Episode 118
石畳の上に宿る露の粒は、まるで天が零した涙のように、透明で小さく、儚げだった。
私は疲れきった身体を引きずって部屋を出る。髪は鳥の巣の如く乱れ、腰は重く、目の下には熊のような隈。
> 「これが……いわゆる“青春の経験”ってやつかよ……」
ぼやきながら帯を手に取り、顎の角度を誤って彫られた彫像のような顔をしかめた。
昨夜のことなど——
思い出したくもない。
けれど、忘れられない。
二つの柔らかな体に挟まれ、無意識のうちに抱きしめられたあの感覚。まるで私はぬいぐるみで、彼女たちは夢の続きだったかのように……
いまだに胸が震えている。
だが困ったことに——
私は、恨むことができなかった。
人生で初めて、自分が「どこかに属している」と感じたのだ。
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教場へ向かうと、空気が妙に重かった。
姉弟子たちはすでに整列し、木像のごとく静まり返っていた。誰一人として言葉を発しない。
その視線のすべてが、中央に立つ一人の人物へと注がれていた。
彼は、蒼衣をまとった老人。髪は銀糸のごとく白く、皺は少ないが、歳月の深さが顔に刻まれている。
その眼差しは剣のように鋭いわけではない——
むしろ、鏡のように見る者の内面を映す光だった。
一瞬視線が合っただけで、背筋に冷たいものが走る。
恐怖ではない。
それは、今まで感じたことのない「小ささ」だった。
> 「皆に紹介しよう。」
声を発したのは女講師・白若花。
普段は冷たく響く声が、今日はどこか敬意を帯びていた。
> 「この方こそ、幻青宗の創宗者にして、現在は万剣仙宗の宗主——
東一の剣仙、蘇一清殿である。」
その名が告げられた瞬間、場内に冷気が走る。私を含め、誰もが息を呑んだ。
——かつて西北の魔道連盟を、たった一振りの無塵剣で打ち砕いた、あの伝説の人。
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蘇一清は微かに頷き、前へ一歩進み出た。
ただの一歩——
だというのに、その気勢はまるで霧の海に巨木が倒れたかのようだった。
> 「本日、我が宗より来たのは——
特別な資質を持つ者を、万剣仙宗へと招くためだ。」
その一言一言は、雪のように静かに降る。
だが、その重さは天地の威厳を秘めていた。
私は、思わず半歩下がりかけた。
> 「ただし、今回は——男子のみ、受け入れる。」
教場に失望の溜息が広がる。
三月の風のように空気が一変した。
なぜなら、この教場には——
ほぼ女性しかいないからだ。
> 「滅人——」
講師が、私の名を呼んだ。
鼓動が一瞬、途切れた。
> 「君が……推薦された者だ。」
---
> 「え? お、俺?」
自分を指差し、驚きが隠せなかった。
「推薦なんて……されるようなこと、何もしてないけど?」
確かに、昨夜、何人かの経絡を突いただけだ。
それ以外は……何も。
まさか、男というだけで——
こんな大宗門の渦中に巻き込まれるとは?
---
蘇一清は、微笑みもせず、私を見ることもしなかった。
ただ、ある物を差し出す。
それは、翡翠のような淡い光を放つ、拳ほどの水晶石だった。
> 「これが、石霊測——内力を測る石だ。」
「手をかざせば、体内の気脈の深さに応じて反応する。」
> 「資質があれば、光を放つ。
条件を満たせば、色が変わる。
だが——もし、あまりに強ければ……」
そこで彼は一拍置き、
雷鳴のような重い声で言った。
> 「……石は、砕ける。」
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私はごくりと唾を呑む。
首筋には冷たい汗がにじむ。
> 「天龍……」心の中で呼びかけた。
「まさかこの状況で黙りとは……お前、ずるいぞ。」
しかし、返事はなかった。
ただ、風すら止まったような沈黙だけが、心に満ちていた。
---
> 「よし……やってやろうじゃねぇか……」
私は前に進み出る。
その瞬間、すべての視線が私に注がれる。
まるで、一羽の鵞鳥が白鶴の群れに紛れ込んだかのようだった。
私は、そっと石に手を置いた。
冷たい。
まるで、掌を通して内気を引き抜かれるような感覚。
---
数秒後——
ドンッ!!!
まばゆい光が爆発し、石が砕け散った。
ひび割れたり欠けたりではない。
完全に爆発したのだ。
白煙が辺りに立ち込める。
数人の弟子が椅子から転げ落ち、講師が即座に前に出て守りに入る。
私は——ただ立ち尽くしていた。
何が起こったのか、理解できぬまま。
掌は熱く、胸の奥では何かが脈打っていた。
それは——私自身の鼓動ではなかった。
---
蘇一清が歩み寄り、しばし私の顔を見つめた。
何も言わず。
ただ、静かに、深く。
そして背に手を組み、重々しく口を開く。
> 「……これほどまでに、石霊測が砕け散ったのは初めてだ。」
「君の体内の内力は、測定不能なほど——限界を超えている。」
その声は小さいのに、誰もが胸を打たれるような響きを感じた。
> 「この少年は——まだ気づいていないだろう。」
「だが、私には分かる。」
> 「これは、普通の内功ではない。」
「これは……神意によって形作られた気脈だ。」
> 「このような存在は……万に一つもない。」
---
私はまだ、目がくらみ、耳が遠くなる感覚の中にいた。
だが、ようやく心の奥で、あの怠けた笑い声が響いた。
> 「言っただろう……選んだ理由があるってな。」
「これで満足か、坊主?」
私は口元を歪める。
> 「……満足なんか、するかよ。
一体どこへ連れて行く気だよ……このやろう。」
---
蘇一清が、さらに一歩前へ。
> 「滅人。」——その声は、真っ直ぐに私の名を貫いた。
「汝、剣の道へ進む覚悟はあるか?」
私は彼を見つめ、
そして、自分の手を見た。
つい先ほど、千年の霊気を宿した石を砕いた手。
この手が……今、運命の分岐点にある。
> 「……俺は……」
「剣道が何かなんて、正直分からない。
自分がそれに相応しいのかどうかも、分からない。」
> 「けれど、もしこれが——“天命”というものならば。」
「……俺は、拒まない。」
> 「この子は……異数だ。」
蘇一清はまばたきもせず、私を見据えた。
その眼差しは、天を裂く雷のように、私の胸の奥を真っ直ぐ貫いた。
一方の私は、ただ頭をかきながら立ち尽くしていた。
正直なところ、何が悪かったのか全く分からない。
ただ石に手を置いただけじゃないか?
力が強ければ強いほど、測定しやすいと聞いていたのに……
なぜ爆発した?
> 「内力で石が砕けるなど……尋常なことではない。」
蘇の視線は、私の右手から逸れることがなかった。
「よって、今回は規則を破る。」
規則を——破る?
私は、胸の奥にわずかな不安を覚えた。
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> 「滅人——」蘇は私の名を呼ぶ。
「汝を、万剣仙宗にて三ヶ月間の特別修練に招く。」
「もし資質が十分であれば……
我が直弟子として迎え入れよう。」
> 「剣の道とは、孤独な旅路……
だが、汝ならばその運命を変え得るかもしれぬ。」
その声は、琥珀のように深く澄んでいた。
一語一語が、玉座の間に鳴る古琴のごとく魂に響いた。
私は——
この胸の高鳴りをどう表せばいいのか、分からなかった。
喜びなのか、驚きなのか、それとも恐れなのか。
ただ、全身が痺れていた。
---
教場の下では、蜂の巣を突いたような騒ぎが起きていた。
少女たちは目を見開き、ざわめきと囁きが入り混じる。
私の視線が横切ると、**小顕が孫清鈴の手をしっかり握りしめ、静かな喜びを滲ませていた。
一方の王有林**は、まるで宝くじに当たったかのようにうなずいていた。
> 「こほん。」
私は咳払いして、熱くなった顔を隠すふりをした。
---
蘇は視線を女弟子たちへと移し、声を柔らかくした。
> 「女子たちも、もし条件を満たすならば——
中州最強の女剣修を育てる地、玉霊仙宮への門が開かれよう。」
場の空気が再び爆ぜる。
今回は、決意を秘めた歓声が静かに湧き上がった。
私は微笑んだ。
それでいい。
もし私が遠くに行くとしても、彼女たちが報われるのなら。
---
蘇は再び私を見て、頭から足先までをじっくりと観察した。
> 「こちらへ。」
「貴様の“気場”の深さ……老夫が確かめてやろう。」
私は頭を掻いた。
> 「握手すればいいんすね?」
そう言って歩み寄る。
胸の中に小さな不安があった。
いや……奇妙な予感と呼ぶべきか。
この右手は、昨日まで皿を洗い、魚をつまんでいた手だ。
今は、かの“四大宗主”の一人に触れようとしている——
---
> 「天龍……」
心中で呟いた。
「この人にちょっと威圧感出してくれよ。格好つけさせてくれ。」
返事は——なかった。
ただ一言、
> 「すぅ……」
彼は寝ていた。
本当に寝ていた。
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私は歯を食いしばった。
> 「いいさ、自分でやる。」
そう言いながら手を伸ばした。
両の掌が触れ合う。
冷たい——
極めて冷たい。
この手は、無数の鞘に触れ、数万の敵を斬り伏せてきた剣の使い手の手。
その冷たさは、骨の髄まで届くようだった。
そして……
> 「天龍……」
再び、心で呼ぶ。
「頼むから、暴走だけはやめてくれよ……?」
---
そのとき——
頭の中に、雷鳴のようなくしゃみが響いた。
> 「チョア、くしゃみィィ!!」
その瞬間——
ドンッ!!!
---
まず最初に感じたのは——
自分の右手が無傷であること。
だが、蘇一清の掌が——
大きく震えた。
そして——
ズバッ!
肉が裂ける音が響き、
彼の腕から真紅の血が噴き出し、蒼衣を染めた。
彼は二歩後退し、膝を地に着けた。
> 「ぐっ……!」
---
私は慌てて叫んだ。
> 「えっ、握手しただけっすよ!?
俺、何もしてないってば!!」
誰もが立ち尽くす。
場内は、石に刻んだような沈黙。
鳥すら歌を止めた。
宗主の袖が血に染まり、
左手は痙攣し、気脈は乱れていた。
私は、この世で初めて——
恐れを宿した高人の姿を見た。
---
蘇一清は私を見つめる。
その眼は揺らぎなかったが、底に微かな動揺があった。
疑念と不安——
> 「この内力……まるで地獄の炎。」
彼は低く呟く。
「天賦の才ではない……これは、邪なる力……」
「まさか……あれが……奴が……」
奴?
私は首を傾げる。
> 「誰の話を……してるんすか?」
返事は——なかった。
---
そのとき、ようやく天龍が口を開いた。
その声は、半笑い混じりのからかうような調子。
> 「クク……あの爺さんの腕、まるでパリパリの煎餅だな。」
「言ったろう? 我の力は加減できぬ。」
「それは——神の残痕。触れれば……爆ぜるだけさ。」
私は心の中で怒鳴った。
> 「軽く威嚇だけでいいって言ったろ!?
なんで血管爆発までさせんだよ!!」
> 「すまん、まだ寝起きでな……許せ。」
---
私は深くため息をついた。
たぶん、この人生に平穏など訪れない。
蘇一清は、己の内力で止血し、なおも立ち上がる。
その顔は蒼白だが、威厳は失っていなかった。
> 「滅人。」
彼は私の名を呼んだ。
> 「汝は……自らの中で眠る“それ”が何か、分かっておらぬのか?」
私は沈黙した。
知らないわけではない。
ただ、言葉が足りないだけだった。
---
> 「俺は、ただの無名の男っすよ。」
「学もない。門もない。師もない。」
「あるのは、命を繋ぐための、ちっぽけな生き様だけだ。」
> 「もし俺が“異数”だっていうなら……
きっと、それは俺が選んだことじゃない。」
蘇は長い間、私を見つめた。
そして、ゆっくりと頷いた。
> 「ならば——汝は天の一手。」
「我は、この一局に身を賭けよう。」
---
血脈は破れた。
だが、信念は芽吹いた。
私には、剣の道の果てが見えない。
だが、ひとつだけ分かる。
あの一握りで——
私は一人の宗主の腕を砕いただけではない。
自らの正体を覆っていた霧も、打ち砕いたのだ。
世界が——
ついに、私という存在に気づいた。
> 「立ち去る前に……すべてを確かめたい。」
蘇一清の声は、夕暮れ時の鐘のように響き渡った。
大きくはなかった。だが、その響きは遠くまで届いた。
教場の空気は凍りつく。
その眼差しが、一人ひとりの顔を丁寧に撫でるように巡る。
女弟子たちは皆、背筋を伸ばし、膝に手を置いたまま、誰一人として顔を上げようとしなかった。
> 「講師よ、全員の内力を測ってくれ——
滅人を除いて。」
> 「彼は……すでに十分すぎる証明を果たした。」
---
私は黙っていた。
何も言う必要がなかった。
ただ、背中に突き刺さるような視線の数々——
その半分が敬意、もう半分が嫉妬であることに、少しばかり肌がむず痒くなった。
**小顕**は、言葉もなく微笑みながらこちらを見ていた。
**清鈴**は、鼻を鳴らして「やるじゃない、化け物め」とでも言いたげな顔。
---
間もなくして、霊石で包まれた飛輿が現れた。
底部から発する光は、湖面に映る月光のように揺らめいていた。
私は招かれ、その中へと乗り込む。
目の前には——
さっき、握手一つで左腕の経脈を破裂させた老翁が座っていた。
ちょっと……気まずい。
私は、八十歳を超える創宗者との会話は苦手だ。
---
眼下の**幻清山**が、やがて墨絵のように遠ざかっていく。
雲は山腹を流れ、香のようにたゆたい、輪郭を霞ませる。
旅が始まったそのとき、彼はふと呟いた。
> 「内力とは……ただの力ではない。」
「それは、血脈の意思を体現するものだ。」
---
血脈の意思?
私は首を傾げた。
蘇の目は遠くを見つめ、声は静かに、だが確かに、私の心の壁を叩いた。
> 「修士が内息の深層に触れたとき——
ある原初の“何か”が目覚める。」
> 「ある者は元素を得る。火、水、風、雷——」
「ある者は霊獣を宿す。龍、狐、蛇、亀——」
> 「さらに稀なる者は、道理を目覚めさせる。
陰陽、因果、時間——」
> 「だが……虚無を得る者もいる。」
---
> 「そしてお前は……」
彼は指を二本伸ばし、私の額にそっと触れた。
掌の温もりは、灰の中に残る炎のようだった。
彼は目を閉じ、気を探る。
一秒。
二秒。
五秒——
そして、その顔色が変わった。
---
> 「お前は……奇妙だ。」
「気の波が揺れぬ。元素も霊獣もない。属性も存在しない。」
「一切の意思の層が感じられぬ……」
「まるで——底知れぬ深淵だ。」
---
私は微笑み、腕を組んだ。
> 「じゃあ、底は見えましたか?」
「それとも、恐ろしくて覗けなかった?」
---
彼は私を見つめ——
そして、ふっと笑った。
> 「いや、恐ろしくはない。」
「むしろ……興味深い。」
その言葉は、鞘から抜かれた剣のように真っ直ぐだった。
私は、少し驚いた。
てっきり怒鳴られるか、飛輿から放り出されるかと覚悟していた。
---
風が髪をなびかせた。
陽の光が彼の眼に射し込む。
灰銀の瞳は、錬金された金属のように光を放つ。
> 「お前が、幻清宗の共同創設者の一人かと聞いたな?」
> 「ああ、そうだ。」
> 「かつて我と“玉霊仙宮”の宮主とは、肩を並べて戦った仲だ。」
> 「二人は無から宗を興した。」
「一方は剣理を。もう一方は心法を——それぞれの柱とした。」
---
私は背もたれにもたれながら尋ねた。
> 「それがなぜ、男女で分かれたんです?」
「内部抗争でもあったのか?」
---
彼はすぐには答えなかった。
風が止む。
しばしの沈黙——
まるで、失われた誰かを思い出すように。
そして、彼は低く、静かに答えた。
> 「男が……絶滅しかけている。」
---
その言葉は、底なしの深淵に古鐘が落ちるようだった。
私は思わず体を起こした。
> 「……どういう意味です?」
---
その声は、焼けた森を抜ける風のように掠れた。
> 「殺されて減ったわけではない。」
「ただ——弱すぎた。」
---
> 「この世界では、女がすでに九十九パーセントを占めている。」
「男は、生まれつき肉体も霊脈も劣っており——」
「外へ出れば、獣神に引き裂かれる前に技一つ覚えられぬ。」
> 「そして、数少ない“強者”たちは……」
「捕らえられ、性転換、薬練、或いは——遺伝子の器として使われる。」
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私は背筋が冷たくなるのを感じた。
恐怖ではない。
ただ——
私は、自分がどんな境界線の上に立っているのかを理解した。
存在してはならない者。
淘汰されゆく種。
---
蘇は私を見なかった。
彼は、空を見ていた。
> 「私は違う。」
「私は、自我に残る“人”の部分を守ってきた。」
「私は、決して忘れてはいない。
この大陸を救ったのも、一人の男だったと。」
> 「お前も……その“わずかな者”の一人だ。」
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私は唾を飲み込んだ。
これまで、幾度となく疎まれ、追い出され、“異常な気脈の怪物”と呼ばれた理由——
すべての答えが、一瞬で腑に落ちた。
それはただ……
私が“男”だったから?
---
私は頬杖をつき、彼を見やる。
> 「もし俺が、将来ほんとに強くなったら……」
「“玉霊仙宮”ってとこ、見学させてくれます?」
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蘇は雷のように笑った。
> 「ははっ!」
「そこは美女の巣窟だぞ。」
「だが……気をつけろ。」
> 「ただのひと睨みでも、心が乱れれば走火入魔だ。」
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私は微笑んだ。
その言葉が嬉しかったのではない。
ただ——生まれて初めて、“夢を見る資格”を認められた気がしたから。
山風が鋭く唸る。まるで千刃が空を裂くかのように。
私は霊車の中に座し、雲海を突き抜けて飛翔していた。
足元を過ぎ去る景色は、まるで風に裂かれた水墨画のように儚く、
その上空には、灰色の空が広がる。
それは雨の兆しか、あるいは——
運命そのものが私を狙っているのか、見分けがつかなかった。
対面には、蘇一清が静かに座していた。
その姿は高貴にして端正、白髪は風に揺れ、霧露を纏って銀糸のように輝いていた。
そして彼が口を開く。
声は軽やかだったが、耳に届いた瞬間、それは審判のごとき響きだった。
> 「この地において——
男は、ほぼ絶えた。」
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私は眉をひそめた。
風が襟元を突き抜け、肌に沁みた。
だが、最も冷たかったのは空気ではない。
今の一言こそが、私の背筋を凍らせたのだ。
> 「天災によるものではない——」
「無能ゆえだ。」
---
私は彼を見据え、口の端を持ち上げた。
> 「無能だから絶滅? そんな法があるかよ。」
---
彼はすぐに答えなかった。
ただ、指先を軽く振る。
そこから放たれた霊力が、空中に一枚の水鏡のような幻影を描いた。
その中の光景に、私は言葉を失った。
男たちが獣鎖で縛られ、裸のまま倒れている。
その目は虚ろで、背は折れ、皮膚は裂け、血に染まっていた。
周囲では獣たちが唸り声を上げながら彼らを取り囲んでいる。
> 「弱き者は、餌として捧げられる。」
「七日間、生き延びれば——変異する。」
> 「人ではなく、妖でもない。」
「彼らは“半形”と呼ばれる。」
---
> 「その力は魂を対価とする。」
「理性は崩れ去り、残るのは“戦うための躯”のみ。」
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私は無意識に、衣の裾を握り締めた。
かつて、自分は底辺に生きていると思っていた。
飢えと蔑みに耐え、冷たい視線の中で這いつくばっていた。
だが、これほどまでに「生きる権利」そのものが奪われた光景を、私は知らなかった。
> 「不公平に思うか?」
彼は問うた。
> 「この世界は、最初から——
公平であったことなど、一度もない。」
---
蘇一清が私に目を向ける。
その眼光は、青炎のように静かに燃えていた。
> 「女は、生まれつき霊根を有する。」
「霊気の吸収効率は、男の三倍。」
「男は—— 多くが異常霊脈、断絶した気脈、滴ほどの気海しか持たぬ。」
「彼らは、生まれながらにして“背景”なのだ。」
---
私は冷たく笑った。
> 「それ、お前自身の昔話か?」
---
> 「……そうかもしれんな。」
彼は口の端を僅かに吊り上げた。
「だが、お前は——違う。」
> 「お前は……“異数”だ。」
---
私は沈黙した。
恐れたわけではない。
ただ、否定できなかった。
私には過去がない。
故郷も、帰る場所も、名を呼んでくれる者も——誰一人としていない。
私は、ただ“世界に忘れられた存在”。
それでも、生きてきた。
そして今や、私の存在そのものが、
誰かの安寧を脅かしている。
> 「なら、なぜ俺を殺さない?」
私は問うた。
その声は、夜半の刃のように鋭かった。
---
蘇は、ふっと笑った。
その声は風を貫き、遠くまで届いた。
> 「お前を殺せば——この空が割れるやもしれん。」
「お前は、“何か”を封じ込めた檻。」
> 「そして……」
彼は首を傾けた。
> 「私は、お前を必要としている。」
「“最後の扉”を開くために。」
---
> 「……扉?」
私は問い返す。
彼は答えず、ただ地平の彼方を見つめていた。
そこには、青と白が幾重にも重なる山嶺が連なり、雲がその裾を巻く。
そしてその中腹に、万の剣が天を衝くかのような宮殿群が浮かび上がっていた。
銀色の瓦は、神龍の鱗のように光を返し、最上層には一枚の銘が掲げられていた。
——万剣仙宗
---
> 「あれだ。」
彼は指差した。
> 「美しいと思うか?」
---
私は頷いた。
> 「なら、よく覚えておけ。」
> 「最も美しい場所ほど——
最も死に近い。」
---
> 「今日から、そこが——お前の地獄だ。」
「もし、生き延びられたなら……」
彼は声を低くし、目を私に深く向ける。
> 「お前は、滅びゆく男の種族から——
この終末の時代において“真なる神”となる唯一の者となる。」
---
風が霊車の屋根をなぞり、耳元で運命が囁いた。
私は、前方に何が待つかを知らない。
だが、確かなことが一つだけあった。
——私はもう、引き返せない道を歩み始めていた。




