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Episode 114

夕陽の光が、カーテンの隙間から斜めに差し込み、私の手にやさしく触れた。

その手には、彼が今朝早く届けてくれた赤い林檎が乗っている。

私はベッドの背に寄りかかり、白い衣の裾は静かに絨毯の上に流れ落ちている。

膝の上には抱き枕、部屋の温もりは穏やかだけれど、それでも心の中に広がっていく静かな空虚は、埋めようもなかった。


> 「あの人、ほんとに……変わらないな」

私は小さくつぶやいた。




林檎を唇に近づけ、そっとひとかじり。甘い。

けれど、その甘ささえも、頭の中を巡る思考を静めることはできなかった。

視線は自然と伏せられる。まるで、自分でも名付けられない思いから逃げるように。


> 「口では人を苛立たせることばかり言って……なのに、細かいところはちゃんと見てる。」




彼が黙って現れ、何も言わずに去っていく。

残していくのは薬草だったり、滋養のあるスープだったり。

あるいは今日のように、林檎一つ。

その不器用な優しさは、温かいのか、それとも厄介なのか……わからない。


私は微笑んだ。

風が葉に触れるような、静かな笑みだった。

気づけば、林檎を持っていた手が胸元に滑り落ちる。


> 「まさか……彼って、胸とかお尻が大きいのが好きだったりするの……?」




顔が一瞬で熱くなる。

冬空の下、湯を浴びせられたように。

私は抱き枕に顔を埋め、両腕でぎゅっと抱きしめた。

そうすれば、暴れる心臓の音が少しは抑えられるかと思って。


> 「……くそっ、なんであんな可愛いのよ……バカ……」




呟きは呪詛のようでいて、まるで吐息のように儚かった。

私自身もわからない。

怒っているのは彼に対してか、それともこんな風に揺れる自分にか。


風が頬をかすめ、前髪をそっと揺らした。

私はそれを払うことなく、窓の向こうを見つめる。

開かれた隙間からは、夕焼け色の雲が漂っている。


> 「でも……嫌いじゃないんだよね。」




その言葉は、水面に落ちる一滴のしずくのように、心の奥に広がっていく。

私はまばたきをし、ふっと微笑んだ。

どうやら、想いというものは、言葉がなくても芽生えるらしい。

誰に教えられずとも、心は静かに動いてゆく。



---


《西の山の端にて、名もなき誓い》


その頃──宗門の西側、崖の端。

山風が吹きすさび、私の魂の奥底にまで突き刺さってくるようだった。

私はただ一人、白い雲の海に突き出した大岩に腰を下ろしていた。

足元には果てしなき谷、頭上には限りなき空。

夕陽が山々を金色に染め、その景色は、息を呑むほどに美しかった。


私は両手を後ろにつき、天を仰ぐ。

星を探しているわけではない。

何かの兆しを求めているわけでもない。

ただ、ふと思ったのだ。


> 「これが……俺の運命なのか……?」




俺は、誰にも信じてもらえなかった。

何をしても疑われ、どれほど努力しても見下される。

ここは、かつて夢見た場所だった。

だが今や、それは檻に変わった。


一羽の鷹が、空高くを旋回している。

山風は衣をはためかせ、髪を乱す。

左手をぎゅっと握る。

そこには、微かに残る術痕──

あの時、無理に気を巡らせて救った者のために負った痕。

消えぬ傷跡は、胸に刻まれた痛みと重なる。

鋭くはないが、ずっと疼いている。


> 「学び舎では、追放され。」 「修練すれば、監視され。」 「まるで……俺だけが異物のようだ。」




口の端に浮かんだのは、音のない嘲笑。

風だけが、それを聞いていた。

俺の行動は、他人の物差しでしか評価されない。

誰一人、俺の心を問う者はいない。


小さな石を拾い、握っては離す。

石は谷底へ落ち、雲に呑まれて消える。

音はなく、反応もない。


> 「……全部、投げ出したくなる時もある。」




恐れているのは痛みじゃない。

ただ、自分の存在が意味を持たないこと。

すべてが他人の目によって縛られる、その息苦しさが怖いのだ。


けれど──


> 「くそっ……俺はそんな弱い人間じゃない。」




私は立ち上がった。

目を見開き、はるか彼方を見据える。

たとえ幾千の疑いの目が向けられようと、

たとえ無数の誹りの言葉が降り注ごうと、

俺には、まだ俺自身が残っている。

未だ誰にも踏まれていない、自分だけの道がある。


> 「嫌われても、捨てられても、疑われても──俺は、自分の道を行く。」 「俺はディエツ・ニン……誰の影でもない。」




叫んだ。

誰かに届かせるためではない。

自分に、刻みつけるために。

この広大な天地の中にあっても、俺は確かに、ここにいる。

まだ、意志がある。

だから、俺は俺のやり方で生きる。


風はさらに強く吹き抜ける。

白い衣は空に舞い上がる鳥のように、たなびいていた。

その小さな身体は、空と大地に呑まれそうだった。

けれど、その魂は天地に深く根を張っていた。

どんな風も、それを引き抜くことはできない。


俺は、俺だ。

誰の影でもない。

彼女が高麗人参のお茶を口にしていた朝――

私は何気なく呟いた一言が、これほど長く尾を引くとは思ってもみなかった。

ほんの冗談のつもりだった。

彼女が気に留めたかどうかさえ、わからない。


けれど、あの時の彼女の瞳──

まるで、ほんの少し……やわらかくほどけたように見えたのだ。


それからというもの、私は毎朝、山の裏手の竹垣の陰から、東向きの小部屋の窓を眺めていた。

そこにいるのは、ひとりの少女。

うつむきがちで、唇をきゅっと引き結び、頬を赤らめ──

そして、私の言葉を覚えていてくれる少女だった。



---


> 「お父さま、大豆……まだ残ってますか?」




その声は、家の裏手からふわりと届いた。

春風のようにやさしい声──

だが、私の耳には、霧の朝に響く鐘の音のように心を打った。


なんてことのない一言なのに、どうしてこんなにも胸を震わせるのか。


彼女の父、厳格で有名な王・友林おう・ゆうりんは、薬草を刻む手を止め、眉をひそめて問い返した。


> 「ん? 今朝の補薬、まだ飲みきってないのに、今度は大豆だと?」 「なんで急にそんなもんが食べたくなった?」 「……まさか、お前、子ができたんじゃあるまいな?」




──私はその瞬間、本当に枝から落ちそうになった。

なんてことを言い出すんだ、あの親父!

ただの豆乳じゃないか!?

妄想が嵐のごとく飛躍していて、鼻血が出そうになった。


> 「な、何言ってるのよ! ちがうったら!!」

彼女は叫び、袖をぎゅっと引っぱった。

夕陽に染まったその頬は、はっきりと赤く染まっていた。

「ただ……豆乳が飲みたくなっただけ……ほんとよ!」




その声は、恥じらいと少しの拗ねたような響きを帯びていた。

やさしく、けれど、私の内なる気を一瞬で打ち消すほどの威力があった。


それでも王・友林は容赦なく言葉を続けた。


> 「いまさらどうして? それまで好きでもなかったくせに。」 「まったく、南峰の天気みたいに変わりやすいやつだ。」




彼女は顔を伏せた。

表情までは見えなかったが、細い指がそっと絡まり合い、小さく呟いた。


> 「……だって、体にいいって……」




その一言に、私は呼吸を忘れた。

そんな……冗談まじりで言った言葉が、彼女の習慣を変える理由になったなんて──

私は、ただ口がすべっただけだったのに。



---


王・友林はしばらく娘を見つめたのち、重く息を吐いた。


> 「わかった、裏山にでも行って、新しい豆でも探してくるか……」 「まさかとは思うが──あのディエツ・ニンとかいう小僧が“バストアップに豆乳が効く”とかバカなこと吹き込んだんじゃないだろうな……?」




……私は今度こそ、本当に木から落ちるところだった。

なんで名指しで俺を言う!?

そして、その語気の棘ときたら、魂をえぐるようじゃないか……。


> 「ちがうもんっ!!」

彼女の耳は、熟したトマトのように真っ赤だった。

そして小さく頭を下げて、ほとんど聞き取れぬほどの声で呟いた。




> 「……でも、まったくのウソってわけでも……ない……」




その瞬間、私の心臓はまるで内功の双掌で強く押し潰されたかのようだった。

痛みはなかった。

だが、混乱とぼやけた幸福感が煙のように胸を満たした。



---


彼女は裏庭へ出た。

金色の光が、干し棚をやさしく照らしていた。

年上の女弟子・清鈴せいれいが、丁寧に薬草を並べている。


> 「ねえ、姉さま……わたしの胸、やっぱり小さいと思う……?」




──私は言葉を失った。

質問の内容ではない。

その声が、あまりにもやさしく、かすかで……

草原を撫でる風のようだったからだ。

そして私は、木の陰からそれをすべて聞いてしまった。


清鈴が振り返り、眉をひそめる。


> 「ん? 誰がそんなこと言ったの?」




彼女は靴先で土をかき、戸惑うような表情で言った。


> 「ディエツ・ニンが……“豆乳飲めば、発育にいい”って……」




……


私だ。


本当に。


どこかに穴を掘って埋まりたい。



---


清鈴はしばし沈黙し──そして、突然吹き出した。


> 「あの男……ほんっとに、口を開けば波風を立てる奴ね。」




彼女は近づき、そっと彼女の肩に手を置いた。


> 「でもね……今のままのあなた、全寮で一番理想的なスタイルよ。」 「すらりとしてて、やわらかくて、女らしくて、生き生きしてる。」




それは、まったくその通りだった。

いや、それ以上に、言葉にできないほど魅力的なのに……

私は何も言えなかった。

きっと、それを言ってしまえば、すべてが“本当”になってしまう気がして。



---


> 「でも……ディエツ・ニンは、こういうのが好きみたいなの……」




彼女はそう言って──

胸を、そしてお尻を指さして囁いた。


> 「……ぷりっとしてるやつ。」




……


いや、もう無理。


毒にやられたんじゃない。

誰かに殴られたわけでもない。


自分の言葉に、自分が殺されそうだ。



---


清鈴の目が揺れた。

とてもわずかに、けれど確かに、心のどこかに波紋が広がるのが見えた。


> 「……じゃあ、本当にあの子は、そんな趣味なの……?」




彼女の声は、ほんの少しだけ、やさしくなった。

その変化は、朝の風に揺れる蓮の葉のよう。

あるいは──

心の奥で、認めたくない何かを、認めざるを得なくなった瞬間の揺らぎ。


> (もしかして……本当に、彼はそんなところを見てるの……?)




言葉にはされなかった。

だが、彼女の胸の岸辺に、ひとしずく波が打ち寄せたのを、私は感じ取った。



---


遠くから王・友林の叫び声が聞こえる。

少し呆れたような、けれど優しい響きがあった。


> 「豆は見つかったぞ! ほんのひとつかみだけどな! まさか桶で搾れとは言わんだろうな!」




彼女はぱっと立ち上がり、駆けていく。

春燕のように軽やかな後ろ姿。

うれしさと無垢さに満ちて、雲ひとつない笑顔で。


> 「さすが父さまっ! それだけで、もうじゅうぶん嬉しいよ!」




……


私は木の陰で額を押さえた。

たった一言の戯れ言が、今や三人の心を、三つの形で揺らしていた。



---


清鈴は庭に佇んでいた。

袖に風がすっと通り抜け、初夏の蓮のようにその姿が揺れる。


彼女は駆けていった少女の背を見送り、風に溶けるように呟いた。


> 「たった一言を信じて、ここまで気持ちを動かされるなんて……」 「その時点で、もう……彼は、心の中にいるのよ。」





---


私はその言葉のすべてを、はっきりと聞いた。


そして気づいた。


ほんの一瞬のなかで──

私はもう、彼女たちの「外側」にはいなかったのだ。

夕暮れが静かに降りてきた。

遠くの松林から風が吹き、薬草庭の奥にある竹棚をくぐり抜ける。

陽に干された薬草の香りが、かすかに空気を満たし、

山の斜面からは森の鳥の声がこだましていた。


静かな中庭の中央、

そこに一人立つのは清鈴せいれい

細くしなやかな指先で、摘み取ったばかりの三葉草をくるくると弄ぶ。

その指先は、まるでまだ名もなき思いを探るように、そっと空気を撫でていた。


> 「ディエツ・ニンの好みって……そんな感じだったのね。」




つぶやく声は風のささやきのように小さく、そして寂しかった。



---


彼女の視線は空へと向かう。

夕雲が淡い絹の帯のように西の空を横切り、

オレンジの光が、背に垂れる長い髪を柔らかく染めていた。


その姿はまるで、静かに湖面に咲いた白蓮の花のよう。

美しさと儚さを湛えた、ひとひらの静寂。


> 「わたしの身体……そんなに悪くないはずよね?」 「身長百六十七、細いウエストに整った体型……武術もできるし、治療もできる、ご飯も作れるし、書道だって……」 「……それでも、足りないの?」




その声には、怒りも悲しみもなかった。

ただ、言い終わらぬため息がそっと混ざっていた。


言葉にならぬ気持ち。

可笑しみ、あきらめ、そして、どこかにある微かな期待。



---


心の奥から、静かだが消えぬ声が聞こえてきた。


> 「もう少し……育ててみようかな?」 「もしかしたら……あの人の目が、少しでも長く留まるかも。」




彼女の手が止まる。

くるくると回していた三葉草は、指の中でぴたりと動かなくなった。


> 「……ばかみたい。」

そっと額をたたく。

「修行中の身で、体型なんか気にするなんて。」




口元に浮かぶ苦笑。

けれど、その瞳の奥には、拭いきれない何かが残っていた。


それは自責ではなく──不服。

どこか、納得できない、淡い悔しさ。


> 「……あの人、わたしを長く見ていたことはあった。」 「でも、一度も褒めてくれなかった。」




> 「それなのに、小顕しょうけんには……『美人さん』って。」




その言葉が、わざとなのか無意識なのかはわからない。

けれど、それだけで、

あの無邪気な少女は大豆を探して走り回るほどに心を動かされた。


では、彼女は?

傷を癒し、雨の中で薬を塗り、拳を受けてまで守った自分は?


返ってきたのは、ただ一つの視線。

そして──

「ありがとう」という、冷たく整った一言だけ。



---


> 「おかしいよね……」

彼女は静かに笑う。

「ディエツ・ニンの趣味、変わってるにもほどがある。」




風が舞う。

彼女の白い衣が春の蝶のように揺れ、

夕日の中で、その細身の姿は桜の終わりに咲く一本の枝のようだった。


細くとも、しなやかで折れない。

どんな風にも、じっと立ち続ける。


清鈴は静かに腰を下ろす。

庭の縁にある石段の上。

その傍らには、まだ干しきれていない薬草の籠。

膝の上には開いたままの古い医学書。

けれど、一行も目には入らない。


心はすでに、別の方角へ向かっていた。

──

そこには、片口の笑み、空を見上げるまなざし、

そして、時に残酷なまでに無神経なあの声がある。



---


> 「もし……わたしが変わったら、気づいてくれるのかな?」




誰に言うでもなく、風に溶けるように、彼女は呟いた。

焦点を持たない瞳。

答える者は誰もいない。


けれど、心が、わずかに傾いた。

「天医堂の青き仙女」と讃えられる彼女も、

ひとりの女性であることに変わりはなかった。


恋を知り、

待つことを知り、

そして──

誰かの目が、他の誰かに向いたことに、

静かに嫉妬する心を、持っていた。



---


ふいに、白い毛玉が膝の上にぽんと跳ね上がった。

一匹のふわふわした白猫が、彼女の手に頬をすり寄せる。


> 「にゃあ。」




清鈴は一瞬、固まる。

それから、ふっと微笑んだ。

手を伸ばして、その柔らかな背を撫でる。


> 「……おまえは、わたしの体型なんて気にしないもんね。」




ごくありふれた、何気ない一言。

けれど、その胸の奥では、さざ波のように感情が広がっていた。


誰に見られなくてもいい。

誰に返事をもらえなくてもいい。

ただ、この猫が腕の中でじっとしていてくれるだけで、

ほんの少しだけ、心がやわらいだ。



---


風はまだ吹いていた。

薬草の葉が落ち、

頭上からは、白芍薬の花びらが舞い、

墨のように黒い髪にそっととまる。


清鈴の視線は、遠く──

沈む夕日が、丘の底まで染め上げる空へ。


その瞳に映るものは、

さっきまでの波立ちを静かに沈めた水面のようだった。


そして、心の奥底には──

嫉妬か、愛しさか、それとも期待か。

まだ名も持たぬ、小さな芽が、

そっと顔を出していた。

北の松林を越えた、小さな丘の上。

南風山の静けさに包まれ、誰一人いない空間に、私はただ一人立っていた。


まだ完全に日は沈まず、空は仄かな色を残している。

斜陽が乾いた草を照らし、私の白衣のすそを金色に染め上げていた。


手にあるのは、ただ道端で拾った一本の枯れ枝。

だが、心の中にあるのは──誰にも教わったことのない、ある一本の剣。


私は腕を振る。


静かに、ゆっくりと。

まるで山の頂を撫でる風のように。


> 「左手に気を導き……右手に魂を託す。」

「心が動かねば、万象は自ら現れる。」




古びた『心行訣』の一句一句を、私は静かに口にした。

時代に忘れられた言葉たち。

けれど読むたびに、なぜか胸の奥が波立つ。


私の回転は速くない。

だが、その動きに合わせて、空気の流れが起こる。


風はないのに、葉がわずかに震え──

誰もいないのに、草が静かに身を伏せる。


私の周囲に、霧のように薄い気が渦巻く。

それは攻撃のための気ではなく、

夜の舞のように優雅で、静かなものだった。


> 「強い真気はいらない…」私は思う。

「静かな意念があれば、気は自然と巡る。」




そっと、目を閉じる。


一瞬──

内から、何かが微かに震えた。

まるで魂の奥に、淡い光が灯ったかのよう。


その感覚は、眩しくはない。

けれど、不思議と涙がこぼれそうになる。


> 「これが……魂舞の原初……?」




足元の気の渦が薄れていく。

だが、心の中では確かに──ひとつの扉が、そっと開かれていた。



---


同じ時刻。


蔵経閣の裏手にある女湯──

男子禁制の静寂な場所で、湯気がふわりと立ち上っていた。


見ることも、聞くこともできぬ距離。

だが、私の霊識は確かに感じた。


遠く離れていても──

奇妙な共鳴が、胸の奥でかすかに鳴る。



---


石造りの壁。

天然の泉を彫り出した湯船。


彼女──小顕しょうけんは、そっと陶器の急須の蓋を開けていた。

湯気とともに、温かな豆乳の香りが立ち上り、

春の源流のように、部屋の空気をやさしく満たす。


> 「本当に……豆乳って、効果あるのかな。」

「もっと……綺麗になれたら……?」




誰に届くでもない問い。

彼女は香草の葉を手に取り、蒸気で肌を包む。


細身の体に湯気が纏わりつき、

淡い蝋燭の光が、少女の曲線を映し出す──



---


やがて、そっと近づく足音。

そして、聞き慣れた声が響く。


> 「入っていい? 一緒に入ろ〜」

「女同士、気にすることないでしょ?」




──清鈴せいれいだった。


私は見えず、聞こえず。

だが彼女の顔がありありと想像できる。

少し茶化し、少し含みのあるあの微笑み。


> 「姉さんまで……そんな興味あるの……?」

と、小顕が小声で返す。




> 「豆乳には興味ないけど──」

清鈴は絹のような声で笑い、続けた。

「『美人さん』って言われて照れる君には……興味あるわ。」




その一言は、湯気の中に静かに溶け──

ボタンの隙間さえすり抜け、誰かの濡れた睫毛に触れる。



---


湯がふわりと揺れた。

二人の乙女が肩を並べて湯に沈む。


蝋燭の灯りが、白い背中を柔らかく照らし、

湯気はまるで夢の霧のように、ふたりの周囲を包んでいた。


> 「姉さん……ほんと変わってる……」




と、小顕が戸惑いながら言う。


> 「忘れたの? ディエツ・ニンに裸を見られたのは、私が初めてよ。」

「柔らかい体が好きなら……私、いくらでも補ってあげる。」




──その瞬間。

私の中の「天心」が揺れた。


数十丈の距離を隔てていても、

心と心の間の意念は──

触れずとも、見ずとも、伝わってくる。



---


沈黙。


湯に浸る二人の少女。

けれど、心はそれぞれ同じ一人の男を思う。


> 「今……彼は、何を想ってるのだろう……」




彼女たちの問いに、もし私が答えられるのなら──


> 「わからないさ。だが、ひとつ確かなのは──」

「いま、私の心は……もう静かではいられない。」





---


再び、南風山の丘へ。


私はゆっくりと目を開いた。

景色は変わらぬまま。

だが、私の中の世界は、確かに変わっていた。


身体を包んでいた気の渦は消えた。

だが、丹田の奥底に生まれた感覚は、清らかで、やさしい。


> 「……ようやく、少しだけ触れられた。」

私は呟いた。

誰も聞かぬ。だが──風が聞いてくれる。




> 「天龍てんりゅうはいない……だが、私はもう、無力じゃない。」




私は拳を握る。


誰かより強くなりたいわけではない。


ただ──

あの柔らかな眼差しを守れるほどには、

強くなりたいと思っただけ。


恥じらいを抱き、

茶化されながらも、笑ってくれたあの目を。


「美人さん」と言った、何気ない私の一言を──

心のどこかで、大切にしてくれたその瞳を。



---


山のふもとに、野の花が咲き始めた。


空の雲は、夕暮れの宝石のように色を変え、

そして、私の内なる魂舞は──静かに目を覚ました。


あの湯の中、誰かの心にはもう──

春の香りが、音もなく満ちていた。


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