Episode 105
読者の皆さまへ
いつもご愛読いただき、本当にありがとうございます。
Dukku Tien Nguyen です。
この作品は、何もないところから始まりました。
拙い文章ながらも、ここまで続けてこられたのは、ひとえに読者の皆さまのおかげです。
毎日の感想、ブックマーク、評価ポイント…ひとつひとつが、何よりの励みになっております。
そして今、ひとつの夢があります。
それは――
この物語を、いつか書籍化、コミカライズ、あるいはアニメ化という形で、多くの方に届けることです。
もちろん、それが叶うかどうかは分かりません。
ですが、この「小説家になろう」という素晴らしい場所で、多くの方に支えられながら一歩一歩進む中で、
「もっとこの世界を広げたい」
「このキャラたちを動かしたい、声をつけたい」
そんな気持ちが、日に日に強くなっています。
もし皆さまが、この物語に少しでも心を動かされたのなら――
ぜひ、感想や評価、レビューを通じて応援していただけたら幸いです。
あなたの一声が、物語の未来を変えるかもしれません。
どうか、今後ともこの物語をよろしくお願いいたします。
心より感謝を込めて。
Dukku Tien Nguyen
誰も教えてくれなかった。
——修仙の第一歩が、剣術でも、飛行術でも、気功でもなく……
薪割りだったなんて。
山のような薪。 いや、誇張ではない。本物の山だ。
朝陽が杉林を割って差し込んだとき、私は呆然とその前に立っていた。 門より高い薪の壁。 握った斧は、自分の足より太かった。
> 「な、なんだこれ……?仙門?それとも、労働改造農場?」
風が頬をなでる。 竈の煙、濡れた木の匂い、半燃えの炭の香りが混じっていた。
夢見た“修仙の道”は、たった今その匂いで——むせ返りそうだ。
青衣の影が通りすぎた。 耳元までの短髪。唇に笑み。目に哀れみなし。
> 「第二派入門。最初の修行よ。」
> 「薪百本、米をとぐ、水を汲む、ご飯を炊く、鍋を洗う。」
> 「仙人になりたい?その前に、師姉を飢えさせるな。」
厨房の奥に彼女の背が消えた。 残されたのは、斧と、朝の陽と、魂の抜けた薪の山。
---
左手を見下ろす。
皮膚の奥、淡く光る印。 まだ、あの印はそこにある。
私は囁いた。
> 「……天龍、少しでいい。手を貸して。薪割りだけ、ほんの一撃でも。」
意識の奥がわずかに震えた。 誰かが寝返りを打ち、頭をかきながら、大きく……あくびしたように。
> 「薪……か?」
「我は至高の神。薪割りに力を貸せと?」
> 「ほんのちょっとで……十本、いや五本でも……」
> 「魔王の首なら考えるがな……薪?フン、自分でやれ、小僧。」
歯を食いしばる。
> 「でも!腕が死にそうなんだってば!!」
> 「神も鍛錬から始まる。」
> 「薪は根、飯は核——正しい斧さばきに勝る剣術は無し。」
沈黙。
私は拳を握った。
——根、だと? ならば……この根ごと、切り裂いてやる。
---
斧を構えた。
一撃目、「ガンッ!」——ずれた。 二撃目、「バンッ!」——手元を外した。 三撃目、「ピシッ!」——柄が跳ねて、水汲みの柄杓が吹っ飛んだ。
四撃目は……語るまでもない。 隣の庭から——尻尾のないニワトリの絶叫が響いた。
> 「きゃあああ!何その殺生っぷり!!」
奥の廊下から師姉の怒声。
> 「炊く気か、焼く気か、どっち!?!?」
汗が噴き出す。 手は痺れ、背中はずぶ濡れ。
視線の先——藤棚の下で数人の青衣が座っている。 ひとりの女子弟子が口元を押さえてクスクスと囁く。
> 「あれが……新入りの天才?なんか小汚い料理人みたい……」
胸が、爆発しそうだった。
---
> 「お前、魔王と対峙してるみたいな手つきだな。」
天龍の声が、脳裏に淡く響く。
> 「心は水、手は石、斧は剣。」
> 「誓ってやる……」私は呻くように言った。
「いつか仙になったら、焼肉屋を開く。お前を厨房に叩き込む。牛も豚も鳥も、毎日ぶった斬れ。」
> 「我は魂を焼く神。肉など……焼かぬ。」
冷たく吐き捨てた。
---
そのとき——
ふわり、と。 絹が風に触れたような、軽やかな足音。
私は振り返った。
王小顕がそこにいた。 手には白い布巾。
> 「汗、拭いて。」
目を細めて、布を差し出す。
「……見てられなくてさ。」
その声に、嘲りも、哀れみもなかった。
まるで——
熱された石に、冷水が落ちたような。
私は布を受け取った。指先が震えた。
> 「この香り……昨日の……」
彼女は何も言わず、私の横にしゃがんだ。 片手に斧を、もう片手で木を叩く。
> 「姿勢が悪いの。」
「木目に沿って。斧は、こう持つ。」
彼女の指が、私の手を優しく包んだ。 その冷たさが、妙に柔らかくて——
私は飛び上がるほどに赤面した。
> 「だ、大丈夫、自分でやれる……っ」
彼女は、微笑んだだけだった。
---
> 「始まったな……」
天龍が、爺のように溜息をつく。
> 「『八粥の法則』——触れたら、恋に落ちる。」
私は天を睨んだ。 誰にともなく。
---
陽が、葉の隙間からこぼれていた。 私は薪を見つめた。
木目は、山道のように曲がっている。
拳を握る。
——薪くらい。 江湖の首を踏みつけ、仙人を欺き、追魂剣すら斬った私が。
この一木に、屈するものか。
私は斧を振る。
「バシィッ!」
胸を打つような音と共に、木は裂けた。 綺麗に、まっすぐに、ふたつに。
王小顕は頷き、唇をゆるめた。
花びらが、陽に微笑んだように。
> 「うん、それでいい。」
私は、薪を割ったのか。 それとも——心を割ったのか。
わからなかった。 でも、初めて……疲れを感じなかった。
---
私は続けた。 一本、また一本。
汗が落ちる。音もなく。 でも、尊かった。
背は濡れ、手は痛み、肩は重い。 それでも、止まらなかった。
天龍の声が、最後にもう一度だけ響いた。
> 「修仙とは、そういうものだ。」
> 「初めの薪、初めの飯。道は、このひび割れた手から始まる。」
私は笑った。 斧は止まらない。
> 「なら……この門全員分の飯、俺が作ってやる。」 「誰も、飢えさせはしない。」
薪割りに汗を流して、丸一時間。
全身が悲鳴を上げていたけれど——
目は、まるで火が灯ったように輝いていた。
薪の山は、まっすぐに並んでいた。 まるで剣の列、出陣を待つ騎兵のように。
> 「一の門、突破。」
私は頷き、微笑んだ。
「……さあ、次は——最も覇道な戦場へ。」
---
私が向かったのは、第二派の裏厨房。
瓦屋根の小屋。湯気が立ち昇るが、誰も料理はしていない。 皆は外で修行中。
私だけが、牛骨、白米、紫玉ねぎ、生姜——
そして主厨房からこっそり拝借した秘伝の香辛料を抱えて……
> 「——入門の儀、牛粥を煮る。」
目を閉じて、そっと呼ぶ。
> 「天龍……今度は薪の力はいらない。」
「けど……料理の“道”を、少しだけ貸してくれないか?」
> 「……料理術、だと?」
天龍が舌打ちする。
「まあいい。だが忘れるな。」
> 「調味は練気。火加減は導気。米は心、水は道、肉は気血。」
私はふっと笑った。
> 「それで、十分だ。」
---
私は火を起こした。
割りたての薪は、まだ新鮮な樹脂の香り。 パチ、パチと音を立てる——仙人の足音のように。
炎は腹の丹田に宿る霊気そのもの。 弱火、中火、強火。下げ、上げ、保つ。 まるで、初歩の内功を演じるようだった。
米を三度洗う。 一度目は西渓の湧水——澄んで甘い。 二度目は蓮葉と麦門冬を混ぜた冷水。 三度目は昨夜の骨湯——重く、甘い。
> 「修行者たるもの、食すら修行。粥とて、雑にできぬ。」
私は呟く。まるで経文のように。
---
玉ねぎを炙る。香ばしさが、春の風のように庭を駆ける。 生姜を羽のように薄く切る。刺激が、気脈を開くように鼻腔をくすぐる。
そして——牛肉。
切るのではない。 撫でる。
掌で筋をなぞり、脂の膜を感じながら、気の流れを読む。
梅花老酒で肉を起こす。 香りが、眠っていた肉の記憶を目覚めさせる。
> 「肉は陽。粥は陰。道とは、調和。」
私は低く呟く。まるで、剣の口訣。
---
肉が色づいたその時——
私はそれを粥に注ぎ込んだ。
その瞬間——
フワァァ…
香りが、湯気に混じって昇る。 強くない。鋭くない。ただ……やさしくて、長い。
忘れかけていた記憶が、胸に舞い戻るような。
> 「……なんか、いい匂いしない?」
誰かが外から呟いた。
足音。 衣の擦れる音。 そして、ささやき。
> 「……うそ。お腹空いてきた……」 「いや、空いてないのに……跪きたくなるって、どういう……」
私は振り返らなかった。 火は均等に。 粥は陰陽の渦に従って、円を描く。 止めない。乱さない。 でなければ——米は砕け、肉は崩れ、粥は濁る。道が、消える。
---
> 「そこの厨房!誰が料理してるのよっ!?」
怒声が入ってきた。
鋭い視線を纏った師姉が、怒気を放ちながら歩み寄る。
だが、一歩、入った瞬間——
彼女の足が止まる。
> 「……な、なにこの……香り……」
ゴクリ。 彼女はつばを飲む。
目が……揺れていた。 夢の中のように、席に腰を下ろす。
口は、開いたまま。
> 「こ、これは……粥じゃない……霊粥……」
---
私は、笑った。
肉を一枚ずつ器に並べ、 粥を丁寧に注ぎ、上から薬味をふんわりと。
でも——誰にも渡さない。
その一杯を、中庭の中央に置く。
> 「……腹が減った者は、食え。」
そう告げて、手を洗った。
火の熱、鍋の圧、そして……誇りのために震える手。
---
一番小さな弟子が、そっと近づいた。 12歳くらいだろうか。
周囲を見回し、しゃがみこみ、粥の器を抱える。
ふう、と吹いて、一口。
——その瞬間。
彼は、動きを止めた。
そして……涙が、零れた。
> 「……どうしたの?」
誰かが聞いた。
> 「……お母さんが……昔、煮てくれた……粥と同じ味……」
彼は、ぽつりと呟いた。
誰も、笑わなかった。
一杯、また一杯。 十人。二十人。
やがて、厨房の前は——静かな行列になった。
> 「……鍋は一つだけ。」
私が言うと——
> 「半分でいい……」 「汁だけでもいい……」 「底に焦げたとこ、ある?削ってでも食べたい……」
---
鍋を洗っているとき——
静かに、誰かが近づいた。
細く、白い指。見覚えのある手。
> 「——美味しかった。」
王小顕の声。
> 「朝の香りと……夕焼けの火が、混じったような……」
私は振り返る。 彼女の瞳は、器ではなく、私を見ていた。
> 「——誰でも、こんな粥を作れるわけじゃない。」
> 「……食べたの?」
私は思わず聞いた。
> 「——一口だけ。」
彼女は微笑んだ。
「……それで、十分だった。」
風が袖を撫でた。 その微笑みが、鍋の焦げさえ忘れさせるほどに優しかった。
---
脳内の天龍が、またあくびした。
> 「……粥、完成。」 「道に、触れたな。」 「次は……“感情のスープ”を学べ。」
> 「スープって……何の?」
> 「……感情の。」
> 「は?」
> 「簡単だろ。心で煮て、焦がさなければいい。」
---
私は、笑った。
人生で初めてだった。
粥一杯で、こんなに嬉しいなんて。
それは——
名誉でも、報酬でもなく。
ただ、誰かが家を思い出し。
そして、誰かが——私を思い出してくれたから。
自分が——
仙道を歩む修行者なのか。
それとも、修行する料理人なのか。
もう、よく分からない。
---
この二刻(=約4時間)で、私は:
薪を百本近く割った。(そのうち三本、自分の足に落ちた)
井戸から水を三回汲んだ。(二度も滑って、水鳥のようにびしょ濡れ)
冷たい水で米を研いだ。(手が氷のように紫に)
湿った薪で火を起こした。(十回扇いで、眉毛と髭が少し燃えた)
---
今の私は——
半焼けの薪のようだった。
いや、焼けたというより、
ただの白杉の根元に放り投げられたボロ薪みたいに転がっていた。
両手両足を広げ、
夏の田畑で疲れ果てた水牛のように息を吐いた。
> 「はっ……はぁっ……仙人って、こんな苦行だっけ……?」
---
昼の風は、まるで厨房の奥で寝ている猫のように怠け者。
日差しが葉の間からこぼれ、地面に金色の斑点を落とす。
その光が——私の顔にも、そっと。
背中は地面に、胸は汗に貼りついたまま。
目を閉じかけたその時——
> 「まだ生きてるか?」
天龍の声が、古びた茶屋の主みたいに気怠く響く。
> 「もう餅になったと思ったのに。」
> 「……ちょっとだけ……寝させて……」
私はうめいた。
> 「でもお前、今まさに干し肉になりかけてるぞ?」
無視した。
どうせ干し肉でも、まだ肉だ。
---
そのとき。
高くそびえる白杉から、一枚の葉が落ちてきた。
細く、長く、折れた剣先のような葉。
風にくるくる回りながら、
私の鼻筋のど真ん中に着地した。
「チュッ。」
冷たくて、くすぐったい感触。
払いのける気も起きない。
きっとこれは、仙の葉。
道を授けに来たに違いない。
---
でも、葉だけじゃなかった。
誰かが、近づいてくる。
足音は、軽やか。
影が、私の隣に落ちる。
雲のようにやわらかく、朝霧のように白い人影。
見るまでもない。
——王小顕だ。
彼女はそっと腰を下ろした。
白い衣が草に触れ、
風がすそを揺らした。
何も言わず、ただ、薪の山を見ているような目で私を見下ろす。
> 「……このバカ、ほんとに……」
彼女は囁いた。
---
私は、まだ目を開けていなかった。
彼女の指が伸び、鼻に落ちた葉を取ろうとした。
その細い指が、私の鼻筋をふれる瞬間——
> 「うぅ……それ、俺の肉まん……取らないで……」
夢うつつに、私はつぶやいた。
沈黙。
そして——微かな笑い息。
> 「夢の中でも食いしん坊か……ほんと、欲張りなんだから……」
声が、震えていた。
笑いを堪えているように。
---
私は、無意識に寝返りを打った。
頭が……何か柔らかくて、花の香りがするものに落ちた。
> 「ん……ふわふわ……これ、雲……?」
---
沈黙。
誰も、どこにも、行っていない。
責められない。
叩かれない。
怒られない。
ただ、風がそっと吹いていた。
匂いが、淡く鼻をくすぐる。
温もりが、肩に残る。
> 「どうして……こんなにバカなのに、怒れないんだろう……」
彼女の声は、雫のように静かだった。
---
風が吹いた。
数枚の梅の花びらが、私の背中に落ちた。
太陽の角度が傾き、
光がりんごのジュースのように黄金に。
私は、自分がもう凡人ではない気がした。
——ただの迷い子が、
間違えて仙界に紛れ込んで、
そして……誰にも追い出されなかった。
---
> 「やれやれ……」
天龍が笑った。
> 「仙女の膝枕とは。さすが将来の大帝、運だけは超一流だな。」
私は答えない。
夢か現か、分からなかった。
でも、確かに分かる。
頭は、誰かの膝に。
そして、心は……この静けさの中に。
---
彼女は頬杖をつきながら、
私の隣で空を見上げていた。
日差しがまぶたに触れ、
その睫毛が、冬の雪山の稜線のように美しかった。
> 「なんでだろう……この人が目を開ける瞬間が、ちょっと……楽しみかも。」
私は、まだ目を開けなかった。
でも、たぶん——心が先に、開いた。
---
> 「やめて……肉まん、それ……俺のなんだ……」
私はまたうなされた。
今度は、彼女は堪えきれず——
> 「もうっ……可愛くて憎らしいって、ずるい……!」
彼女は笑った。手で口を隠して。
その笑い声は、まぶしくなかった。
それは——
葉が落ちる音。
雨上がりの草の香り。
誰かの心臓が、そっと鳴る音。
---
しばらくして。
彼女は何も言わず、
ただ——私に、もう少しの眠りを許した。
ほんの、少しだけ。
---
でも「少し」は、**半刻(約1時間)**になった。
そして——目を開けた時には。
---
太陽は西に傾き、
風は方向を変えていた。
彼女の姿は、もうなかった。
ただ、傍らに残されていたのは——
一枚の白杉の葉。
そこには、小さく美しい字でこう記されていた:
> 「寝すぎ注意、日焼けするよ。今日の粥、美味しかった。」
——V.T.H
---
葉を拾う。
手には、まだあの白い布の温もりが残っている気がした。
胸の奥に、何か……言葉にならないものが溜まっていた。
> 「天龍……これ、夢じゃないの?」
> 「いや。現実だ。」
天龍の声は、いつになく真面目だった。
> 「お前が……戦う夢を見なかったのは、これが初めてだ。」
---
私は笑った。
けど——
笑いきれなかった。
喉に、何かが引っかかっていた。
---
私は立ち上がる。
背中はまだ痛い。
肩も重い。
手も熱い。
でも、私の足取りは——
風のように、軽かった。
風はまだ、やさしく吹いていた。
どこからか梅の葉が舞い、夕空の溜め息のように、地に落ちる。
白杉の緑に包まれた木陰。
斜めに差し込む日差しが、葉の隙間を抜けて、
まるで銀の斬撃のような光を地面に刻んでいく。
——私は、まだ眠っていた。
そしてその頭は、
彼女の膝に、静かに置かれていた。
そう。
王小顕の膝に。
---
空も、大地も、何も知らなかった。
ただ、息を切らし、力尽きて、
ふわりと香る匂いに包まれたその瞬間——
私は、眠ったのだ。
---
> 「……ほんとに、寝ちゃったの?」
その声は、
小川にそっと風が触れたような囁きだった。
軽く、儚く、でも胸の奥で波紋が広がるような声。
でも、私はまだ目覚めない。
---
……そして——
ドンッ!!
額の中心から、雷のような衝撃が全身に走った。
> 「小僧!!もう寝すぎだ!!」
「仙女の膝の上で窒息したいのか!!!」
天龍の叫びが、天帝の緊急号令のように鳴り響く!
---
私は反射的に目を見開いた。
眩しい光に目が慣れず、
耳には内力の余震が残り、
さらに……あまりにも勢いよく起きたために——
> 「うわっ!?」
腕も、足も、バランスを失い——
そのまま、彼女の体の上に倒れ込んだ。
---
沈黙。
ただただ、深い沈黙。
風の音と、
誰かの心臓の鼓動だけが、空気を震わせていた。
私たちの視線がぶつかる。
彼女の頬が、夕日に染まった山のように真っ赤だった。
それを見て、私は…本気で消えたくなった。
なぜなら、
彼女の鼓動が聞こえる距離だった。
早い。
すごく、早い。
でも……
私の鼓動も、それと同じリズムだったのだ。
---
> 「な、なにやってるのよっ!?」
彼女の声は震えていた。
怒鳴ってはいたが、刃はなかった。
---
> 「ち、違う! 頭の中の声が……いや、夢で師匠に呼ばれて——!」
私の言い訳はもう、崩壊していた。
目は泳ぎ、手は震え、
心はもう地面の中に逃げ込みたがっていた。
---
……この状況、
物語で言えば「運命の接触」かもしれない。
でも、私にとってはただの死にたい瞬間だった。
---
> 「ククク……完璧なタイミング!偶然を装った運命の接触!よくやった小僧!!」
天龍の笑い声が頭の中で響く。
> 「ちがうってばああああ!助けてぇぇ!!」
---
私は動けなかった。
怒られるのが怖くて。
叩かれるのが怖くて。
でも——
彼女の手は、
そっと、私の肩に触れただけだった。
持ち上げるでもなく、叩くでもなく。
ただ、静かに押した。
その瞬間、私は網から飛び跳ねる魚のように立ち上がった。
頭は下げすぎて、靴紐が見えるほど。
---
> 「……まったく……変態。でも……今回は許す。」
彼女の声は、小さく、
息のように微かだった。
---
> 「ほんとに……?」
私は恐る恐る見上げた。
彼女は目をそらしていた。
でも、頬の赤はまだ消えていない。
---
> 「次やったら……責任とって、嫁に貰ってもらうからね!」
……
私は動けなかった。
全身が固まった。
それは恐怖ではなく、
何か甘くて、不可解な香りを持つ言葉だった。
---
> 「聞いたか?」
「やったな小僧!!まさに天が繋げたご縁だぞ!!」
天龍は大はしゃぎだった。
私は返事できない。
唇は乾き、手は冷たく、額は熱かった。
---
そしてまた、静寂が戻る。
私たちは、白杉の木の下に並んで座った。
言葉はなかった。
ただ、
葉を通して差す光と、
衣を撫でる風、
そして……優しい空気だけが、そこにあった。
---
少し離れた木陰には、
他の女弟子たちが顔を覗かせ始めていた。
囁き声が風に乗る。
> 「あの子よ……」 「そう、滅人って子。」 「お粥作って、膝枕もらって……ずるい!」
---
> 「……なんで皆、私を見る目が……泥棒みたいなんだ?」
私は小声で呟いた。
彼女は口元を上げて、
> 「だって、君……確かに盗ったものがあるもの。」
> 「……何も盗ってないってば。」
> 「盗ったよ。心の鼓動、ちょっとだけね。」
彼女の声は、風よりも軽かった。
---
私は、言葉を失った。
---
夕暮れが、木々の影を長く引き伸ばしていく。
葉は、もっと静かに落ち始めた。
風が彼女の髪を撫でる。
一本の髪が、私の唇にかかる。
> 「あっ……」
私は思わず手を伸ばそうとした。
でも、彼女の手が先だった。
彼女は静かに傾き、
自分の髪を、私の口からそっと外した。
その一瞬。
短くて——
でも、どんな剣よりも深く残る時間だった。
---
> 「ねえ……さっき、どんな夢を見てたの?」
私は、空を見上げたまま答えた。
> 「肉まん。」
彼女は笑いを堪えながら、手で口を隠した。
---
> 「ほんとに……バカね。」
> 「うん。でも……君のバカなら、悪くない。」
……つい、口が滑った。
---
彼女は止まった。
そして、照れながら笑った。
> 「今、何て言った?」
> 「いや……日が暮れそうって……言っただけ。」
> 「ふふ……そうね。
でも……心の中は、まだ明るいまま。」
私たちは、白杉の根元でただ座っていた。
言葉はなかった。
風が髪の隙間をすり抜けていく。
梅の花びらが、彼女の手のひらに落ちる。静かに、そっと。
私は、彼女を横目で見た。
彼女は——顔を少し傾け、空を見上げていた。
まるで、さっき私が彼女の上に倒れたことなど、
もう心に残っていないかのように。
だが、私は……忘れられなかった。
---
喉が渇いて、私はつい聞いてしまった。
> 「あのさ……お粥、もう食べた?」
バカな質問だとわかっていた。
でも、言わずにはいられなかった。
黙っていたら、心臓が爆発しそうだったから。
---
王小顕はゆっくりこちらを向いた。
その瞳は、秋の井戸の水のように澄んでいた。
> 「お粥?」
> 「ああ、さっき俺が作った牛肉粥のこと。」
> 「ひとくち、だけ。」
「美味しかったよ。」
彼女は地面に指で円を描きながら、そう言った。
---
私は内心、舞い上がっていた。
まるで掌門から拳法を褒められた弟子のように。
> 「それなら……もっと食べたい?」
> 「もう残ってないでしょ?」
「弟子たち、あれは嵐だった。」
> 「ひと椀だけ、隠してある。」
「厨房の祭壇の下に。」
> 「……祭壇の下?」
「そんなとこに食べ物を?」
> 「神聖な場所には誰も手を出さない。俺以外は。」
「ちょっと……ずるいんだ。」
---
彼女は笑った。
それは眩しい笑顔じゃなかった。
でも、陽射しを少し和らげるような微笑みだった。
> 「なら、持ってきてよ。」
> 「今すぐ?」
> 「うん。今のうちに。
私がお腹空きすぎて、何されても抵抗できなくなる前にね。」
彼女はそう言って、目を逸らした。
顔が、ほんのり赤い。
---
私は跳ねるように立ち上がった。
> 「ま、待ってて!すぐ戻る!」
> 「待って。」
彼女が呼び止めた。
> 「汗だくだし、顔に炭の跡もついてるし、
服は砂まみれで……鶏みたいよ。」
私は動きを止めた。
> 「じゃ、どうすれば……?」
彼女は数秒黙ってから、袖から小さな布を取り出した。
---
> 「拭いて。」
「見てて、ちょっと不快だったから。」
私はその布を受け取った。
その匂いは——花でも薬でもなかった。
彼女自身の匂いだった。
---
私は必死に顔、首、腕を拭いた。
ほとんど、乾いた風呂に入っているような感じだった。
> 「どう? まともになった?」
> 「まぁ、許容範囲。」
「あの粥……心で煮たんでしょ?」
私は頷いた。
> 「うん、心で。今日の全力を込めて。」
彼女も、そっと頷いた。
> 「なら、それを届けて。
煮たときの心と、同じ心で。」
---
私は走った。
なぜか足取りはとても軽かった。
粥を見せたいわけじゃない。
褒められたいわけでもない。
ただ——彼女が待っているから。
---
一刻も経たず、私は戻った。
一椀の粥は、まだ温かく、布で丁寧に包まれていた。
盆の上に載せ、供物のように抱えて。
彼女はまだ、白杉の下にいた。
左の頬に陽が差し、
風に揺れる髪が、思索の深さを映しているようだった。
---
私は、粥を目の前に置いた。
> 「仙女さま、どうぞ。」
> 「私、雲じゃなかったっけ?」
「雲が、俗世の粥なんて食べるの?」
> 「この粥は、俗世のものじゃない。」
「心米、道肉、情水——三つの秘法からなる。」
彼女は片眉を上げた。
> 「"情"って、どの情?」
> 「人情……だよ。」
「恋情じゃなくて。」
---
彼女は何も言わず、笑った。
粥を手に取り、まずは……香りを嗅ぐ。
---
> 「香り、ちゃんと残ってる。」
「粥のじゃない。運んできた人の。」
私は止まった。
> 「え、汗臭いって意味……?」
> 「違う。」
「心の匂いが、変わってないってこと。」
---
私は黙った。
胸が騒ぐ。
---
彼女は、一口ずつ、丁寧に食べ始めた。
飢えではなく、詩を読むように。
---
> 「……柔らかい。」
「甘い。」
「少し濃いけど、私の好み。」
「肉はちょうど、米は完璧。」
「ネギ、ちょっと多いけど香ばしい。」
私は目を見開いた。
> 「もしかして……料理できるの?」
> 「できない。」
「でも、食べ続ければ分析できる。
"食"もまた、一つの道。」
---
私は空の椀を受け取り、心まで空になった気がした。
彼女は俯き、服の端を指でいじりながら、囁いた。
> 「また……作ってくれる?」
> 「今すぐ?」
> 「ううん。
私が……寂しくなったとき。」
---
私は言葉を失った。
風が通り抜け、遠くの殿から鐘の音がした。
それは、時を告げるのではなく——約束の音だった。
---
> 「君が寂しいとき…」
「俺が作るよ。」
> 「慰めはいらない。」
「ただ……傍にいてくれればいい。」
> 「粥は、火のそばで煮る。
人も、人のそばで、温まるんだ。」
彼女は、私を見つめた。
いつもより、少し長く。
---
> 「その台詞……
まるで、求婚みたいに聞こえるけど?」
> 「いや、求婚するなら……違う言い方をする。」
> 「例えば?」
> 「何も言わない。
ただ、毎朝、毎夕、君が欲しい時に……お粥を煮る。」
---
彼女は立ち上がった。
無言だった。
私は、怒らせたかと思った。
だが、彼女が振り返ったとき——
その首筋は真っ赤に染まり、
そして手には、あの小さな布がまだ握られていた。
彼女が、粥の椀を食べ終えた。
私はまだ正面に座ったまま、木の盆を両手に持ち、
心が軽く……でも、どこか不思議な感覚だった。
白杉の枝から差し込む夕陽は、まるで目を逸らす視線のように斜めだった。
なぜか自分でもわからないが、口が自然と動いた。
> 「……黒豆のお汁粉、好き?」
---
彼女は少し首を傾げ、驚いた様子だった。
> 「急にどうしたの?」
> 「ああ……今朝、粥の前にちょっと作ってみたんだ。
かなりしっかり隠したから、まだ誰にも見つかってないはず。」
「厨房の米壺の中に、こっそり。」
彼女は目を細めた。
> 「どうして、そんなところに隠すの?」
> 「人が探さない場所ほど、安全なんだよ。」
「で、好き? もし嫌いじゃなければ…」
---
彼女は少し考えてから、ぽつりと答えた。
> 「嫌いじゃない。
子供の頃、身体に良いとかでよく食べさせられたけど…」
「黒豆の匂いは、確かに…悪くない。」
---
私はそれを聞いて、目を輝かせた。
> 「だよな? 俺のはちょっと違うんだ。
少し塩、少し生姜。上にローストしたココナッツを乗せてある。」
「寺で出るような薄い汁粉とは違うんだ。」
> 「ココナッツ? パリッとしてるの?」
> 「ああ。食べてみる?」
彼女は小さく笑った。
> 「まさか私を実験台にしようとしてる?」
> 「違うよ。」
「君が、自分に合った味に出会えたらって思っただけ。」
---
彼女はしばらく沈黙し、髪を指先で撫でながら遠くを見つめた。
> 「……いいよ。一口だけね。」
---
私は雷のように走った。
いや、走ったんじゃない——飛んだ。
土を踏む感覚もほとんどなかった。
手には大切に隠していた陶器の椀。
息を吹きかけて埃を払い、手作りの竹スプーンも添えて盆に載せた。
---
彼女の前に静かに置いた。
何も言わずに。
彼女はしばらく見てから、私をじっと見つめた。
> 「……手が震えてるよ?」
「盆、左に傾いてた。」
> 「あ、ああ…ちょっと緊張してて。」
> 「唾、飲み込んでごらん。
首の筋がピクピクしてる。」
---
私は口をつぐんだ。
彼女は、ふふっと笑った。
---
それから、彼女はスプーンを手に取り、ゆっくり一口。
黒豆は艶やかに煮えていて、
汁はとろりと生姜の香りが漂い、
ローストココナッツが上にふわりと乗っていた。
---
> 「……うん。」
私は息を飲んだ。
---
> 「……ちょっと甘い。」
私はぴたりと止まった。
> 「甘すぎた……?」
> 「一口ならちょうど。
でも、全部食べると、ちょっとくどいかも。」
---
私は何度も頷いた。
目は、彼女をまともに見れなかった。
> 「次は…砂糖を控えるか、
干し橘皮を少し入れて香りを調整するよ。」
「あるいは豆をもっと煮込んで、自然な甘さを引き出すとか…」
---
彼女は目を細め、口元を上げた。
> 「たった一椀で、そこまで語れるの?
修行僧みたい。」
> 「心の修行さ。」
「心で煮て、君に食べてもらう。」
---
彼女は黙った。
その沈黙は、言葉がないのではなく——
言えば、感情が漏れてしまうから。
---
私は、彼女の隣にそっと座り直した。
> 「他に好きな料理、ある?」
> 「え…?」
> 「粥と汁粉以外に。
なんでもいい、教えてほしい。」
> 「全部作るつもり?」
> 「できるなら作る。
できなくても、学ぶよ。
君が、本当に好きって言うなら。」
---
彼女は私を見た。
長い睫毛が、斜陽の中に影を落とす。
> 「……『バンイット』って知ってる?」
> 「名前は聞いたことあるけど、作ったことはない。」
> 「母が、昔よく作ってくれたの。」
「もちもちしてて、中に甘い餡があって、
葉っぱのほろ苦さがちょっとだけ残る。」
> 「覚えたら作る。」
---
> 「なぜ覚えるの?」
> 「君が、思い出じゃなくて、本物をもう一度味わえるように。」
---
彼女は背を向けた。
そよ風が吹いて、
衣がふわりと揺れる。
彼女の香りが、私の胸をなでた。
---
> 「他人のために、料理することあるの?」
> 「ない。」
「自分で作って、自分で食べてた。」
> 「……じゃあ、私は初めての人?」
> 「うん。」
---
沈黙。
彼女は椀を見つめていた。
> 「…私ね。
この門派に、あまり馴染めないと思ってた。」
「食事は淡白。会話も無味。
朝は修練、夕は瞑想。
ずっと、静かで、厳格で…私らしくなかった。」
> 「疲れてるの?」
> 「疲れてない。」
「ただ…君の粥を食べて、さっきの汁粉を口にして——
初めて思い出したの。
“人生の味”って、こういうものだったなって。」
---
私は何も言わなかった。
言葉を挟めば、この一瞬が壊れそうだったから。
---
> 「もし私が、『辛い江南風の麺』が好きって言ったら…?」
> 「習う。」
> 「『生姜餡の団子』なら?」
> 「作る。」
> 「川魚のバナナ葉包み焼き。臭みは絶対ダメよ?」
> 「釣ってくる。」
---
彼女は吹き出した。
> 「君って……この門派で一番変わってる。」
> 「昨日は最悪のコックだったけど、今日は…最高かな?」
> 「違うよ。」
彼女は首を傾けた。
> 「君は料理人じゃない。
君は……味を覚えさせてくれる人。」
---
その言葉——
私は一生、忘れたくなかった。
私はまだ、彼女に「生姜入りのお団子」について聞こうとしていた、
——その時だった。
金の鈴を真上から落とされたような女の声が響く。
> 「あら〜?」
---
振り返ると、そこにいたのは
髪を高く結った女弟子。
手には薬草の籠。目は大きく見開かれ、こちらを凝視していた。
その顔に浮かぶ表情は、まるでこう言っているようだった。
「私、見たからね?」
「しかも、うちの妹弟子、もう汚れたわね?」的な。
---
> 「見ちゃったよ〜〜〜♡」
彼女はにじり寄り、声はまるで夜の地下水のようにねっとりしていた。
> 「二人で……あんなに近くて……杉の木の下で……
陽が当たってる中で……
ねえ、さっき、君、彼女に乗っかってたよねぇ?」
---
私は尻にバネでも仕込まれたかのように飛び上がった。
> 「ち、違う!違うんだって!そんなつもりじゃなくて!
ええと、頭の中で声がして、いや、それも違うな……
そうだ!太陽の眩しさで滑ったんだ!」
---
彼女は腕を組み、視線はまるで刃物のように斜めに鋭かった。
> 「滑っただけで、顔が彼女の胸に密着して、
手があの“柔らかカーブ地帯”に“偶然”落ちるわけ〜?」
---
私は口をパクパクさせたまま、言葉が出なかった。
手は無意識に「八部蛇行漂漂脱魂掌」でも繰り出してるように舞っていた。
> 「ほんとうに…ほんとうにそんなつもりじゃないってば!」
---
彼女はくるりと背を向けて言った。
> 「じゃ、師父である彼女の父に報告してこよ〜っと。
“毒骨神拳”が使える唯一の人物ね♪」
---
> 「ヤ、ヤメテエエエエエ!!!」
私は絶叫しながら、風のように彼女を追いかけた。
> 「お願いだ!!まだ『隠形脱魂』の技も覚えてないし、
龍眼と蓮の実の甘露を君に食べさせてもないんだ!命だけは……!」
---
私と彼女の足音が、道場中をこだました。
木々の葉が揺れ、風が髪を舞い上げ、
土煙が立つ様は、まるで戦国乱世の戦場のようだった。
---
私が追いつきそうになるたび、
彼女はくすくす笑いながらひらりと身をかわす。
> 「ほらほら〜!追いついてごら〜ん?
『清純妹弟子を押し倒した変態く〜ん』♡」
---
私は絶叫。
> 「ちがう!押し倒したんじゃない!事故だ、事故だってば!」
> 「ほうほう?その手も“事故で”彼女の太ももに触れたと〜?」
---
……もうムリ。
言葉なんて、女の口撃には通用しない。
---
弟子たちが周りに集まり、まるで人形劇でも見るように大盛り上がり。
> 「あれだよ!昨日、彼女の父を怒らせた男!」
「今日は清純妹弟子を押し倒した!?そろそろ嫁に来いって話〜!」
「見た目おとなしいくせに、根性座ってるわね…」
---
私はまるで、噂話に潰される子鹿。
三代先までの恥が、門派中に広まりそうな勢いだった。
---
庭の端、角を曲がったところで、彼女は立ち止まり、
私の額に指先をつついた。
> 「からかっただけだよ。
でも……もしまた妹弟子にちょっかい出して“責任取らない”なら、
本気で報告するからね?」
そう言って、ひらりと去った。
髪が風に舞い、私はその場で卒倒しそうになった。
---
息も絶え絶えで、私は杉の木の下へ戻った。
そこには——彼女だけがいた。
---
王 小顕は、ずっと座っていた。
静かに、同じ姿勢で。
髪が肩に落ち、手は膝の上——
かつて、私が頭を乗せたその場所。
---
私は猫のように、静かに近づいた。
> 「……まだ怒ってる?」
彼女は答えない。
風が吹いた。
一枚の葉が落ちて、彼女の手のひらにふわりと舞い降りた。
---
私は一尺ほど離れて、座った。
> 「答えなくていい。
でも……わざとじゃなかったんだ。」
> 「……わかってる。」と彼女。
> 「あんな姿を見られたのも……嫌だった。」
> 「……知ってる。」
> 「君は……大丈夫?」
---
彼女は手の中の葉を軽く握ってから、
やっとこちらを見た。
その瞳は、まるでさざ波のように静かで、
もう冷たさはなかった。
---
> 「なんで、君に押し倒されたとき……怖くなかったんだろう?」
私は答えられなかった。
> 「そして……」
「さっき、君があの女弟子を追いかけて、
叫んで、笑って、バカみたいに走ってる姿を見て……
少し……嫌だったのはなぜだろう?」
---
私は下を向き、唇を噛んだ。
風がうなじをなでる。
> 「もしかして……俺が初めて、君に“そういう”ことをしたから?」
> 「違う。」
> 「じゃ、甘露が口に合わなかった?」
> 「それも違う。」
---
彼女は私をじっと見つめた。
> 「……だって、
朝から今まで、私を“笑わせた”のは——君だけだったから。」
---
その言葉で、
私は、何も言えなくなった。
鼓動が、跳ねた。
ただの“ドクン”じゃなく、まるで段差を超えたように。
---
> 「好きかどうかは……まだわからない。」
「でもね、君ともう少しだけ……ここで座っていたいの。」
---
私は俯いて笑った。
幸せだからじゃない。
泣かないように——
昨日、神前酒を飲んで泣いた兄弟弟子のようには、なりたくなくて。
---
> 「……で、今夜、何食べたい?」
> 「また料理するの?」
> 「今度は……生姜団子だ。もち米がなきゃ、霊石でも潰して作る。」
> 「……バカじゃないの?」
> 「誰かのためなら、バカにもなるさ。」
---
彼女は口元を手で隠し、
そっと笑った。
夕暮れの風は止まった。
葉も落ちない。
落ちたのは——
ただ、一つの心。名前もまだ、ないままに。
私は——
第二支部の中庭に立っていた。
前には十数人の女弟子たち。
後ろには……逃れられない事実。
---
私は両手を上げ、ひとこと一言、はっきりと宣言した。
> 「私は!ご本尊の香炉の前で!それと調理場の鍋フルセットに誓って言います!
“わざと”じゃないんですッ!!」
---
腰に手を当てた姉弟子が鋭く目を細める。
> 「じゃあ……妹弟子の太ももを“半刻”も枕にしたのは、“うっかり”だったのかしら?」
---
私は全身汗まみれ。
> 「そ、それは……料理で疲れて……木陰で……そのまま倒れて……」
---
若い妹弟子が首をかしげる。
> 「え?倒れたのに、頭が“ちょうど”太ももに転がるの?」
---
> 「そうそう!」
「しかもね〜、そのあと足に抱きついて顔スリスリしてたんだよ〜?私、見たからね!」
---
私は絶叫。
> 「ち、違うんだ!それは……夢だったんだよ!
肉まんの夢を見てて……雲の上だと勘違いしてたんだって!!」
---
別の姉弟子が眉をひそめる。
> 「雲の上で……スカートの匂いが分かるのかしら?」
---
> 「か、嗅いでないッ!!!」私は悲鳴を上げた。
---
場の空気は、まるで“天界裁判”。
……ただ、私にだけ“弁護士”がいなかった。
---
一人の姉弟子が数珠を指に巻きながら近づいてくる。
口調は穏やか、だが重い。
> 「陽くん。君はまだ新入りだけど……
今朝から、第二支部ではこんな噂が回ってるのよ。」
> 「『あの新入り、顔はボケっとしてるけど……
本当は、羊の皮を被ったドス黒オオカミ』ってね。」
---
> 「だ、誰がそんなことをっ!?」
---
別の妹弟子が髪をはねさせながら言う。
> 「さっき君が追いかけてたあの子。
彼女がこう言ってたよ——」
> 「『昨日は小顕ちゃんの父と一悶着、今日は太もも枕、明日は……嫁入りかな』って♡」
---
> 「うわああああああああッ!!!」
私は思わず地面に膝をついた。
---
> 「信じてください皆さん!本当に……夢見てただけなんです!
それに、小顕ちゃんとは……なんにもありませんからッ!!」
---
その時。
後方から、低く柔らかい声が響いた。
> 「……今はまだ。でも、これからは違うかもよ?」
---
振り返ると、そこに立っていたのは——
王 小顕。
白い衣。髪が風に揺れ。
その目に、怒りも戸惑いもない。ただ、静かな“観察”。
---
姉弟子たちは彼女を見た。
> 「小顕、どうだったの?無理やり何かされてない?」
---
彼女は数秒、沈黙して。
静かに、こう言った。
> 「いいえ。無理やりなんて……されてない。」
---
女子たちがざわめく。
---
> 「ま、待って、それって……自分の意思だったってこと!?」
---
> 「違う!!!」私は慌てて手を振る。 「小顕ちゃんは……事を荒立てたくないだけで!誤解しないで!!」
---
妹弟子がヒソヒソ言う。
> 「つまり、“何か”はあったんだよね?」
---
> 「彼、何回小顕ちゃんの顔見て顔赤らめてたか、数えた?」
> 「さっきは、木の下でお粥食べさせてたわよ〜」
> 「黒豆のデザートもね。上にパリパリのココナッツまでかけて……♡」
---
> 「なんでそんな詳細知ってるの!?」私は頭を抱えた。
---
一人の姉弟子が腕を後ろに組み、私の周りをゆっくり回り始めた。
> 「お粥。デザート。太もも枕。寝そべり事件。
この流れで行けば……次は、“結婚”よね。」
---
私は本気で、今この瞬間に消えたくなった。
> 「料理ごときで、恋愛証拠にしないでくださいっ!!」
---
小顕が一歩前に出た。
> 「もうやめて。私が話す。」
---
その一言で、全員が静かになる。
風さえ、止まった。
---
彼女は私を見た。
優しい目。静かな声。
> 「今朝のこと、私は……嫌じゃなかった。」
「見られたことも、恥ずかしくなかった。」
「もし恥ずかしいとすれば、それは……自分の心が変だと思ったから。」
---
私はごくりと喉を鳴らした。
支部全体が、息を止めている。
---
彼女はゆっくりと、皆に向かって言った。
> 「彼は、初めて私に“好きな食べ物”を聞いてくれた。」
「子供の頃の記憶にある味を、思い出させてくれた。」
「そして——」
「……私を“笑わせて”くれた、初めての人。」
---
小さな妹弟子がぽつり。
> 「……それって、“好き”ってこと?」
---
小顕は——
黙って。
そして、ほんの少しだけ。頷いた。
---
私は——
頭が真っ白になった。
---
青衣の姉弟子が、ため息まじりに呟く。
> 「終わったな……この子、ほんとに嫁入りだわ……」
---
> 「ち、違う!まだ何も!
た、ただの粥だよ!?たった一杯の粥なんだよ!!」
---
妹弟子があごをさすりながらつぶやいた。
> 「ふーん、じゃあ小顕ちゃん、これから毎日ご飯作ってもらえるんだね〜」
---
私は真っ赤。
彼女は、後ろを向いて……そっと、笑った。
---
風がまた吹いた。
私は、立ち尽くしていた。
皆の視線は——
「興味半分、嫉妬半分、食事目的もう半分」みたいな感じだった。
---
> 「陽くん。」
一人の姉弟子が近づいてくる。
> 「明日は“黒ごま餡のおしるこ”、食べてみたいな。」
---
> 「えっ、えっと……」
---
> 「それと、枕は——小顕だけにしときなさい。」
---
> 「してないからァァァ!!!」
私は中庭の真ん中で凍りついていた。
顔は裏庭の唐辛子よりも赤く、
視線の海に沈みそうだった。
疑い、皮肉、そして……ちょっとした愉快そうな眼差し。
……できることなら、今すぐ“漬物樽”の中にでも隠れたい。
---
> 「陽くん、その件……支部長に報告したら、どう思う?」
高く束ねた髪に、竹の扇を持つ姉弟子が、私を頭からつま先の破れた靴まで舐めるように見た。
---
> 「ま、待ってくれ……!」私は両手を挙げて降参ポーズ。
「今朝のことは……本当に誤解なんだ。お粥を作ってて、疲れて……気付いたら木の下で……」
---
紫衣の妹弟子が割って入る。
> 「で、夢の中で小顕姉さんの太ももを枕に?」
「目を閉じたまま、手がピッタリ膝に? その偶然、聞いてるだけで眠くなるわ。」
---
クスクスと笑い声が、池に落ちる小波のように広がった。
私は息を飲み、心臓が跳ねる。顔は炭火のように熱い。
---
だが、ちょうどそのとき——
あの声が響いた。
高くもなく、鋭くもない。
ただ、いつもとは“違う”。
> 「もう、いいわ。」
---
すべての目が、王 小顕に向いた。
白衣が風に揺れ、両手はそっと下げられている。
だが、その瞳だけは、決して弱くなかった。
---
> 「もう十分でしょ? まだ足りないなら——私が話す。」
---
その場が静まり返る。
風も止み、葉も揺れない。
私は、鼓動が止まりそうになった。
---
彼女は私を見なかった。
ただ、ひとりひとりに、真っ直ぐ向き合って言った。
> 「“無理やりだったか”と聞かれた。私は“違う”と答えた。」
「“故意だったか”と聞かれた。正直、分からない。でも彼が悪い人じゃないのは、分かる。」
「それに……朝、皆がお粥を食べてたとき——誰が作ったか、覚えてる?」
---
妹弟子の一人が、口ごもった。
> 「あ……陽くん……だったような……」
---
小顕は静かに頷き、澄んだ声で続けた。
> 「そう。彼が一人で。誰に言われたわけでもなく、自分から。」
「焦げもなく、米はきれいに洗って、水も汲んで。薬味まで、ちゃんと揃えてた。」
---
……私は、泣きそうだった。
---
> 「まだ入門して一日も経ってない。技も習ってない。
それでも第二支部の皆のために、朝から働いた彼が——
からかわれる理由がある?」
---
誰も何も言えなかった。
場の空気は、圧力鍋のように重くなっていた。
---
> 「もし彼が女性だったら、“真面目”だの“けなげ”だの言うんでしょ?
男だからって、“下心”だの“羊の皮を被った狼”だの……勝手に決めつけて。」
---
彼女の声が、わずかに硬くなる。
> 「私は、陽くんが完璧だとは言わない。でも——
少なくとも、陰口を叩かれるような人じゃない。」
---
……私は息もできなかった。
まるで胸の奥、泥に埋もれた心を誰かが掘り出して、
水で洗って、静かに胸の中へ戻してくれたみたいだった。
痛くない。
ただ、温かかった。
---
姉弟子の一人が、髪を整えながら柔らかく言った。
> 「小顕……悪気はなかったの。ただ、あの場面を見ちゃうと、どうしても……」
---
> 「じゃあ、想像はやめて。」彼女は即答した。
「当事者の私が、恥ずかしいと思ってない。
話したいなら、今朝の黒豆の味についてでも語れば?」
---
> 「……次は、砂糖控えめにする……」私はぼそり。
---
一人の妹弟子が、今度は笑いながら言った。
> 「ちょっと甘かったけど、香りはよかった。生姜の匂いがした。」
---
> 「うん、次は……みかんの皮も入れてみて……」
別の子もつぶやく。
---
> 「うん、覚えておく……」
私は頭をかいた。
---
小顕は微笑んだ。
それは霧のように淡く、それでいて、空気を止める力を持っていた。
---
> 「もし皆が、彼にご飯作ってほしくないなら、どうぞ続けて非難して。
でも、もっとお団子やスープやお粥が食べたいなら——
不確かなことで笑うのは、もうやめて。」
---
一人の姉弟子が眉を上げる。
> 「つまり、それは“条件”ってこと?」
---
> 「違うわ。」彼女は瞬きせずに答える。
「ただ、誰も正しい人を守らないなら——
私が守る。」
---
私は彼女を見た。
そこにいたのは、昨日までの冷たい仙女ではなかった。
一椀のお粥を守るために、誰かの心を守るために、
世界と立ち向かえる……真の女侠客だった。
---
黄色い衣の妹弟子がため息をついた。
> 「……分かったよ。」
---
> 「じゃあ、これから“ちび料理人”って呼ぶ?」
---
> 「それとも、“おかゆ亭主”?」
---
> 「あ、それいい!“滅人シェフ”とかどう?」
---
皆が笑った。
けれど、そこにはもう、皮肉も毒もなかった。
ただ——
ほんの少し遅れた、春のような暖かさだけ。
---
私は、ようやく息を吐いた。
小顕は、私の方を向いてこう言った。
> 「明日、お団子作って。甘すぎないやつ。」
---
私はこくんと頷く。
> 「……お酒入りと、生姜風味、どっちがいい?」
---
> 「任せるわ。ただし——心を込めてね。」
---
風が吹いた。
白松の葉がひとつ、静かに彼女の肩に落ちた。
そして——
その淡い光の中で、私は確かに感じた。
「この人は、私のために立ってくれた。」
---
だが——
木陰の奥には、ひとつの“紫の影”が静かに佇んでいた。
その目は、冷たく、鋭く——
すべてを見ていた。
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