Episode 124
私は三日間、回復していた。しかし、心の底では、何かが未だに沈まぬままであった。
まるで石像のように、私は身じろぎもせずに座っていた。手は、新しく鍛えられた剣の上に静かに置かれていた。それは、かつて命を断ち切った我が指先よりも冷たく、魂の抜けた闇夜よりも静寂だった。
剣の柄には、隠れたる龍が彫られていた。その背は波打ち、まるで地獄の夢にうなされているようだった。刃には細い血の紋が走り、あたかも屍泥に沈んだ蛟竜の鱗のように見えた。
付属の二本の短剣――一つは冥府の雪のごとく白く冷たく、一つは凍る間もない鮮血の如く赤く染まっていた。対をなすこの二本は、まるで混沌の一念から生まれたかのように、並ぶと不気味なほどに調和していた。
それはただの武器ではなかった。私は、確かに感じた。
この剣は、私の一部であり、あるいは、長きにわたり葬り去ってきた己の影なのだと。
> 「もう一時間も眺めてるよ。」
小さな声が背後から聞こえた。
小さな風を纏って、ティエウ・ヒエンが灰色の外套を揺らして入ってきた。彼女は私の左隣に腰を下ろした。目には好奇心が宿っていたが、あのかつての悪戯な光はなかった。
> 「ねえ、まさか日が暮れるまで見続けるつもり?」
後方からは、タン・リンの囁くような声が、心の奥に触れるように届いた。
私はすぐには応えず、ただ剣の柄に手を置いた。錆びた鉄の冷気が、静脈を這い、心臓へと届く。
剣が微かに震えた。
囚われし魂の呻きが、耳の奥で響く。闇に潜む、ぼやけた呼び声――
> 「この剣…魔界に落ちた隕石から鍛えられたものだ。」
「我が手に、馴染む。」
> 「剣は馴染んでも、人の方はどうなのかしらね?」
ティエウ・ヒエンが、皮肉めいた笑みを浮かべた。
私は少しだけ首を傾け、戯れと真実の間で応じた。
> 「合わなければ…今ごろ、一人でここを離れていたさ。」
言葉が部屋の空気を切り裂く鍵となった。
私はまだ此処にいる。つまり私は、彼女たちを必要としている。
戦うためではない。
怪物に成り果てぬために。
タン・リンは対面に座り、古びた羊皮紙の地図を広げた。その瞳は決意に満ちていた。すべてを超える、何かを抱えて。
> 「陽九龍――あなたの先祖の古墓は、魔界旧北辺、かつて百年封印されていた場所にある。」
> 「そこには〈四天書〉が眠っている。太古より伝わる四つの秘書。剣・意・心・魂。」
彼女はまるで呪いを語るように、静かに告げた。
> 「また、命を賭ける旅になるのね…」
ティエウ・ヒエンは小さく呟いた。
私は笑った。その言葉にではなく、彼女が恐怖を装って内なる勇気を隠す、その姿に。
> 「怖ければ、来るな。」
> 「行くに決まってるでしょ。私を置いて行けると思ってるの?」
彼女の声には確かな力が宿っていた。
タン・リンは何も言わなかったが、その視線が胸を締めつけた。それは愛ではなく――責任だった。
私たちには、もはや退路などなかった。
---
道中、私はいつになく寡黙だった。
なぜなら、一歩ごとに、失われた記憶が脳裏に滲んでくるようだったからだ。
足元の草が、風に鳴き、まるで死にゆく龍の声のように聞こえる。
凍りついた草原にて、太陽すら天空から引き裂かれたような世界で、我らは石像のような獣の骸を見た。
死の森には、鳥も蚊もいない。あるのは――夢から滲む血のような囁きだけ。
> 「何が見えるの?」
タン・リンが顔を近づけ、私の突然の足止めに問うた。
私は首を振った。
> 「私の一部が…呼び戻されている。」
> 「記憶、なの?」
> 「いや。血だ。」
---
二日後――
汗が靴底に染み込み、沈黙がため息へと変わるほどの時間が過ぎ――我らは辿り着いた。
目の前には、魔獣の髑髏のような、真っ黒な断崖が立ちはだかっていた。
岩肌には、古代文字が血のように赤く刻まれていた。
「陽・血・祭・神」
> 「継承者の血脈でなければ封印は解けない…」
タン・リンが呟いた。
「ディエット・ニャン、時は来たわ。」
私は歩み寄り、血のように赤い小刀を抜いた。指先を軽く裂き、血を垂らす。
一滴の血が落ち、岩の溝がそれを命のように吸い込む。
地鳴りが大地を揺らし――
轟音。
扉が、開いた。
後方から吹く風は、灰と腐血の臭いを運び、恐怖よりも重たい何か――天命――を運んできた。
その闇の奥から、墓所の奥底より、声が響いた。
> 「ヤン… キュウ… リュウ… は待ち続けていた…」
---
なぜか、胸が激しく脈打つ。
先祖が私を呼んでいるからか。
あるいは――自分自身と向き合う時が来たからか。
ティエウ・ヒエンが、私の手を握った。その手は小さくとも、確かな力を宿していた。
> 「一緒に行くよ。」
タン・リンも静かに頷いた。
その声は、ほとんど囁きに近かった。
> 「中がどうであろうと――手を離してはならない。」
---
私は二人を見た。
炎のように我が道を貫くティエウ・ヒエン。
いつも私を崖の縁へと押しやり、そして笑顔で引き戻してくれる。
深き湖のように沈黙を湛えるタン・リン。
言葉は少ないが、その瞳は、一度傷つければ一生後悔させる力を持っている。
なぜ彼女たちが私について来るのか、分からない。
なぜ、これほど多くの命を奪った私が、まだ歩く資格を持っているのか――それも分からない。
それでも今、我ら三人は…家族のように並んで立っている。
---
墓の門は開いていた。
その中は、光すら呑み込む闇。
血と朽ちた花の混じる臭いが喉を刺す。
私は振り返り、血を流して以来初めて口を開いた。
> 「もし、私が戻らなければ…地図を燃やしてくれ。」
> 「嫌。」
二人は同時に答えた。
> 「あなたが戻らなければ――私たちも、戻らない。」
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私は笑った。
いつの間にか、道を見失った三人が、一つの宿命となった。
血では繋がれていない。だが、抗えぬ定めの中で、確かな絆が芽生えた。
剣の柄を強く握る。
初めて、力ではなく――信じる心が宿った。
> 「行こう。」
そして我らは、陽九龍の古墓へと足を踏み入れた。
己の歴史へと――
呪われし血統の深淵へと。
意識が、深く沈む。
まるで地の底に引きずり込まれるように、私は落ちていく。
しかし、それは闇ではなかった。
それは…記憶だった。
それも、私のものではない。
陽九龍――我が祖の記憶。
---
石畳の広場。
風は熱く、乾いていた。
そこは、古のラク・フン族の祭壇。
神農の銅鼓が影を落とし、太陽は南の空から容赦なく照りつけていた。
中心に、一人の男が立っていた。
白銀の髪は風に乱れ、鱗を織り込んだ戦装束は、南方の陽を受けて輝いていた。
その背後には、裸の百戦士が立ち並び、赤い糸を額に巻き、沈黙の中に神々しさを湛えていた。
前方では、五人の族長が藍染の衣を纏い、ひざまずき、額を大地につけ、四つの巻物を捧げていた。
> 「あなたこそ龍の子孫――南方赤道の龍骨を継ぐ者。」
「あなたの血はチーランの銅の如く赤く、あなたの瞳はフォン・ソンの煤のように黒い。」
「もしこの書を護らなければ、百越の民は、北の夢の中で塵と化すでしょう…」
---
私は、その男の胸の鼓動を感じる。
それは、私の心音ではなかった。
それは、祖の意志。
陽九龍は、英雄になる術を誰からも教わっていない。
ただ、他者が膝を屈するとき、自らは立ち続けた。
剣を握るためではない。
守るために――忘れられた血の誇りを。
南方の民は、かつて空を飛び、龍に乗り、星を読んで天命を知った。
> 「私は力のために書を護るのではない。」
「我が民の血を薄めぬために、護るのだ。」
その声は、西天の天門を通る風のように、深く、広く、凛としていた。
---
彼は、最初の巻物――天書・剣に手を伸ばす。
その瞬間、天が割れ、泰山の頂に金の龍が現れ、真昼の空に咆哮した。
その声に、地は震え、鳥たちは翼を伏せた。
次に――天書・意を開く。
途端に、冬の木々が芽吹き、霧雨が止み、大地に思想が染み渡る。
それは、言葉ではなく、思索そのものが天地と共鳴するかのようだった。
三つ目――天書・心。
風が止まり、湖が波を失い、空気そのものが祈るように静まった。
そこには、ただ一つの念――
「他者の痛みを、己の痛みと知れ」――があった。
そして、最後。
彼は手を伸ばさなかった。
なぜなら、天書・魂はただ一度、開かれるのみ。
それは、七月十五日――鬼が現世に戻る夜。
> 「魂を守る者は、祖霊の怨念も共に背負うべし。」
それでも、陽九龍は、頷いた。
---
彼は、四つの書をすべて読破した。
狂わず、焼かれず、魂を消されずに。
龍守人――四天書を完全に継承した、最初にして最後の者。
しかし、その代償として、彼は人の世に属さなくなった。
---
最期の夜。
彼はカム・リンの禁林に一人座した。
そこには、九枝に分かれた大樹があった。
その影は、三つの世界に跨っていた――
現世、霊界、そして――黄泉。
彼は血を土に滴らせ、九日九晩、瞑想に入った。
> 「我が名は陽、龍の末裔、ラク・ロン・クアンの子孫なり。」
「我が血を受けし者、千年後とて必ず此処へ還り――記憶せよ。」
そして彼は、石となった。
墓の中央で、時間すら凍らせて。
---
――私は、叫びと共に目を覚ました。
喉の奥で、まだ銅鑼の音が鳴っていた。
誓いの言葉が胸を刺し、祖の眼差しが私の魂に刻まれていた。
---
> 「ディエット・ニャン、大丈夫?」
タン・リンが私の手を掴み、現実へ引き戻した。
> 「…私は、先祖を見た。」
ティエウ・ヒエンは驚いた目で私を見る。
> 「えっ、ほんとに? その人…イケメンだった?」
私は薄く笑った。
> 「いいや、顔はどうでもいい。
だが、彼が立ち上がると、天地すら沈黙した。」
---
再び、墓の門を見やる。
それは大地の唇が裂け、魂を呼び戻すような口開けであった。
私はようやく悟った。
私は、天書を求めてここへ来たのではない。
私は、自分自身を探すためにここに来たのだ。
埋もれた誇りと忘却の狭間に沈んだ、もう一人の私を――
> 「我が祖は、財を遺さなかった。」
「彼が遺したのは――呪いだ。」
---
私は、進まねばならぬ。
書を読むためではない。
祖のように、血がまだ冷えていないことを証明するために。
我ら三人は、封印の門を越えた。
それはもはや、扉ではなかった。
それは、時の傷跡。
かつて誰かが、この地に「終わり」を刻み、そして今、私たちが「続き」を刻む。
内へ一歩踏み入れるごとに、空気が重くなる。
まるで、肺に泥が流れ込むようだ。
光が届かぬその空間では、灯火さえも怯え、影すら息を潜める。
---
> 「足元、気をつけて。」
タン・リンが小声で言い、短杖の先で地を探る。
> 「こんなに暗いのに、どうやって進むのよ…」
ティエウ・ヒエンの声が震える。だが、それは恐怖ではない。緊張という名の鋼だった。
私は何も言わず、剣を抜いた。
その刃がわずかに青く光る。
まるで墓の闇に抗うように、血を思わせる光が漂う。
> 「この剣が、道を示している。」
---
奥へ進むと、空気が変わった。
石壁に刻まれた無数の文様――
竜の鱗、燃える山、沈む太陽、泣く神子。
それらが、何千年も語られなかった物語を静かに紡いでいた。
そして、中央の広間にたどり着いた。
そこには、巨大な石棺があった。
周囲を囲む四体の石像――
それぞれに「剣・意・心・魂」の文字が刻まれている。
> 「四天書の番人…」
タン・リンが息を呑む。
棺の表面には、一滴の血の跡が乾いていた。
まるで、最後の祈りが、時間を超えて今に伝わっているかのように。
> 「誰かが…ここで死んだの?」
私は近づき、石棺の側面に手を触れた。
その冷たさが、指先から胸へ、胸から魂へ染み渡る。
すると、突然――
床が揺れた。
天井が軋み、四つの像の目が光った。
> 「起動した…!」
ティエウ・ヒエンが叫ぶや否や、四体の像が動き出した。
---
剣の番人が、石剣を振るう。
意の番人が、精神を突き刺す。
心の番人が、幻を見せ、魂の番人が、記憶を剥がしてくる。
私たちは、試されていた。
---
剣の像が私に迫る。
私はそれを迎え撃つ。
だが、それはただの試合ではない。
これは、祖との対話。
石の剣が放つ一閃に、過去の殺戮が蘇る。
私は、誰を斬り、何を失ったのか。
目の前の一太刀に、かつてのすべてが宿る。
> 「お前の剣は、守るためか、奪うためか。」
声なき問いが、剣の重みに宿る。
私は剣を振るいながら叫ぶ。
> 「私は――血を忘れぬために斬る!」
その瞬間、像が崩れた。
剣の試練を、超えたのだ。
---
同時に、意の番人がタン・リンに迫る。
彼女は動かぬ。
ただ、瞳を閉じ、全身でそれを受け止める。
像が放った精神の波が、彼女の内奥へ潜る。
そこには――私たちのすべての過去が映っていた。
> 「私の意志は…自分のもの。」
「誰かの命令ではなく、彼の隣で、自ら選んで歩く。」
像が、微かに頷き――崩れた。
---
そして、心の番人が、ティエウ・ヒエンへ。
彼女は、初めて、怖れを見せた。
幻に包まれ、孤独の影が彼女を責める。
仲間を失う未来、裏切られる記憶、愛を信じられなくなる心。
> 「それでも、私は――信じる。」
「不完全でも、私はこの道を選ぶ。」
彼女の涙が、一滴だけ頬を伝う。
だが、その心は揺るがなかった。
像は、消えた。
---
最後に残ったのは、魂の像。
それは、私に向かって手を差し出した。
指が触れた瞬間――
私は再び沈む。
---
今度は、記憶ではなかった。
これは、真実。
私は、自らの魂と向き合っていた。
そこには、すべての罪があった。
すべての恨み、怒り、喪失、憎しみ。
そして、深く埋もれた――愛。
---
> 「ディエット・ニャン、お前は、誰だ。」
声は、私自身の中から響いた。
墓の静寂を切り裂くものではなく――
私の心の奥底にいた、もう一人の自分だった。
---
> 「私は…」
言葉が喉で詰まる。
かつての私は、復讐に生き、血で語り、誰も信じず、誰も残さなかった。
だが今――
隣には二人がいる。
光はないが、私の手を握っている。
私の声を、待っている。
> 「私は…名もなき者。」
「だが――命ある限り、誰かのために剣を抜ける者だ。」
その瞬間、魂の像が崩れた。
---
四つの試練を越えたとき――
石棺の蓋が、音もなく開いた。
中には、四つの巻物があった。
それはまさに――天書・剣・意・心・魂。
しかし、それだけではなかった。
巻物の下には、もう一つのものがあった。
それは、血の染みた石版。
そして、かすかな文字。
> 「我が子孫よ、ここまで辿り着いたか。」
「ならば、継げ――龍の誓いを。」
---
私は石版を取り、目を閉じる。
その言葉が、魂に溶けていく。
> 「もはや、過去に逃げぬ。」
「これよりは、未来に名を刻む。」
---
二人が私の傍に立つ。
タン・リンは、無言のまま私の手に触れ、うなずく。
ティエウ・ヒエンは、笑いながら言った。
> 「見つけたね、自分の居場所。」
私は静かに頷く。
そして、四つの巻物を背に背負い、再び歩き出した。
> 「さあ…我らの物語を、ここから始めよう。」
我らが棺の部屋を出たとき――
外の世界は、すでに違っていた。
まるで、時間そのものが、私たちを忘れていたかのように。
---
> 「えっ…月が…」
ティエウ・ヒエンが空を見上げ、声を漏らす。
天には二つの月が浮かんでいた。
蒼白と朱。
夜空を裂くように交差し、世界に異変の兆しを告げていた。
> 「外界の時間軸が、ずれている…?」
タン・リンが小さくつぶやく。
---
地面は割れ、木々は枯れ、風は冷たく、空気は異様に澱んでいる。
私たちは墓の中にいたはずだ。
それなのに、ここは――
墓よりも静かだ。
---
> 「待って。あれ、何?」
ティエウ・ヒエンが遠くを指差す。
そこに見えたのは、黒い旗。
そして、その下に立つ…兵士たち。
だが彼らの肌は灰色で、目は空洞だった。
> 「死人……いや、呼び戻された者たち。」
タン・リンの声が凍る。
---
彼らは、待っていた。
私たちが四つの巻物を手にするのを。
その瞬間を。
私が踏み出そうとしたとき――
空が裂けた。
雷鳴のような声が響いた。
> 「竜の血脈よ――
我が墓を暴きし者よ。」
大地が震える。
木々が倒れる。
そして、目の前の空間が歪んだ。
そこに、彼が現れた。
---
男でもなく、獣でもなく――
その存在は、ただ「終焉」の象徴だった。
六本の腕を持ち、背に無数の骨の羽。
口からは炎と氷を吐き、目は世界の果てを映す。
彼の名は――カイ・ティエン(解天)
かつて天界を裏切り、龍の墓を封じた元神。
---
> 「やはり、汝らが選ばれし者か。」
声は低く、骨の奥を揺らすように響く。
私は一歩前に出た。
> 「この巻物を、我らは返さぬ。」
「これは、墓泥棒の戦利品ではない。
これは、竜の意志を継ぐ者の証だ。」
---
カイ・ティエンは笑う。
その笑いは、風景さえも腐らせる。
> 「ならば見せよ、継ぐに足る魂を。」
「この地で、お前の存在価値を証明してみせよ。」
---
雷が落ちる。
地面が崩れる。
兵士たちが、動き出す。
私たちは、再び剣を抜いた。
---
戦いは、血ではなく、信念で行われた。
亡者の刃は痛みを与えぬ。
だが、心を削る。
ティエウ・ヒエンはその幻に抗いながらも叫んだ。
> 「信じてる――あたしは、生きてここを出るって!」
タン・リンは、術を放ちながらも、静かに祈る。
> 「命より重いもののために、私は立つ。」
私は、その声を背に受けて――
一歩一歩、カイ・ティエンへと向かう。
---
> 「我は神をも断った者。
お前に斬れるか?」
私は静かに答えた。
> 「……私が斬るのは、お前の未来だ。」
剣が唸る。
それは、魂の剣。
墓を超え、天をも裂く、意志の刃。
---
一閃。
カイ・ティエンの片翼が砕けた。
彼は初めて、呻いた。
> 「その剣は…どこから…」
私は答えぬ。
ただ、進む。
それが、私の運命だから。
---
彼は叫ぶ。
空が裂け、すべてが沈む。
だが――
ティエウ・ヒエンとタン・リンが、同時に私に手を重ねた。
巻物が、三つに分かれる。
そして、融合する。
---
天に浮かぶ巻物たちは、真の姿を現す。
それは「四つの天書」ではない。
一つの魂、四つの声。
---
> 「天命を断ち切る者よ。
新たな血脈よ。」
「この地より、我が名を継げ。」
石が崩れ、空が晴れる。
カイ・ティエンが、崩れ落ちるとき――
彼の目には、涙があった。
> 「ようやく…終われるのか…」
彼は、悪ではなかった。
ただ、帰る場所を見失った神だった。
---
私は巻物を胸に収める。
ティエウ・ヒエンが私の肩に額を預けた。
> 「おかえり。」
タン・リンがそっと微笑んだ。
> 「これで、始まるわね。」
---
私は頷いた。
> 「ああ。
本当の戦いは――
これからだ。」
扉は背後で「ドン」と重く閉ざされた。
まるで天命が鎖を掛けたかのように。
旧き時代が封じられ、新しき時代が始まる音――。
> 「連絡は絶対に取ってよ!」
小さなヒエンの声が、闇に響いた。
> 「……死んじゃダメよ、絶対に……」
清らかなリンの声は、岩をなぞる最後の手に宿り、わずかに震えていた。
私は振り返らなかった。
振り返る勇気がなかった。
たった一瞥、それだけで心は砕け、足は止まりそうだったから――。
---
闇が私を呑み込んだ。
光はない。音もない。時の流れさえ、失われていた。
ただ、自分の鼓動だけが、徐々に祭壇の太鼓のように鳴り始める。
その音は魂を呼び覚まし、死の彼方に誘うかのようだった。
私は目を閉じた。
闇に光を見るために。
真の闇の中では、眼ではなく、心が唯一の目となるからだ――。
---
やがて、やさしい光が広がった。
まぶしさはなく、ただ幼き頃の陽だまりのような温もり。
あるいは、村の祠で母が歌ってくれた子守唄のように――。
目の前に、ひとつの人影が立っていた。
神戦の衣を纏い、銀髪を肩に流し、
その双眸は、悠久の河を越えてきた者の静けさを湛えていた。
彼が歩むたび、大地に古代の石が現れる。
それはまさに、古きコ・ローア城の石畳だった。
> 「貴様……我が血を継ぐ者か?」
その声は、墓の底から脳髄へと響き渡った。
私は片膝をつき、
ラック・ホンの古き礼法で、胸に掌を置いた。
> 「我が名は、滅人。
楊九龍の末裔にございます。」
---
彼は頷いた。
だが、その瞳に喜びも誇りもなかった。
あるのは、ひとつの哀惜。
まるで、わが子が自らの罪を継ぐ運命にあると知る父のまなざしだった。
> 「よいか。これはただの力ではない。
宇宙そのものを背負う責務――それが、伝承の真義だ。」
四冊の天書が現れた。
紙でも墨でもない、螺旋状に渦巻く光が空中に浮かんでいた。
各巻の表紙には、
金龍が東山銅鼓の上を舞うような、古代ラック文字が刻まれていた。
---
①【天書絶技:影天子雲歩】
> 「この歩法は、あらゆる理を破る。
重力、光、空間――果ては歴史さえ、無意味となる。」
> 「陣を抜けても誰も気づかぬ。
万界を越えても、門すら必要としない。」
足元を見やると、幻影が三つに裂けていた。
――私が山上に、水底に、墓中に、同時に立っていたのだ。
> 「これは……天子の影か……?」
私は呟いた。
> 「そうだ。王たる者の影――
時の意思すら先に立つ。」
---
②【天書絶技:神殺流光仏】
> 「これは、天より来る一撃。
仏の光が殺意なく、すべてを滅す。」
> 「思考より早く斬る。
敵が死を思う前に、既に消えている。」
光が溢れた。だがその光は温もりを持たなかった。
それは輪廻の入口に差す、まだ転生を知らぬ魂の冷光――。
> 「時間を越え、因果を越え……
これは、絶対なる殺。」
> 「これは殺しではない。
存在の誤りを、原初へと還すことだ。」
---
③【天書幻術:覇幻無我境】
> 「覇道の幻。
お前は神となり、相手は跪く奴隷となる。」
> 「弱き心は永遠に意識を奪われ、
お前の幻界の中に屈服する。」
白蝶の群れが舞い、やがて灰となり散った。
世界は一転、燃える稲田に、
血染めの戦場に、崩れた寺院へと変わった。
> 「誰しも、美しすぎる夢には抗えぬ。
最強でさえも、例外ではない。」
私は唾を呑んだ。
記憶が、書き換えられていくような――
自分自身がどれほど正気でいられるのかも、定かでなかった。
---
④【天書絶技:無限幻滅輪光破】
> 「究極の奥義。
この現実・時・力――すべてを一つの輪光に封じる。」
> 「肉体を滅するにとどまらず、
魂すら分解し、“無”へと送る。」
私は光の輪がゆっくりと回転するのを見た。
一周ごとに、ひとつの世界が崩れ、
一周ごとに、ひとつの“自我”が砕け散る。
> 「これこそ……終わりなき死。」
> 「いや……『存在』という概念の終焉だ。」
> 「だからこそ、お前がこの技を振るうとき――
“終焉者”となる覚悟が要る。」
---
四冊の天書が一斉に私の額に吸い込まれた。
痛みはなかった。
だが、それはまるで、宇宙一つ分の知識が脳に落ちる感覚だった。
無数の文字。
無数の陣図、心法、原理――
全てが雷鳴のように、私の思考を震わせた。
私は地に手をついた。
祖の大地は冷たかったが、我が心は熱かった。
> 「……まだ、死んでなどいない……」
> 「いや、お前は今――新たに“生まれた”のだ。」
---
> 「だが、最後にもう一つだけある。」
> 「魔界も、神族も、喉から手が出るほど欲しがるもの――」
地中から音が響き、
やがて、一本の杖が現れた。
それはまるで如意棒のごとく、
深淵のように黒く、
その頭には宇宙創世の瞳のような螺旋が刻まれていた。
> 【天坤魂鉄】
私は手を差し出した。
杖は小さくなり、冷たい片耳のイヤリングとなって、私の左耳に掛かった。
> 「これは天兵――始原神の杖。」
「真に死と向き合うとき、その力は完全に開かれる。」
その瞬間、心が微かにずれた気がした。
まるで、この装飾が――人としての半分を封じたように。
---
> 「天書を極め、
この天坤魂鉄を呼び起こすことができれば――」
> 「魔界も、神も、鬼王も……
すべてが、この名に怯えるだろう。」
> 「――楊・滅人と。」
彼は笑った。
それは、千年を越えて待ち続けた者の、最後の微笑だった。
> 「もはや、お前は我が後裔ではない――」
> 「混沌の時代を終わらせるために、生まれた者だ。」
---
古き鐘の音が鳴った。
それは神を呼ぶ太鼓のように、長く、深く響いた。
背後の扉が、ひとりでに開いた。
微光が墓の中に射し込み、
香の煙がゆらゆらと昇っていた。
胸に、言葉にできぬ想いが溢れる。
それは栄光ではない。
それは力でもない。
それは――運命だった。
---
私は振り返り、そして歩き出した。
もはや三日前の私ではない。
私は、四つの天書を背負う者。
私は――楊・滅人。
――混沌を終わらせるために、生まれた者だ。
私は、古の墓より歩み出た。
外の光は、目に染みるほど眩しかった。
だが私は、知っていた――
己が、かつての自分ではないということを。
ただ、天書を融合したからではない。
ただ、左の耳飾りから滴る霊力が脈打っているからでもない。
魂そのものが……色を変えたのだ。
---
「兄上っ!」
小さなヒエンが駆け寄り、私を強く抱きしめる。
「もう……気を失うかと思ったよ」
清らかなリンがそっと私の胸に手を当てる。
「心臓……まだ、ちゃんと鼓動してる。……本当によかった。」
私は微笑んだ。
安堵ではなく――
それは、この瞬間から、
傍にいる彼女たちが、
もう以前の私を見ていられないだろうという確信からだった。
---
「ご先祖様……何を託されたの?」
ヒエンが瞳を輝かせて尋ねる。
しばし、私は沈黙した。
「四つの天書。そして……もっと恐ろしいものを。」
「なに?」 二人は声を揃えた。
私は左手を掲げた。
漆黒の耳飾りが、七夕の夜の蛍のように淡く光を放つ。
「《天崑魂鉄》。創神の杖だ。」
「え……装飾品にしか見えないけど?」
ヒエンが瞬きをする。
「これは武器だ」
私は応じた。
「だが、それが真に解放されるのは――死の淵に触れた時のみ。」
「そんな……使用者が死にかけないと使えない武器なんてあるの?」
彼女は不満げに呟いた。
「虚無より生まれしものは……生者の命令には従わぬ。」
私は静かにそう言った。
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我らは旅を続ける。
目的地は《四古寺》。天書の封印が完全に解かれる地――
そして、神族侵攻の最初の痕跡が見つかった場所でもある。
その道すがら、私は言葉を発しなかった。
だが心の中には、祖・楊九龍の姿が、今なお残っていた。
そして――血の中に引きずり込まれるように、私は「それ」を見た。
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《回想:赤壁血戦――南空を唸らす魂の杖》
戦火に包まれた南の大地。
空はもう青くなかった――銅に焼けた色に染まっていた。
北の陣では、《風雪天羅陣》が包囲を完成させつつある。
一万の楊氏兵が、生死の盤上に囚われていた。
ただ一人、地象山の頂に立つ――楊九龍。
その衣は裂け、顔は血に染まっていたが、
その眼差しは、深夜の星よりも輝いていた。
「お前も、あの者たちと共に死ぬのだ!」
北方の将が叫ぶ。
「違う。」
彼は低く応じ、天崑魂鉄を掲げた。
三丈の黒き杖、その先端は紫の光を渦巻かせていた。
「祖土が裂ける時……この杖が唸る。」
そして、杖を天に向かって投げた。
それは、地へ戻らなかった。
天に一柱の光となり、昇ったのだ。
北軍の陣は、三つの鼓動で崩壊した。
結界も、霊魂も、すべてが砕けた。
将は陶器のように砕け、兵は最後の声を残した――
「杖……神の杖だ……!」
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私は、記憶の中から目覚めた。
左手が小刻みに震えていた。
耳飾りが熱く脈打ち、まるであの戦を追憶しているかのようだった。
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「大丈夫?」
リンがそっと私の手を握る。
私は彼女を見つめ、微笑もうとした。
「ただ……祖の血を、見ただけだ。」
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「兄上……本当に兄上のまま?」
ヒエンが、小さく問いかける。
私は一瞬だけ黙し――
やがて、頷いた。
「この二人の手を、雪嵐の下で握った記憶が残る限り……私は、私だ。」
「それで、十分よ。」
ヒエンは微笑み、唇をそっと弓なりに。
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風が吹き始める。
前方には《荒魂谷》――
かつて九百人以上の兵が屍を晒した場所だ。
私は、足元の大地がわずかに沈む感覚を覚えた。
まるで誰かが、地下から私の名を呼んでいるかのように――
「……聞こえるか?」
私は口を開く。
「何が?」
ヒエンが問い返す。
「この大地の下から……声が。」
リンが赤い符を取り出し、地面に貼った。
“魂”の一文字が淡く輝く。
「彷徨える魂……未だに成仏できぬ――」
「違う。これは……封じられた魂だ。」
私は静かに告げた。
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私は左手を上げる。
すると天崑魂鉄がわずかに震えた。
命令などいらない。
それは、ただ理解していた。
虚空が揺れ、足元に幻影の渦が現れる。
やがて、血泥より立ち現れたのは――
首を失った戦士の影。
だがその手は、なおも剣を握っていた。
「末裔よ……杖を守れたか……それで……我は安らかに……」
その影は、光の粒となって、風に消えた。
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「……滅人……」
リンは強く私の手を握りしめた。
「生きて、戻ってきて……私たちのためだけじゃない、あなたのために死んだすべての者たちのためにも。」
私は、その手をそっと握り返す。
「約束する。」
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夕暮れが訪れる。
我らは一本の古き菩提樹の下で足を止めた。
その根は絡まり合い、まるで祖たちの腕が、この地を守っているかのようだった。
私はその木陰に身を横たえ、空を見上げる。
死の静寂ではなく――
再生の静寂が、そこにはあった。
私は、天書を携えている。
神の杖を握っている。
だが、それだけでは……まだ足りない。
私に欠けているもの――
それは、ひとつの「願い」だった。
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「おやすみなさい。明日はいよいよ《四古寺》ね。」
ヒエンがそっと私に衣をかける。
「うん。」
「もうご先祖様の夢なんて見ないでよね。」
彼女はからかうように笑う。
「……いや。」
私は目を閉じ、静かに呟く。
「今夜……夢に見るのは――“自分自身”だ。」
空はなおも鳴り響き、天の涯より響く残響のように消え去らぬ。
輪光は灰色の雲の中で渦を巻き、砕けた墓石のひとつひとつに映し出される。
灰と血の匂いが風に溶け、私は振り返ることなく立ち尽くしていた。
背後から、二人の娘の温かな息吹が確かに届いてくる。
> 「行こう。」
声は低く、だが深く胸底に沈んだ岩のように確かなものだった。
「まだ、行かねばならぬ場所がある。」
白き衣に戦の塵が残るまま、沈黙を破って一歩踏み出したのは、仙女・清琳。
その眼差しは、相変わらず霜のように冷たく、鋭い。
> 「どこへ行くつもりなの?」
私は彼女を見つめた。
幾千の戦、幾万の死生を見届けたこの眼差しに、今映るのはただ一人、彼女の姿だけだった。
> 「玉霊仙宮へ。伝えねばならぬ……戦が来ると。」
背後で、小さな手がそっと私の袖をつかんだ。小顕だった。
言葉はなかったが、その震えが私にはわかる。
一人は人間界を見下していた冷き仙女。
一人はただ春風のように笑うだけだった霊女。
今や、彼女たちは私と共にある。
まるで体内を巡る二筋の霊気のように。
私は迷わなかった。
右に清琳、左に小顕を抱き、丹田に元気を集め、影天子雲歩を発動した。
空間が裂け、光が歪む。
三つの影が虚空へと溶けた。
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ヒュッ—— シュッ—— ズシィ——
音が雷のように空を裂く。
私たちは、玉霊仙宮の大殿の真ん中に現れた。
瞬間、陣が震え、霊気が渦を巻き、百を超える仙女たちの眼差しが私たちを捉える。
その中から、一人の青衣の女が歩み出る。
雪峰の霜のごとき視線。仙宮の宮主だ。
> 「何者か、この地に無礼にも……」
清琳が一歩進み、言葉を放つ。
その声は柔らかく、されど決して揺るがぬ。
> 「宮主、彼こそが……滅人。天命を帯びし者。」
私は彼女を静かに下ろし、玉霊仙宮という仙界最大勢力の一角と対峙する。
宮主の視線が私を貫く。
数息の間、沈黙が流れ——そして、理解の色が浮かぶ。
> 「私はここに来た。」
声は大きくはなかったが、その響きは雷のごとく、彼女たちの心に鳴り響いた。
「助けを乞うためではない……告げに来たのだ。
魔界が、下界に降りようとしている。
一宗一派の問題ではない。
宇宙すべてが……呑まれようとしている。」
仙宮全体が震えた。
九層すべての古き結界が反応し、霊気の壁が大厳の鐘のように震える。
宮主は問わなかった。
ただ、静かに頷いた。その声は深く、静かであった。
> 「承知した。仙宮は、貴殿と共に立とう。」
私は黙していた。
感謝の言葉も、安堵の色も、今の私には必要なかった。
なぜなら——これは、ほんの始まりにすぎないのだから。
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月が高く昇った夜、宮主は私のために一室を与えた。
だが私は眠らなかった。
白き石の壁に映る剣の光を眺めながら、私はただ座っていた。
片肘をつき、もう片方の手は剣の柄を握りしめたまま。
私は未来を思う。
死を思う。
そして、すべてが終わる瞬間を。
死は恐くない。
だが、何も残せずに終わることだけは、忌むべきことだった。
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ギィ……。
静かに開かれる扉。
素足が白き床を踏む音は、湖面に風が触れるかのよう。
小顕が現れた。
薄き夜衣、髪は肩にほどけ、肌は冬初めの雪のように白い。
> 「あなたはそれを“戦”と呼ぶのね。」
彼女はふと微笑んだ。
「けれど……その前に、少し豆乳茶でも入れようか?」
私が答える間もなく、もう一つの影が背後から忍び寄る。
清琳だった。
髪を解き、衣は霞のように薄く、眼差しに残る冷たさは、今はただ熱に変わっていた。
> 「あるいは……もっと別のことでも。」
私は二人を見つめた。
この命、斬り合いの中で“人”などと思ったことはなかった。
だが今——月と炎のようなこの二人を前にしたとき、私は初めて“生きたい”と思った。
己のためではない。
血と魂を、次の命に託すために。
> 「もし明日、死ぬのなら……」
私の声は刃のように胸を裂いた。
「お前たちを……孕ませたい。」
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返答など、望んではいなかった。
けれど、小顕は頬を染めて、ふっと笑った。
> 「ようやく……言ったわね。」
清琳がそっと近づき、私の胸に手を当てた。
心臓が戦鼓のように鳴る場所。
> 「この言葉を……私は前世から、ずっと待っていた。」
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いつ剣を手放したか、覚えていない。
ただ、灯火が消えたことだけを覚えている。
窓から風が吹き込む。
三つの呼吸が絡み合う。
糸のように細く、だが因縁のように重い。
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布団が滑り落ちる。
絹が肌を這う音が心を狂わせる。
私は手を強く握った——殺すためではなく、彼女たちを離さぬために。
清琳の肩に口づけた。
その身体がわずかに震える。
> 「お前はいつも冷たくて……まるで鋼のようだった。」
「だが今宵だけは……少しの温もりを、私に。」
小顕の髪を撫でる。
その瞳には、かすかな涙。
> 「お前の笑顔は、いつもどこか嘘だった。
今夜は……お前自身のために、笑ってくれ。」
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闇の中、私は気を練った。
戦意を抑え、ただ霊気を流す。
影天子雲歩——空間を裂く術が、今宵は祈りの舞となる。
動き一つに、霊の意志が宿る。
息一つに、天命が重なる。
二人の吐息——それは穢れた喘ぎではなく、
新たな宇宙が肉体に宿ったかのような、神聖なる歌声だった。
私は惑う。
欲と情の陣に迷い込み、
それでもただ一つ、確信だけが残る。
> 「もう……退く場所などない。」
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夜が明けるころ、三人の身体は寄り添い、静かに横たわっていた。
汗は混じり合い、鼓動は天地ではなく、魂の拍に従っていた。
清琳が私の胸に顔を埋め、そっとささやく。
> 「たとえ明日、命が尽きようとも……
今日、私たちは……確かに生きた。」
私は目を閉じた。
初めて、剣を思わなかった。
血も、殺意もなかった。
ただ……
この身を継ぐ、小さな命のことだけを。




