赤面しつつも、そっけなく唇を噛んだ。
> 「…ふーん。じゃあ、見せてもらおうや。」
私は苦笑い。どうやら、本当にこの命、預ける羽目になりそうやな…。
---
私は一人、廊下の隅に出て涼もうとした、その時…
> 「なぁなぁ、今日から“独身卒業”ってやつ?」
階段の陰から聞こえてきたのは国強の声。
片手にカバン、口にはチューインガム。まるで他人の恋に首突っ込みたくてたまらん奴みたいや。
私はチラッと睨んで、平静を装う。
> 「なんもないって。」
> 「ほう、なんもない奴が、机に突っ伏して“心臓ごと抜かれた”みたいな顔するんか?」
ため息をついて、私は壁に背を預け、空を見上げた。白い雲がゆっくりと流れていた。
> 「…たぶん、ほんまに“つかまった”んやと思う。」
> 「何につかまった? 借金か? それとも恋愛?」
> 「…両方。」
奴は笑いながら、勢いよく私の肩を叩いた。
> 「そやな。女に引っかかったら、もう縄でくくりつけられたも同然や。」
「でも教室での顔、見とったで。お前、縛られるの、まんざらでもなさそうやったな?」
私は苦笑い。否定する気にはなれんかった。
国強はしばらく私を見つめ、それから静かに言った。
> 「…実はな。お前がそうやって変わったん、ちょっと嬉しい。」
「ずっと、人に好かれるのを避けとったやん。傷つくのが怖くて、逃げとったやろ。」
「けどあの子…お前のその壁、全部ぶち壊してもうたな。」
「ええやん。綺麗で、気も強い。お前のタイプ、ドンピシャやろ?」
私は笑った。今度の笑みは、心の奥からやった。
> 「ああ…たぶん、俺もう覚悟決めたわ。」
---
夜風が心地よかった。
私と杏子は並んで座り、足を水に投げ出していた。
手にはソーダの缶。小さな音を立てて泡が弾けていた。
杏子は何も言わなかった。
けれど、ときどき私を見ては、すぐに目を逸らした。
私は静かに口を開いた。
> 「昨日のこと…思い出したわ。」
> 「ん?」
> 「“恋人になる?”って聞かれて、“命預ける”って言ったの…あれ、本音やった。」
> 「酔ってる時の本音?」
> 「そう。…けど今は素面で…やけど、やっぱり同じ気持ちや。」
杏子は月明かりの下で私を見つめ、瞳が星のように輝いていた。
> 「じゃあ…今は、私のもんなん?」
> 「うん。あんたのもんや。…でも、あんまりいじめんといてな?」
> 「ふふ、約束できんわ。」
彼女はくすくす笑った。
私はその笑顔を見て、心がふわりと軽くなった。
何気ない一言のはずやのに――今となっては、誓いのように重く、確かなものに感じた。
風が髪を運び、杏子の髪が私の頬に触れた。
私はそっとそれをかき上げ、耳の後ろに流した。
指先が彼女の頬に触れた時――ぬくもりとやわらかさが、静かに伝わってきた。
それは、何かが始まった証のようやった。
---
私はずっと思ってた。
人生とは戦いの連続。
生と死、白と黒。
けれど――
酔った時のたった一言が、
心ごと、ひとりの女の子に奪われることになるなんて。
一言の約束は、一生の結び目。
…今回は、ほどく気などない。
【翌日の昼、ステラ学園・食堂】
その日の昼、空はあまりにも図々しく晴れ渡っていた。
陽射しは黄金のように校庭を満たし、
だというのに、私の心は冷めきった茶殻のように灰色だった。
食堂に足を踏み入れた瞬間、まるで巨大な蟻の巣に迷い込んだかのような感覚に包まれた。
混雑、喧騒、そして揚げ物と炒め物の匂いが充満する空間。
生徒たちは嵐のように私の脇を通り過ぎていく。
誰もが弁当箱や飲み物、せめてパン一つは手に持っている。
私はその場に突っ立ち、汗をしたたらせながら、
まるで月の途中で給料を差し引かれた男のように、呆けた顔で立ち尽くしていた。
手には、たった二つのハンバーガーと一本の冷えたドリンク缶。
それは今朝、「Solbi」口座を完膚なきまでに消費した、最後の成果だった。
……なんだか、やけに孤独だった。
そして、ふと、彼女のことを思い出した。
---
やっと見つけた。
窓際に座り、外をぼんやりと見つめている。
風が髪を揺らし、陽の光が屋根越しに肩へと差し込む。
まるで誰かが適当に描いた油絵が、奇跡的に魂を宿したかのような光景だった。
彼女は私を見なかった。
ただ、ミントヨーグルトのドリンクをくるくると混ぜていた。
その様子は、まるでその液体に苛立ちを注いでいるかのようだった。
私はそっと近づき、ハンバーガーをテーブルに置き、
その隣にドリンクをそっと並べた。
そして、自分も向かいに腰を下ろす。
その瞬間、テーブルが小さくなった気がした。
> 「はい、これ。君に。」
---
彼女は私を一瞥し、氷のような視線を向けた。
> 「何のつもり?」
私は頭をかきながら、気まずそうに笑った。
> 「その……ごめんな。」
> 「それだけ?」
> 「財布すっからかんなんだよ。これ、全部出して買ったんだ。」
彼女は首をかしげ、じっとこちらを見つめた。
> 「へえ? さっきはヒーローみたいに喧嘩してたのに、今はこんなに貧乏?」
私は大きく、しょっぱいため息をついた。
そして、正直に話した。
> 「朝、なんか知らんけど、変なカードとかスマホを無理やり持たされてさ。開けたら“Solbi”っていう通貨みたいなのが入ってたんだ。何十万も。人が『これで払えるよ』って言うもんだから、つい…」
彼女はくすりと笑った。
> 「初めての電子マネーなのに、使い方覚えるの早いじゃん?」
> 「ああ。Siri……いや、変な名前のAIが教えてくれたんだ。」
> 「それ、AIアシスタントってやつよ、お兄さん。」
そう言った彼女の表情が、少し柔らいだ。
私はうなずき、ハンバーガーを指差した。
> 「つまりな……今、俺の財布には、これしか買えなかったんだ。ひとつは君に。もうひとつは俺。豪華じゃないけど、気持ちは本気だよ。」
---
彼女は何も言わずに缶を開けた。「プシュッ」と小さな音。
炭酸の泡が頬に飛び散った。
私は反射的に手を伸ばしそうになったが、止めた。
何かが、私の動きを止めた。
たぶん、それは“緊張”だった。
> 「まだ怒ってる?」
私はそっと尋ねた。
声は小さかったが、真剣だった。
彼女はこちらを見つめた。
澄んだ瞳。深くて、やさしい光。
私の心臓は、今日は戦いの鼓動ではなく、
彼女の髪を揺らす風のリズムで鼓動していた。
> 「……少しだけ。」
まばたきもせず、彼女は言った。
私は眉をひそめた。
> 「え、なんでまだ?」
> 「うん……どれくらい私のことを思ってるか、ちょっと試してただけ。」
私はため息をついた。心底、がっくりと。
> 「そんな突然のテスト、心臓に悪いってば。」
彼女は微笑んだ。
その微笑みで、私の心の底がふわっと柔らかくなった。
彼女はハンバーガーを一口、しっかりとかじった。
> 「ふむ……美味しい。」 「今回は許してあげる。」
---
私はただ彼女の食べる姿を見ていた。
それだけで、心が穏やかになる。
まるで、田舎に帰って母の作った夕飯を囲んでいるかのように。
ふたりとも、しばらく無言だった。
周囲は騒がしくても、
ふたりの静けさは、そこだけ別世界だった。
私はそっと手を伸ばし、
彼女の机の上に置かれた手の甲に触れた。
彼女は驚いたように身じろぎしたが、手を引かなかった。
そのまま、私を見た。
小さく、澄んだ瞳。
満月が川面に映ったような、美しい光。
> 「あんたさ……」
彼女は口を開いた。まるで文句を言いそうだったが、
でも、続けなかった。
> 「もう忘れんといてよ。彼氏ってのはね、ちゃんと機嫌とって、ちゃんと思ってて、ちゃんと仲直りできる人のことだから。」
私は真剣にうなずいた。まるで新兵のように。
> 「わかった。これからは……何をするにも、君のことを一番に考える。」
彼女は顔を赤らめ、視線を逸らしたが、
手は私の手の中にそのままだった。
---
彼女の手は、小さくて、でも温かかった。
外では、陽射しがまぶしく、
人の波が押し寄せ、
食堂の喧騒は止むことがなかった。
だけど、私の心の中には、
静かで優しい時間が流れていた。
たった一言の「ごめんね」。
たった一本の冷たいドリンク。
そっと触れた指先。
そして、言葉など要らぬまなざし。
もしかしたら――
愛は、そんな静かな瞬間から始まるのかもしれない。
---
> 「愛って、喧嘩して泣くことだけじゃない。」
「たまにはさ、ハンバーガーが二つと、やさしいまなざしと、繋いだ手だけで、充分なんだよ。」




