13.秘められし蔵経閣
当時の空は、まだ灰青色に煙る霧のようだった。
微かな風が、泰清武道の背後に広がる密林をすり抜け、数千の木々の葉を揺らしながら、まるで時の呼吸のようなざわめきを運んでいた。
山の中心へと続く石段の上に、
雪のように白い衣を纏った天龍が立ち、
その深淵な眼差しで、目前にある重厚な石扉を静かに見据えていた。
宙に吊るされた木の看板には、金箔で三文字が浮かび上がっていた。
「蔵経閣」
「――一つの門派の魂が眠る場所……」
天龍はそう心の中で呟き、
その瞳は、まるで鞘から抜かれたばかりの剣のように鋭く輝いていた。
---
中年の道士が近づき、低く響く声で言った。
> 「小兄弟……三つの試練を乗り越え、完勝まで果たした……お前には、入る資格がある。」
天龍は静かにうなずき、右手で背中の剣の背を軽くなぞった。
> 「感謝する。」
その一言は、深淵を吹き抜ける夜風のように――冷たく、深く、不穏な余韻を伴っていた。
石扉がゆっくりと開かれる。
ゴゴゴ……ゴゴゴ……ゴゴゴ……
その響きは山全体に反響し、まるで猛獣が目覚めたかのようだった。
---
内部は……異様なまでの静寂。
千年の紫檀の香りと古文書の匂いが混じり合い、陰鬱で神聖な空気が満ちている。
壁には埃が積もり、淡い光を放つ玉石がわずかに空間を照らし、冷たい石の床に長い影を落としていた。
天井まで届くほどの高い棚が何百も並び、
そこには数千冊に及ぶ秘伝書が整然と収められていた――
軽功、拳法、剣術、内功、心法……すべての流派の粋がここにあった。
天龍は深く息を吸い込んだ。
「ここが……武林の無数の命が夢見た場所……そして、今、俺がここに立っている。」
---
> 「泰清心経……」「無相無我拳……」「九玄天歩法……」「虚空影剣……」
天龍は書の名を一つ一つ低く呟いた。
その声は大きくないが、一音一音が鐘の音のように心に響いた。
遠くで見守っていた小道士は、無意識に身震いした。
> 「彼は……名前だけで秘伝の本質を見抜いたのか……!?」
---
天龍はゆっくりと歩き、右手を本の背に軽く滑らせる。
取り出すことも、開くこともない。
ただ「触れる」だけで、彼の意識海が爆発した。
ドン!ドン!ドン!
彼の脳内に、金色の文字が次々と浮かび上がった。
技法、理論、気の流れ、武道の心境――それらすべてが、知識の嵐となって彼に襲いかかる!
「学ぶのではない……吸収しているのだ……」
天龍は目を閉じた。
暗黒の意識の中、古代漢字が白雲の中を飛ぶ白鳥のように舞い、
やがて剣の形を成して光となり、彼の精神に溶け込んでいった。
---
雷鳴のように、内心から響く声があった。
> 「“最上不滅”……すでに至高の極みにあるが、
そこに人間界の無数の武学の理が融合すれば――」
> 「それは……俺になる!」
天龍の唇に、薄く微笑が浮かぶ。
彼はさらに奥深く、蔵経閣の奥へと足を踏み入れた。
---
廊下の最奥には、苔むした石壁があった。
長年、誰の足跡も届かなかったかのように、厚い埃に覆われている。
だが――
風も吹かず、人も触れず、なのに……
パキッ……
小さな音と共に、石壁が静かにひび割れ、
やがて粉塵となって崩れ落ちた。
> 「……っ!?」
天龍は眉をひそめた。
崩れた奥に現れたのは、壁に埋め込まれた小さな扉。
文字も鍵もないが、千年の古墓から放たれるような冷気が漂っていた。
「ここは……人の入る場所ではない……」
---
彼は扉へと近づき、手をそっと触れた。
ゴオオオオォォォ……!
激しい衝撃が掌から全身へと伝わり、経脈に浸透する。
まるで、彼の魂そのものを試されているかのようだった。
天龍は目を閉じ、心の中で静かに念じた。
> 「最上不滅――心、静水の如し。」
意識海は瞬時に静まり、振動は消えた。
扉は――静かに、開かれた。
---
扉の奥は、一人が立てるほどの狭い空間。
中央の石壇の上に、一冊だけの書が置かれていた。
その表面には、薄く輝く霊気のような光がかかっている。
朽ちた表紙には、刃物で刻まれたような四つの大文字があった。
> 「泰清無極経」
---
天龍は息を呑んだ。
> 「これは……どの資料にも記載されていない。」 「名も知られぬ経典だが、これほど厳重に隠されていたとは……」
心がざわついた。
不安に似た感覚が、ふと胸をよぎる。
---
彼は手を伸ばして、その経典に触れた。
ゴオオオオオッ!!
一陣の旋風のような気が噴き出し、
無数の怨霊が叫ぶかのように彼の周囲を渦巻き、絶望の渦へと引きずり込もうとする!
外で見ていた小道士は、恐怖に青ざめて叫んだ。
> 「だめだ!触れてはいけない!!」 「あれは……千年封印された邪物だ!!!」
---
だが天龍は――ただ静かに笑った。
> 「邪か?正か?」 「俺にとっては、強いか……弱いか、だ。」
彼は全力で護体を発動。
黄金の光が身体を包み、まるで神龍が降臨したかのように輝いた。
その瞬間、渦巻く邪気は砕け、風に舞う塵の如く消え失せた。
密室の中、ほの暗い光が呼吸のように脈打っていた。
『太清無極経』がわずかに震えながら、自らの意思で一頁ずつ開かれていく。
黄ばんだ紙の上に記された黒墨の文字が金色の光を放ち、まるで命を宿しているかのようだった。
> 「無相無我――身を忘れ、形を忘れ、自我を忘れよ…」
「天人合一――我が心は天、我が意は道…」
天龍は目を凝らし、文字の一つひとつが頭の中で叫びを上げていた。
それは読むものではなく、魂に刻まれるべきものだった。
---
> 「これは武学であり、道であり…すでに消滅した時代の秘術だ。」
「これを書いた者…凡人であるはずがない。」
天龍は心の中でそうつぶやき、瞳には薄紫の光が差し込んだ。
それは、彼の“識海”が再び異変を起こしている兆しだった。
---
ドンッ!!
紫の気が天龍の背を裂き、天へと昇っていく――まるで龍の影が舞うかのように。
ドクン…ドクン…ドクンッ!!
心臓の鼓動が戦鼓のように鳴り響き、内力の深層へと響いていた。
天龍はすぐに座禅を組み、両手で経文を押さえ、入定を始めた。
---
外から密室の隙間を覗いた小道士が、震える声を漏らした。
> 「まさか…『あれ』を読んでいるのに、修為を失っていない…!?」
「そんなはずがない!掌門ですら三行も読めば吐血するというのに!」
「じゃあ…あいつは一体何者だ…!?」
---
精神が解き放たれた状態で、天龍は漆黒の宇宙を漂っていた。
彼の周囲には無数の幻影が現れる。
――灰衣の男が孤峰に立ち、折れた剣を握りしめ、血で空を染める。
――金色に輝く僧侶が七つの輪を回し、やがて空へと溶けていく。
――顔を隠した女が血の海を歩み、悲しみを宿しながらも、無限の意志を燃やす眼差し。
> 「この経文を修めた者たちは、かつて絶頂へと至り…そして、消えた。」
---
突然、脳内に響き渡る千年の鐘のような声が鳴り響いた。
> 「お前は…この道を学びたいのか?」
天龍は静かに息を吐いた。
> 「学びたい、ではない。」
「学ばねばならないのだ。」
> 「その代償が何か…分かっているのか?」
> 「もし恐れていたら…ここには来なかった。」
その声は沈黙した。次の瞬間――
ドォンッ!!!
白い光が天龍の額に貫通し、古の天書のような奇怪な紋様を刻みつけた。
---
心境解放
> 「お前は…選んだのだ。」
「生きることは、もはや生ではなく。死ぬことも、死ではない。」
「唯一残された道――“絶対無極”だ。」
---
三日間が一瞬のように過ぎ去った。
密室の光が次第に薄れ、天龍がゆっくりと目を開く。
彼の眼差しは――もはや火でも、雷でもなかった。
それは…深淵だった。
---
彼は小声でつぶやいた。
> 「俺は…見たのだ。」
「道とは、神になるためのものではない。」
「道とは、神をも跪かせるためのものだ。」
---
蔵経閣の外――空が突然鳴り響く!
ゴゴゴゴゴ――ドオォン!!!
警鐘の音が派を揺るがした!
> 「蔵経閣の内部から異変発生!」
「すべての長老、即刻集結せよ!」
数百人の高位道士が洪水のように駆けつける。剣光、旗印、陣法が四方八方に広がっていった。
---
紫衣を纏った長老が髭をなびかせながら低く唸った。
> 「最深部の密室が…開かれたのか…!」
「あそこを犯す者、それは即ち太清武道の敵だ!」
別の長老が息を切らしながら叫んだ。
> 「だが…その者は三日間も中で生き延びていた…!」
天すらも圧し掛かるように、蔵経閣の上に重圧が降りかかっていく!
---
そのとき――
バリィッ…!!
密室の扉が静かに開かれ、中から淡い光が溢れ出した。
真っ白な姿の影が、ゆっくりと歩み出る。
天龍――少年の姿のまま、だがその一歩一歩が天地の法則を踏み砕いていた。
空気が裂け、音もなく崩れていく。
> 「止まれっ!!」
長老の一人が叫ぶ。
---
だが彼が近づく前に――
ドォン!!!
天龍のただの一瞥だけで、見えざる力が長老たち全員を吹き飛ばした。まるで嵐に舞う落葉のように!
---
> 「あ…あいつは一手も使っていない…」
一人の小道士が膝をつき、白目を剥いて震える。
> 「ただ立っているだけで…我らは敗れたのだ…」
太清武道の全ての道士たちは、微動だにせず立ち尽くしていた。風が法衣の林を吹き抜け、「サラサラ……」と背筋を凍らせる音を立てる。
彼らの視線は、密室から一歩一歩と現れる少年に釘付けになっていた。
──天龍。
彼の一歩ごとに、大地が裂けるような感覚をもたらし、空気中の塵すらその瞬間、動きを止めた。
> 「そんなはずが……そんなはずがあるものか……!」
掌門の老道士は手を震わせ、顔面蒼白となった。
「たった三日で……“太清無極経”を完全に融合したというのか!?」
---
天龍は歩みを止めた。
軽く乱れた髪を指で整え、その眼差しは目の前の群衆を見ていないかのように、はるか天空を見上げていた。
> 「この世に──」
「武学に上下はない。あるのは、それを受け取る心と、それに踏み出す勇気があるかどうかだけだ。」
---
激昂した長老の一人が、怒りに任せて空へと舞い上がる。
> 「傲慢な──!!」
彼は剣を高く掲げ、「九玄雷影」の剣術を繰り出す。
空が轟き、まるで雷神が降臨したかのように天地が震えた。
──ドォン!!
雷光が天龍めがけて一直線に襲いかかる。
---
だが天龍は、一歩も動かず──
ただ、軽く手を差し出しただけだった。
> スウッ──
雷電は、空中で一瞬にして霧散し……まるで飲み込まれたかのように、跡形もなく消えた。
---
> 「道は──道を壊さない。」
「ゆえに雷電も、我を打つことはできぬ。」
天龍は静かに微笑んだ。
---
別の長老が大声を上げる。
> 「なんという詭弁! 理を捻じ曲げるとは!」
「太清の秘典を奪っておきながら、まるで主のように振る舞うとは──!」
> 「囲め!!」
「天才であろうと、武を廃して見せしめにするのだ!!」
---
十二人の長老たちが一斉に飛び上がり、空中に“天地八卦陣”を展開する。
乾・離・巽・坎・震・艮・坤・兌の虚影が天に現れ、天地の霊気が陣の中心に吸い寄せられる。
> 「天地合陣──!」
「たとえ元気を消耗しようとも、奴を滅する!!」
---
しかし──
天龍は、ただ一息だけ、静かに吐いた。
淡い黄金色の光が、彼の身体から霞のようにゆっくりと広がっていく。
空中には、古の符文が一つ、また一つと浮かび上がり、音もなく、しかし絶対的な威圧感を放っていた。
> 「天人合一。」
「道は形を持たぬ──されど万法を服従させる。」
---
ドォン!! ドォン!! ドォン!!
陣法が──崩壊した!!
十二人の長老たちは同時に血を吐き、糸の切れた凧のように地面へと叩き落された。
---
蔵経閣全体に、死んだような静寂が広がる。
誰も、動けなかった。 誰も、言葉を発せなかった。
ただ風が、岩壁を叩いて泣き声のように響く。 ──太清の誇りが砕け散った音のように。
---
そのとき──
漆黒の道袍を身にまとった老人が、遠くからゆっくりと歩いてくる。
玉の杖を手にし、歩みは遅い。 だが一歩ごとに、大地が小さく震える。
---
> 「太清の始祖だ──!!」
「太清武道の創設者だと!?」
若い道士は膝をつき、震え声で叫んだ。
現れたのは、数十年もの間世を離れていた“道一真人”。
──その道の開祖が、今、たった一人の少年のために姿を現したのだ。
---
道一真人は、天龍の前に立ち止まる。
老いた目が彼の姿を一瞬見て── 静かにため息を吐いた。
> 「この老骨、一生をかけて七つの心法を創り、三つの陣を築き、万巻の秘典を読破したが……」
「“太清無極経”だけは、悟ることができなかった。」
「だが……お前は──たった三日で、その最後の扉を開いた。」
---
天龍は静かに頭を下げる。
> 「恐れ多い。私はただ……」
「この世が、私に教えるには、まだ弱すぎたまで。」
──晴れた空に落ちた雷鳴のようなその言葉。
道士たちは、皆、口をあんぐりと開いた。
それは傲慢さへの驚きではない。
ただ、彼の前に突きつけられた“事実”に──言葉を失ったのだ。
---
道一真人は呟くように言った。
> 「少年よ……お前は、この世に受け入れられぬ。」
「お前は──歴史を書き換える存在となるだろう。」
---
天龍は歩み寄り、そっと秘伝書を撫で、そのまま懐に収めた。
誰も止めない。 誰も問いかけない。
誰も──死にたくはなかった。
---
> 「感謝する。」
「太清武道よ……大いなる贈り物をくれたな。」
彼の目が、全員をゆっくりと見渡す。
> 「願わくば──もう私の行く道を、邪魔しないでくれ。」
「次は……こうして静かに歩むとは限らぬぞ。」
---
門人たちは震えながら、まるで餌を啄む鶏のように首を縦に振る。
風が強く吹きすさぶ中──
天龍の白い法衣が灰銀の空の下で舞い、まるで孤高の王者が人の世に降り立つような威容を放っていた。
彼は、何も言わない。
ただ──歩く。
> 「コツ……コツ……」
その足音は静かでありながら、鋭利な短刀のように、太清の門人たちの心を突き刺した。
誰一人──
止めることはできなかった。
---
彼が蔵経閣の正門を通り過ぎるとき──
ふと、静かな声で言った。 まるで湧き水のように、澄んで冷たい声で。
> 「“太清無極経”は──一時的に預かる。」
「読み終えたら返すかもしれない。──あるいは、返さぬかもしれぬ。」
---
その一言が落ちた瞬間──
ドンッ!!
すべての道士の膝が震えた!
> 「ただ奪うだけでは飽き足らず、返さぬと宣言までするのか!?」
「なんという──傲慢……!!」
顔を真っ赤にした長老が、一歩も動けずに立ち尽くしていた。
---
天龍は口元に笑みを浮かべて言う。
> 「返してほしいなら──」
「力ずくで、取りに来い。」
彼は背を向け、再び歩みを進める。
---
そのとき──
スパッ!!
空から一つの影が舞い降りた。
その姿は一枚の落ち葉のように軽やか── だが気迫は、まるで崩れ落ちる山のように圧倒的だった。
中年の男──
厳しい面持ち、鋭い眼光はまるで抜かれたばかりの刃のように冴えていた!
---
> 「──掌門!!」
道士たちの間に、恐怖と希望が入り混じった声が響いた。
現れたのは、太清武道の──掌門その人であった。
もしこの記事が少しでも面白いと思ったら、評価をお願いします。下にスクロールすると、評価ボタン(☆☆☆☆☆)があります。
このページをブックマークしていただけると、とても嬉しいです。ぜひやってください。
もしよろしければ、フィードバックもお聞かせください。
評価、ブックマーク、いいねなどは、私が執筆する大きな励みになります。
どうもありがとうございます。




