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Episode 112

「目を覚ましたのか…?」


朝霧のように澄んだ声が、私の鼓膜をやさしく揺らした。冬の初めに吹く風のように、迷い込んだ魂をそっと包み込む。


——あの声だ。


間違えようもない。

それは……**清鈴せいれい**の声だった。



---


私はゆっくりと意識を取り戻した。まるで別の世界から帰ってきたかのように。すべてが霧に覆われ、記憶の断片だけが浮かんでは消えていた場所から。


瞼は石のように重かった。だが、それでも力を振り絞って開けると——

まず目に入ったのは、天井で揺れる一つの油灯。その淡い光が、朧月のように部屋を照らしていた。


その光は、

「今、自分が生きている」と感じさせる灯だった。


その光は、

彷徨える魂に道を示す灯火だった。



---


部屋の空気には、沈香と漢方の香りが混ざっていた。

古い松材の床がわずかに軋み、背中に触れる藁敷きのひんやりとした感触が生々しく伝わってくる。


そして——私は、彼女を見た。


清鈴が、そこにいた。


すぐそばに座っていた。

あまりにも近く、彼女の呼吸さえも、波が岩に打ち寄せるように、胸に感じられた。


柔らかな髪が肩に流れ、いくつかの房が頬に垂れていた。彼女はそれをそっと耳の後ろにかけた。その仕草だけで、灯火の下で光る瞳が、まるで宝石のように煌めいた。


彼女の手が、絹のようなやさしさで、私の胸に薬を塗っていた。

そこは……あの“無影魔殺”の最後の一撃で裂かれた場所だった。



---


> 「目を覚ましたか……もう、本当に……死ぬかと思ったじゃない。」




彼女の声は、深夜に響くピアノの調べのように、静かで、少しだけ叱るような甘さがあった。



---


私は乾いた喉で、微かに笑みを浮かべた。

唾液さえも枯れたような感覚の中で、やっと声を出す。


> 「……俺は、そう簡単には死なないさ。」





---


彼女は、半ば呆れたように、半ば安堵したように、私を見つめ返した。


> 「惜しかったわね。もし死んでたら……聞けなかったかもしれないじゃない、“あなた、私のこと好き?”って。」





---


私は反射的にむせた。痛みのせいではない。

ただ……予想外だっただけだ。


> 「ゴホッ……な、なに?」





---


清鈴は微笑んだ。

それは小さな微笑だったが、胸の奥に残る薬の匂いを貫くような鋭さがあった。


> 「冗談よ。でも……完全な嘘でもないかも。」





---


私は黙った。

はじめて、彼女を“疑いの目”ではなく、一人の人間として見つめた。


かつては、密かに刃を隠し持つ女かもしれないと思っていた。

かつては、微笑の裏に陰謀を宿す医女かと思っていた。


——でも、今、彼女の目に浮かんでいたのは、

ただの心からの心配だった。


そして私は、どう答えればいいのかわからなかった。



---


だが、その瞬間。

突如、脳裏に別の声が響いた。


——どこか遠い死の世界から、囁くように。



---


> 【「……なぁ、ディエツ・ニン。小声で頼むわ。」】

【「やっべ、嫁来た。俺もう逃げる。」】





---


私は眉をひそめた。


> 「……は?」





---


> 【「今、俺の神念を追跡されてる。さっき、嫉妬の匂いを感じた。」】

【「印、暫く封印するわ。使うなよ。でないと……お前が尻叩かれる羽目になる。」】





---


——この声は、あいつだ。


天龍。


かつて私の身体を借りて、十三人の達人を一瞬で葬った存在。

私の額に神印を刻み、宇宙の混乱に私を巻き込んだ神。


そして今……

妻にビビって逃げてる!?



---


> ♀【「天龍——!!また人間の体で好き勝手してッ!?神界で腸引きずり出されたいの!?」】





---


> 【「……終わった。じゃ、またなディエツ・ニン。

逃げじゃない……ガチで“嫁ギャンク”されたんだ……」】





---


そして——


「パチン。」


まるで地獄の扉が閉まるような音が、魂に響いた。

何かが私の体から離れた感覚があった。


それは、神印。


あの額に輝いていた星のような印が、静かに、ゆっくりと……消えていった。



---


私は深く息を吐いた。

まるで千年の眠りから覚めたような解放感。


誰かに操られる感覚も、神の念が重なる気配も、もうなかった。


だが……


この身体——明らかに以前とは違う。



---


筋肉の一繊一繊が、鋼のように張り詰めている。

皮膚は、淡い光を反射し、まるで玉石のような光沢を放っていた。

血管の中に流れる気は、淡い青色の霊泉のように感じられた。



---


> 「……ふむ。」





---


私は手を見つめながら呟いた。


> 「神印は消えた。けど……この力は、まだ残ってる気がする。」





---


清鈴が私の腕にそっと触れた。

すぐに指を引っ込めて、驚いたように言った。


> 「な、なにこれ……まるで銅像みたい……!?」





---


私は気まずく笑いながら、静かに説明した。


> 「筋肉じゃない。気の流れが調和してる。

たぶん……“炉で焼かれて”鍛えられた感じだ。」





---


彼女は笑った。

その澄んだ笑い声に、私は痛みを忘れた。


> 「なるほど……イケメンは、焼くともっと輝くってことね。」





---


私は笑った。だが目は、じっと自分の手を見つめていた。

心の奥に、ざわつくものがあった。


疑念。

微かな不安。


そして……問い。



---


> 「天龍……お前は、一体何者なんだ……?」




——私は、血塗られたこの手を見た。


人を殺した手。

夜、震えながら眠れなかった手。


だが今、それは月光のようなやさしい輝きを放っていた。


冷たくない。

乱れてもいない。



---


> 「俺は、本当に変わったのかもしれない……」




——私は呟いた。

誰に言っているのか分からないまま。

清鈴が首を傾げ、ゆっくりと瞬きをした。


> 「……何て言ったの?」





---


> 「いや、別に……ただ……自分がもう“自分”じゃない気がしただけ。」





---


彼女は静かに微笑んだ。

その手はまだ私の腕に触れていて、まるで——


何かが失われぬように、記憶を縫い止めようとする指先だった。


> 「あなたは……ちゃんと“あなた”よ。

ただ、強くなってるだけ。」





---


「強くなっている」

その言葉は、遥かな山寺で聞いた古鐘の音のように、心に反響した。


かつて、私はそれを渇望した。


血の中に、暗殺の刃の中に、死の淵で——

ただ、強くなるためだけに生きていた。


しかし今、

この“強さ”は、もう筋力や速度ではなかった。


それは……

血に宿る咒火じゅか

心の奥で燃え尽きた意念が、再び蘇ったような感覚だった。



---


> 「……昔の俺は、ただ憎しみに突き動かされて生きていた。

狂ったように、殺し続けて……存在を証明してきた。」





---


私は彼女の目を見た。

その瞬間——


> 「でも今の俺は……怖いんだ。」





---


彼女の瞳が揺れた。


> 「……怖い?」





---


> 「ああ。

もし“復讐”が終わったら、俺は何者になる?

殺すべき相手も、隠すべき秘密も、守るべき憎しみも……

何も残らなかったら、俺は……俺でいられるのか?」





---


私はなぜ、こんなにも饒舌になっているのか分からなかった。


ただ、彼女の瞳に——

嘲笑も、同情もなく、

ただ“耳を傾ける”静けさがあったから。


それが、魂の震えを吐き出させた。



---


清鈴は私の手を少し強く握りしめた。

まるで、痛みごと抱きしめるように。


そして、静かに囁いた。


> 「ならば……これからは、自分のために生きて。」





---


> 「復讐のためでもない。

天龍のためでもない。

神印のためでもない。」




> 「ただ、“あなた”という人間のために。」





---


私は苦笑した。

心のどこかで、それが不可能だと思っていたからだ。


> 「口で言うのは簡単だ。

でも、お前には分からない……あいつ——天龍が、俺に何を残したか。」





---


彼女の表情が、少しだけ陰った。

声も、少しだけ低くなった。


> 「……全部は分からないかもしれない。

でも、“選ばされる”痛みは、分かる。」





---


私は驚いた。


> 「お前……も?」





---


彼女は答えなかった。

ただ、灯火を見つめながら、遠い過去を見ていた。


時が止まったような静寂。

唯一の音は、屋根を叩く初夏の雨だけ。


その音が、空気を沈ませた。



---


> 「……私はね、昔、“生贄”として選ばれたの。」





---


その言葉は、霞のように口から漏れた。

しかし、その重さは、私の心臓に岩を落としたようだった。



---


> 「十三歳の時だったわ。

“碧血流水陣”の生贄として、選ばれたの。」





---


> 「私が医学を学んだのは、誰かを救うためじゃなかった。

ただ、“自分の死期”を知るためだったの。」





---


私は言葉を失った。


彼女の優しい微笑の裏に、そんな物語があったとは。

いつも冗談めかして薬を塗る、彼女のその手が——


私と同じく、深い古傷を抱えていたのだ。



---


> 「でも、私は逃げた。

儀式からも、運命からも。」





---


> 「それ以来、“定め”なんて信じない。

選ばれた者でもなく、背負わされた者でもない。」





---


> 「私は、ただ——選ぶ人間でいたい。」





---


私の目が熱くなった。

涙ではない。

もっと内側から——燃えるような熱さが、胸を満たしていた。



---


> 「……選べと?」





---


> 「ええ。」





---


> 「あなたは、憎しみのまま生きたいの?

それとも、隣にいる誰かのために?」





---


> 「天龍の影として、操られ続けたいの?

それとも、彼を超える存在になりたい?」





---


私は、彼女を見つめた。


灯火の光が、彼女の横顔を照らし、まつげに影を落とす。

その姿は——春燕のように美しく、儚い。


そして私は、生まれて初めて、あるものを欲した。


「生きたい」

それも、誰かを殺すためじゃない。


——この瞳の輝きを、守るために。



---


私はそっと、彼女の髪に手を伸ばした。


愛でもなく、欲でもなく。

ただ……確認するために。


彼女が、ここに「本当にいる」と。

神印の幻影ではなく、現実の温もりで。



---


だが、その時——


胸の奥から異音が響いた。


心音ではない。

それは、気脈の振動だった。



---


私はすぐに瞑目し、気を巡らせた。


すると——

体内の内気が、今までとは全く異なる動きをしていた。


乱れていた気が、静かに、規則的に巡っていた。

まるで陰陽が調和し、極が巡るように。



---


> 「清鈴。」





---


> 「なに?」





---


> 「さっきの神印のこと……あいつ、“一時封印”って言ってたろ。」





---


> 「うん。」





---


> 「消えたわけじゃない。

それは、もっと深い気脈の層に沈んでいる。

封じられたんじゃない——自ら引いたんだ。」





---


彼女は目を見開いた。


> 「それって……」





---


> 「天龍は去っていない。

いつか、条件が揃えば——再び目覚める。

神印は“起動する”ように、残されている。」





---


私は深く息を吸った。

そして——初めての、本当の恐怖を覚えた。


傷ではない。

敵でもない。


ただ——その日が来たとき、自分がまだ“自分”でいられるか。


それが、怖かった。



---


私は窓の外を見た。


雨はすでに本降りになっていた。

季節の初めの雨。


冷たいが、どこか……澄んでいた。



---


清鈴が布団をそっとかけ直し、ささやいた。


> 「……もう考えるのはやめて。今夜は眠って。」





---


> 「明日、“誰”になるのかはそのとき考えて。

でも今夜は——」





---


> 「“患者”のあなただけを、私は助けたい。」





---


私は、静かに目を閉じた。


とても長い長い時を経て——

ようやく、心が安らいだ。



---


> 「……ああ。今夜は、ディエツ・ニンでいるよ。」





---


> 「神じゃなく、殺戮の化身でもない。」





---


> 「ただ一人の……“誰かに救われた者”。

そして、生き方を教わった者として——」

私は天龍——


至高神尊、時空を傾け、万界を鎮める存在。


……しかし今の私は、幻龍宮の玉園を命からがら逃げ回っていた。



---


背後から迫るのは、鋭く芳しい香気──「龍香絶美」。正妻にして我が愛しき者、玉仙心杖を手に、蓮の如き足取りで空を渡り、まるで銀河を舞うように。


その隣には第五の妻、雷夢児。雷金に彫られたかのような肢体、眼差しには稲妻。彼女の手には「雷爪魂滅」があり、赤き光とともに火花を散らしていた。



---


「天——龍!!!」


龍香の声が鳴り響いた。それはまるで世界の終わりを告げる最後の鐘声のよう。



---


ドン――!!


翡翠の庭にある亭が半壊。灯籠の花が乱れ舞い、まるで羽根を失った蝶のように空へ散った。



---


私は振り返り、叫んだ。


「待ってぇぇぇ! 聞いてくれぇぇぇえ!!!」



---


「説明だと!? 貴様の頭を説明してやろうか!!」


龍香が疾風のごとく迫り、その杖からは白銀の光が爆ぜた。まるで崩壊した銀河の閃光のように。



---


「最近、貴様何してる!? 人界に降りて“滅人”とやらの身体を使って遊んでおるくせに、私はここで刺繍を縫って貴様を待っていたのだぞ!?」



---


返す言葉もないうちに、背後から灼熱の気が襲いかかった。


「では私のことは!?」


雷夢児の雷撃が空を裂く。



---


「魔界は今や地獄同然! 魔族共が『魔王はどこだ?』と問うてくるたびに、私は貴様の声を真似して一日中沈静していたのだ!」



---


ドン――!!


雷撃が私の背に命中。金剛の肌はわずかに焦げただけだったが……誇りは燃え尽きた。



---


私は振り向き、涙をこらえて叫んだ。


「ごめんなさあああい! ちょっとリラックスしたかっただけなんだ! 本当に! 浮気じゃない!!」



---


「リラックスだと!?」


龍香が怒号し、髪が雷のように舞い上がる。


「お前が“リラックス”してる間に、滅人は錯乱し、九脈宗の長老を斬殺したのよ!? その後で『嫁が来たからログアウト』とは……至高神尊のくせに、ただのクズ男じゃないの!」



---


言い訳を探す間もなく……


「ドオォン!!」


再び雷夢児の電撃が、傍らの碧麟神松を真っ二つに裂いた。


焦げた匂いと私の涙が、顔を濡らす。



---


「それでもまたコッソリ人界で遊ぶとは!」


雷夢児の瞳が怒気を孕む。


「しかも女と抱き合って“神識共鳴”とぬかすの!? 最低!!」



---


私は足を滑らせ、霊草の芝に倒れ込んだ。身体は雨に濡れた子犬のように震え続ける。



---


「待って——俺には理由があるんだ!!」



---


「俺は本気で滅人を案じている! 彼は……俺が選んだ後継者なんだ!」



---


「俺が導かねば、いずれ彼は自らの殺意に飲まれる!」



---


言葉が終わると同時に、天地が一瞬止まった。


二人の視線も、凍るように静止した。


怒りに燃えていた眼差しに、一瞬の迷いが混じった。



---


龍香がゆっくりと杖を下ろし、私をじっと見つめた。


「お前……本気で、彼の業を超えさせたいと思っているのか?」



---


私は頷いた。私の瞳には万の輪廻が映り、血霧の中で闘う滅人の姿が浮かんでいた。



---


「もし俺が力で彼を守り続ければ……彼は一生、人形にすぎなくなる。」



---


「俺が人界に降りたのは、遊ぶためじゃない……彼を鍛えるためだ。」



---


雷夢児は長く私を見つめた後、黙って手を引いた。


「ならば……次は勝手に行動せず、ちゃんと話してからにして。私はずっと、貴様が人界の女と通じたと思っていたのだから……」



---


龍香は冷たい笑みを浮かべ、私の耳たぶをぎゅっとつねった。


「そして、次また誤解させたら……去勢するわよ?」



---


私は背筋を凍らせ、魂が震えた。



---


だが、終わりではなかった。



---


「……まだ終わってないわよ」


雷夢児が冷ややかに笑い、稲妻のような瞳で囁いた。



---


「罪は赦されたとしても……教育は必要ね。」



---


私は跳ね起きた。


「ちょ、ちょっと待って! 夫婦の懲罰プレイは禁止だって!!」



---


だが、もう遅い。


二人は左右から迫り、私の衣を掴んだ。


私は引きずられ、「禁龍浴殿」の本殿へと連行された。


——かつて「赤情三合」の惨劇を味わった、二度と足を踏み入れたくなかったあの地へ……



---


【禁龍浴殿・内室】


空気は沈香と雷草の香に満ち、紫の光が薄絹を通して揺れている。


私は竜床に投げ出され、神衣が引き裂かれた。


金剛の肌すら、神罰の“脱衣術”には抗えなかった。



---


「罰として——寝るだけ。触れることは禁止。」


龍香は言い、指で“嬌心穴”を封じた。



---


「三日間、禁欲。」



---


「三日!?」私は天を仰いで絶叫した。



---


「さらに一言でも喋れば……禁欲七ヶ月よ?」


雷夢児は耳元で囁き、その息吹は雷の如く。



---


私は貝のように黙り込んだ。



---


真夜中。


龍床は冷たく、二人の美しき影が私の身体を這う。衣は霞の如く薄い。


龍香の唇が私の首筋をかすめ、指先が胸をなぞるが……


「感じるだけ。動くのは禁止。」



---


雷夢児は私の腹に腰かけ、魔の眼差しで告げる。


「リラックスって、こういうことよ。お前に“本物の快楽地獄”を教えてあげる。」



---


私は喘ぎ、心臓が雷のように脈打った。


私は神であり、幾千万の地獄を耐えた者。


だがこの「至高禁欲呪法」には、勝てぬ!!



---


漆黒の闇の中、自らの微かな呻き声に包まれながら、私はそっとため息をついた。


「滅人よ……どうか、お前は俺の辿った道を歩まぬように。」



---


「誰かに運命を握られるのではなく、自らの手で選び取れ。」



---


雷夢児が身をかがめ、囁いた。


「そして覚えておけ……次、他人の体に憑依したら……」



---


「私と龍香が“双龍換魂術”で……貴様を一生立ち上がれない体にしてやる。」



---


その夜——紫の月が幻龍宮を包み込んだ。


私は冷えた龍床の上に横たわり、禁欲の呪に縛られながら、両手を脱力させ、胸は名もなき不安でざわめいていた。



---


風が玉の天井を通り抜け、無憂の井戸からは静かに水の音。


その傍らには、穏やかな吐息を立てる二人の妻。


左には龍香——背を向けたまま、香蘭のような髪が私の首に触れる。


右には夢児——太腿が私の腹に乗せられ、その腰の温もりは、かつて血海の魔界で出会った時のままだ。



---


私は目を閉じる。だが心は開かれる。


暗闇——光もなく。


そこに浮かぶのは、砕けた記憶の断片。


——無限雷涯で親友の屍を埋めた日。


——師を自ら焼き捨てて因果を断った日。


——神になる前、最後に涙を流した夜。



---


「力さえあれば、二度と泣かなくて済むと思っていた。」



---


「だが結局、神の悲しみは、凡人よりも深かった。」



---


人は一度だけ傷つき、そして死ぬ。


だが神は、永遠に生き、永遠に悔やみ、永遠に思い出す。



---


私と龍香の愛は、かつての天池の戦いから始まった。


あのとき、彼女は見知らぬ少年を庇うため、私の剣をその身で受けた。


私は叫んだ。


「狂っているのか!?」



---


彼女は答えた。


「狂ってでもいい。正しく生きて、心を失うよりは。」



---


その一言で、私は彼女なしでは生きられぬと悟った。



---


夢児との始まりは、真の魔王を斬った後。


魔界が崩壊する中、彼女だけが立っていた。


私が剣を彼女の首元に向けると、彼女は静かに言った。


「殺すなら殺せ。愛すなら……行かないで。」



---


その言葉が、私の知らぬ感情の扉を開けた。



---


私は神——だが、人の情に脆かった。



---


「天龍……今、何を思っているの?」


龍香の声が、夜風のように静かに耳をくすぐった。



---


「……過ちのことだ。」


私は答えた。



---


「どんな過ち?」



---


「他人に期待を託しながら……信じきれなかったこと。」



---


彼女は沈黙した。


だが私は知っている。彼女は理解していた。


私が神になった夜、善と悪の狭間で選んだあの道を、彼女だけは見つめていた。



---


「お前、滅人をそんなに愛しているのか?」



---


「愛ではない。哀しみだ。かつての自分の姿を、彼に見る。」



---


「そして恐れている。彼が倒れた時……かつての私のように、静かに、誰にも知られず、忘れ去られてしまうことを。」



---


「だから他人の身体を借り、彼に戦わせる……それが“愛”なのか? それとも“我欲”か?」



---


私は答えられなかった。


なぜなら……彼女の言葉は正しかった。


私の行動の多くは、彼のためではなく、己の失われた過去をやり直したかっただけなのだ。



---


その時、一つの温かい手が私の胸に触れた。


夢児だ。


彼女はずっと起きていたのに、眠ったふりをしていた。



---


「私はお前が嫌い……」



---


「……だって、いつも冷たいふりをするんだもの。」



---


「私は魔王。無数の命を血に染めた。けれど、それでも知っている。」



---


「誰かを本当に救いたいなら……その人に、“愛されている”と感じさせてあげなきゃいけない。」



---


彼女は首筋に唇を寄せ、しかし触れず、ただ静かに囁いた。


「それなのに、お前はいつも力で押し切ろうとする。心じゃなくて。」



---


私の胸は締めつけられた。



---


誰も知らない。


たとえこの二人すらも知らない。


私——天龍という神には、心の中に決して癒えぬ傷があることを。


その名は「生き残ってしまった者」。



---


「……わかるか?」


私は囁いた。



---


「皆が死に、自分だけが生き残ったという感覚を?」



---


「神となっても、倒れた時に抱きしめてくれる者すら、もういないという事実を?」



---


返事はなかった。


ただ、二つの腕が、私を静かに包んでくれた。


一つは太陽のように温かく、一つは雪のように冷たかった。



---


私は泣いたかどうか、わからない。


けれどその夜——三人の身体、三つの過去、三つの傷跡が、


名もなき温もりの中で、そっと寄り添った。



---


月はなお、紫のまま。


禁欲は続く。


だがその夜、私は欲を求めなかった。


求めたのは——


夜明けに滅人へ「人として生きる」ことを教えるための、ほんの少しの力だった。

私は大きく息を吸い込み、胸を震わせながら翡翠の柱にもたれかかった。まだ電撃の余韻と、風痛を抑える塗り薬の香りが呼吸のたびに鼻腔をくすぐる。

“妻への伏兵”が終わり、皮膚は金剛石の如く堅固だが、心は…やわらかい白粥のように溶けていた。



---


前方には龍香絶美が正座し、冷たい月光を帯びた瞳で私を見据えている。

左には雷夢児が顎に手を乗せ、紅い唇をそっと持ち上げているが、それを“笑み”と呼ぶ者はいない。その弧は…神級の嫉妬という名の拳の形だった。



---


> “天龍。”

“言いなさい。なぜ天界の法を無視して、人間──滅人の体を借りたのか?”





---


龍香の声は穏やかだが、玉松の枝々はその音に折れるほどの威圧があった。



---


私は息を吐いた。

嘘はつけぬ、言い逃れも許されぬ。



---


> “彼は不幸な、そして無力な子どもだからだ。”





---


> “無力だからこそ、お前は運命を変えようと? ”――彼女が眉をひそめる。





---


> “無力だからこそ、チャンスを与えたかった。”――私は笑って見せたが、その笑みはどこか砕けていた。

“彼は…初めから生き残る器ではなかった。才能もなく、支えもなく、恨みだけを抱えている。”





---


> “売られ、殴られ、拷問され…。彼にとって、毎日は死と再生の繰り返しだった。そして…運命すら彼を見捨てた。”





---


> “だから…”――私は胸からひとすじの気光を取り出し――

“…私の命の一片を彼に与えた。印…つまり印記を。”





---


夢児が小さく息をのんだ。


> “その印記は…あなたの“神霊”の一部? 本当に…精気と命を分けたの?”





---


私は頷いた。


> “天霊の一部を。彼に代わって“殺意の道”を断ち、神の道をつなぐために。”





---


空気が止まった。虫も羽ばたかず、音すら失せた。



---


龍香が立ち上がり、私に近づく。月銀を帯びた髪が夜気に揺れる。

彼女は傷ついた声ではなく、ただ、悲しみに満ちた視線を向けた。



---


> “お前はかつて“過去を繰り返さぬ”と言った。

命を他人に賭けず、因果に手を染めず…

それが今、また一人の命を背負い込んだ。”





---


私は視線を落とした。


> “間違っていると…わかっている。”




> “ただ、私は彼にかつての自分を見たのだ。”





---


> “世間に嫌われ、友を斬り、師を断ち、自身を滅ぼして…それでも“強さ”と呼ばれるまで追い込まれたあの子を。”





---


夢児は何も言わず、そっと肩へ寄り添った。指先で私の髪を撫で、疲れきった獣のような心を慰めるように。



---


> “私たち、わかっている。”




> “…でも――”――彼女は耳もとで囁く――

“…人を背負うなら、その代償も払わなきゃ。”





---


私は言葉を詰まらせた。


> “え…代償って?”





---


> “千回でも足りないなら、この部屋から出るな。”――龍香がLin·Thời·Luânを虚空に描き、冷然と宣告した。





---


青い光が私を包み、腕に円形の法印が浮かぶ――

「制限:人界で二刻、終了後は強制帰宮」



---


私は小さく唸った。


> “二刻だけ!? まだ“娘を救う”時間すら…”





---


> “何をだ?”――二人が揃って睨む。





---


私は苦笑した。


> “‘救う’と言っても…迷い少女を救済するという“比喩”だよ!”





---


> “お前が“比喩”を口にするたび、私たちは本当に禁欲を施さねばならない!”――夢児はまた一点を突くように。





---


私は汗が雨のように流れた。


だが、その戯れの中でも、思考は滅人へと戻っていた。



---


> “彼を強くさせる必要がある。運命を超える術を教える。”




> “さもないと…いつか彼は、お前が授けた力に飲み込まれる。”





---


龍香は静かに訊ねた。


> “もし彼が、そういう道を拒むなら?”





---


私は長く沈黙した。



---


> “そのときは…手を放す。”





---


> “そして、もし彼が…死んだら?”





---


> “私は…彼を憶えている。”

“…失敗した一度として。”





---


彼女は言葉を発せず、ただ私の肩に寄り添い、かつての子どもたちが夢を抱いていたように、私の膝に頭をもたせかけた。



---


> “千回…”――私は囁いた――

“本当に、俺は彼が完成する前に死ぬかもしれない。”





---


夢児が優しく微笑んだ。


> “なら死なないで。代償を払い終えてから人を救いなさい。”





---


紫の月が高く昇る宵。

宮殿に三者が寄り添う。

かつては激しく燃え盛った炎が、今はゆるやかなぬくもりを保ち続けているように。



---


深奥の底で私は知っていた――千回でも足りぬだろう、

もし彼に“選ばせる力”を教えなければ。


今宵は、冷えた月の下で理想と哲理で終わるはずだった。

しかし、私は間違っていた。



---


「返済千回」の冗談めかした脅しの後、龍香は寝室へ戻らなかった。

いつものように去らず、目を閉じず。

ただ静かに私を見つめ、頬杖で支える顎の傍ら、指先が私の胸元にまでそっと伸びた。



---


> “…天龍。”――彼女は囁いた。

“久しく…お前が震えている姿を見なかったわ。”





---


私は驚いた。


> “震える…って?”





---


夢児が後ろで微笑んだ。


> “妻に見透かされた夫みたいに、震えているってことよ。”





---


彼女は一歩前へ出た。薄絹の裾が床を撫で、曲線を浮かび上がらせる。

ここはかつて修行と論義の場。

しかし今、二人の美女と揺れる火と、呼吸の余波に満たされたここは…

合法的に愛の尋問を行う“拷問室”と化していた。



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> “聞くわ…真実を。”――龍香が椅子縁に手を置き、顔を近づけた。

“お前は滅人を助けるため“己を見た”と言った。”

“では私は…お前の瞳に映っているのかしら?”





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私は言葉を探した。だが答える前に――

彼女の唇が私の首に触れた。

それはキスではない。

けれど…唇先は私の心臓の熱を測るようだった。



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> “久しぶりね…”――彼女は囁いた――

“…お前が“神”になってからは、私たちに触れるのを避けていたわね。”





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> “俺たちを聖女だと思ってるのか? 生きてる証の“飢え”すら知らないってか?”





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夢児が忍び寄り、背後から冷たい手を滑らせる。

けれどその指には熱情が宿る。

彼女は背を預け、耳元で吐息を落とした。


> “欲望は本能よ。抑えることが高潔ではない。

それは自分を騙すこと。”





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私は拳を握り締め、胸の内は嵐が巻き起こる。



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> “まだ“滅人”と運命、印記のことがあるんだ…”





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> “お前にはまだ…俺たちがいる。”





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龍香が言葉を切り、私を遮った。



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> “神だからって? 愛も欲望も、罪じゃない。むしろ“人性”を示す証なんだ。”





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夢児がそっと衣の層を一枚脱いだ。

頚辺に吐息。


> “神も愛を必要とする。撫でられることを、震えることを。

それは高揚のためじゃない――

ただ“自分が生きている”と、思い出すため。”





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私は堕ちた。

欲望ではなく、胸が震える衝撃に──

私は、本当に忘れていたのだ。


“男として、愛される感覚”を。



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揺れる蝋灯。

絹の床へ押し倒される背。

香り、身体の温もり、嫉妬の火が、すべてを沁み込ませる。



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> “千回は象徴。”――龍香が微笑み、胸元に手を這わせる――

“私が欲しいのは“一度”。神力を使わずに、感じるお前の温度。”





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> “一度でいい…今、ここに“君”がいる実感を。”





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夢児が私の額に触れた。

そこには“天印記”が暖かく脈打っている。


> “一度でいいの。神ではなく…

ただ…夫でいてくれたら。”





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そして私は屈した。

神衣は夜の殻から脱ぎ捨てられ、

黄金の身体は今や二つの白玉の影に包まれていた。

その感触は、天界すら傾けるように、胸の中で震えた。



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> “天龍。”――龍香が私の腹の上で身を乗せ、霧がかった瞳で――

“世界を救う必要はない…”

“…今、この瞬間、私たちを選んで。”





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夢児が私の首に顔を埋め、声を詰まらせて告げる。


> “もしお前が万人を救えても、私を凍えさせるなら…”

“…そのときは、私はお前の腕の中で死んだほうが、まだいいから。”





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私は彼女らを抱きしめた。

もはや神ではない、尊ではない。

ただの、一人の男――

愛する妻を泣かせたくない男だった。



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そしてその夜、何度“代償”を払ったかは覚えていない。

ただ覚えているのは――

二人の胸が私に触れるたび、

私は一度ずつ、人として“生き返る”のを感じたということだけ。



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