Episode 110
まばゆい光が、かすかに閉じたまぶたをかすめて過ぎた。
──目が覚めた。
焦げた灰の匂いが空気の中にほのかに広がっている。白い煙が人差し指の先から立ちのぼり、まるで彷徨える魂のように揺らめいていた。掌にはまだ温もりの残る血が、濃く、暗く、肌にまだらにこびりついている。
──ト・ジャクホウ(蘇若風)の血だ。
骨の砕ける音、肉の焦げる匂い、断ち切られた叫び。私の一撃が彼を地に伏せさせたその瞬間が、いまだ耳の奥でこだまする。彼は怨みを残す間もなく、敗北の意味すら知らぬまま、絶命した。
そのとき、心の奥底から笑い声が響いた。
それは、私のものではなかった。
それは──天龍の声だった。
> 「満足か? まだ手が震えているのか、坊や?」
その声は、火のように魂を舐める。ゆっくりと、そして嘲るように。
> 「残りはお前の出番だ。行けよ、小僧。」
そして彼の姿は、まるで存在しなかったかのように、虚無に溶けて消えた。
残されたのは──虚しさ。
そして、罪。
---
「楊・滅・人!!!」
澄み渡る空に、雷鳴のごとき怒号が轟いた。
私は顔を上げる。
そこに立っていたのは、第二支部で第三の権限を持つ教官。彼の顔は怒りに歪み、目は今にも私を焼き尽くさんとするほど血走っていた。全身が震えていた。恐怖のためではない──怒りのあまり。
「おまえ…おまえは、第二支部の訓練場で、同門の弟子を──白昼堂々と殺したのか?! これは……万死に値する罪だ!!!」
その咆哮は、獣の唸りのように、喉の底から絞り出された。
訓練場は、水を打ったように静まり返った。
鳥のさえずりも、風のざわめきも、すべて止んだ。
乱れた心拍の音さえ、はっきりと聞こえるほどだった。
後ろにいた数人の姉弟子たちは、口元を手で覆い、冷たい目をこちらへ突き刺す。
──まるで、私は人の皮を被った悪鬼のように。
──まるで、この清浄な修行の世界に迷い込んだ死神のように。
---
私はかすれた声で、ようやく言葉を絞り出す。
「……違う、俺じゃ……あいつが先に挑んできた。俺は、ただ──」
だが、言葉が終わる前に、体が地面に叩きつけられた。
鋭い気が肩を押さえつけ、膝が冷たい石に激突し、鈍い音が響いた。
銅鎧を着た四人の弟子が現れ、手には霊銀製の鎖──魔道の罪人だけに使われる特別な拘束具を携えていた。
冷ややかな声が告げる。
> 「楊滅人、貴様を同門殺害の罪で逮捕する。証拠は現場に揃っている。」
> 「尋問室へ連行せよ。」
冷たく焼けるような鎖が、手首を締め付けた。抵抗していないのに、それはまるで鉄氷のように肌を切り裂き、訴える言葉すら拒むようだった。
私は頭を垂れた。
誰も見ずに、ただ呟いた。
> 「俺、来てまだ…ほんの数日なのに──」
---
その時──
一つの影が銅鎧たちの間を割って飛び出した。
「待ってくれ!!!」
王小顕──初日から共に修行してきた仲間。汗に濡れた顔、必死の声。それは、断崖から落ちそうな者に差し伸べられた最後の手のようだった。
「彼は……彼は悪くない! 若風のほうが先に挑んだんだ! この目で見た! 滅人は、防御してただけで──それに、彼はもう怪我を負ってたんだ!」
彼の目が、刃のような決死の光で教官に突き刺さる。
だが返ってきたのは──咆哮だった。
> 「黙れ!!!」
大地を震わせるような威圧。
「たとえ無罪であろうと、処分を下すのは宗主の役目! 貴様らごときに弁護の資格などない! 仮に奴が魔物の化身であるなら……その場で処刑すべきだ!!!」
この地では、理は情によって歪められない。
私は知っている。
そして王小顕も──理解した。
---
私は、罪人として引きずられていく。
石畳に擦れる足音。万の針が突き刺すような視線。姉弟子たちは目を伏せ、兄弟子たちは歯噛みする。
誰も、私の側には立たなかった。
一つの言葉も、私を庇う声はない。
あるのは、闇。孤独の帳がすべてを覆っていた。
誰も見ない。
私も、見ない。
ただ、歩くだけ。
頭を低く垂れ。
両腕は重く。
心は、嵐に沈む。
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そのとき、内なる世界に天龍の声が、またもや悠々と響いた。まるで舞台袖から劇を眺める傍観者のように。
> 「まったく、凡人どもは面倒だな。一人焼いただけでこの大騒ぎか。」
小さな笑いが漏れる。だがその笑いには、限りない侮蔑が込められていた。
> 「安心しろ、坊や……今夜、面白い贈り物をやろう。」
---
私は尋ねなかった。
贈り物とは何か。
なぜなら──知っているからだ。
天龍の「贈り物」は、常に暴力であり、血であり、天地を揺るがす挑戦だ。
けれど、私はただ──
少しの平穏が欲しかった。
ただ、誰かに聞いてほしかった。
一人でいい。
信じてくれる人が……たった一人だけでいい。
---
陽が傾きはじめていた。
風が長い石の回廊を抜け、朽ちた木と朝露の香りを運んでくる。景色は遠ざかり、霞み、冷たい夕陽の中に溶けていくようだった。
私は、冷たく陰鬱な石室へと押し込まれた。
四方を囲む石壁には静心の陣が刻まれている。閉ざされたその空間は、棺のように寒く、重く。
背後で扉が閉ざされた。
残されたのは──私。
そして、鎖。
そして──流されたばかりの血に濡れた記憶。
---
足音が、外の廊下を走り去る。
乱れた拍子で、焦るように──やがて、静寂が戻った。
---
私は、目を閉じた。
眠るためではない。
──備えるためだ。
天龍の「贈り物」に。
明日、暴かれる「真実」に。
あるいは──抗う術もない、死刑宣告の時に。
私の手首は「霊鎖・シーリン・トア」にきつく縛られていた──
それは、魔物の疑い、裏切り者、あるいは宗門に対する罪人にしか使われぬ特別な鎖。
一つひとつの輪が肉に食い込み、冷たく、刺すように痛む。それはまさに世間の噂の如し──どんな剣よりも鋭いのは人の言葉であり、どんな牢獄よりも深く人を縛るのは偏見だと。
私は、二列に並んだ弟子たちの間を押し出されながら進んだ。
一歩ごとに、息が詰まり。
一瞥ごとに、胸に見えぬ刃が突き立てられる。
やがて私は、一つの場所へと導かれた。名を聞いただけで、凡人が冷や汗を流す──「聴剣堂」。宗門のすべての宗主たちが集い、重大な裁きを下す聖域。
そこに満ちる空気は、私の知るどの場所とも違った。
墨のように重く、息苦しく、そして沈黙に満ちている。
天を突くような石壁、煤けた黒柱、天井の中央には円形の光井があり、そこから注がれる陽光は細く鋭く、まるで罪を見透かす剣の如き光となって私の顔に突き刺さった。
光は、正確に私の頬を射抜いた。
片方の頬は、今朝の修練で腫れ上がり、もう一方には蘇若風の乾いた血がまだこびりついていた──その名は今なお、私の頭上に吊るされた刃となって揺れている。
だが私は──跪かない。
抗いもせず、ただ立っていた。
鎖に縛られた手のまま、頭を高く掲げ、視線を逸らさなかった。
なぜなら私は知っていたのだ。
もしここで頭を垂れれば、彼らは悔いることなく、それを「踏みにじるべき姿」として記憶するだろう、と。
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「宗主、到着!!」
堂の入り口で一声が轟き、雷鳴のごとき響きが静寂を切り裂く。
私は振り返った。
そこに現れたのは、中年の男。老松の如き威容を持ち、一歩一歩が大地に響くようだった。長衣の裾が地をなめ、刺繍された龍の紋が陽光に揺れる。
それは彼──
王有林、浩剣山宗の宗主。
「神剣の化身」とも謳われ、かつて乱世を一人で支えた伝説の人物。
彼は私の前に立ち、数秒だけ私を見た。
それは断罪の目ではなく。
憐憫の目でもなく。
ただ──
すべてを見てきた者、すべてを失った者、すべてを理解した者の眼差しだった。
> 「この子か?」
低く、冷たくはない声。だが風のように森を駆け抜け、心の奥に静かに波を立てる問いだった。
---
高座には既に三人の第二支部の長老が座していた。
張長老──強情で知られる彼が机を叩き、声を張り上げる。
> 「宗主! この小僧こそが、白昼堂々と同門を殺した張本人です! 出自も不明、骨も開かず、十中八九、内通者かと!」
次に、沈黙を愛する顔の暗い秦長老が口を開いた。
> 「その通りです。宗主、弟子を甘やかしすぎております! 多くの努力する弟子たちを差し置き、経歴不詳の者のせいで第二支部の名誉が損なわれました!」
最後に、目が鋭く声に棘を持つ袁長老が、一語一語を突き刺すように言った。
> 「この小僧の目は正しからず。殺気が滲み出ている。道法の基礎すら学ばずに、安易に人を斬るとは。放置すれば、宗門の大災いとなる!」
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私はすべてを聞いていた。
言葉の一つひとつが、心を締めつける棘となる。
一つの死──私が望んだものではない、その死を理由に、私は「禍根」「内通者」「魔物の化身」に仕立て上げられていた。
だが私は──恐れて黙っていたのではない。
ただ、真実を聞く耳を持たぬ者に、言葉を費やす気がなかっただけだ。
私は口を開いた。声は枯れていたが、落ち着いていた。
> 「私が殺したのではない。私は……他人に向けられた彼の一撃を、止めようとしただけだ。それ以上は──」
だが、言葉が終わる前に、袁長老が机を叩いて遮った。
> 「制御できなかったのか? それとも、己に巣食う魔性を抑えきれなかったのか?」
彼の目が細まり、私の魂を剥ぎ取るように見据える。
> 「それとも……お前の身体を操る“何か”がいるのか?」
---
その瞬間──
重く、だが穏やかな声が響いた。
> 「もうよい。」
王有林だった。
声を荒らげず、怒りもせず──だがその一言で、三人の長老は押し黙った。まるで空気そのものが彼の威圧に押さえつけられたように。
彼はゆっくりと私に歩み寄る。
その目は、私の背にある雲の形までも見透かすかのようだった。
> 「この子の気は、確かに異質だ。目も、凡人とは違う。」
> 「だが、問うこともなく斬ることを望むのなら……貴殿らこそ、自らの内に巣食う魔性に支配されてはおらぬか?」
その言葉は、刀ではない。だが、人の心を切る鋭さを持っていた。
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堂内はしばし静まり返った。
王有林は手を後ろに組み、光井を見上げた。光は今も私の足元に差し込み、私という「存在」だけを照らし出していた。
> 「この子は、我が監督のもとに置く。」
> 「性根は頑固だが、目は澄んでいる。もし後日何かあれば──この王有林が、責を一身に負う。」
一言、一言が静かに、しかし戦鼓の如く力強く鳴り響いた。
---
張長老が眉をひそめた。
> 「王宗主……いつからそのような得体の知れぬ者に保証を与えるようになられたのです?」
数瞬の沈黙。
そして、王有林は静かに言った。
> 「かつて……私はこの目を見たことがある。」
> 「誰にも信じられず、全てを一人で背負い、そして──世界を変えた者の目だ。」
---
彼は私の前まで歩き、私の目をじっと見つめた。
裁きでもなく、威嚇でもない。
ただ、静かで長い、問いかけの眼差し。
> 「お前は、その者になりたいか、楊滅人?」
胸の奥が、名づけようのない何かで満ちた。
私は跪かず、頭も垂れなかった。
ただ、手を強く握りしめ──一言を、絞り出した。
> 「……なりたい。」
---
心の深処、天龍の声が風のように流れた。
> 「この老人……目はまだ曇っていないな。一度だけ、見逃してやろう。」
---
私は知っていた。
その瞬間から、私は「誰にも信じられぬ者」ではなくなった。
たとえ、たった一人でも──信じてくれる者がいれば、それで十分だ。
私はかつて、沈黙が罪になるとは思っていなかった。
だが、今は違う。
彼らの一言一言──それは肉を裂く針であり、心に塩を擦り込む刃。
真実を探るための言葉ではない。
それは羞恥を穿ち、弁明する前に溺れさせるための鎖だった。
聴剣堂の天井から吹き下ろす風は、冷たく指の先を凍らせた。
だが、この場にいる者たちの視線こそ──最も凍てついたものだった。
---
「楊滅人」
張長老が名を呼ぶ。
その目は、私の魂を貫こうとするかのように細められていた。
「お前は人を殺していないと言ったな。では説明せよ──なぜ修練の場において、お前の一撃には明確な“殺気”が込められていたのだ?」
私はまだ口を開いていない。
だが彼は、もう嘲笑い始めていた。まるで、その答えを既に知っているとでも言うように。
> 「それとも、それが“お前の戦い方”なのか? 殺しの一手が、もはや本能になっている? 手慣れた殺人者──それが、正体か?」
---
私は唇を噛んだ。
話せないのではない。
話しても──彼らは、聞く気がない。
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袁長老が、石の椅子の肘掛けを静かに叩く。
声は淡々としていたが、語るごとに氷のような冷たさを帯びていく。
> 「お前は言った。“蘇若風が他人を攻撃しようとしたから、自分は止めたのだ”と。」
> 「では聞こう──その“他人”とは誰だ?」
> 「その人物は、どこにいる? なぜ誰一人、証言に立たない?」
> 「それとも、お前は嘘を吐いているのか? 人を殺した正当性を捏造するために、存在しない“他人”を創った?」
彼の目が光った。
まるで、獲物の喉元に牙を当てた野獣のように。
> 「真に恐ろしいのは、殺す者ではない。」
> 「“正しいことをしている”と信じ込みながら、人を殺す者だ。」
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私の心の奥で、何かがひび割れた。
濡れ衣による痛みではない。
理解してもらえないという、純粋な“無力感”だった。
彼らは“真実”を求めているのではない。
ただ、自分の考えを変える手間を省きたいだけだ。
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沈黙を好む秦長老が、ついに立ち上がる。
彼は私を一瞥し、薄く笑った。
> 「お前の目が──私は気に入らない。」
> 「それは剣を修める者の目ではない。」
> 「それは、道を求める者の目でもない。」
> 「それは──牙を隠しながら従順を装う猛獣の目だ。」
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彼は数段降り、私の目の前まで来た。
顔を近づけ、誰もが聞こえるように、だが声を低く囁いた。
> 「お前はこれまで──誰かを殺したことがあるか?」
喉元に刃が突きつけられたような問いだった。
私は口を開こうとした。だが、声が出なかった。
> 「黙りか?」──彼は嘲るように笑った。
> 「では、別の質問をしよう。“初めて人を殺した時──どんな気持ちだった?”」
---
私は動けなかった。
恐怖ではない。
それは──痛みだった。
誰も、今までこんな問いを向けてきたことはなかった。
そして、誰一人として、その答えを“敬意を持って”聞こうとはしなかった。
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「解放されたか? 鎖から逃れたように、心が軽くなったか?」
「それとも──後悔したか?」
秦長老の視線は、情も熱も持たぬまま、私を見据えていた。
> 「いや、まさか──お前は何も感じていないのではないか?」
---
私は叫びたかった。
「守りたかっただけだ!」
「命を、命で塞いだだけだ!」──と。
だが、知っていた。
この場に、「聞く耳を持つ者」はいない。
---
その時、張長老が椅子に深く腰掛け、嘲笑いながら呟いた。
> 「……あるいは、奴は“人間”ではないのかもしれんな。」
> 「私はかつて、魔物が人間の姿を借りて生活しているのを見たことがある。」
> 「彼らは恐れを知らぬ。悔いも持たぬ。──ちょうど、こやつのようにな!」
彼は私の顔を指差した。
> 「罵倒されても、侮辱されても、罪を宣告されても──その表情一つ動かぬ。」
> 「痛みもせず、震えもせず、涙一つ流さぬ。」
> 「人間に、そんなことができるものか。──“心”がなければ、話は別だがな。」
---
私はついに、うつむいた。
それは、罪を認めたからではない。
ただ──誰にも、目の奥に溜まった涙を見せたくなかっただけだ。
私は泣かなかった。
だが──胸の奥で流れたその涙は、もはや“血”だった。
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「もしくは……彼は“仮面”だ。」
袁長老が続ける。
「この体の内に、別の“誰か”がいる。」
彼の目は、私の魂を透視するかのように深く潜り込んできた。
> 「楊滅人──お前の頭の中に、別の声があるのではないか?」
> 「眠るときに、耳元で囁く者が?」
> 「お前が手を下すとき──誰かが、笑ってはいないか?」
---
その問いは──
私の胸を鋭く貫いた。
なぜなら──
それは、事実だったから。
天龍は、確かに存在している。
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だが私は、知っていた。
「はい」と答えた瞬間、人として見なされなくなる。
「いいえ」と言えば──自分の内にある現実を否定することになる。
だから私は、沈黙を選んだ。
そしてその沈黙こそが──最大の“罪”とされたのだ。
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心の底から、天龍の声が穏やかに響く。
> 「わかっただろう? これが“凡人ども”の世界さ。」
> 「彼らは“真実”を求めているわけではない。」
> 「ただ、自らの責任から逃げるための“理由”を探しているのだ。」
> 「お前が語れば──その言葉でお前の首を締める。」
> 「お前が黙れば──その沈黙を罪に仕立て上げる。」
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私は拳を握りしめた。
霊鎖の鎖が皮膚に食い込み、血がにじんだ。
だが、私は叫ばなかった。叫ぶことすら意味を持たないと知っていた。
私はただ──深く息を吸い込み、
嵐のような罵声と、無数の断罪の刃に囲まれながら、静かに、そこに立ち続けた。
なぜなら──
生き延びるとは、時に反抗することではなく、
「黙して耐えること」だからだ。
立ち上がる、その日が来るまで。
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光井から差し込む光は、少しずつ傾き始めていた。
床に映る私の影は、歪み、ねじれ、折れていく。
それは──この世界が私をどう見ているかを、映しているかのようだった。
だが、私は誓った。
自分が「濡れ衣の影」として終わることは──決してないと。
誰一人として、「聴剣堂」に集う者たちは予想だにしなかった。
──すべてが決まりきったはずの、その一瞬に。
……私は、微笑んだ。
それは喜びでも、怒りでも、悔しさでもない。
ただ一筋、静寂の中に走った微かな亀裂。崩れ落ちる沈黙の前触れだった。
意識の奥底で、かすかな震えが波紋を描く。あたかも静かな湖面に傾いた月が、そっと触れたかのように。
黒く、神秘的な気が血脈にじわじわと染み込み始めた──ひそやかに、だが確実に。その時を待ち続けていたかのように。
---
> 「なあ、小僧……もう一度、この身体を貸してくれ」
「血の気の引いたあの老いぼれどもに、"真実"の味を教えてやろう」
その声は──私以外には、誰にも聞こえない。
それが「天龍」だ。
彼は叫ぶ必要もない。ただ、ひと息吐くだけでいい。そしてその吐息が──世界の色彩すら変えてしまう。
---
カチャリ。
金属のひび割れる音が、鋭く響いた。
誰もがまだ反応する暇もないうちに、私は──いや、「天龍」が私の身体で──立ち上がっていた。
長らく手足を縛っていた「霊銀」で作られた法具の鎖が、夜空の花火のように爆ぜて消えた。
塵が舞い上がり、霊山の石段が微かに揺れ、空気が重く淀む。
何人かの弟子は慌てて後ずさりし、剣を抜く者もいた──だが、その手は震えていた。
混乱の中、私は歩みを進める。神のごとく揺るぎない足取りで。背筋を伸ばし、眼差しは千年の恨みを研ぎ澄ませた刃の如く、鋭く煌めく。
---
> 「騒ぎすぎではないか?」──天龍の声が、私の喉を使って厳かに鳴る。
「貴様ら老いぼれども……この我を裁くつもりか?」
その声音は人のものではない。
傲慢でもなければ、挑発でもない。ただ、冷ややかな静けさをたたえている──まるで高嶺の山が、地に這う雑草にこう言っているようだ。「貴様に、我を“石”と呼ぶ資格はない」と。
---
三人の長老は、まだ席を立つ間もなく、私は堂の中央まで進み出た。
誰も止めようとせず、誰も剣を振るわぬ。
私は一歩止まり、頭を下げ──石床に、唾を吐きかけた。
ピシャッ。
その音は、聴剣堂の柱から瓦まで震わせた。ここは本来、至高なる修道の地、道理の心臓部とされる場所。
だが、一滴の唾──それは万の罵声よりも重い、"侮辱の一撃"だった。
---
> 「白髪が徳を証すわけではない」
> 「理由もなく人を斬るなら、それは仙人か?──それとも白衣を纏った獣か?」
一言一句が、偽りの仮面を剥がすように、宗門の“道理”の奥に隠された腐臭を暴いてゆく。
長老の一人が立ち上がり、指差して震えながら叫ぶ──
> 「貴様──この場所を侮辱するとは──」
> 「だから何だ?」──天龍は口角を上げる。
> 「殺したければ、今すぐやれ」
> 「殺してみろ。貴様らがまだ“人”か、それとも“ねじ曲がった正義”に飼い慣らされた犬か、見せてみろ」
---
聴剣堂の空気が、嵐の前の静寂のように張り詰めていた。
私はゆっくりと、天に中指を突き立てる。
焦らず、怯えず。
ぐるりと身体を回す──そこにいるすべての者に見せつけるように。掌ではない、刀でもない。ただ一本の指──それは一人ではなく、すでに朽ち果てた「道理の体系」すべてへの唾棄だった。
王有林の眉が僅かに動いた。
彼は静かに一歩踏み出し、私と三人の長老との間に立ちはだかった。
その声音は低く、まるで風が竹林を抜けるような響きだった。
> 「滅人……お前は──」
> 「どけよ、じじい」──私はその言葉を遮った。
> 「風の通り道に、立つな」
その一瞬、私に注がれるすべての視線が──少年に対するものではなくなった。
それは、畏れ。
それは、威圧。
それは、凡人が“王”に対峙したときの反応だった。
道理を超えた存在に──正邪の外に立つ者に向ける、絶対的な畏怖。
---
数人の執事が剣を抜いたが、その手は震えていた。
それは、力への恐怖ではない。
それは、否定できぬ“真理”への恐怖だった。
反論できぬ理が剣よりも鋭く、胸を貫いたから。
---
王有林はなおも退かず、ただ静かに息を吐いた。
その声音は、風が古木をなでるような、静かで、遠い響き。
> 「……これがお前の“抵抗”だというのか、滅人?」
天龍が、微かに笑った。
その笑みは大きくない。だが、蜘蛛の糸のように、空間に静かに広がっていく。
> 「違うな」
> 「これは、“歪められた正義”に唾を吐きかける行為だ」
---
まさにその瞬間──
風を裂く一閃が、殿外から射し込んできた!
透明で鋭く、清らかなる霊光が、重苦しい裁きの空気を切り裂いて現れる。
それと同時に、ひとつの声が轟いた──
> 「待て! 滅人は、殺人者じゃない!」
人々の視線が一斉に振り返る。
殿に駆け込んだ者──それは、他でもない。
王小顕だった。
---
彼の衣には塵が付き、息は荒れ、膝から崩れ落ちるようにして中央に倒れ込んだ。
その眼差しは、殿の上座──三長老のいる場所をまっすぐ射抜く。
> 「俺は最初から最後まで、全部見てた! 挑発したのは、楚若風だ!」
「滅人は手を出してない! むしろ、他の弟子を守ろうとして──彼の攻撃を止めようとしただけだ!」
堂内がざわめく。
数人の執事は目を伏せ、何人かは互いに顔を見合わせた。
張長老が唸り声をあげる。
> 「証拠はどこだ!? 貴様ごときが──」
> 「俺が証拠だ! 生きた証人だ!」──小顕が怒声を上げた。
---
その瞬間、聴剣堂全体が凍りついたかのように沈黙に包まれる。
だが──
私の唇から、低く乾いた笑みが漏れた。
それは天龍のものでも、滅人のものでもない。
あらゆる糾弾と偏見を越え、生き延びた二つの意志が、静かに交わるその瞬間に生まれた笑みだった。
---
> 「貴様ら──誰を裁いていたんだ?」
> 「濡れ衣を着せられた子供か? それとも──己の胸の奥で腐りきったものか?」
---
私は顔を上げ、天窓から差し込む光を見上げる。
> 「裁かれるべきなのは……俺じゃない」
> 「その“裁く椅子”の方だ──
長らく、自分の顔すら映すことのなかった椅子をな」
王小顕の言葉が途切れたと同時に、聴剣堂は異様な静寂に包まれた。
誰も声を出さない。
息遣いさえ聞こえない。
ただ交差する視線がそこにある──困惑、不信、そして……恐怖。
恐れているのは、天龍ではない。
恐れているのは──
その言葉が暴き出した“真実”そのものだった。
---
私という器に宿る天龍の笑みが、口元に花開く。
それは蓮の如く──泥中に咲きながらも清らか。だが、隠された棘は決して抜かない。
彼は三長老を見据えたまま、まるで茶室で語り合うように、穏やかな声で言う。
> 「諸君、聞こうか……」
> 「もし、ある者が追い詰められ、弁明もできず、誰からも信じられず……
その者は、何をすべきなのか?」
誰も答えない。
なぜなら、正解を語れば、自らの立場が崩れるからだ。
天龍は静かに歩を進め、鋭い眼差しで一人一人を見渡した。
> 「張長老──貴様は俺を間者と呼んだな」
「では、証拠はあるか?」
張長老は言葉を詰まらせ、唇が微かに震えた。
> 「……な、ない」──天龍は自ら答える。
> 「証拠があれば、最初から突き出していたはずだ。俺が鎖を断ち切るのを待つ必要はなかった」
> 「貴様のやっていることは、“万が一自分が間違っていたとしたら困る”という恐れからの、口封じだ」
> 「間違いを認める勇気がないから、人を殺して証拠ごと消そうとする。──それが貴様の“正義”か?」
---
段長老が顔をしかめ、何か言いかけたが、天龍はそれすら許さぬように、さらに言葉を重ねる。
> 「段長老──貴様は俺の目を“猛獣の目”と呼んだな」
> 「では訊こう。その目とは、命の瀬戸際を見た者の目だ」
> 「何も知らぬ者の目と同じであるべきなのか?」
> 「貴様はこの宗門に何年いる? 二十年? 三十年? その間、一歩でも外の世界へ出たことがあるか?」
その声は殿堂の柱々に反響し、空気に深く刻まれる。
> 「死を知らぬ者に──目の意味を語る資格などない」
---
広間の空気は、ついに息をするのも難しくなるほど張り詰めた。
袁長老が拳を握りしめ、背筋を伸ばし、苦しげに声を搾り出す。
> 「貴様は──分を弁えていない」
天龍は小さく笑った。それは嘲笑ではない。
それは、理解を拒む者に与える、静かな諦観に近い微笑だった。
> 「“分”とは何だ?」
> 「上に立つ者が、“徳”と“才”を持っていてこそ、下の者は敬うべきだ」
「だが、上が無明で、口だけ達者ならば──“分”など存在しない」
> 「それは、“老いた木”が、道理の仮面をかぶり、己の無能を他人の犠牲で塗り潰すだけの存在だ」
---
ひとつひとつの言葉が、三長老の胸に杭のように打ち込まれる。
それは言葉でありながら、刃よりも深く、火よりも熱い。
天龍はさらに数歩前へ進む。
その足音は石の床に規則正しく響き、まるで法の鼓動のようにすべてを揺さぶった。
そして、三人の長老が座る壇上の前で立ち止まる。
その声は低く、だが深く染み込むように響いた。
> 「お三方は──見たことがあるか?」
「無実の者が、“噂”だけで撲殺される光景を」
> 「俺は見た。今も忘れられない」
「心の奥に──まだ血の臭いが残っている」
> 「その人は叫ばなかった。泣かなかった。抵抗もしなかった」
「“自分にやましいことがなければ、いつか誰かが理解してくれる”──そう思っていた」
> 「だが、三日後──その者は門前に吊るされ、
通り過ぎる人々は、こう呟いただけだった」
> 「『きっと、何か悪いことをしたのだろう』──と」
---
誰も何も言えなかった。
誰も、彼の目を直視することができなかった。
---
> 「──既視感はないか?」──天龍は顔をかしげた。
「俺は、ここに来てまだ日が浅い。誰とも深く関わっていない」
> 「それでも、誰かが暴走し、他の弟子を傷つけそうになったとき──俺は止めた。
ただそれだけだった」
> 「それなのに、縛られ、罵られ、“魔”と呼ばれた」
> 「聞かれもせず。問われもせず。──信じる者もなく」
> 「──では、“魔”とは何か?」
その声は、雲の上から降る雨のように、静かに、だが深く落ちてくる。
> 「“魔”とは──理由なく人を殺すもの」
> 「“魔”とは──噂だけで刃を振るう者」
> 「“魔”とは──空虚な眼差しで、“道理”を語る者」
> 「さて──諸君は、“人”か? それとも、“魔”か?」
---
その瞬間、屋根瓦の隙間から、冷たい風が吹き込んだ。
高殿に吊られた青銅の鐘が、かすかに鳴った。
だが──誰一人として、答える者はいなかった。
誰も、口を開くことができなかった。
---
私は、知らず知らずのうちに──笑みを浮かべていた。
それは勝利の笑みではない。
それは、沈黙という“真実”が、
千の弁明よりも力強く語られる瞬間への、静かな微笑みだった。
---
そして、まさにその時──
天龍が心の奥で、冷ややかに微笑んだ。
> 「どうだ、坊主──わかったか?」
「剣よりも、言葉の方が、時に鋭く敵を断つ」
> 「強くなれば、“信じてもらう”必要はない。
真実は、自然と浮かび上がる」
> 「さて──この身体、返してやるよ」
> 「もう、下を向くな」
---
ふっと、温かな気が肌を抜けていくのを感じた。
自分の身体が、自分のものである感覚が戻る。
額には汗が滲み、手は微かに震えていたが──
その目は、まっすぐ前を見据えていた。
瞬きもせず。後ろにも引かず。
---
私は──楊滅人。
そして、今の私は──
許しを乞う者ではない。
なぜなら、私は……
何も──罪を犯してなどいないのだから。
わたしの身体には、なおも天龍の残り香が漂い、鼻先にその息吹がかすかに残っていた。
そう、わたし──いや、わたしたちは──そこに立ち尽くしていた。
聴剣堂の空気が凍りついたようだった。
誰一人として、身じろぎすらしなかった。
まるで、ほんのわずかな動きすら、何十年も化粧を塗り重ねてきた権威の仮面を打ち砕いてしまうのではないかというように。
---
天龍はそれ以上一歩も踏み出さなかった。
ただ、背をまっすぐにし、両手を後ろに組んで、風に舞う衣の裾がまるで生きた絵画のように揺れていた。
叫びもせず、腕も振るわず──
ただ、問いかけるだけだった。
> 「張老人──」と彼は呼んだ。
「お前、その座に何年座っている?」
張老は眉をひそめ、低く答えた。
> 「二十三年だ。」
> 「その二十三年のあいだに、何人の弟子を救った?」
張老は黙したまま。
> 「教えた、ではない。救ったのか?
彼らが落ちかけた崖の縁で、手を差し伸べたことがあったか?」
張老はゆっくりと答えた。
> 「…すべてが救えるわけではない。」
> 「そうだ。」──天龍は頷いた。
「だが問うているのは、“救おうとしたことがあったのか”ということだ。
それともただ見ていただけか?そして言ったのだろう──『道心が足りぬ』と。」
---
誰も口を挟まなかった。
なぜなら、言葉のひとつひとつが胸の奥に羞恥の音を響かせていたからだ。
---
天龍はゆっくりと首を傾け、次に円老に視線を移した。
> 「円老人──」
「もし、今日わたしが鎖を断ち切れなかったら。証言者が現れなかったら。
わたしは罪を負い、処刑されていた。──そうなった場合、お前は今夜、安らかに眠れるか?」
円老は硬い声で答えた。
> 「お前が魔物であったならば──」
> 「違う。」──天龍は遮った。
「もし、わたしが“魔物ではなかった”ら、どうだ?」
一瞬の沈黙。
> 「そ、それは…残念だ…な。」
> 「残念?」──天龍はほほ笑む。
「誤解された才を惜しんでか?
それとも──誤って殺してしまったことを認めたくないだけか?」
---
風が横切り、瓦屋根がみしりと音を立てた。
言葉はもうなかった。
ただ天龍の足音が、まるで天の命を告げる太鼓のように、静かにそして重く響いていた。
---
彼は振り返り、上座に座る者たちすべてを見渡した。
> 「お前たちは──その座に座る資格が、本当にあるのか?」
誰も答えなかった。
> 「それとも…早く来た者が、長く生きた者が、
うまく頭を下げる術を知っていた者が、そこにいただけではないか?」
数人の顔が曇ったが、それでも答える者はいなかった。
> 「才ある者が上に立つ。
徳ある者が敬われる。
才と徳の両方を備えた者こそが、手本となるべきだ。」
「…だが、お前たちは──」
彼は空中に手をすっと滑らせた。
> 「さあ、自らに問いかけてみろ、一人ひとりに。」
「お前たちには、本当にその資格があるのか?」
---
空気が再び凝り固まったようだった。
天龍の瞳は澄んだ鏡のように、一人ひとりの皺、髪の白さ、そして時の重みを映していた──
だが、彼が見ようとしていたのは「年齢」ではない。「心」だった。
---
> 「過ちを認めることもできず、自らを省みることもせず、
その座を降りることすらできぬ者──」
「そいつは“長老”ではない。」
「──その座の囚人だ。」
---
三人の長老のうち最も年長の者が、震える声で言った。
> 「お前…お前は騒乱を起こすつもりか?
宗門を混乱に陥れ、道理を覆そうと──」
> 「違う。」──天龍は静かに答えた。
> 「わたしは──ただ問うただけだ。」
> 「時として、適切な問いは、万の剣よりも重い。」
---
その瞳は深淵のように深くなっていた。
> 「お前たちは、考えたことがあるか?」
「もし、ここに名誉も、利益も求めず、
ただひたすらに“公正”のために座る者がいたなら──
その者はお前たちのように、その高座に座れただろうか?」
誰も答えられなかった。
なぜなら、答えるということは──その座を捨てることだからだ。
---
> 「道に縛られ、身動きできぬ子が、
『かもしれぬ』『たぶん』『危険』──そんな言葉だけで裁かれ、
ただ“異なる”という理由だけで押し潰される。」
「お前たちが何十年も守り続けてきた“道理”とは──何なのか?」
> 「ひび割れた壁に塗られた銀の化粧か?」
> 「それとも──絹衣をまとった、処刑の機械か?」
---
風がすっと吹き抜け、黄葉が一枚、静かに殿の庭に舞い落ちた。
天は黙したまま、息ひとつ漏らさなかった。
---
わたしは感じていた。
天龍の冷たい皮膚の下で、わたしの心臓がふたたび脈を打ち始めたことを。
そこに憎しみは、もうなかった。
ただひとつの、答えを必要としない問いだけがあった。
> 「お前たちは──」
「他者に頭を下げさせる資格が、本当にあるのか?」
---
誰も笑わなかった。誰も怒らなかった。
なぜなら──
今、誰一人として、否定することができなかったからだ。
そして、その刹那。
勝ったのは、わたしではなかった。
沈黙が、真実の前に膝を折ったのだ。
バァンッ──!
大殿の扉が音を立てて開き、その音は天からの宣告のように響いた。
白銀の影が風を裂き、突き入ってくる。
その長い髪は絹のように空に舞い、
目は赤く濡れ、声は殿の高天井に届くほどの叫びをあげた。
> 「待って! 彼に手を出さないで!」
──王小顕。
彼女は早くはなかったが、決して遅くもなかった。
---
視線がざわめく。
長老たちは眉をひそめ、弟子たちは目を見開く。
わたし自身でさえ、驚愕を隠せなかった。
彼女──
常に礼を重んじ、
常に後ろに控えていた彼女が、
今──
宗門の威厳すら踏み越えてまで、
ただ一つの「真実」のために走って来たのだ。
---
彼女の肩は上下に震え、荒い息を吐きながら、
その手に握っていたのは、淡く光る玉──
紫がかった青の月光のような、
冷たくも澄んだ幻想石。
彼女はそれを高々と掲げ、震える声で、しかしはっきりと告げた。
> 「証拠はあります!」
> 「これは、蘇若風と楊滅人との戦いの映像です!
誰が先に殺意を持って攻撃したのか──
これを見れば、すべてが明らかになります!」
---
堂内は一瞬で静まり返った。
その沈黙は、もはや疑いのためのものではなかった。
──
それは、「恐れ」から来る沈黙だった。
退路を探して、後ずさりするような静けさ。
目を伏せる者。
目配せする者。
口を開こうとし、喉で言葉を詰まらせる者。
──
彼らの喉を詰まらせていたのは、「真実」ではなかった。
それは──自らの「名誉」だった。
---
その時、天龍の声がわたしの内から、そっと吹く風のように響いた。
> 「もういい、坊や。身体は返す。」
「さあ、選べ。」
「他人の目で死ぬか──
自分の言葉で生きるか。」
---
沈黙。
そして──黒い気が、風に流れる線香の煙のように、そっと消えていった。
目を開いたとき、
もう神々しい気配も、超常の圧もなかった。
ただの、わたし──
ただの人間が、裁きを前にして、そこに立っていた。
---
シュッ──!!
その瞬間、四つの霊印が長老たちの手から放たれた。
話し合いも、許可もいらない。
あたかも、ずっとこの時を待っていたかのように。
白銀の霊力が鎖のようにねじれながら、
手足に絡み、
わたしの身体を縛りつけ、
最後の一息すら押し潰そうとした。
---
> 「やめなさい!」──
王有林の声が、まるで深山の鐘のように鳴り響いた。
彼は歩み出て、重苦しい眼差しを向けながら、
縛られたわたしの前に腕を広げて立った。
> 「これは──まだ若者だ。」
「粗暴だったかもしれん。言葉を選ばなかったかもしれん。
だが、貴様らは…その自尊心が傷つけられただけで、
未来ある若者を──廃棄するつもりか?」
---
長老の一人が、長い髭を撫でながら、まばたきもせずに答えた。
> 「廃棄しなければ──試練を受けさせればいい。」
「宗門の法は誰にも逃れられぬ。
それが王子であろうと、寵愛された者であろうと。」
> 「彼を──“錬丹炉”へ送れ。」
---
「れ、錬丹炉……?」
三つの音が、胸に雷のように打ち込まれた。
夏の真昼にもかかわらず、寒風が背中を撫でたようだった。
大殿が一斉にざわめいた。
---
王小顕の顔は蒼白に染まり、全身が震えた。
> 「駄目よ!! 錬丹炉は…妖丹を煮るための場所!」
「中に入れば──霊炎で血が乾き、骨が砕け、
…生きては出られない!」
---
他の長老が冷たく、まるで天命を読み上げるかのように言い放った。
> 「彼が生き残れば──罪は赦される。」
「死ねば──それもまた、天意ということだ。」
---
わたしは静かに笑った。
悲しみでも、怒りでもない。
それは──
ようやく黄金の幕の向こうにあった「素顔」を見た者の、静かな笑い。
わたしは振り返り、王小顕を見た。
彼女はそこにいた。
風に衣をなびかせ、赤く腫れた目で、唇を噛みしめていた。
> 「泣くな。」──わたしは言った。
「おまえは──まだ、わたしに答えていない。」
> 「もし、わたしが死んだら──
その答えは…永遠に届かなくなる。」
---
連行されるとき、わたしは抵抗しなかった。
もがきもせず、暴れもせず。
ただ静かに、堂内の視線をくぐり抜けた。
そこには──哀れみ、冷笑、
そして「脅威を排除した」安堵の影があった。
---
背後から聞こえたのは、
王有林の、短くて深い溜息。
それはまるで、心の一部を断ち切る音のようだった。
---
そして、その次に届いたのは──
王小顕の、ちぎれた糸のような悲痛な声。
> 「……滅人──!」
彼女は踏み出そうとした。
──だが、踏み出せなかった。
その前に立ちふさがっていたのは、法であり、罰であり、
そして、臆病者たちの理性に絡みついた「見えぬ鎖」だった。
---
空は、徐々に闇に沈んでいく。
最後の陽射しさえ、わたしを避けるように消えていった。
山の裏手へと続く石畳の道は、冷たく長かった。
ひと足ごとに、命の息吹が足もとから薄れていくようだった。
---
その道の果てにあるもの。
──錬丹炉。
妖を煮るための場所。魂を鍛えるための地獄。
三丈の青銅炉、四本の脚が火霊陣に設置され、
年中絶えぬ霊炎が燃え、
黒煙が──まるで冥府の霧のように立ち昇る。
中にはかつて、何人もの魂が叫び、
歪み、
燃えながら、それでも生き残ろうとした──
「自らの無実」を証明するために。
---
生還した者は、いない。
出てきた者は、誰もいない。
---
──だが、わたしは──
そこへ、歩いていく。
赦しを求めるためではない。
ただ、証明するために。
燃やされた正義も──
まだ、火は絶えていないということを。
──錬丹炉の前。
青銅の巨炉が、重く不気味な息を吐き続ける。
その火口はまるで、生贄を待つ獣のように口を開けていた。
奥深く、誰の名も呼ばぬ地獄の炎。
その温度は霊を溶かし、骨を灰に変えるといわれる──
だが、それでもわたしの足は止まらなかった。
---
長老の一人が、冷たい声で言う。
> 「時は来た。」
「楊滅人、汝は宗門の法に従い、“煉魂試煉”を受けよ。」
> 「三日三晩、炉の中で生き延びること。」
「できれば無罪とする。
できなければ──そのまま、霊と化せ。」
---
わたしはうなずいた。
それだけだった。
叫びもせず、抗議もせず、
この試練を「裁き」ではなく、「証明」として受け入れた。
---
目の前に立つ巨大な炉は、
過去に何千という命を飲み込み、
いずれも還ることはなかった。
炉の表面には、焼け焦げた手形、歪んだ爪痕、
そして無数の魂の嘆きが刻まれていた。
まるで、言葉にならぬ叫びが、
炉の金属を溶かして文字に変えたように。
---
わたしの後ろから、鎖が引かれた。
足を一歩、また一歩と炉へ向けて踏み出すたび、
空気は重くなり、
耳元で何かが囁くようだった。
──「戻れ。」
──「死ぬぞ。」
──「おまえには無理だ。」
だが、それらはすべて他人の声だった。
わたしの声は、こうだった。
> 「真実は、生きてこそ語れる。」
> 「だが、死してなお語れるなら──それもまた、本物だ。」
---
最後の段を踏むとき、わたしは振り返った。
誰も目を合わせようとしなかった。
王有林は眼差しを伏せ、王小顕は拳を握りしめ、震えていた。
他の弟子たちは、口を閉ざし、
まるで炎の熱よりも、「事実」の熱が怖いかのように、後ずさりしていた。
---
わたしは笑った。
静かに。
そして、胸の中でだけ、こう呟いた。
> 「この歩みは、恐れではない。」
> 「これは──ただ、まっすぐであるということ。」
---
──ゴウッ。
霊陣が起動する音が、石畳を振るわせた。
熱風が押し寄せ、衣が翻る。
すべての音が、火の中へ吸い込まれる。
わたしは、そのまま、炉の中へと足を踏み入れた。
---
暗闇ではなかった。
そこには「光」があった。
だが、それは命の光ではない。
すべてを燃やし尽くす「試しの光」だった。
霊火が、肌を焼いた。
髪が焦げ、指先から血が滲んだ。
しかし──
> 「これが正義の価値ならば、
耐える価値はある。」
---
時間の感覚はすぐに消えた。
それが一秒なのか、一年なのか、わからなくなった。
内からは血が沸騰し、
外からは骨が焼け、
魂そのものが引き剥がされるような痛み。
それでも、
わたしは口を開かなかった。
叫ばなかった。
呻きすらしなかった。
なぜなら──
> 「この沈黙こそが、語るべき真実なのだ。」
---
どれだけの時が過ぎただろうか。
わたしの意識は、煙となって宙に浮かび、
かつての記憶の中をさまよっていた。
──師がくれた剣の重さ。
──初めて切った竹の音。
──誰かの涙。
──誰かの死。
すべてが渦巻き、火と混じり、
一つの核となって心の奥底へ沈んでいった。
---
そしてそのとき──
わたしの中に、再びあの声が響いた。
> 「坊や、まだ終わらんぞ。」
> 「炉の中にあるのは火だけではない。」
> 「そこには、“目覚め”もある。」
---
目が──開いた。
だが、そこに見えたのは、現実ではなかった。
それは内界──魂の中の風景。
そこには、無数の剣が天から突き刺さり、
大地は裂け、
血の河が流れていた。
中央に──
一本の剣が刺さっていた。
漆黒。だが、刃には金の紋が刻まれていた。
その剣が、わたしを見ていた。
---
> 「汝──心に問うたか?」
> 「剣とは、何のためにあるのか?」
> 「裁くためか? 守るためか? 敵を斬るためか? それとも……」
---
わたしは歩いた。
その剣のもとへ。
魂の世界は、自分から逃れられない。
だからこそ──わたしは答えなければならなかった。
---
> 「剣は……」
> 「真実を裂くためにある。」
> 「嘘と偽り、欺瞞と怯えを──
すべて、断ち切るために。」
---
その刹那──
黒炎が、金光へと変わった。
わたしの体から、鎖のような業火がほどけ、
代わりに現れたのは──
一つの紋章。
掌に浮かぶ、それは龍と剣を交差させた紋。
天龍が囁いた。
> 「ようやく、持つに値する魂になったな。」
> 「これより──おまえは、わたしではなく、“おまえ”として立て。」
---
その瞬間──
わたしの身体が、再び熱を帯び、
しかし今度の熱は、
燃やされる痛みではなく、
燃やす力そのものだった。




