Episode 106
轟——!
まるで嵐に吹き飛ばされた草のように、俺の身体は宙を舞い、道場の石壁に叩きつけられた。
岩が砕ける轟音、口の中に広がる鉄の味。灰色の塵が視界を覆い、背筋が凍る。
まだ意識が戻りきらぬうちに——
ズシャアア…
背後から蛇のような風切り音。風じゃない。
殺気だ。
ぼんやりと顔を上げると、砂埃の中に一人の女が立っていた。
淡い紫の履き物、風になびく深紫の衣。
目は——氷刃のように鋭く、氷雪のように冷たい。
彼女の右手には、だらりと垂れ下がる一本の鞭。
俺はすぐに気づいた。
——《蛇霊銀魂鞭》。
殺意を感知すれば自ら震えるという、呪われた暗器。
今、その先端には毒気が渦巻き、紫の液が滴り落ち、石畳に「ジュゥッ」と音を立てて溶けていく。
女の声が空気を凍らせた。
> 「……お前。さっき、私の妹に触ったわね?」
背中の痛みを堪え、片手で地面を支える。
意識が戻るにつれ、目が澄んでいく。
驚愕は、反抗へと変わる。
俺は口の端を吊り上げ、血の混じった笑みを浮かべた。
> 「ほう…触ったら、殺すってか? おっかねぇ女だな」
返答はない。ただ、彼女の手がわずかに鞭を握る。
その瞬間、「シュルル…」という音。鞭が蛇のように息を吐く。
道場全体の空気が、張りつめていく。
周りの気配が消える。
俺と彼女の目線だけが交錯する。
あの女——孫青鈴。
一支部最強の女刺客。
一日で十人の修練者を倒したという伝説を持つ。
だが、何よりも恐ろしいのは——
「女が恋した男を守る時の殺気」だ。
王小顕。
本部の寵児。
16歳の彼女を血の雨の夜に救った、ただ一人の男。
彼女にとっては、命の灯。絶対の存在。
誰であろうと、彼に近づく者は——死。
そして俺?
楊滅人。
外部支部から来たばかりの新入り。
さっきたまたま、彼女の妹を黒蛇の群れから救っただけ。
彼女の目には、俺が**“妹に色目を使った男”**にしか見えていない。
> 「くそっ…来てまだ三日目だってのに、最悪な女に目を付けられたな」
脳裏に、天龍の笑い声が響く。
> 「ははは! いいぞ、これだよこれ! 氷の美人が殺意むき出しで睨んでくる…たまらんな!」
冗談じゃねぇ。
けど、不思議なことに——
俺の目には、もう怯えはなかった。
燃えたぎるのは…闘志。
> 「俺が跪くとでも? 悪いがな…たとえ今日倒れても、お前の心に俺の名は刻み込む!」
その瞬間、風が吹いた。
いや、風じゃない。彼女の殺気だ。
> 「《蛇霊銀魂鞭・第三式》——『蛇影連心』」
女の囁きと共に、鞭が閃く。
ズバッ!
三つに分裂する蛇の幻影。
透き通る体、長く伸びた舌、「シシシシシ……」と毒蛇のような音。
地面が裂ける。
瞬きする間もなく、三匹の蛇気が襲いかかってきた。
咄嗟に身体をひねり、手をかざす。
> 「《天霊掌・残影破》!」
ドガアアアア!
激突音。毒の霧が散る。
鼻を刺す匂いに息を止める。
が、間に合わず。
左肩を直撃——感覚が飛ぶ。
だが、彼女は止まらない。
次の瞬間——
ヒュン!
五つの蛇影。
五方向から襲いかかる五芒星の殺陣。
空間が、一気に深紫に染まる。
底なしの井戸に落ちたような感覚。
> 「お前、正気か!? 訓練場で殺気全開の技を放つ気か!?」
彼女はただ一言だけ答える。
> 「愛する者に触れた者…私は許さない。」
> 「ふざけるな! あいつはお前を一度も見たことねぇ!」
バチィィン! ドゴォ! キン!
鞭と拳、風と火、血と汗の交響曲。
全身が熱を帯び、手のひらに汗。
でも——怖くない。むしろ…
高揚していた。
> 「いいぞ…」天龍の声が響く。
「生死の淵でこそ、人は強くなる」
俺は奥歯を噛み締め、守りを解いた。
> 「《玄影脚・乱流環》!」
水面のような足運び。
連環する円の中から蹴りが炸裂し、蛇影の死角を突く。
ドガッ! シュバッ! ビシュウゥ!
鞭が空を裂く。
俺は一撃をかわす。
女の目が僅かに細められる。
> 「……やるわね。ちょっと、本気出したくなった」
俺は血まみれで笑った。
> 「え? まだ本気じゃなかったのか?」
> 「いいえ。まだよ」
女は手を止め、袖の中から小さな紫玉を取り出した。
指先で舌を噛み、血を一滴、玉に垂らす。
> 「《蛇魂式・極邪分身影》」
光が爆ぜた。
空気が凍る。
彼女の背後から——
もう一人の彼女が現れる。
紫の死気に包まれた分身。
同じ鞭を握り、目には感情がない。
俺は…動けなかった。
彼女は、血法——死闘用の禁術を発動したのだ。
俺はかすれ声で呟いた。
> 「……本当に、狂ってやがる…」
彼女の唇が、死神のように開いた。
> 「狂ってるのはあなたじゃない。死ぬのが、あなたよ。」
その言葉と同時に——鞭が落ちた。
まるで空が崩れたかのような殺気。
俺は反射的に頭を傾けた。鞭風がこめかみをかすめ、髪が逆立つ冷気。
考える隙もなく、背中を地面に滑らせる。
氷のような硬さの石道を背に、さらに左へ転がった。
ズシャアア!
地面に鞭が叩きつけられ、指がすっぽり入る深さの亀裂。
> 「毒入りの鞭、確かにな」 「なら、避けなさい」 「避けてるだろ、見りゃ分かるだろ!」
彼女は黙ったまま、右手を三度振る。
その度に紫の気が渦を巻く。
鞭はもう武器じゃない。——死の刃だ。
俺は避けた。飛んだ。身を屈めた。
時に地を這う狼のように低く滑り、体中に血と砂がまとわりつく。
胸が太鼓のように鳴る。
——一歩のミスで、頭が吹き飛ぶ。
> 「動きは速いのね」 「まだ終わってねぇよな?」
シュウウウ…
鞭が鳴く。
彼女は両手で鞭を操り、空中で身体を捻る。
紫の衣が夜風に舞い、
——《蛇影輪廻決》 発動。
ドォン!
地を叩く紫の衝撃波。
石板が弾け、煙が舞う。
俺の背が石柱に打ちつけられ、肺に激痛が走る。
視界は砂に覆われたままだが、彼女の紫の瞳だけは見えた。
蛇の眼——殺すための眼。
> 「ずっと避けていれば勝ちなのかしら?」 「少なくとも、まだ死んでねぇ!」
言葉より先に行動。
彼女の手首が回る。
ビュン!
一筋の鞭が、稲妻のように飛ぶ。
俺は首を傾けたが——
髪が数本、宙を舞う。
冷や汗が顔を濡らす。
……いや、これは汗じゃない。
額から血が流れて、目に染みてる。
次の一撃は、背後から来た。
体を捻って左腕を盾に。
霊体分身が振るった鞭が首に迫る。
俺は身を低くし、頭を地に打ち付けて回避。
> 「……誰にも頭は下げないって言ったな、俺」
「だが死ぬよりマシだ…!」
鞭が次々に空を裂く。
石柱が崩れ、道場が裂ける。
俺は石の陰へ転がる。
右手から血が滴り、左脚には毒の痛み。
足の感覚が凍りつくように鈍っていく。
高所から見下ろす彼女の声が、胸に突き刺さる。
> 「避けるのは得意ね。でも、いつまで持つかしら?」
> 「……お前にとって、“殺しちゃいけない相手”になるまでだ」
彼女は笑わない。感情を動かさない。
次の一撃はX字の鞭。
そして——彼女の目は、俺を見ていない。空気を見ていた。
それが何より怖かった。
彼女は、俺を**「敵」ではなく、ただの「的」**と見ている。
逃げ場は——ない。
俺は飛び込んだ。
X字の中心へ。
バチィィン!
右肩に直撃。
血が噴き出し、視界が揺れる。
でも——止まらない。
肩が裂けても、脚が止まっても、前へ進む。
> 「……本気で俺を殺す気か?」 「まだ生きてる、それが問題」 「なら、殺せよ!!」
ドォン!
俺は石柱を蹴り、体勢を回転させて横薙ぎの一撃をかわす。
鞭と肌が紙一重の距離をすれ違う。まさに死線の舞。
次の鞭が迫る。
俺は身を低くして壁に飛び乗る。
石壁の縁に足をかけ、空中で跳躍。
> 「《霊掌・影裂》!」
ズバァアア!
霊体分身に向けて、気を投げた。
紫煙の中、分身が霧と消える。
> 「一体消したぞ」 「……あと三体いるわ」
彼女の瞳が輝く。
周囲の魔気が渦を巻く。
> 「……初めてね。あなたを“見る”気になった」
> 「へぇ? 今まで“見られた”ことなかったんだ」
> 「勘違いしないで」
> 「してねぇよ」
鞭が、飢えた蛇のように震える。
俺の身体も、出血で小刻みに揺れる。
——寒い。
毒が心臓に近づいている。
だが俺たちは動かない。
見つめ合ったまま。
一歩も引かず、一歩も寄らず。
間にあるのは、風。
血と塵と死の匂いを運ぶ風。
でも——目を閉じたりはしない。
今この瞬間、俺は確かに生きている。
> 「名前は?」 「楊滅人」 「名前からして、殺気ね」 「生き延びるために、生まれた」
> 「……生存力は高いわ」 「でも勝てなかった」
彼女の表情が、わずかに揺れる。
鞭が下がる。だが、殺気は消えない。
俺は血を拭いながら、問いかけた。
> 「……退いたら、許すか?」 「許さない」 「跪いたら?」 「尚更無理」 「じゃあ……キスしたら?」 「やってみなさい」
鞭が振り上げられる。
俺は笑った。
そして——かわした。
石畳に落ちた血が一滴。
それが新しい血か、昔の傷か。
もう、俺には分からなかった。
その叫びは、頭蓋を貫く鐘の音。
思考が追いつく前に、彼女の紫衣が空へと跳ね上がった。
――矢のように。鋼のように。容赦ない。
鞭が唸る。
《蛇霊銀魂》。空を裂いたその瞬間、鞭の軌道が紫の気を吐き出し始めた。
シュルルル…ッ
毒気が巻き、無数の“蛇影”が実体化する。
牙を剥き、舌を振るわせ、憎悪に燃える瞳で俺を睨んでいた。
まるで檻から解き放たれた魔物ども。
地獄の獣が、俺の命を喰らいに飛びかかってくる。
考えない。考えてる暇などない。
――ただ、動く。
両足で地を蹴り、背後の石壁を踏み、背中を沿わせる。
石が割れる感触。反動を得て、前へ飛ぶ。
空中で目が合う。
紫の瞳。凍てつく火の色。
その炎の中、俺は呟いた。
> 「誰かは知らねぇが……俺に手を出すなら、三代先まで覚悟しろよ。」
彼女は笑わなかった。
ただ、氷のように微笑んだ。
> 「臭うな……女に溺れた敗北者の匂いがする。」
スパァン!!
鞭が閃く。
避けきれない。俺の首を狙っていた。
背を反らし、地面と平行になりながらギリギリでかわす。
風が顔を裂き、鞭の軌道が鼻先を通過。
すぐさま、右手を伸ばし、鞭の先を掴んだ――その瞬間。
> 「パキンッ!」
鞭の中から、毒針が弾ける。
手のひらに突き刺さる。
毒が…流れ込んでくる。
指先から、肩へ。神経が氷に包まれたように震える。
> 「うぉぉおおあああああ!!!」
悲鳴が漏れる。止められない。
筋肉が凍り、腕が死に始めた。
> 「銀霊級の毒か……!」
脳内で、天龍の声が響く。
> 『ま、死にはしねぇよ。
だが、もしこれで気絶したら…お前を継承者から外す。』
その言葉に、俺は歯を食いしばる。
左の拳を握りしめ、爪が掌に食い込む。
> 「……まだ、倒れねぇ……!」
胸を叩き、血を吐きながら叫ぶ。
> 「男ってのはなァ……女の前で、死んでも倒れねぇんだよ!!」
右手に微かな金光。
《天龍印》――未完成だが、一時的な毒封じにはなる。
時間は……数分。
それで十分だ!
考える前に飛び出す。
全身が悲鳴を上げる。
だが関係ない。
拳を突き出す。
武技じゃない。必殺でもない。
ただの素手の一撃。
だが――それが効いた。
彼女の腹に当たり、わずかに身体が揺れる。
目に動揺。俺の血だらけの笑顔を見つめる。
> 「……少しは…殴れたな……」
> 「血の味は分かるようね」
彼女は冷笑しながらも、どこか…崩れた。
> 「……もう終わり?」
俺は口元を拭い、フラつきながら立つ。
> 「最強の武器? ……それは俺の口だな!」
> 「……は?」
> 「紫の装束、最高だよ。
今夜、夢に出てくるかもな――脱いだ姿で。」
……一瞬、彼女が止まった。
顔に――紅が、さした。
たったの一瞬。心拍ひとつの間。
そして、怒号。
> 「無礼者!!」
シュバッ!!
鞭が再び走る。
だが俺は下がる。笑いながら。
> 「褒めただけだろ? 殺意より香りが強かったからさ。」
> 「死にたいの?」
> 「まだだよ。……でも、美人を褒めた罪で殺されるなら、悪くない」
> 「黙れ!」
> 「黙ったら、顔が赤くなったままだぜ」
> 「赤くなんて――」
> 「ほら、唇まで紫になってるぞ?」
> 「お前を殺す!」
ドォン!!
鞭が地を裂く。
爆風。俺は跳ねて、壁へ逃れる。
血が止まらない。肘からしたたる血が足元に染みていく。
勝ってるわけじゃない。
でも、俺は折れない。
あの目に、ほんの一瞬でも迷いを見たから。
たとえそれが…幻でも。
身体はボロボロ。
毒のせいか、視界が傾き始めた。
でも――彼女はまだ完璧だ。
塵一つつかぬ衣、冷たい風に揺れる髪。
まるで、死の神。
> 「言ったはずよ。
“あの人”に触れた瞬間から、お前は…終わりなの」
> 「……彼女が…転んで…俺が支えただけじゃ?」
> 「その“支え”が、罪。」
> 「うっかり…ってやつ…だろ……?」
> 「“うっかり”でも、命で償え。」
スパァン!!
鞭が肩を裂いた。
血が舞い、皮膚が剥がれる音。
> 「ぐああああっっ!!」
膝が崩れる。
左手で顔を覆う。血がこぼれる。
その瞬間、回し蹴り。
> 「グッ……!」
腰を打ち、柱に激突。
右の肋骨、砕けた音がした。
もう、感覚がない。
それでも、壁に寄りかかって息をする。
> 「……まだ……死んでねぇ……」
> 「死ぬほうが…楽だったのに」
> 「……クソ女……」
彼女は黙って、鞭を振る。
ドォオン!!
背後の柱が崩れる。
瓦礫に顔を打ち、歯が飛んだ。
血が口内に溜まる。
膝が言うことを聞かない。
> 「跪けば、一度だけ、許す」
> 「跪けって…クソが……」
ぐらつきながら立ち上がる。
彼女の目が、一瞬、揺れた。
> 「ほんとに死ぬつもり?」
> 「……死にたくねぇ。
でも……女の足元で生きたくもねぇ」
> 「お前なんか…私の前に立つ資格はない」
> 「かもな。でも……立ってるぜ、こうして」
バチィィィン!!
紫の光が世界を覆った。
そして、何も見えなくなった。
身体が飛ぶ。
何度転がったか覚えてない。
地面が、背中に食い込む。
骨が軋む。肺が潰れる。
俺は、自分の声を聞く。
> 「……起きろ……滅人……」
応えは、ない。
天龍も、黙ってる。
もしかしたら、彼も……呆れてるのかもしれない。
左目だけ開いた。
右は血で固まってた。
彼女が歩いてくる。
衣が、塵ひとつつかぬまま。
髪が、風に揺れるだけで美しかった。
> 「終わりね。」
> 「……ああ。」
俺は笑った。
歯が、血で赤い。
> 「でもな……お前の顔、ちゃんと覚えたぞ。
次に会ったら……無理やりキスしてやる」
彼女の足が止まった。
初めて。
鞭を握る手が震えた。
> 「……まだ喋れるの?」
> 「ああ……だってまだ……おっぱい見てる間は、生きてるからな…」
> 「この下衆ッ!!」
ズドォォォォォォン!!!
鞭が脳天を叩き砕いた。
避けられなかった。
光。痛み。
……そして――闇。
すべてが黒に沈む。
でも最後に、ただ一つの願いだけが残った。
> 「天龍……頼む……こんなくだらねぇ死に方だけは……させてくれるなよ……」
そして意識が、音もなく沈んだ。
……どれくらい、気を失っていたのか覚えていない。
ただ、意識の奥に漂っていたのは、真っ黒な闇。
冷たく、重く、孤独な、まるで墓石のような空間だった。
誰も呼ばない。
誰も助けない。
──ただ一つだけ、笑い声があった。
> 「起きろ、坊主。今回は……見てる奴が多いぞ。」
天龍の声だった。
焦りも急かしもせず、まるで確信していたような口調。
心臓が一拍。
呼吸が一つ。
……そして、指先がピクリと動いた。
身体の感覚が、徐々に戻ってくる。
掌、背骨、首、ふくらはぎ――
けれど、痛みが……ない。
むしろ、不気味なほど軽い。
俺は目を開けた。
空はまだ灰色。
風も吹かない。
だが、地面は冷たくなかった。
胸の奥から、微かに温かい気が……湧いてくるようだった。
すっと身体を起こす。
唸りも、苦痛も、出血すらない。
まるで、ただの稽古中に小休止していただけのように。
肩を回し、血の乾いた髪を払いながら立ち上がると、
そこには──沈黙があった。
広場中の視線が、俺一人に集中していた。
開いた口。凍った目。
震える弟子もいた。
目を横に流せば、
頬を赤くした王小顕、
隣には蒼ざめた長老、
そして、正面には……あの女、孫青鈴。
鞭を握ったまま、瞳に"初めて"の動揺が見えた。
> 「あいつ……起きた……?」
> 「傷……ないぞ?」 「さっきまで血まみれだったろ!?」 「いや……手も足も綺麗だ。何があったんだ……?」 「気が……変わってる……!」
俺は口元を緩め、ゆっくりと肩の埃を払う。
髪が揺れ、風が吹いた。
もう、怖くない。
もう、弱くない。
俺は……死に損なった"雑魚"じゃない。
深く息を吸い、周囲を睨みつける。
> 「黙れ。」
叫ばず、怒鳴らず――
ただ、一言。
なのに、誰も……口を開かなかった。
俺は、孫青鈴に視線を戻す。
彼女は後退らなかったが、鞭を持つ手が微かに震えていた。
> 「また……やるか?」
> 「今度は……避けない。」
その言葉には、技も力も、気迫すらもなかった。
けれど、それが一番怖いと……
全ての者が感じていた。
> 「お前……何をしたの……?」 「回復、速すぎる……」 「中身が……別人みたいだ……」
> 「まさか……」
> 「まさか、何ですか? 先輩。」
俺が振り返ると、王長老が目を細めていた。
だが、答えは返ってこなかった。
心の中で、天龍が爆笑した。
> 『見たか坊主?
"空気"を支配するってのはこういうことだ。
……ようやく"弟子"らしくなったなァ?』
俺は拳を握る。
掌に、淡い金色の光が浮かんでいた。
誰にも見えない。
……でも、自分には分かる。
天龍は続けた。
> 『礼はいらん。少しだけ体を借りて、起きる動作を演出してやっただけさ。
でも"威圧感"はお前のものだ。
――覚えとけ。
自分の物語を、誰かに勝手に書き換えさせるな。
まだ生きてる限りは、な。』
俺は前を見据える。
視線を逸らさず、名前をはっきりと告げた。
> 「俺の名は──楊 滅人。」
> 「今日から、俺を殴りたい奴は……前に出ろ。
ただし、後悔しない覚悟があるならな。」
広場は凍ったまま。
俺は……彼女だけを見る。
孫青鈴。
美しさと冷気を兼ね備えた女。
その目には、ほんの僅かな戸惑いがあった。
一歩、近づく。
悠然と、まるで散歩するように。
俺の視線は、彼女の髪、首、肩……そして、服のラインへ。
> 「紫、やっぱ似合うな。」
小声で言ったつもりが、周りにしっかり聞かれていた。
彼女は眉をしかめた。
> 「……また、死にたいの?」
> 「いや、ただ一つ疑問がある。」
> 「その……ぴったりした服でさ、
また戦って、万が一"偶然"触れたら……責任はどっち?」
──頬が染まる。
その目には、殺意ではなく動揺が灯った。
> 「てめぇ……腕を折ってやる!」 「右を折るなら、左を使えばいい。」
> 「変態かっ!?」 「男の目ってのは、正直なだけ。」
一歩、また近づく。
香りがした。冷たい草原の風のような匂い。
本気で吸い込みたくなった。
……でも、我慢。
> 「なぁ、知ってるか?」
> 「お前の鞭が身体に食い込んだときの痛み……ほとんど覚えてないんだ。」
> 「でもな──お前の心音だけは、しっかり記憶に残ってる。」
彼女の目が見開かれる。
> 「お前……!」
> 「あの時……結構ドキドキしてたろ?」
無言のまま顔を背ける。
けれど、逃げない。
腕が震えてる。
分かってる。ギリギリのところだ。
> 「またやるか?」
> 「……」
> 「お前の鞭が振りかぶる時……その背中の曲線、綺麗すぎて俺、攻撃を忘れたぞ?」
> 「変態!!!」 「いいえ、ただの男です。」
> 「黙れ!!」 「顔が赤くなるほど、俺は喋る。」
天を仰いで、深いため息をつく。
> 「まったく……あんな美人に殺されかけるとはな。」
> 「もし将来誰かに訊かれたらこう言うさ。
『昔、誰にやられた?』ってな──」
> 「紫の衣に包まれた、手のひらにちょうど収まるウエスト。
首を絞めるに足りる脚線美。
そして、自尊心を燃やし尽くすほど冷たい瞳を持った……一人の女に。」
全員、絶句。
沈黙。完全な静寂。
> 「……私を……本気で怒らせたいの?」
その囁きは、かすれていた。
俺は口元の血を拭きながら笑う。
> 「いや。ただ伝えたかっただけ。」
> 「さっき気絶してなければ……
本当は"偶然"じゃなくて、ガチでウエスト掴みにいってたかもしれないってな。」
──息を飲む音。
彼女は鞭を握り直し、くるりと背を向けて歩き出した。
一言もなく。だが……その歩幅は、乱れていた。
> 「逃げた……?」
小声で呟きながら、俺は笑いを止めなかった。
王長老が一歩前へ出る。
> 「坊主、お前……自分が何を言ったか分かっているのか?」
> 「はい。でも、長老も分かってますよね?
俺をぶっ飛ばすのは簡単でも、黙らせるのは無理です。」
沈黙。
……そして、爆笑。
> 「やれやれ。やっぱり……我が弟子だな。」




