Episode 122
予告なき冷風が吹き始めた。
それは北からでも、南からでもなかった。
まるで、土中深く埋もれていた死せる記憶が、突如として掘り起こされたかのように——。
空気は重く、まるで死者の吐息のように地の底から這い上がる。
私は万剣の中庭に立つ。
足元の大地は、なおも私の歩みによって裂けていた。
かつて振るった古剣は、今や砕け散り、血の上に横たわる。
その刃を、たった一本の指が静かに受け止めていた。
あれほど繊細な「屈辱」を、私は見たことがなかった。
——空には、昼の光が絹のごとく薄れ、今にも裂けそうに垂れていた。
黒き羽根が、一枚また一枚と舞い落ちる。
それは、誰かの手に撫でられながら死にゆくような、緩やかで哀しい落下だった。
羽が地に触れるたび、それは音もなく灰となり、消え去る。
誰一人、動こうとはしなかった。
まるで天より降りし巨大な掌が、世界そのものを押し潰すかのような、絶対の静寂が支配していた。
その時——
耳の奥に小さく、虫の刺すような音が鳴った。
> 「ブチッ……」
最初に反応したのは、一人の弟子。
かつて私が斬り伏せた男だった。
彼は沈黙したまま、腹の裂け目から血を流し続けていた。
だが、その身体が……まるで糸で操られる人形のように、ぎこちなく痙攣を始めた。
次に聞こえたのは、皮膚が裂ける音。
> 「ビリ……」
その目が見開かれた。
白目は引き、虹彩は拡張し……砕け散った。
眼窩から溢れるのは、紫黒に濁った血の粘液。
肌の下、血管が浮かび上がり、まるで異形の樹の根のようにねじれ、赤紫に光を放つ。
——それだけでは、終わらなかった。
私が斃したはずの者たちが、次々と蘇り始める。
ある者は関節を砕かれたまま、不自然に後方に捩じれて壁を這う四脚の怪物と化す。
またある者は、裂けた腹から心臓のように脈打つ腸を露わにし……。
中には、声を出さずに笑う者もいた。
その笑みは、喉の奥で金属が圧し折られるような音を響かせた。
私は一歩退く。
足裏に柔らかな何かが触れた。
見下ろすと——そこには「人の耳」があった。
誰のものかはわからない。
だが、まだ温かく、かすかに震えていた。
まるで死を、まだ受け入れきれぬかのように。
その背後から、トウ・イチセイの声が響いた。
まるで神殿に響く祈祷のように——
> 「逃げられるうちに、逃げてみろ、ジツニン。」
その声は……人間のものではなかった。
鼓動がない。
呼吸もない。
それは、人という種の最深層から這い出た「こだま」に過ぎなかった。
私は振り返る。
彼——いや、「彼の殻に残った何か」を見た。
> 「お前が斃した弟子たち……それは殻にすぎん。」
「真に宿っていたものは、《神血融体》の産物だ。」
私は即座に悟った。
やつらは丹田も、気の修練も必要ない。
彼らは「繁殖された」存在。
まるで誰かが、妖の血を人間の胎に注ぎ込み……
そしてその黒き種が、金色の田に芽吹く日を待ち続けたかのように。
> 「ようやくわかった…」
私は呟いた。
唇は石のように硬く凍った。
> 「なぜ幻青宗は滅んだのか。」
「なぜ貴様と玉鈴仙宮は、決して共存できぬのか。」
心の底で、天龍の咆哮が響いた。
> 「くっそ……《寄生妖人》かよ……!」
「全部駆除したと思ってたのに、まだ残ってた上に、栄養まで与えてやがるとはな……!」
私は静かに笑った。
混乱の中で、初めて見えた。
恐るべき秩序の「かたち」を。
トウ・イチセイは天を仰いだ。
その声は、冷たくも、鋭くもなかった。
空虚であった。
まるで、男が我が子を産み落とした後の、理解の及ばぬ静寂のように。
> 「女がこの世界を支配する時——」
「弱き男は、絶滅か、あるいは異種への変異を迫られる。」
> 「だから私は、第三の道を選んだ。」
「——新たなる種を導くことを。」
私は身震いした。
それは嫌悪からではない。
私は理解していた。
宇宙が回転する限り、異形が常に「間違っている」とは限らない。
それはただ、我らが知る道徳とは異なる「系」に属しているだけなのだ。
> 「……お前は、あれらを“弟子”と呼ぶのか?」
問いかけた。
答えを信じる覚悟など、もはや持てなかった。
> 「いや。」
「あれらは武器だ。」
「——そしてお前は、その刃の試し切りだ。」
——ドンッ!!
その一体が跳ね上がる。
蛇のように身体をくねらせ、空中で三度巻いてから一直線に私へと襲いかかる。
口は四方に裂け開き、瞬きすらしない目で。
私は退かない。
一息、深く吸う。
そのとき感じたのは——
内力でもなく、剣気でもなかった。
それは、「血」だった。
私は砕けた剣の破片を拾う。
指ほどの大きさしかない、それを——右手の掌に突き立てた。
> 「ザクッ!」
飛び出した血は、赤ではない。
銀白の金属のような輝き——
その瞬間、私は見た。
炎を。
それは炉の中からでも、空より降り注ぐものでもない。
私の血の中から——
眠り続けていた火が、ついに目覚めたのだ。
天龍が呻くように叫んだ。
> 「まさか……あり得ん……」
「貴様もまた——」
私は答えなかった。
なぜなら、私はもう恐れていなかった。
目の前に立つ、妖の一団を。
> 「奴らを再び斬る……」
「今度こそ、本当に死ぬ。」
私は跳躍した。
剣は不要。
なぜなら——
この身を巡る血こそが、今や「刃」なのだから。
ドン——ドン——ドン!!
雷鳴が万剣宗の空を裂く。
まるで誰かが、炎の槌で宇宙そのものを刻み潰しているかのように。
降るのは清らかな雨ではない。
それは——土に還ることすら拒む死体から滲み出た、灰色に濁った液体。
風は雲を引き裂く。
まるで天に吊るされた内臓を、乾いた空に晒すかのように。
空気には血の匂い、冷たい土の匂い、そして……
今剥がれたばかりの人肌の匂いが混じっていた。
私は立っていた。
一人、仮面を被り、手に持つは記憶の呪いのように古びた短刀。
剣ではない。
ただの錆びた刃。
銀黒の柄は、祖父の指よりも短い。
> 「新しい剣がなきゃ、戦えないとでも思ったか?」
私は静かに言った。
> 「あいつらなんて——最初から弱い。」
風が外套を鞭のように叩く。
だが私は、何も感じなかった。
ただ……
手のひらが温まっていくのを感じた。
それは、かつての炎が新しい血に火を点けるような感覚だった。
私は飛び込む。
叫びもなければ、気迫もない。
ただ一つの動作。
手首の一閃で、腰の刃が閃く。
> 「ズバッ!」——喉元が裂ける。血飛沫は、真紅のケシのように空を舞う。
> 「スパッ!」——腰から脇へと走る斬撃。背骨が老いた竹のように砕ける。
> 「ゴキン!」——頭が二百七十度捻られ、熟しすぎた果実のように落ちる。
剣気も、光も、武芸の威もない。
ただ——
「正しい場所で」「正しい時に」「正しい急所を突く」それだけ。
私は彼らを「敵」とは見ていなかった。
まるで検死官のように、
死体を診る眼差しで——
刃の一閃ひとつひとつが、まさに解剖の線引きだった。
> 「それを……“武器”と呼ぶのか?」
包囲の中心に立ち、仮面越しに問う。
> 「トウ・イチセイ……俺はこう呼ぶぞ——“失敗作”だ。」
妖たちが悲鳴を上げる。
だがそれは、もはや人間の声ではなかった。
その声は——
一方は犯される乙女のように震え、
一方は子を奪われた母獣の咆哮。
それが重なり合い、腹の底を裏返すほどの音に変わる。
彼らは怯え始めていた。
恐るべき存在——
だが、敬うべき存在ではない。
その眼には、生の意志がなかった。
ただ……
命令を待つ、本能だけがあった。
私は「殺す」必要がなかった。
私がすべきは、ただ一つ。
神経の奥底に残る電流の残滓を「消す」こと。
雨が強まっていく。
灰濁した雨粒が妖の肌に落ちると、微かな熱を生み出す。
まるで、塩で火傷させるように。
雨は血と混じる。
血は涙と混じる。
その涙こそ——
私がかつて流せなかった過去の涙。
今ようやく、落ちてきたのだ。
私は死体の山に立つ。
一息も乱さぬまま。
鬼の面は血で染まる。
片方は鮮赤。片方は漆黒。
その奥の目には——
もう剣を学ぶ者の視線はなかった。
そこにあるのは、殺しすぎて沈黙すら「罪」と思える者の眼差し。
トウ・イチセイは最初から動かない。
その白衣は、雨ひと雫も濡らしていない。
彼の足元には屍もない。
手には剣すらない。
——だが、私は知っていた。
彼の「視線」こそが、私を殺しているのだと。
> 「綺麗に……殺したな。」
彼は言った。
まるで適温で煮込まれた料理を褒めるかのように。
私は振り返らない。
> 「あいつらには意志も、自我もない。」
「そんなものを作っておいて……神にでもなったつもりか?」
> 「いや。」——彼は、茶を啜るように静かに答える。
「私は、ただ“先に歩いた者”だ。」
「そしてお前は——まだ制御されていない、最後の生体実験体。」
私は足を止める。
その言葉に、覚えがあった。
誰かがかつて、私を——「実験」と呼んだ気がする。
まるで何かが、私の中に「埋め込まれていた」ような——
そんな既視感。
風が唸り、雨が跳ねる。
灰と泥が混ざり合い、血は乾かぬまま広がる。
その場に立つ、ふたつの影。
まるで崩れゆく世界の最後の柱のように。
トウ・イチセイは声を低める。
> 「残されたのは……お前と、私だけだ。」
私の内側で、名もなき炎が灯り始めていた。
穢れた血と、鬱積した怒りの底から、静かに生まれた火。
そのとき——
心の最深に、聞こえてくる声があった。
それは天龍ではない。
もっと…深い、別の“何か”。
> 「お前は人ではない。」
「お前は、輪廻を壊すために作られたものだ。」
ドンッ!!
数もなく、念もなく。
ただ——本能の爆発。
私は——夜叉の面を戴きし者、
雲を貫く槍のように飛び込む。
手に握るのは、屍の海に唯一残された一振りの短刀。
> 「貴様を殺した後は——」
「この宗門全てを引き裂いて、骨の一片までも喰らってやる。」
だが、トウ・イチセイは動かない。
彼の眼差しは……まるで四百年焼かれ続けたガラス。
怒りもなく、冷たさもない。
ただ——虚無。
シュッ!
刃が首筋を掠めた——外れた。
> 「遅いな。」
皮膚を裂くような声が耳元に囁いた。
私は反転し、後ろ蹴りを放つ。
だが、そこに彼の姿はない。
代わりに、冷気が首筋を舐める。
まるで、悪鬼の舌のように。
ビュッ!!
空中で私は弾かれた。
首筋が焼けるように熱い——背骨を引き抜かれかけた感覚。
> 「動きに……気が流れていない。」
「捕らえられぬはずだ。」
天龍の声が脳内に響く。
> 「奴は人ではない。」
「人でもなく、妖でもなく、神でもない。」
「……恐らく、夢の彼方から“呼び出された”ものだ。」
私は咆哮した。
> 「クソが、何でもいい!!」
血を吐き、地を蹴って跳ね上がる。
私は空中で鞭のようにしなり、両脚でトウ・イチセイの胸を蹴り飛ばす。
ドガァッ!!
二人は崖の端へと飛ばされる。
風が骨を折るような音で唸る。
空は声を失い——雷も、雲もなく、ただ……雨が骨の間から滴る。
私は叫ぶ。
> 「貴様の仲間共と一緒に、奈落へ堕ちろ!」
「死体で築かれた宗門なんぞ、地獄で腐ってろ!!」
メリッ……!!
トウ・イチセイの首が傾く。
私は勝利を確信した。
だが——
彼の背から、何かが生えた。
腕。だが肉でも鋼でもない。
それは——灰電の結晶でできた触手のような腕。
蛇のごとく滑り、波紋のように揺れる。
彼は落ちず、逆に——舞い上がる。
そして、私の首を掴んだ。
> 「私が……その程度に見えるか?」
その声は、もはや彼のものではなかった。
> 「私はトウ・イチセイではない。」
「本物は……お前が母の乳を吸っていた頃に既に死んでいる。」
私は息を呑む。
> 「本体は朽ち果て、骨さえ残らぬ。」
「この身体は……雷心寄生の残魂が宿る器に過ぎぬ。」
バリィンッ!!
一閃の雷の掌打。
それは腕ではない。
雷雲そのものが、彼の手と化した。
雷はうねり、蛇のように私を包囲する。
> 「これが……《雷心の主》の力。」
「私はただの屍……だが、選ばれし《器》だ。」
バチバチバチバチバチィィンッ!!
——第一の雷が、私の心臓を撃ち抜いた。
全身が痙攣し、釣り上げられた魚のように暴れる。
第二の雷が——仮面を裂く。
第三の雷が——胸を貫き、丹田を破壊する。
> 「う、うああああああああああああッ!!」
意識が霞む。
自分の声すら、もう聞こえない。
ただ——
笑い声だけが残る。
トウ・イチセイの声ではない。
天龍の声でもない。
それは、私の中の……もう一つの“何か”が、今、起き上がっていた。
奴は——私を放した。
私は墜ちる。
胸は焦げ、背は墓石のような岩に打ち付けられる。
> 「斬るだけの男が……」
「真理を問う資格などない。」
ドンッ!!
身体が崖から落下する。
もう力はなく、反応もできない。
風が鋼のノコギリのように魂を裂き、
仮面の破片に冷たい雨が叩きつける。
どこへ落ちるかなど、知れない。
ただ——
心臓が、一度だけ大きく跳ねた。
その瞬間——
パリン!
空を裂く光が私の真下で爆ぜる。
白銀の衣を纏い、風を纏うように現れた一人の影。
砂漠に雪が降るような姿。
> 「やめろ……この外道。」
低く重い声——
だが、冷たさではなく、温かみがある。
崖の上。
「トウ・イチセイ」の仮面をかぶった者が吹き飛ばされる。
その顔にひびが走る。
釉薬が焼き過ぎた陶器のように、皮膚が剥がれ落ちた。
中から現れたのは——
鉤爪のような小さな角を持つ、紫黒い顔。
> 「お前は……」——私は呟いた。
「……あいつじゃない……」
> 「違う。」
「私こそが、本物のトウ・イチセイだ。」
その人影はゆっくりと舞い降りる。
一歩一歩……
空間が軋む音すら響くほど、重い「存在感」。
> 「あれはただの寄生妖。」
「三年もの間、私の姿を借りていた外道だ。」
私の身体は、透明な気に支えられ、幼子のように抱き上げられる。
本物のトウ・イチセイは、指先で私の額に触れる。
白光が皮膚に染みこみ、脳髄へ走る。
それは、記憶の鍵を解く刃のよう。
記憶が——あふれ出す。
私は見た。
あの“トウ・イチセイ”の優しい眼差しを受け入れ、
自ら首を垂れ、彼と共に、死体の山へと足を踏み入れた日々を。
彼は決して剣を握らなかった。
だが、「剣は副であり、心が本質だ」と教え続けた。
肩を叩き、微笑みながら、こう言った。
「お前には、特別な才能がある」と。
トウ・イチセイ本物は、手を離さず、静かに語る。
> 「それは——高位の“心魔催眠”だ。」
「善性の気と、お前の劣等感を利用し、思考を支配した。」
> 「私は責めぬ。」
「お前のような者ほど……純粋ゆえに、傷つきやすい。」
「だが、だからこそ……私はお前を選んだ。」
崖の上——
偽者が吠える。
肉体は歪み、腕が増え、翼が生え、
全身が壊れたゼンマイのように捻じれる。
> 「貴様らぁ……!」
「計画を……壊しやがって!!」
「どれほど準備したと思っている!!」
トウ・イチセイは、袖から“剣気”を抜く。
それは……
銀河からこぼれ落ちた月の光のよう。
> 「雷九陽——魔界より来たりし漂流の妖魂。」
「この世界に、貴様の居場所はない。」
妖が突撃する。
雨、風、雷火が集う。
> 「我は永遠だ!!」
「我は——死などせぬッ!!」
——ドン!!
トウ・イチセイの一太刀が、その胸を貫いた。
静かに。
血も音もなく。
ただ——闇が融けて、灰へと還る。
雷九陽は、ただの塵と化し、風に消えた。
まるで……初めから、存在などしなかったかのように。
私は立ち上がる。
息は荒く、胸には“利用された者”の痛みが残る。
拳を握る。
> 「私は……弱かった。」
「学び舎すら……守れなかった。」
> 「だが——」
「もう、繰り返させない。」
トウ・イチセイは私を見つめる。
その眼差しは、今や——優しく、温かい。
> 「お前は強いだけではない。」
「お前こそが……次代を刻む“楔”となる。」




