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Episode 128

これほど奇妙な家を、私はいまだかつて見たことがなかった。


四方の壁は石ではなく、波打つように曲がるガラスでできており、夕暮れの薄紫と橙の空を映していた。高所から眺めれば、その館はまるで生きた水晶のように見え、気温に応じて光を変え、主の意思に従って構造を変化させる。空気にはミントと電気の樹脂のような香りが漂っており、それは神具に触れた時にしか感じたことのない、あの感覚に似ていた。


私たちは音もなく浮かぶ車で降り立った。扉が開くと、そこには幽光を放つ花々の庭が広がっていた。一輪一輪が小さな星のように、淡く輝いている。幻想的な美しさ。しかし――


私の胸は重く沈んでいた。


なぜなら、これから私は「彼女の家族」と対面するのだから。


> 「リラックスして」




アンドウはそっと私の手を握りしめ、まるで私の胸中を見透かすように囁いた。


> 「パパとママ、人間を食べたりしないから」




私は何も言わず、ただ静かに頷いた。だが心の中で、ふとよぎった。


(……もし彼らが神階の強者であるなら、「食べる」が比喩とは限らない)


応接間へ通された。そこは見慣れぬ空間だった――


足のないソファが宙に浮かび、壁には海のホログラムが映されていたが、湿気は一切感じられなかった。テーブルには、円筒形の機械で注がれたばかりの豆乳が置かれている。口に含んでみると、やわらかな甘みと香ばしさが広がる。私はもう一口、そっと口をつけた。


> 「アンドウ、その男は誰だ?」




低く、冷たく、かつ多くの者を指揮してきた者に特有の声が響いた。


私は振り返る。五十代半ばと見える男が入ってきた。銀灰色のスーツ、鋭い眼差し、高い鼻梁。軍人のような剛毅さと共に、相手の呼吸一つまで見極めようとする制御された視線がそこにあった。


> 「その装い…髪型…顔立ちも…」




共に現れた女性が口を開く。声は柔らかいが、語調には氷のような鋭さがあった。


> 「この世界の人間とは…まるで違うわね」




彼女の眼差しは、薄い刃のように、私の肌をなぞる。


> 「変わってるわね。まるで…古代人みたい」




最後に現れた少女が、気怠げに笑いながらも警戒を隠せずに言った。


> 「ハンサムだけど、現実の人間というより…小説の登場人物って感じ」




私は静かに豆乳のグラスを置いた。敵の視線には慣れている。だが今回は――彼女の家族。私は、冷徹や殺意で応じたくはなかった。


アンドウが私と彼らの間に立つ。頼りない盾のように。


> 「彼は…昨日私が助けた人なの。空から落ちてきたのよ」




父親の眉がぴくりと動く。


> 「空から?まさかSF映画の観すぎじゃないか?」




私は立ち上がった。身体が自然と、古の礼儀作法で手を合わせていた。それは、血に刻まれた本能だった。


> 「拙者――名をディエツ・ニンと申す。命を救っていただき、感謝の念に堪えぬ。ご所望あらば、身を捧げ奉る」




空気が凍った。


三人の視線が、まるでバグに直面したAIのように、一瞬フリーズした。


> 「コスプレかしら?」




母親が細めた目で囁く。


> 「それとも、4Dドラマの役作り?」




> 「違うよ」




姉のような少女が身を乗り出した。


> 「肌に異変の兆候がある。エネルギー流動も通常とは異なる。生体センサーがF等級・レベル7の警報を鳴らしたばかり」




私はその少女を見つめ返す――張清萱チャン・セイケン。薄いレンズの向こうで、彼女の瞳は私の魂の深層にまで入り込もうとしていた。


> 「あなたは…どこから来たの?」




父の声が再び響く。だが、今度は敵意が和らいでいた。


私は静かに息を吐いた。


> 「…あなた方が“宇宙空間”と呼ぶ場所から。私がどれほど眠っていたのか…分からない。だが…この世界は、もはや私の知るものではない」




長い沈黙が落ちた。


姉のような少女が小さく頷き、唇をきつく結んだまま、内なる知識を掘り起こそうとしていた。


> 「原体飛星げんたいひせい理論…」




彼女が呟く。


> 「SFの仮説にすぎない――宇宙を越えて冬眠する生物体。時間の流れを越え、進化の枠をも超越した存在」




> 「つまり…宇宙人、ってこと?」




母親が眉を寄せる。


> 「完全ではない」




清萱は眼鏡を正しながら続けた。


> 「遺伝子の基本構造は人類だが、既知のどの分析とも一致しないコードが多数存在する。そして、彼の体内に蓄えられたエネルギー量は…安全基準の八倍。ほぼ神階に相当する」




私は応えなかった。ただ、黙って自らの掌を見下ろしていた。


旧世界の戦場から引きずり出され、この庭園へ落ちた時から――


私の力は寸断され、時空の彼方へ漂っていた。


今の私は、未来の博物館に置かれた一振りの古の剣のようだ。鋭利でありながら、時代にそぐわぬ孤独を纏って。



---


(描写部分 40%)


私の髪は夕霧に濡れ、片目を覆っている。室内の光が銀色に反射し、身体を包む衣は密着しつつも、肌を露わにしすぎない絶妙な布。筋肉と血管の線が浮き上がる。広い肩、硬く締まった胸、節ばった手――数千の戦いを経た者の証。


そして私の瞳――彼らには理解できぬもの。


それはただの異能者の瞳ではない。天地崩壊の瞬間を見た眼、山々が崩れ、星々が砂漠に花びらのように墜ちる光景を見届けた眼。


かつて氷よりも冷たかったそれは、今――彼女のおかげで、再び温もりを帯び始めていた。



---


> 「お姉ちゃん、彼を怖がらせないでよ」




アンドウが声を上げる。その声には、優しさと少しの抗議が込められていた。


> 「彼は悪意なんて持ってない。私が保証する」




父親は娘を見、そして私を見る。初めて、彼の眼差しがほんの少し和らいだ。


> 「この世界で生きるなら――人間の中での“在り方”を学ばねばならぬ」




> 「学んでいる最中だ」




私は応じた。これ以上なく、誠実に。


> 「…彼女から」




その時、彼女が私の手を強く握りしめた。



---


家の結界が微かに光を放った。


まるで、異なる生命体の侵入を、静かに受け入れたように。


だが私は知っていた。


――真の試練は、まだ始まったばかりであることを。


客間は、月のない夜の湖面のように静まり返っていた。


天井から吊るされた水晶のシャンデリアの光が、男の手にした茶器を照らし出す。部屋の中心に座るその男――張国強チョウ・コクキョウは、声を荒げる必要も、権威を誇示する必要もなかった。ただ一口、茶をすするだけで、空間そのものが締めつけられるように緊張した。


私はその正面に座していた。背筋を伸ばし、右手を腿に、左手はそっと耳飾りに触れていた。灰色にきらめくその飾りが、微かに震えている。


> 「張家は三百年以上、この地を治めてきた」

男は、まるで判決を下す裁判官のように口を開いた。

「王族ではないが、名声、財力、権限――何一つ劣ってはいない」




私は黙していた。正直なところ、精神を衛星と額装置に支配されたこの世界の“勢力地図”など、どうでもよかった。だが、その声に宿る何かが、私の内なる冷笑を一瞬止めさせた。


> 「代々、我が一族では娘が継承者となる。そして…末娘の張杏桃チョウ・アンタオが、その役目を担うこととなった」




彼の視線が、隣に座る桃色の髪の少女に向けられる。


> 「ちょ…ちょっとパパ、それ今ここで言うこと? も〜…恥ずかしいからやめてよ」




彼女の言葉はそよ風のように柔らかい。しかし、それを聞いた私の胸には波が立った。

――この機械と名誉の世に生まれながら、彼女は春の陽光のような温もりを持っていた。私は、彼女に二度も命を救われている。


> 「若者よ」

男の声が鋭くなり、まるで獲物の首周りを測る刃のように細くなる。

「娘を救ったうえ、行く宛もないのなら…私からの提案だ。杏桃の専属護衛となれ」




私は目を細めた。その提案の内容ではなく、彼が娘を「それ」と呼んだ口調――まるで彼女を呼吸する存在ではなく、管理すべき“所有物”と見ているようだった。


> 「ちょうど、前任の護衛を解雇したばかりでな。色恋に溺れて、異種体の侵入を許すとは、愚か者よ」




その言い回し――あまりに冷たい。

おそらく“解雇”とは建前、真実はもっと血生臭いのだろう。


> 「今どきの護衛は、そう簡単じゃないわよ」

母・林雅恵リン・ガケイは、優雅ながらも芯のある声で言った。

「特殊能力か、戦闘技術レベル3以上のスキルは必須ね」




私は身じろぎしなかった。

沈黙――それもまた、一つの攻撃手段である。


> 「聞こう」

張国強は膝に肘を乗せ、じっと私を見つめながら問うた。

「お前には何か超常の力があるか? 異能か? 内部システムか? 戦闘知識の最適化でもいい」




> 「…何もない」




私の返答は、風のように静かだった。


部屋の空気が、一瞬で凍った。


> 「嘘だわ」

姉・張清萱チョウ・セイケンが息を呑むように言った。

「家のセンサーが、Class-X相当のエネルギー変動を記録してた。隠してるの? それとも自覚がないの?」




> 「…私は、“力”をお前たちの定義では使わぬ」 「ただ――意志がある。そして、いくらかの武芸を心得ている」





---


左耳のイヤリングがわずかに揺れる。

その瞬間、黒と金の雷光が音もなく弾け、空間に溶けた。


誰の耳にも届かなかったが、死者ならば知っているだろう――

それは“警告”である、と。


清萱は、機械と共に生きる者。密かに遠隔スキャンを試みていた。

だが――システムが乱れた。イヤリングの信号は、この地球のスペクトラムには存在しない。


> (…別の次元から来たものね)

彼女はそう確信していた。

ARメガネに反射する赤い警告灯が、それを証明していた。





---


> 「その耳飾り…まるで宇宙遺物だな。どこで買った?」




父親が目を細めて尋ねた。石のような視線で。


> 「買ったのではない」

私は左の耳たぶに触れた。

「これは、継承された武器――“天坤魂鉄てんこんこんてつ”と呼ばれる」




> 「え? 昨日は“棒”って言ってなかったっけ…?」

杏桃がそっと耳打ちしてきた。




> 私は微笑んだ――彼女にしか分からない微笑で。

「それは…必要に応じて形を変える」




彼女の頬がほんのりと赤く染まった。


その瞬間、昨夜のかすかな記憶が浮かぶ――

私が疲労で昏睡していた時、彼女が“棒”に触れた。

それが武器と思っていたのかもしれない。


…実のところ、それは“どちらでもある”。



---


> 「いずれにせよ、正式契約が必要だわ」

母・雅恵が厳格な声で言った。

「三日間の訓練、そして能力判定試験に合格してからでなければ、任命はできない」




> 「構わない」

私は静かに頷いた。

「ただし――私は束縛を好まぬ。守るなら、自らのやり方で守る」




> 「ふっははは! 面白い奴だ」

張国強は豪快に笑った。

「三日後の試験で生き残れたら…あとは娘をどうしようと、俺は何も言わん!」




> 「ちょ…パパーーーっ!」

杏桃が顔を真っ赤にして叫んだ。まるで真夏の昼に皮を剥かれた桃のように。





---


三日間。


私は試練を恐れはしない。なぜなら――この身こそが、世界への試練であるのだから。


問題は、武芸の有無ではない。

ただ一つ――彼女の手に触れたとき、私の心が…一瞬、柔らかく揺らいだ。


かつて、一つの視線だけで軍を滅ぼしたこの手が、

今は他人の城で、茶を飲み、静かに娘の隣に座っている。


この想いに、名を付けることはできない。


だが――もし誰かが彼女に指一本でも触れようものなら。


三百年の歴史を持つこの城壁を、血で染めてやろう。


トリュウ家の城館。その中央訓練場に、夕日が最後の輝きを投げかけていた。高く設置された照明が静かに灯り、黄昏の名残をそっと押し出す。かすかな風が、銃器の潤滑油と金属粉の匂いを運んでくる。


すべてが静まり返る中、二つの足音だけが空気を裂く。それは、無言ながら重みある「対話」の始まりであった。



---


> トリュウ・コクキョウ(張国強)、刃のごとき眼光で笑い声を放った。

「この老いぼれ、半生を戦場で過ごしたが……娘を嫁がせるにあたり、一発の拳も浴びせぬなど、筋が通らぬわ。」

「貴様、あの子を守りたいというなら……せめてこの拳、一発は受けてもらうぞ。やるか?」




> ジツニン(滅人)(頷き、一歩踏み出し、平坦な声で)

「私が受ける必要はない。ただ、あなたが放てばよい。」




> エンドウ(櫻桃)(慌てて)

「ま、待って! 父上が本気になったら……命に関わるわよ!」




> トリュウ・セイケン(張清玄)(腕を組んで、低く呟く)

「面白くなってきたな……。Z-9宇宙ステーション事件以来、父上が本気を出すのを見るのは初めてだ。」





---


第五級コンバットスーツが、背面から静かに展開する。蒼灰色の装甲が、鍛え上げられた肉体を包み込んだ。関節部が緑青の光を帯び、エネルギー脈動が生体リズムに同期して脈打つ。


足元のセンサーは即座に反応し、圧力調整と衝撃予測を行う。ふたりを囲むように、淡く光るエネルギーリングが浮かび上がった。これは、死を避けるための「制限空間」。


そして――。


**「ピイイイッ」**という電子音が鳴り響いた。

試合、開始。



---


> トリュウ・コクキョウ

虎の如く、轟音と共に踏み込む。

一歩ごとに地面が震え、訓練場の床に細かな亀裂が走る。




> 「特殊戦闘兵の拳――試してみるがいい!」




> 右腕を巻き込み、全身の筋肉が膨張する。

放たれたフックは、音速をも凌駕するかのような一撃。

空気を裂き、衝撃波が周囲のセンサーを振動させた。




> ジツニンは動かぬ。怯えるような避け方などしない。

ただ、ほんの少し身体を傾けただけで、拳は顔の二センチを掠めた。

髪が風で揺れるが、その瞳に一切の動揺はない。





---


> トリュウ・コクキョウ(驚きと興奮を交えて)

「見事な反射だ……だが、それだけか!」




> 身体をひねり、回し蹴りが宙を裂く。

ジツニンはわずかに半歩後退しただけで、蹴撃を無にした。

力の余波が床のタイルを砕き、火花が散った。




> 彼は水のように動く。無駄なく、静かに、だが確実に。




> エンドウ(拳を握りしめ、目を逸らさず)

「彼……本気で、火遊びを始めてる……」





---


装甲スーツが熱を帯び始め、全身を包む薄膜が微かに震える。

トリュウ・コクキョウの一撃一撃は凄まじく、床を割り、支柱を揺らす。


だがジツニンは、森を吹き抜ける風のよう。受けず、流し、怒りを他人の胸で砕かせる。


> トリュウ・コクキョウ(息を切らし、汗が額を流れる)

「なぜ……反撃せぬ? 俺を侮っているのか……?」




> ジツニン(静かに、中央で立ち尽くしたまま)

「あなたの顔に、泥を塗りたくはない……だが、そこまで言うなら、仕方ない。」





---


一瞬――誰もその動きを捉えられなかった。

ジツニンの姿が、消えた。


次の瞬間、カチリという音が、トリュウ・コクキョウの背後で響いた。


> ジツニンはすでに背後にいた。

片腕で首を軽く抑え、もう一方の手で肩を固定する。

足元で彼の踵がコクキョウの脚をわずかに引いた。




> それは「下山封鎖」――教本に載る基本の拘束術。

殺意はない。ただ、重心を封じただけ。




> ジツニン(耳元で低く囁く)

「申し訳ない。もし倒れるなら、私は支える……

だが、あなたが力を緩めぬというなら――これが答えです。」




> ドン。




半秒も経たずに、コクキョウは地に膝をつかされた。

腕は背後で固定され、首元に圧はあれど、呼吸は妨げられぬ。

センサーが微かな振動を捉え、試合の終了を告げる音を発した。



---


> トリュウ・コクキョウ(顔を床に伏せ、目を見開きながら)

「貴様……いったい、何者だ……?」




> ジツニン(手を離し、半歩退き、丁寧に彼を起こす)

「何者でもない。ただ……多くの地を巡り、生き延びてきた者に過ぎません。」




> エンドウ(手を打ち、満面の笑顔で)

「お父様~~、負けちゃったね! やっぱり彼、すごい!」




> セイケン(感知データを記録しながら、溜息まじりに)

「あのイヤリング……また信号を乱してる。空間周波数、どの規格にも一致しない……」




> 母・ニャ・クエ(雅恵)(遠くから歩み寄り、茶杯を手に、厳しい声で)

「勝ったからといって、慢心は禁物。あと二つの試験が残っているわ。まずは……生き延びることね。」




> ジツニン(微笑し、夕陽の沈む空をまっすぐ見据えて)

「生き延びるのではなく……正しく、生きることです。」


トラン家の主食堂──それはまるで小国の祝賀ホールのごとく広大であった。

天井から吊るされたクリスタルのシャンデリアが、純白のビロードで覆われた長い食卓を柔らかく照らし、ナイフや箸の表面にきらめきを描き出していた。

焼き立ての和牛の香りが、日本の醤油と柑橘の甘味と混じり合い、芳しくも上品な余韻を空間に満たしている。温かく、澄んでいて、それでいて高貴な気配。


私はアン・ダオの左隣に座っていた。

彼女はちらちらと私を見つめ、時おり照れ隠しのように視線を茶碗へ落とす。

その向かい側、今日の午後に私と一対一で拳を交えた男──チュオン・クォック・クオン氏が、赤ワインのグラスを掲げ、年輪を刻んだその瞳を細めた。


> 「ほう……たいしたものだな」

「まさか、お前にここまでの腕があるとは思わなかったぞ」




そう言って酒を口にし、彼は珍しく微笑を浮かべた。

それは──砂漠のただ中に雪を見た者が、思わずこぼすような微笑であった。


> 「十年ぶりだ……私を地に伏せさせた若造は、お前が初めてだよ」




私は箸を置き、そっと頭を下げる。


> 「……身を守るための反応に過ぎません。無礼を働く意図はありませんでした」




> 「わきまえているな」

老将は頷いた。「それでこそ……我が娘を守るに相応しい男だ」




私は答えずとも、場に流れる緊張がほんのわずかにほどけた。

それは、ちょうど冷まされたばかりのオレンジソースのサーモンのよう──舌に優しく、そして本来の甘さを残している。


一方、アン・ダオの母と、隣に座る恐らくは彼女の姉であろう女性は、依然として沈黙を保っていた。

その眼差しには──好奇と警戒が等しく混じる。

私はそういった目には慣れていた。

無理もない。この世界の「外」から現れた存在を、簡単に受け入れられるはずがないのだ。


> 「おい」

クォック・クオン氏が突然グラスを置いた。




> 「お前、娘の護衛だというなら、ただ後ろをついて回るだけでは務まらん」

「目立ちすぎる。明日からは一緒に学校に通え。学生に化けろ。書類はすでに手配済みだ」




私は箸を持ったまま固まった。

指先には、菜葉を挟んだままの感触が残る。


> 「……学校に?」

「私は……学び舎というものに、一度も通ったことがありません」




> 「えぇっ!? じゃあ、文字も読めないの?」

アン・ダオが驚いた声を上げ、目をまるくする。




私は少し困ったように頭を掻いた。


> 「この世界の文字は……スマートフォンに出るものしか知りません」




> 「大丈夫よ」

アン・ダオの母が、朝露のように柔らかい声で微笑む。




> 「娘のそばにいれば、自然と学べます。学校には支援クラスもありますから」




私は静かに頷いた。

生まれて初めて──誰かが、「無知であること」を、責めるのではなく、当然のこととして受け入れてくれた気がした。


だが──

クォック・クオン氏の腕が再び組まれ、その眼差しが変わる。

もはや微笑はなかった。


> 「それと……お前、その髪型は何だ?」

「まるで女の子じゃないか」




私は顔を上げた。


> 「この髪は十歳の頃から伸ばしております。元の世界では──髪の長さは武道の象徴でございました」




短い沈黙。

彼には伝わらないことを、私は悟っていた。


> 「ここはアース001だ」

老将の声が低く響く。




> 「訳のわからん“武道”の世界じゃない。男は強く、そして清潔であるべきだ」

「明日、切れ。わかったな?」




──カチン。

箸が卓に触れる音が、小さく響いた。

何かが……胸の奥で、わずかにひび割れる音がした。


私は箸を握り締めた。

プラスチックがきしむ音が、かすかに耳に届く。


> 「……はい」




> 「……わたし、あの髪……きれいだと思うけど……」

アン・ダオが小さく呟き、視線を逸らす。




私はそっと首を傾け、彼女を見る。

だが、彼女は逸らした目を戻そうとはしなかった。


──そのとき。

ふと足元に違和感。

彼女の足が、私の足に……触れている。

水面を撫でる風のような、ほのかな温もり。だが──退く気配はない。


私は何も返さなかった。

ただ、目の前の水の入ったグラスに視線を落とす。


きらめく灯りの下、揺れる水面。

そして、心の中に小さく、だが確かに燃え上がる問い。


> 「──私はこの世界に生きるために、自分の記憶さえ捨てねばならぬのか?」





---


シャンデリアの灯は、私の目に反射し、煌めきながらも温もりには届かず──「武道」と「アース001」のあいだの深き溝を隠すには至らなかった。


和牛の香り、柑橘の甘味、静かなカトラリーの音──どれも異郷の響き。けれど、どこかで……馴染み始めている。


彼女の足──触れたまま。名もなき温もりが、私の中へと忍び寄る。


長き髪──かつての誇り。今は「文明社会の異物」として、切り捨てられようとしている。


私はひとり、屋上に佇んでいた。

誰もいない空間に、Earth 001 の夜風が吹き抜ける。

さっき切られたばかりの短髪をなぞるその風は、どこか見知らぬ石鹸の匂いを運んでくる。

空には満月がひとつ、冷ややかな鏡のように浮かび、静かに私の内側──いまだ誰の光も届いたことのない深淵を、淡く照らしていた。


風に翻る薄手のシャツの襟元がずれ、鎖骨が露わになる。

それは艶かしさではなく──壊れやすさの象徴のようだった。

どうして自分がこの場所に来たのか、正直分からなかった。

ただ、あの夕食の「規律と沈黙」に、胸が詰まっていた。


もしくは──

ただ、聞きたかったのかもしれない。

あの「声」を。



---


> 「よう……久しぶりだな、声出すのは」




その声は、意識の底にこだまする呼吸のように響いた。

低く、明確で──そしてどこか気だるげだった。


「どうだ、坊主? 新しい世界の居心地はよ?」


私は少しだけ顔を傾け、夜空を仰ぐ。

口元が、ほんのわずかに上がる。


> 「てっきり……もう永久冬眠したかと」 「十章分も顔出さずに、生きてる気配すらねぇんだからな」




「この世界の月は──前のよりも、ずっと明るい。

……だが、人の心は、あいかわらず霧の中だ」


耳元で、彼が短く鼻を鳴らした。

苦味を噛み殺すような、鈍く重たい音。


> 「お前が宇宙で何千年も寝てる間にな、こっちは……女房に囲まれて生き地獄だったんだ」




「五人全員、それぞれ要求がある。夜ごとに違う風景、違う感情、違う“内面”を語らされる」


「……犬以下だぞ、マジで」


私はふっと笑った。

彼を笑ったのではない──

「最強」と呼ばれた男ですら、愛に溺れて立ち往生するのかと。


> 「つまり、お前は“幸せ”で忙しかったのか」 「……なら、おめでとう」




> 「……なに? 今、祝われた……か?」




唐突に声のトーンが跳ね上がる。


「てめぇ、この野郎……! 皮肉言いやがったな!」


「いいぜ、もう帰る! 戦争とか反乱とか、世界終末レベルじゃねぇと、二度と呼ぶなよ!」



---


沈黙が戻る。


風がまた通り過ぎる。月は何も語らない。


私はひとつ、長く息を吐いた。

その冷たさは空気のせいではない。

むしろ胸のなか──自分が空っぽであることに、ふと気づいてしまったからだ。


> 「……それでもいい。

少しだけ──静けさがほしかった」




その言葉は、彼に向けたのか。

あるいは、己自身に向けた独白だったのか。

私にも分からなかった。


胸の奥に、何かが静かに動いた。

髪の毛よりも細い亀裂が、左胸の片隅からじわじわと広がっていく。

痛みはない。ただ、不安だけが残る。



---


Earth 001 の夜空には、煙もなければ、濁りもない。

ただ月と、沈黙する星々があるのみ。


私は石造りの欄干に腰を下ろし、膝を抱え、背を壁に預ける。

視線は遠く、東の空──

そこには、ガラスの迷宮のような都市が、光を放ちながら静かに脈打っていた。


だが、その灯りは私を温めない。

そして、切られた髪の感触を忘れさせることもない。

それは、私の武道の象徴。

──過去の一部だった。


家の中に埋め込まれたバイオ時計が、規則正しく時を刻んでいる。

その「カチ、カチ」という音は、まるで記憶を叩く金槌のように、私に告げていた。


──明日から、私は“生徒”になる。


──彼女のことを、“クラスメイト”と呼ばねばならない。


嫌ではなかった。

だが、怖かった。


──自分が、なぜこの世界に来たのか。

それすら忘れてしまいそうで。



---


その夜、私は目を閉じた。

安らぎが訪れると信じていた。

だが、夢はいつもより早く、そして不穏にやって来た。


足元に、血に濡れた一本道が現れる。

一直線に延び、その先には──

古代文字の鎖で封じられた、ひとつの塔が立っている。


塔の頂には、ひとつの影。

その者は、私の顔を隠し──

ただ、手にひと束の髪を持っていた。


私の──あの長く黒い髪が、血を流しながら揺れていた。



---


> 「……坊主」




突然、あの男の声が再び響く。

囁くように、静かに。


「他人に、自分を忘れさせられるな」


「学校も、恋も、優しささえも──すべて“代償”を持つ」


「お前は……“普通に生きるため”に生まれた存在じゃないんだ」



---


私は目を開いた。

月は、まだそこにいた。

だが──その半分が、消えたような気がした。


私は知っている。

この穏やかな日々は、ほんの前奏に過ぎない。


私を待っているのは──嵐だ。


そして、生き延びるためには……


──己を捨てるか。

──それとも、世界を滅ぼすか。


どちらかを選ばねばならない。



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