Episode 115
夜風は天心山の頂より吹き下ろし、いまだ陽の光を知らぬ湖面のように冷たく、静かに経文閣の裏山にある葉の隙間や岩の割れ目を通り抜けてゆく。
私はその場所にて座禅を組み、漂う青い霧の如き霊気の海のなか、呼吸一つ、鼓動一つ、脊柱を這う気の流れ一つ一つに意識を澄ませていた。
その静寂に満ちた闇の中、我が心の湖面は、一片の波紋もないほどに澄み切っていた。
だが――その時。
彼が、現れたのだ。
> 「ほう? ずいぶんと集中してるな、小僧よ。」
頭の奥深くに直接響くその声は、まるで突風が薄雲を裂くように、私を深い定中より引き戻した。
この声…聞き間違えようがない。
天龍。
幾度となく我が肉体を借り、まるで遊戯のように弄んだ、あの存在。
私はそっと目を開けたが、そこには闇と霊気しかなく、彼の姿など見えぬ。
しかしその声だけが、心の奥底に確かに響いていた。
> 「…来たのか。」
> 「当たり前だろう。必要とあらば現れると、言ったはずだ。にしても、見たところ…お前、いろいろと“渇いてる”ようだな?」
彼の嘲るような笑いが、心の中で木霊する。まるで私の秘めたる欲を見透かすかの如く。
私は眉をひそめ、気を乱さぬよう念じた。
> 「修行の最中だ。邪魔をするな…」
> 「邪魔だと? いやいや、ちょっと…お前の身体を借りるだけさ。」
反論する間もなく、我が意識は肉体から吸い出されるように引き剝がされ、虚空へと流されてゆく。
私は抵抗した。だが、無駄だった。
彼は、すでに――憑依を終えていた。
> 「ふふ…久しぶりの運動だ。塵世の気を借りて、少しばかり遊ばせてもらおうか。」
その笑い声は、私の喉から発せられたものだった。
一瞬のうちに、身体――いや、天龍の意思が宿ったこの身は立ち上がり、軽く伸びをする。
関節が小さく鳴る。彼は満足げに微笑んだ。
軽く膝を屈めただけで、彼の身体は座禅の台を離れ、霧のように軽やかに飛び立った。
松林を抜け、玄空院の屋根をかすめ、月光が瓦に銀を流すように照り返す中、彼は静かに――そして正確に、ある一点へと舞い降りた。
女湯の屋根の真上に、である。
> 「ほう…春の香りか。それに、大豆の天然ものとは。小僧の趣味もなかなか悪くないな。」
彼は腕を組み、まるで月を眺めるかのように佇んでいた。
だが私は知っていた。
その目が、決して夜空など見ていないことを。
釉薬をかけた瓦屋根の下、ほのかな水音が揺れる。
湯気の中に混じるのは、温かな乳のような香り。
まるで春の大豆の花がほのかに咲いたような甘やかさが、湯けむりと共に漂っていた。
私には見えぬはずなのに――彼には見えていた。
そして彼を通して、私もまた…見えていたのだ。
院主の末娘、**小顕**が入浴していた。
彼女は柔らかな綿に大豆の乳を浸し、白き肩を丁寧に洗っていた。
その声は春風のように柔らかく響く。
> 「ん…いい香り…。やっぱり、自家製の大豆が一番…」
月光は開いた窓から差し込み、彼女の象牙のような肌に反射していた。
鎖骨から胸元へ、滴る水が一滴、まるで真珠のように光る。
私は目を背けたかった――
だが、できなかった。
天龍はただ、冷たく笑った。
万の美女を見てきた彼が、久方ぶりに目にした清らかさに、ほんの僅かに心動かされているのを私は感じ取った。
湯船の向こう側では、**清鈴**が髪を乾かしていた。
黒髪を肩にかけた薄手の布に預けながら、男の視線を知り尽くしたような色香が、怠惰な姿勢からも滲み出ていた。
> 「大豆の湯…もし滅人が知ったら、即死ね。」
その声は半ば戯れ、半ば挑発。
> 「ついでに温かい豆乳でも持ってってあげたら?」
小顕は顔を赤らめて、背を向ける。
> 「お姉さま、からかわないでください…」
私は…この瞬間こそ、地に顔を埋めたいほどの羞恥を感じた。
だが天龍は、またしても笑った。
> 「まったく…修行より万倍面白いな。」
彼は悦に浸っていた。
その感情は私の身体を通して流れ出し、私は怒りと恥辱に震えた。
私は必死に心の奥底から叫んだ。
> 「今すぐ引け!貴様、私の身を穢すな!!」
その叫びは、銅鑼のように意識の霧を突き破り、鳴り響いた。
彼は片眉を上げ、軽くため息をついた。
> 「ふん…ただ見てただけじゃないか。手は出してないぞ? 小僧、お前は堅すぎる。」
> 「…まぁいい、返してやるさ。だが覚えとけ――
若者よ、修道だけが全てではない。
女の心を知ることもまた…道なのだ。」
その言葉と共に、私は自らの身体へと引き戻された。
黒く濃い神意が私を離れ、風に吹かれた煙のように消えてゆく。
彼は去った。
だが、心にはなお波紋が残されていた。
私は目を開けた。額には汗が滲んでいる。
夜風は今もなお天心山を渡っていた。
だが、私の肌を刺す冷たさは、風や霧のせいではないと知っていた。
> 「あいつめ…まったく、恥知らずな…」
私は呟き、拳を固めた。
だが、心の奥深くでは――
彼の言葉が、決して間違ってはいないこともまた…否定できなかった。
修道とは――
唯一の道ではないのだ。
私は目を開けた。
まるで魂を吸い尽くされたかのような感覚の中で。
丹田より湧き上がる気は、逆流する大河のように混乱し、渦巻き、身体の内側を掻き乱していた。
額の汗は朝霧のように滲み出し、それとは対照的に心は熱く、激しく燃え上がっていた。
まるで万の思念が心中に衝突し、共鳴し、咆哮しているようだった。
――天龍。
あの名は、確かに我が精神より去った。
だが、彼は決して手ぶらではなかった。
彼は、私の魂に染み込むような痕跡を残していった。
それは…ぬめりを帯びた何かであり、邪悪にして神聖、粗野にして深遠なものだった。
私は立ち上がろうとした。
だが、脚には力が入らず、頭はまるで酒に酔ったかのようにふらついた。
まだ立ち直る間もなく――
> 「グラアアアアアッ!!」
激しい霊気が脳髄を貫き、まるで百会と神庭のツボが同時に爆ぜたかのような衝撃が走る。
私はよろめき、屋根の縁から足を滑らせ、まるで糸の切れた凧のように――墜ちた。
ドンッ!!
瓦が割れ、屋根が崩れ、まるで洪水のように瓦片がなだれ落ちる。
私は陶器と煙塵の奔流に巻き込まれながら、下へ――
深く、重く、止まらず――落ちていった。
もはや、自分が「人間」であるという感覚すらなかった。
だが――
私の身体が、何か温かく、滑らかで、生命を宿したものに触れたその瞬間まで、である。
――
湯気の立ち上る湯船。
二つの裸身。
大豆と花の香りに包まれた、甘く、白い世界。
雪のように白く、濡れた絹のように柔らかい肌。
そして――確かな、震え。
私は今、二人の女性の身体の間にいた。
衣を持たず、防御もなく――
何一つ隔てるものもないままに。
> 「きゃああああああああああっ!!」
水面を裂く悲鳴。
波しぶきが上がり、湯船の縁を濡らす。
> 「この変態!!」
――それは清鈴の声。彼女の怒声と同時に、一撃が私の頬を打った。
バチン!
稲妻のような痛みが顔を走り、喉は干からびたように詰まる。
だが起き上がる前に、顔に柔らかなものが押し当てられる。
弾力、湿り気、震え――
確かに**“それ”**だった。
息遣いが荒い。
> 「あなた…私の上に…!」
小顕の声。
震える足、そして胸元を押さえる小さな手。
> 「み、見られた…全部…!」
私の心は締めつけられる。
痛みは打撃ではなく――
彼女の瞳に宿る傷ついた光が胸を刺す。
あの透明で信じていた眼差しに、恐怖が浮かぶのを見た時、私はすべての言葉を失った。
そして――
それでも、心のどこかで忘れられなかった。
月光のように白い肌、繊細にして上品な乳房、小さな背中に沿って流れる水滴。
まるで玉筆で描かれた一幅の美。
私は慌てて体を起こし、声にならない言葉を発した。
> 「ち、違う!屋根が…滑って…天よ地よ、誓って私は――!」
清鈴は胸元に布を巻き、顔を紅潮させながら睨みつける。
その眼光は、空気すら裂くほど鋭かった。
> 「どれだけ見てたの!?」
> 「答えなさい!!」
彼女が一歩近づくたび、水が波立つ。
> 「昨日“豆乳”の話をしてたでしょう。あれも伏線だったの!?」
私は言葉を失い、ただ心に浮かんだ一言がこだまする。
――「趣味が高いな、お前」
…天龍の残したあの一言。
> 「ち、違う!誓って知らなかった!落ちただけで、私は…!」
小顕は震えながら胸を抱え、目を赤くしていた。
> 「私…こんなふうに見られたくなかった…」
言葉は、もはや出なかった。
霞む湯気の中、あの目の中の哀しみと嫌悪が、何よりも重かった。
かつて私を信じてくれたその瞳が、今は私を…穢れと見ている。
私はうつむいた。
> 「私は…死んだほうがいい。」
だが――その時だった。
> 「何事だ?叫び声が聞こえたぞ!」
男の声が外から響く。
低く、威厳と風格を持つ声音。
それは、修羅場を幾度もくぐり抜けた者の声だった。
――清鈴の父、王 右林。
私の心臓が止まった。
清鈴は驚きの表情で振り返り、すぐに私に向かって叫ぶ。
> 「早く隠れて!父に見つかったら…あなた、本当に死ぬわよ!」
私は考える間もなく、本能で動いた。
部屋の隅の薬湯用の木桶へと飛び込んだ。
そこは本湯よりも冷たく、首まで薬草と豆渣と蓮の花に浸された。
私は息を殺し、心臓が耳元で爆ぜるように鳴った。
まだ肌には、少女たちの温もりが残っていた。
香りが、肌と鼻腔を包み込む。
羞恥と陶酔が交錯する――
不意打ちのような快楽。
私は目を閉じる。汗が背中を伝う。
今の私は――罪人だ。
隠れ潜む者。
肌の記憶に囚われる、卑しい存在。
そして、自らに問いかけた。
> 「自分は…本当に化け物なのか?」
その問いに、答える者は誰もいなかった。
聞こえるのは、滴る水音と――
胸を叩く、自らの鼓動だけだった。
王右林の足音が戸の外に響く。
その歩みは落ち着いており、確固たる意志に満ちていた。
一歩…また一歩…。
まるで熱せられた鉄槌が我が胸に打ちつけられるかのように、重く鳴り響いた。
二人の娘は一瞬動揺したが、奇妙なことに――
その後の動きは、まるで天の欺きをも知っているかのように落ち着いており、息がぴたりと合っていた。
> 「お父さま、大丈夫です!」
――小顕はすぐに声を上げ、急いで上衣を羽織る。
声は震えていたが、礼を失わずに。
> 「入浴剤の瓶を落としてしまって…叫んじゃっただけなんです。父上、どうぞご心配なく!」
震えが混じるその声は、しかしあまりにも自然で――
疑う余地など、一片も残さなかった。
私は木桶の中に沈み込んでいた。
静寂の中の絶望。
そしてその上から、王右林の重々しい声が落ちる。
> 「夜中に騒ぐな…もう遅いのだぞ。」
足音は、やがて遠ざかり、やがて夜の闇に溶けていった。
私は息をついたのか、それすらわからなかった。
汗は背筋を伝って流れ、ぬるい湯と交わって肌を包む。
心の内――まるで火山の火口にかかる一本の蜘蛛の糸の上。
今にも切れ落ちそうな、理性のかけら。
私は木桶の中に身を縮めて座っていた。
肌には、さっきまでの湯船での接触の感触が微かに残る。
豆乳の濃厚な香り。蓮花と艾草の匂いと混ざり合い、まるで夢幻の香煙のように鼻をくすぐり、心を焦がす。
私は目を閉じ、心経を念じた。
…だが。
> ざばっ!
石の湯船に水音が響いた。
波が立ち、木桶の壁を打つその音は、まるで戦の太鼓のように高鳴った。
熱気が一気に満ちる。
私が顔を上げようとした瞬間――感じた。
一人ではない。
二人分の気配が――湯に入った。
言葉もなく。
予告もなく。
ただ、波と共に近づく存在。
そして……
> 「ん……」
霧のように淡く、だが火のように熱い吐息。
私が感じたのは――
もはや湯ではなかった。
それは、肌だった。
しっとりと、
柔らかく、
濡れていて、
瑞々しく、
そして――裸。
二つの臀が、絹のように滑らかで、なおかつ弾力を保ち、
左右から私の顔に迫り、押しつけられてくる。
まるで冬桃が熟れきった瞬間に落ちてくるように――
香り立ち、柔らかく、息を呑むほどに完熟していた。
私は硬直した。
全身が灼けるように熱い。
心臓は太鼓のように高鳴る。
理性は悲鳴を上げていた。
だが、官能は神経の一本一本を撫でて誘惑する。
> 「これは…天の試練なのか…?」
それは声に出たか、心の声だったのか――わからなかった。
まるで夢の中の出来事のように、
私の舌が…湯の中のある“隙間”をそっと舐めていた。
薬草と湯気、洗いたての素肌の香りが混ざり、甘く、
現か幻かわからぬほどに濃密だった。
すると、その身体の持ち主がわずかに身を震わせて呟いた。
> 「今…なにか、触れた…?」
清鈴の声だった。
> 「たぶん…藻じゃない?」
――小顕の囁き。
その声は、初夏の蝉の翅のように細く震えていた。
私は気を失いそうだった。
彼女たちの小さな動き一つ一つが、
理性の糸を炎で焼き切るようだった。
湯の下、私は確かに感じていた。
さざ波のような感覚。
陰陽が霧を通して触れ合う、かすかな律動。
豆乳と肌と薬湯の香りは、もはや“匂い”ではなかった。
それは火炎となって我が身を包み、神識の根まで焼いていた。
一方は肉欲。
一方はまだ捨てきれぬ本心。
その一呼吸、その一震えごとに、心が針で刺される。
私は今――灼熱の煉獄の中にいる。
そして、私を焼いているのは…
その存在に気づかぬ、彼女たち自身なのだ。
> 「…さっさと体を洗って、寝ましょ。」
小顕の声。
怯えながらも、優しく微笑んでいた。
> 「うん…なんだか、変にくすぐったくて…」
清鈴もまた、目を閉じて息を吐いた。
まるで、二人の仙女が静かに湯に身を浸すようだった。
安らかで、穏やかで、無垢な時間。
だが、その間に震える一人の凡夫がいることなど、
彼女たちは知る由もなかった。
私は欲ではなく、獣にならぬために震えていた。
> 「天龍よ…
これを“試練”だと言うのか?」
私は心の中で問いかけた。
答えは――望んでいなかった。
> 「本当の魔は、外敵ではない。
それは…己が心の奥底に巣食う、欲の化身。」
私は動かぬまま、
まるで神域の泥の中に沈んだ石像のようだった。
月光が湯気の間から差し込み、彼女たちの肌を照らす。
水滴がきらめき、肌の曲線が幽かに浮かび上がる。
そのすべてが――美しく、そして絶望的に甘美だった。
私は知っていた。
もし、あと一寸心が揺れれば。
もし、あと一念を手放せば――
私は堕ちる。
地獄よりも深い場所へ――。
> 「おまえって、ほんとに幸せ者だな…」
その声――天龍の声が再び心に響いた。
だが今度は、あのふざけた調子ではない。
まるで霊魂を凍らせる冬嵐のように、冷たく、重く、魂の奥深くをなぞってくる。
私は必死にもがいた。
叫んだ。
だがそのすべては、心の闇の中で掻き消える沈黙だった。
もう、自分の身体を動かすことはできなかった。
この肉体――
今は、彼のものだ。
その感覚は、恐ろしかった。
夢の深海に沈められ、目を見開いたまま、自分が“してはならないこと”を行う姿をただ眺めるしかない。
そして何より怖いのは――
それが、“してみたかったこと”であることだ。
---
私の――いや、彼の手が、
木桶から静かに伸び出す。
まるで冥府から這い上がる亡霊のように。
湯はなおもさざ波のように揺れていた。
湯気は空間を柔らかく覆い、まるで水墨画のような幻を描いていた。
二人の少女の身体は、薄絹の幕越しに咲く花のように、朧げに浮かび上がる。
はっきり見えないからこそ、余計に艶やかで――命を奪うほどに美しい。
その手が…そっと、小顕の胸に触れる。
私は心の中で叫んだ。
「やめろ――っ!!」
だがその叫びも、音も姿も持たぬ幻影となって消えるだけ。
その感触は、私の神識へと伝わる。
温かく、柔らかく、張りがあり。
春先の雪解けに咲いた桃花にそっと触れたように、指先は冷え、しかし胸元はじんわりと温かくなる。
> 「ほらね…すこし、ひねってみようか…」
彼の声が、宙に渦を描くように低く響いた。
指先がゆっくりと動く。
急がず、丁寧に、まるで宇宙の中心に向かって円を描くように。
その曲線一つ一つが、まるで大画家が筆の代わりに感触で傑作を描いているかのよう。
小さな蕾が、かすかに縮まり、震える。
春風に揺られる梅の朝露のように。
> 「んっ…」
一筋の吐息が、絹の糸のように唇から漏れ、
そして湯気の中へ溶けていく――
まるで霧に迷った燕の囀りのように、儚く。
---
私は目を閉じたかった。
だが、それも叶わなかった。
彼は向きを変えた。
次は、清鈴――
その目はうっすらと閉じられ、首を傾け、黒髪が肩を濡らして垂れていた。
その姿は、まだ開ききらぬ森の蘭の蕾。
一息で、その花びらが砕けそうな、儚さを秘めていた。
その手――まだ私の手であるはずの手が、また伸びる。
羽のように軽く。
そして…
指が、山の頂をそっと持ち上げた。
小ぶりながら誇り高き、その峰は――
触れてほしいようで、拒みたいようでもあり、震えていた。
> 「やはり、純豆乳は効くな…」
――彼の呟きは、半ば冗談、半ば陶酔に満ちていた。
> 「張りがあって…完璧だ。」
私は心の中で泣き叫んだ。
やめろ!やめてくれ!これは、侮辱だ!裏切りだ!
だが、彼はただ微笑んでいた。
---
彼は深く息を吸い込んだ。
私の肺が大きく膨らむ。
二人の乙女から放たれる香りが、薬草と豆乳と共に立ちのぼる。
まるで神を迎える香煙のように、空間を満たす。
天地すらも、淡く霞む幻想の中に沈み込んでいく。
その瞬間、私は感じた。
ここは、天と魔の境界線。
だがその均衡を保っているのは――
私ではない。
彼なのだ。
> 「これで、十分だ。」
――彼の声は、そよ風のように優しく、
だが私の心を、真っ二つに引き裂いた。
一方は弛み、
一方は抵抗した。
---
ズバッ――!
身体が一瞬で引き離された。
空間そのものが裂けたかのような衝撃。
そして私は――もう湯の中ではなかった。
気づけば、自室の鏡の前に立っていた。
全身が濡れていた。
胸元から腕にかけて、滴が細い川のように流れていた。
呼吸は荒く、
肌は、まるで業火に焼かれたかのように紅潮していた。
鏡を見つめる。
そこにいたのは――
私ではなかった。
私の皮膚を借りて、狂気の戯れを演じた“何者か”。
目は赤く腫れ、
手は震え、
胸はまるで中から燃えているかのように、激しく上下していた。
> 「感謝するんだな。
もし俺がいなければ、おまえはあの湯で溺れ死んでたか、
欲に溺れて心が壊れてたぜ。」
――天龍の声が、静かに虚空へと消えていった。
まるで、波が岸から退いてゆくように。
彼は私の意識から去った。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
だが、彼の残した感触は――
未だ闇のように、重く、背中に張り付いていた。
---
私はベッドに腰を下ろす。
魂の抜けた身体のように。
外では、月が隠れていた。
ただ、瓦屋根から落ちる水滴の音だけが聞こえる。
ぽとん…ぽとん…。
一滴ごとに、私の見たもの。
感じたもの。
してしまったこと――
すべてを突きつけてくる。
その夜――
私は眠れなかった。
夢のせいではない。
それは、私自身のせいだった。
私は天井を見上げて問うた。
――
私を苦しめているのは、
恥だろうか。
それとも――
後悔なのか?




