Episode 130
アラビカのコーヒーの香りが、ほのかに鼻腔をくすぐった。それはまるで──私が一度も訪れたことのない街の記憶のように、霞のごとく立ちのぼる。
陽光は鋭くなく、柔らかに、半透明のカーテンを透けて黒い石のテーブルに射し込んでいた。私はその向かい側に座っていた。
彼──クォック・クオン。腕時計の立体ニュース映像に目を落としている。
私は、卵を食べながら、昨日アン・ダオから渡された奇妙な機能の多い携帯電話をいじっていた。
ホログラムのアイコンがきらきらと浮かんでは消える。魂を持たぬ光たち。
その声は、馴染み深い、低くくぐもった声で響いた。
> 「なあ、ガキ」
視線は画面のまま、声だけが届いた。
「先に言っとく。ウチの娘には手ェ出すな。」
私は顔を上げた。まっすぐ彼を見据えた。
怒りも、反発もない。ただ──
> 「……興味はない。」
彼は鼻で笑い、コーヒーを一口含み、そして微かに笑った。
まるで私が子どもじみたことを口にしたかのように。
> 「ふん。だがな、『興味はない』なんて言葉、すぐに変わるもんだ。ウチの娘は、どいつも綺麗だぞ。
特に長女のタン・フエン。オレより遥かに優秀だ。会えば分かる。」
名前は、悪くなかった。だが、私の関心は、依然として動かなかった。
> 「知ったことじゃない。」
> 「……その『知ったことじゃない』ってのが、一番厄介なんだよな。」
彼は皮肉げに笑う。
「今日、学校は休みだ。お前をステラ行政本部に連れて行く。あいつが働いてる場所だ。」
理由は問わなかった。だが、彼は勝手に続けた。視線は相変わらず画面のまま。
> 「この世界が、どうやって動いてるか──見せてやる。」
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浮遊車は音もなく滑る。エンジン音は消え、ただ風の電流が機体の横をかすめる音だけが耳に届く。
私は窓に頭を預け、流れる風景を見ていた。
昼のステラ都市は、夜とはまるで別物だった。
明るく、そして冷たい。
金属のビルは銀色に光り、裸のように無機質。立体案内板は絶え間なく動き、
人々は誰もが、統計データの一部のように、互換可能な単位でしかなかった。
この世界に、心は不要だ。ただ、機能だけが求められる。
朝のコーヒー、クォック・クオンの顔──そして、言葉にされなかった想いが、頭をよぎる。
> 「黙ってるな。美人が怖いのか?」
脳裏に、ティエン・ロンの声が響く。
心の秩序を揺さぶる、いたずらっぽい音色。
> 「……不要なものには、関わりたくない。」
> 「ああ。そういう奴ほど、関わる羽目になるんだよ。特に女にはな。
もし“運命”なら……逃げても無駄だ。」
答えはしなかった。だが、胸の奥で、何かがひとつ、狂ったように脈を打った。
不思議だった。
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ステラ・ドームは、天空を突く銀の槍のように聳えていた。
螺旋状の構造、外壁には鏡面パネルが張られ、太陽光を反射し、偽りの後光を纏っている。
それは、もはや人間の領域を超えた、美の異物だった。
車を降りた。クォック・クオンの後をついて行く。誰も言葉を発しない。
エレベーターには、階数ボタンが二つしかなかった──1階と、88階。
ドアは18秒で開いた。
銀色の壁、青白い縁取りのライト、政府ランクのセンサーで自動開閉する扉。
その廊下の果てで、彼はスクリーンに手を触れる。
すると、左右に分かれて開いた扉は──まるで巨大な肉体の内部に入るように、私たちを迎え入れた。
そして──
彼女が、そこにいた。
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彼女は、内都市域全体の立体地図の前に立っていた。
左手を光る操作盤に置き、右手の指先で、エネルギーのラインを描いている。
その動きには、権力を知る者の慣れがあった。
黒髪は軍人のように高く束ねられていた。だが、肩に垂れる一房だけが、意図的か偶然か、緩やかに落ちていた。
白のシャツ、黒のスラックス。手首には、円形の制御装置。
顔立ちは冷たく、伝統的な美ではない──だが、それは、知性の美。
自分が何をしているかを知り、誰に見られているかすら把握している人間の、それだった。
彼女の目が、私をかすめる。
何も言わない。
私もまた、動かなかった。
ただ──ひとつの思いが、過った。
> 「この人は……“弱さ”という概念が存在しない世界から来たようだ。」
> ティエン・ロン(心の中で、微笑んで)
「ああ、それが──タン・フエンだ。
システム全体のセキュリティアルゴリズムを変更させた、初めての女。」
私は、言葉を失った。
鼓動は早くない。だが、決して平静ではなかった。
彼女は、私に背を向け、何かを助手に指示した。
私は──ただそこに立ち尽くしていた。
好奇心か、警戒か、それともただ、もう一度だけ見たかっただけなのか。
自分でも、分からなかった。
ガラスの扉が音もなく滑るように開いた。
ジエット・ニャンは、まるで見えない圧力の膜をくぐるようにその中へと歩みを進めた──冷たく、軽く、それでいて背筋をぴんと張らせる、奇妙な緊張。
目の前に広がる空間は、まるで空中に浮かぶ人工の脳のようだった。
三重構造のガラス壁が空を映し出し、ケーブルひとつない透明な会議卓、
そして電子ファンの微かな風音が背景で囁く。
その洗練された中心に、彼女はいた。
この宇宙において、ただひとつの重力の核のように。
タン・フエン。
クォック・クオンが語っていた長女──
だが、彼女はこれまでにジエット・ニャンが見たどの女とも、似ていなかった。
黒髪は肩にかかるほど長く、銀糸のような細い紐で無造作に後ろでまとめられていた。
彼女の眼差しには淡い紫が宿る──それは自然の色ではない、まるで内から発光するかのような、異質な輝き。
彼女は彼を見た。動かず、微笑まず、首を傾げることすらしない。
ただ、その視線一つで、すべてが伝わってきた。
> 「座って。」
言葉は短く、無駄がない。
自動制御のレザー椅子がジエット・ニャンに向かって回転する。
だが彼は動かない。
その目は、冷たくも、侮蔑でもなく、まるで岩に触れた刃のように──無感情でありながら鋭かった。
彼女の隣に立つ男は、まるでショールームに住む人間のように整っていた。
黒のスーツ、深青のネクタイ、縁なしの銀の眼鏡。
プラチナブロンドの髪は、剣のように鋭く整えられている。
> クォック・クオン(小声で近づき):
「あいつはズオン・ティン。専属アシスタント……で、娘の恋人でもある。
戦わないが、策略は底なし沼並み。言ったからな。気をつけろ。」
ジエット・ニャンは答えない。
視線も動かさぬまま──
だが、心の中では、すでにあらゆる情報が記録されていた。
この男は──危険だ。
強さのせいではない。
目的のせいだ。
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《初対面──運命の握手》
ズオン・ティンが歩み寄る。
歩幅は軽く、声には政治高等学院で鍛えられた響きがある。
> 「君がチュオン家の新しい護衛と聞いた。
ならば……まずは握手、だろう?」
ジエット・ニャンは彼の差し出した手を見る。
白く、きれいで、硬くもない。
──拳を握ったことのない手。
> 「……ああ。」
彼は手を差し出した。力強くはない。ただ、軽く──
「パキン」
乾いた音が室内に響いた。鶏の骨が折れたような、鈍く冷たい衝撃。
ズオン・ティンはわずかに身を屈めた。
穏やかな顔が一瞬で歪む。
> 「……ッあ……!」
右腕──折れていた。
誰も笑わず、誰も驚かない。
ただ、タン・フエンが目を上げた。
> 「ほんの……軽く触れただけだ。」
> タン・フエン(淡々と):
「……もういい。」
彼女がボタンを押すと、すぐにドアが開く。
白衣の医療スタッフ二人が、まるであらかじめ準備されていたように現れた。
ズオン・ティンは支えられて出て行く。唇は微かに震えながらも、プライドの顔を崩さぬまま。
ドアの前で彼は振り返った。
その目には、音のない宣戦布告が宿っていた。
> (……負けを認めるような男じゃない。
それに──
あいつからは、“愛”とは無縁の、何かを隠している匂いがする。)
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ガラス越しに風が揺れ、卓上にわずかな振動を与えた。
タン・フエンは指を組み、顎を立てに支えていた。
まるで、これから奏でられる交響曲を前に、沈黙で評価する指揮者のように。
> 「護衛に必要なのは、強さじゃない。忠誠心よ。
君には、それがあるの?」
> 「……護るべき者を、護るだけだ。」
> 「……その“護るべき”を、誰が決めるの?」
> 「……俺だ。」
その言葉は大声ではなかった。
誰かに届かせようともしていなかった。
だが、それは確かに、この空間に刻まれるような響きを持っていた。
彼女は笑った。
魅せるためでもなく、嘲るためでもない。
ただ、何かを見つけた時の、心の緩みのように。
> 「面白いわね。
意外と──私より、合ってるかも。」
風が再び吹いた。
その光が彼女の髪に宿り、淡い月光のような輝きを浮かべた。
ジエット・ニャンは、ただそこに立っていた。
影のように静かに。
けれど確かに、彼女の心に、何かの「形」を残し始めていた。
今日の黄昏は、思いのほか早く訪れた。
淡い紅の光が、墨を溶かしたように空に滲み、湖の水面のような窓ガラスを染める。
クォック・クオンの後を静かに歩き、私は冷たい石の床に荷物をそっと置いた。
そして──
その声は、彼女の姿を見るより先に、私の胸を打った。
> 「……帰ってきたの?」
顔を上げる。
アン・ダオがそこにいた。
窓際のソファに、膝を抱えたまま座っている。
灰色のニットをまとい、足を肘掛けに投げ出して。
夕陽の斜光が彼女の肩を包み込み、消えかけた残光が全身を茜に染めていた。
あの紫の瞳が──
静かに、どこか遠くから私を見ていた。
> 「……ああ。」
それだけを答えた。
視線は数秒だけ触れ、すぐに滑って離れていった。
その一瞬に、私は目を逸らせなかった。
そこには、あまりにも優しく──けれど空虚なものがあった。
> 彼女は微笑んだ。ほんのわずかに。
「髪、似合ってる。冷たい顔に……合ってる。」
> 「ああ。……親父の命令で切った。」
どうして私は、そんなことを説明したのだろう。
たぶん──彼女に、もっと話してほしかったからだ。
> 視線は戻らないまま、窓の外に向けられたまま。
「明日……一緒に学校、来てくれる?」
動きが止まる。
そんなこと、彼女の口から初めて聞いた。
“学校に一緒に行く”?
無害な誘いに思えるその言葉には、なにか、妙な重さがあった。
そして私は、もっと注意深く彼女を見た。
シャンデリアの下、
彼女の目尻は、わずかに赤かった。
疲れではない。
それは……誰かが、静かに泣いた痕。
> 私は低く尋ねた。
「……泣いたのか?」
> 彼女は少し驚き、そして顔をそらしながら微笑んだ。
「……違う。ただ……昼寝しただけ。目が少し、重いだけ。」
その言葉は、空気のように軽やかだった。
でも、私の胸は妙に重くなった。
彼女の隣に腰を下ろす。
すぐ横に、髪からほんのりとミントの湿った香りが漂っていた。
彼女は唇を噛んでいた。
私は静かに言った。
> 「話せよ。」
沈黙。
ただ、風が窓の隙間をかすめる音。
そして私の心もまた、その風のように沈黙していた。
> やがて彼女は、ぽつりと語り出した。
「私……成績はいいの。ステラの中でも、いつも上位にいる。でも──」
> 「……うん。」
> 「……いつも2位なの。どれだけ頑張っても、ずっと2位。」
私は彼女を見た。
数字の問題ではなかった。
その瞳には──長く、深く努力して、それでも何も届かなかった者だけが持つ静けさがあった。
> 「1位は……誰だ?」
> 彼女は自嘲気味に笑い、窓の向こうを見たまま答えた。
「タン・フエン。──姉よ。」
一言。だがその背後には、影が落ちていた。
その名が、すべてを語っていた。
私は、何も言えなかった。
> 彼女は続ける。
「……知ってる? 時々、チュオン家の娘なんかじゃなければ良かったって思うの。」
> 「……でも、お前は“お前”だろ。」
彼女は黙った。
深い、深い沈黙。
その沈黙の中に、彼女の心が私との距離にぶつかる音が聞こえた気がした。
やがて、そっと笑みを浮かべて言う。
> 「でもね……一緒に行ってくれるって思うだけで、なんか……うれしい。」
その言葉は、真っすぐだった。
飾り気も、媚びもない。
ただ、比較の視線に疲れた一人の少女が、自分を測らない誰かに、静かな安心を見たのだ。
> 「……ああ。じゃあ、明日な。」
彼女はうれしそうだった。だが、言葉にはしない。
ただ、少し身を傾けて、クッションに肩を預けた。
そして、視線を窓に向けたまま、囁いた。
> 「……約束、して?」
私は、深まりゆく空を見つめながら、はっきりと答えた。
> 「──約束する。」
それは、大きな誓いではなかった。
だが、私には分かっていた。
いま彼女にとって、それは何よりも必要なものだった。
彼女を守るから、ではない。
──彼女を、“見ている”から。
心から。
本当に。.
ドン……
遠く知らぬ彼方から、まるで天が怒りに震えたような雷鳴が鳴り響き、やがて雨音に溶けて消えていく。
私は石造りの庇の下に一人立ち、砕けたような空を仰ぎ見ていた。
雨粒が、まるで運命からの問いかけのように鋭く降り注ぐ。
風が髪をかき乱し、骨の奥まで冷たさを運ぶ。
湿った土の匂い、夜の湿気、そして沈黙――それらが混ざり合い、すべてを覆っていた。
自分が何を待っているのかは分からない。
ただ、分かるのは――私はこの場所を離れられないということ。
まるでここに、私を解き放たない何かがあるかのように。
> 「…タン・リン……ティエウ・ヒエン……」
その名は喉の奥から漏れた。大きくはない、しかし胸を鋭く刺すには十分だった。
忘れたと思っていた。思い出さぬよう、自らに禁じていた。
それなのに、こんな雨の夜ひとつで、すべてが押し寄せる。
涙はない。私はそれを許さない。
だが――この雨が、私の代わりに泣いてくれているのだ。
---
手の中の携帯が、かすかに震えた。
画面を見ると、短いメッセージが浮かんでいた。
> アイン・ダオ:
「まだ起きてる?」
「少し、話してもいい?」
指先が一瞬ためらう。ほんのわずかな間。
外では相変わらず雨が降り続けている――静かに窓を叩くその音は、まるで心の沈黙を破ろうとしているかのようだった。
私は短く返信した。
> ディエット・ニャン:
「うん。いいよ。」
数分後、ドアがそっと開く。
アイン・ダオが入ってきた。
枕を抱え、薄い銀色のガウンを羽織っている。
髪にはまだ少し湿り気が残っていて、その瞳は、私を警戒するでもなく、ただ静かに見つめていた。
> 「…隣に座ってもいい?」
その声は、肩にそっと触れる吐息のように柔らかかった。
私はうなずいた。言葉はなかった。
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私たちは並んで座り、ベッドの背に背を預ける。
膝の上には薄いブランケット。
琥珀色のランプが壁にふたりの影を映す。
外ではまだ、雨が音を立てていた――まるで終わらぬ序曲のように。
> 「ねえ……あなたも、すごく辛かったことがあるの?」
彼女は囁くように尋ねた。
私は心臓の鼓動が二度打つのを待ってから、口を開いた。
> 「あるよ。
あまりにも辛すぎて……泣き方すら忘れてしまうくらいに。」
彼女は首を傾けたまま、私を見ない。
ただ、部屋の奥の闇を見つめている。
> 「姉が表彰されるたびに……私は笑ってた。でも、心の中では…」
「…消えてしまいたい?」
私はそっと言葉を継ぐ。
> 「うん……」
彼女は答えた。まるで誰にも聞かれたくないかのように。
それ以上、誰も何も言わなかった。
風が窓の隙間をすり抜け、不思議な音を連れてくる。
それは冷たくもなく、痛くもない。ただ――空っぽな音だった。
私はまっすぐな声で言った。
> 「慰めるのは得意じゃない。けど、もし誰かがお前を傷つけたら……そいつの足を折る。」
彼女は小さく笑った。
喉の奥で震えるような、壊れかけの笑み。
> 「……それで、いいかも。」
彼女は肩をすぼめて、そっと私に寄り添った。
その吐息が雨音に溶ける。
彼女の心臓の鼓動が速くなるのを、私ははっきりと感じていた。
それが私のせいか、私の言葉のせいか、それともこの夜のせいか――分からない。
私は彼女を見ない。
ただ、ゆらぐ明かりの中で、少しずつ薄れていく闇を見つめていた。
誰も、誰にも触れない。
愛の言葉さえ、なかった。
ただ――
こんな夜には、ただ隣に誰かが座っているだけで、
心はもう、自分が独りではないと感じるのだ。




