朝起きると恋愛小説の主人公になっていた男
ある朝、起きると下谷隆典は自分が恋愛小説の主人公になっていることに気づいた。
それは起きた瞬間、寝坊や体の不調、あるいは虫に変身していることに気づくのと同様の出来事だった。朝起きた時、今日は普段と違う気配を感じるあの瞬間のことである。
隆典にとっては、それが恋愛小説の主人公だった。ベッドから起き上がった彼がまず考えたのは自分が恋愛小説の主人公をどうやって務めるかということだった。
隆典は30代の男性で、一般的な企業に勤めるサラリーマンだ。学校に通っているわけではない。
この時点で、隆典では学園物の恋愛小説の主人公を担うのは不可能だった。彼がどこかの学校に入れば、たちまち不審者として通報されてしまうだろう。
また、隆典は既婚者である。妻(彼と同年代)と娘(1歳半になる)の家庭を守る父親である。これを考慮すると隆典が働く会社で同僚や上司、取引先を相手に恋愛を繰り広げるわけにはいかない。
オフィス系の恋愛小説を繰り広げてしまえば家族を悲しませることになる。そのようなことは隆典にとって断じて受け入れられない。
一瞬不倫などという背徳的な単語が彼の頭を掠めた。確かに世の中には不倫から始まる背徳的恋愛小説もあるだろう。
しかし、そういう系統の恋愛小説は隆典に荷が重すぎる。先程も述べたように家族を悲しませることになるし、嘘を吐くのが下手な隆典では一瞬にして隠し事が明るみになってしまう。それに、隆典は不倫など死んでもやりたくないと考えている男だ。
2回目になるが、隆典は結婚しているのである。ということは彼にはすでに相手がいる。
恋愛小説というのは、主人公と相手(単独、または複数)とで繰り広げられる人間のドラマである。彼らの関係性を深掘りすることで物語は進行していく。
人が人に惹かれる様子や自らの、あるいは相手の気持ちに翻弄される姿を描くことで、読者は登場人物たちの恋模様に心を躍らせるものなのである。
それを考えると、すでに結婚というある種の"ゴール"に到達している隆典では恋愛小説の主人公という役目に不適格だと思われた。
それでも隆典は腕を組んで、どうやって自分に与えられた役割を果たそうか思考を重ねた。何故自分が主人公に選ばれたのか隆典は全く心当たりがないし、理解しようともしなかった。
そもそもとして主人公を断るという考えが彼の頭には微塵も存在していなかった。さらに、断ろうと思えば断ることができるのかについても特に考えていない。
隆典にあるのは責任感だった。彼は持ち前の真面目さと責任感の強さで仕事に励んできた。一度任されたからには最後までやり遂げる。それが隆典の長所である。
この性格によって隆典は自分でも務められる恋愛小説があるかどうか必死に頭を働かせた。
ふと彼の頭で閃いたものがあった。自らの体験を元にすればいい。早速隆典は記憶を辿り、恋愛小説に使える出来事がないか探し出した。
だが、すぐに壁にぶち当たった。隆典は生涯において妻以外の女性と付き合ったことがない。
これまで彼女はおろか友達すらおらず、教科書や本だけが彼の友達だった。彼は灰色を通り越して無色ともいえる青春を送ってきた。だから、恋愛小説のネタを考えることにおいて隆典の青春の日々では全く役に立たない。
ならば、妻とはどうだと隆典は思考を変えた。彼と妻との馴れ初めから結婚までの道のりから何かしらの物語が作れるかどうか検討を重ねた。
しかし、これもすぐさま壁に当たった。隆典と妻は結婚相談所で知り合った仲である。何か運命的な出会いがあったわけでもない。
その後、彼らは結婚を前提としてお付き合いを始め、数年後、結婚した。
隆典の結婚までの日々は先程の文章で全てである。過不足など全くない。
何故なら、結婚に至るまでで障害があったわけでも、困難があったわけでもない。ただ緩やかに、今の生活に到達した。
今の妻、つまり当時の彼女へのプロポーズも恙無く行うことができた。彼女の両親に結婚を反対されたこともない。
もちろん隆典は妻のことを愛している。決して義務感や妥協で一緒になったわけではない。彼の気持ちに嘘偽りはない。
要するに、隆典の人生では恋愛小説のネタになるような出来事は何一つないのである。
その結論に思い至った時、彼の頭に浮かび上がったのは焦燥感である。
自分では恋愛小説の主人公になれない。つまり、それは隆典の物語を読むであろう読者を楽しませることができないことを意味する。
既に1,000文字以上も消費してしまっている。読者は貴重な時間を割いて隆典が紡ぐ物語を読んでいるのである。
それならば、隆典は立派に主人公としての務めを果たさなければならない。それができれば、隆典は胸を張って日々の生活を送ることができるだろう。
隆典は再び目を閉じた。眠りにつくためではない。愛する家族や顔も分からぬ読者を脳裏に浮かべるためだ。彼らのことを想うことで、自分の気持ちを奮い立たせる。
突如彼の目は見開いた。その表情は決して晴れやかなものではない。しかし、決意や熱意などといった感情に満ちているそれだった。奇しくもその顔はかつてプロポーズを行う前の顔と何ら変わりがなかった。
「俺は恋愛小説の主人公になったようだ」
慌ただしい平日の朝に、夫であり父親でもある一家の大黒柱から意味不明な宣言を耳にしたのは妻であり母親でもある下谷祐子である。
その日はいつも通りの朝だった。祐子はリビングで朝食の準備を進めていた。その最中、隆典が寝室の扉を開け、リビングへと入ってきた。
祐子と朝の挨拶を交わした隆典はテーブルに着いた。やがて彼は顔を上げ、祐子に向かって口を開き、出てきたのが先程の言葉である。
さて、夫から衝撃的な事実を告げられた祐子は次のように返事をした。
「は? 何を言ってんの?」
その返答は夫とともに家庭を築いている妻の実に常識的なものであった。
そもそもとして、隆典は生真面目な人間である。冗談で意味不明な戯言を口にする男でないことは祐子も十二分に承知している。
だからこそ、彼女は夫が発した言葉の意味が分からなかった。耳に入った瞬間、聞き間違いだと祐子は判断したのである。
「今言った通りだ。俺は恋愛小説の主人公になった」
「いや、もう一度言われても意味分かんないから」
真剣な顔つきで同じ内容を繰り返す隆典の言葉を祐子はバッサリと切り捨てた。先程の言葉が聞き間違いではないと分かり、祐子は一層混乱した。
「ともかく、なってしまったからにはきちんとやり遂げるつもりだ。よろしく頼む」
隆典は既に自分の身に降りかかった運命を受け入れ、役割を果たそうと決意に満ちている。
彼としては、今朝目覚めてからずっと思考を重ねた結果であるからして、当然のことを言ったつもりなのだろう。
「本当にどういうこと? ちゃんと説明して欲しいんだけど」
だが、祐子は未だ受け入れられる態勢になっていない。彼女にとって今日の朝に突然夫から意味不明な宣言を聞いたばかりだから、この反応は至極当然である。
彼女は隆典の身に何か異常が起きていることをなんとなく理解した。けれど、その『異常』がどういうものか皆目見当もつかないため、夫に説明を求めたのだ。
確かに夫婦間のコミュニケーションはとても大切なことである。お互いの意思疎通を図ることで円満な家庭を築くことに繋がる。
「説明と言われてもな。悪いが、俺にも何故こういうことになったのかまるで分からん」
しかし、隆典の返答は簡潔なものだった。自分は何も分からない。解答放棄とは質問に対する答えとして下策に分類されるものだ。
およそ2,000文字前に述べたことであるが、隆典は自分が主人公に選ばれた理由について興味がない。何故なら、そんなことよりも役割を果たそうとすることに重きを置いているからである。
しかし、彼が納得していることと周囲の人が納得できるかは別の問題である。
「分からないって……」
夫の返答を聞いた祐子は言葉を失っていた。彼女は隆典が自らの異常について委細承知の上、受け入れているものだと考えていた。
だが、蓋を開けてみれば、隆典は何も考えていない、いや、何も知ろうとしないということが判明した。
「それならさっ!」
祐子はなおも食い下がろうとした。彼女からすれば相変わらず夫の言うことは意味不明のままだ。
それでも、一家を守る妻として、何が起きているのか把握しようとしたのである。
その時、ピピーと甲高い音がリビングに響いた。音の主はキッチンにある炊飯器からだ。ご飯が炊き上がったのである。
そのことに気づいた瞬間、祐子の思考は現実に引き戻された。今は慌ただしい平日の朝である。
これから隆典の出勤準備を手伝い、娘の面倒を見なければならない。夫が言う不可思議な出来事に付き合っている時間はないのである。
「とりあえず、仕事から帰ってきたらまた聞くから」
それが色々と言いたいことを飲み込んだ祐子がやっとのことで絞り出した言葉だった。彼女は思考を夫の対応からこれから行う家事へと切り替えた。
「分かった」
妻の提案に隆典は頷いた。彼は朝ご飯をよそうため、席を立った。
そのままキッチンに向かって歩く隆典は突然足を止めた。そして、リビングにいる祐子へ振り返った。
「一つ言い忘れたが、俺が主人公になったから、俺たちの会話や行動は読者に筒抜けになるからな」
「そういうことは後にしてって言ったでしょ!」
意味不明で恐ろしいことを言う隆典に対して抗議を上げる祐子の声がリビング中に響き渡った。
「それで、今朝の話はどういうことなの?」
夕食後、食器洗いを終えた隆典をダイニングテーブルの席に座ってもらい、祐子は夫に問いかけた。
祐子と隆典は向かい合わせに座っている。娘はスヤスヤと眠りについているため、今は夫婦の時間である。
「今朝言ったように、俺は恋愛小説の主人公になってしまった」
「だから、それが意味分かんないだけど。本気で言ってる?」
「そうだ。間違いない」
隆典は妻の目を見てそう断言した。その迫力に祐子も彼が冗談を言っているわけでないことを実感した。
隆典がそこまで確信しているならば、祐子としても何も言うことがなかった。何を言っても隆典の言うことを否定できないと彼女は考えたからである。
「仮にあなたが言っていることが正しいとして、主人公になったのなら、どうするつもりなの?」
それでも、恋愛小説の主人公となった隆典が何をするつもりなのか祐子は知りたかった。彼の人柄を思えば他人に迷惑をかけることはしないと信じているが、あらかじめ隆典が何をするつもりなのか把握することも大切である。
「ああ、それなんだが」
隆典は待ってましたと言わんばかりに、姿勢を正し、座り直した。両手をテーブルの下、正確に言えば、彼の膝の上に置いた。そして、目の前にいる妻のことを真っ直ぐに見つめた。
彼にとっては、これから言うことが本番なのである。今朝起きた時から散々考えた結論を今から話すつもりなのだ。
「どうしたの? そんなに改まって」
祐子はそんな夫の行動にどこか嫌な予感がした。彼の様子から何かを考えていることが分かるが、その具体的な内容が不明なため、不安になる。
隆典は口を開いたと思ったら、胸一杯に深呼吸をした。それを見た祐子は不意に既視感を覚えた。その行動はあの時、自分に——。
「俺は恋愛小説の主人公になった。だから、君と恋愛しようと思う」
「はい?」
本日何度目になるかも分からない意味不明で衝撃的な宣言を隆典は行った。
どうやって恋愛小説の主人公としての役割を果たすべきか。それは隆典が今朝目覚めてからずっと考えていたことだ。
しかし、冒頭で述べたように彼に恋愛小説の主人公を務まるとはいえない。それでも、隆典は自分に与えられた役割を果たそうと必死に頭を回転させた。
その結果、頭に浮かんだのは妻である祐子の顔だった。その時、隆典は閃いた。自分と妻とで物語を繰り広げようと。
「俺が好きなのは君だけだ。それは今でも、これからも変わらない。だから、君との物語を展開させるつもりだ」
「何を言っているの!? 本当に何を言っているの!?」
祐子は思わず椅子から立ち上がった。娘が寝ているためあまり大きな声を上げていないが、彼女の心中は声を大にして叫びたかった。
今朝から夫の理解不能な言動に振り回されてきた祐子だったが、ここにきて今日一番に理解が追いつかない。というより、追いつきたくなかったのが彼女の本音である。
「俺は君以外と恋愛をするつもりはないし、したくない。だから、君をヒロインにして物語を始めようと思う」
隆典は極めて真面目な顔でそう説明した。彼の中には一片たりとも妻を揶揄う気持ちは存在しない。全て真心なのである。
隆典は祐子という愛する妻がいる。だから、他の相手など作りたくない。そして、彼らの馴れ初めから結婚に至るまでの道のりはありきたりで語るほどのものではない。
妻以外の相手はいない。過去には何もない。それならば、今から祐子と新しい物語を作ろう。隆典の思考回路が導き出したのはこのような結論だったのである。
「そんな意味不明なものに巻き込まないで! 大体、私たちは結婚しているし、子供だっているのよ! それなのに、今更、恋、恋愛なんて……」
しかし、祐子にとって到底受け入れ違いものだった。理由は彼女が述べた通りだ。多くの恋愛小説では、若者で、未婚で、子供を持たない人たちが主となる。
隆典と祐子はともに30代で、結婚しており、子供もいる。一般的な恋愛小説に出てくる主要人物の特徴ではない。
祐子もいい歳した自分がそんなことをやりたいとは微塵も考えていない。彼女自身恋愛なんて口に出したのも随分と久しぶりなぐらいだ。
「俺はそうは思わない」
隆典は三度断言をした。その顔は決意に満ちた顔だ。
「君を巻き込んでしまって申し訳なく思う。けれど、君となら、君がいれば俺も立派な恋愛小説の主人公になれる気がする」
隆典はテーブルに両手をつき、頭を下げた。そんな彼の行動に祐子の目は見開いた。
「頼む。俺と一緒に恋愛小説をやって欲しい」
口にする内容こそ不可思議なものだが、その声は真摯に満ちていた。祐子の中は驚きと困惑と羞恥で一杯だった。こんなに真剣な隆典を見るのはプロポーズの時以来だからである。
「子供に」
気づけば祐子の口は開いていた。彼女自身も混乱していた。隆典に当てられ正常な判断ができていないかもしれない。けれど。
「子供に迷惑をかけない範囲でならいいわよ」
けれど、不思議なことに祐子の中で隆典の頼みを拒否するという考えは全くなかった。
隆典は彼女の言葉を聞いて一瞬目を見開いたが、やがて柔らかい笑みを浮かべた。
「ああ。分かっているよ」
こうして、新たな恋愛小説が始まった。これは1人の責任感がある男から始まった物語である。20代ほど活力がなく、40代ほど成熟していない、そんな30代の夫婦による恋愛小説の幕が今上がったのである。
隆典が祐子と意味不明な頼みをした翌日の朝のことだ。祐子は自分でもおかしなほどに落ち着かなかった。
昨夜、彼女が夫と理解不能な会話をしてから、一夜が明けた。隆典曰く今日から自分たちの恋愛小説を始めるという。
だから、祐子は隆典が何を仕掛けてくるのか分からず、落ち着かなかったのである。
やがて寝室の扉が開き、隆典がリビングに入ってきた。毎日見慣れている彼の行動だったが、祐子は目が離せなかった。何故なら、隆典が起きてくるのがいつもより大分早い時間だったからだ。
隆典はリビングのテーブルに向かって歩き出した。そのまま椅子に座るかと思いきや、祐子がいるキッチンに入ってきた。
「どうしたの?」
祐子はそばにきた夫に問いかけた。朝ご飯は祐子の担当になっているため、隆典が朝にキッチンに来ることはない。そのため、祐子は夫の行動が不思議だった。
「今日から一週間、俺が朝ご飯を作ろうと思う」
「え?」
祐子は思わず隆典の顔を見つめた。夜ご飯は隆典の担当のため、彼が料理をすること自体は不思議ではない。
けれど、朝ご飯を作ろうとする意味が分からなかったので、疑問に思ったのである。
「でも、そんなことを急に言われても」
「君に料理を食べて欲しいからだ」
隆典はまっすぐ祐子を見つめて言った。祐子は彼の言葉と夫婦揃って見つめ合い状況に耐えられず目を背けた。
冒頭でも触れたことだが、隆典は嘘を吐くのが下手である。心に思っていないことを言うと彼の目は泳ぐのである。
そんな隆典の癖のことは祐子も承知している。先程の隆典の様子から彼の言葉が本心から言っているのが祐子にも伝わったのである。
「もう、朝から何を言っているの」
夫の方に向き直り、やっとのことで祐子は言葉を口にした。
「恋愛小説だからな。だから、いつもより早起きした」
よく分からないことを隆典は口にすると、朝ご飯の準備に取り掛かった。宣言通り、彼は朝ご飯を作るようだ。
「座って、待っててくれないか」
「分かったわ。じゃあ、お願いね」
祐子は料理を始めた夫に向かって告げると、キッチンからリビングに移動した。彼女はリビングにあるテーブルの席についた。
リビングからキッチンの様子が見えるようになっている。そこから祐子は料理をしている隆典の様子をじっと見つめていた。
「ご馳走様。美味しかったわ」
隆典が作った朝ご飯を食べ終えた祐子はお礼を言った。彼の作る料理は基本を抑えながらも彼らしいアレンジが施されていた。
今はテーブルを挟んで祐子の向かい側に隆典が席についている。
「ああ、お粗末様。君が美味しそうに食べてくれて嬉しかったよ」
そう言って、隆典は柔らかく微笑んだ。彼の笑みを向けられた祐子はどうも落ち着かなかった。彼女はどこか胸騒ぎを感じた。こんなことは子供が産まれた一度もなかったのだ。
「そういえば、言い忘れたんだが」
隆典は唐突に切り出した。そんな彼の言葉に祐子は身構えた。昨日から彼が言い出したことは良くも悪くも突拍子もないことのため、祐子は警戒している。
「今週末に2人で日帰り温泉に行こう」
「え?」
祐子は夫から何年ぶりかのデートに誘われた。恐らくこれも恋愛小説の主人公としての行動の一環なのだろう。祐子はそう考えることで自らを納得させた。
「どこに行くの?」
隆典の口から出てきたのは車で片道1時間ほどのところにある温泉地だった。確かにその温泉地だったら、日帰りで行くことは可能だろう。
しかし、それでも祐子には気になることがまだあった。
「柚乃はどうするの? まさか家に置いていくつもりじゃないでしょうね」
柚乃とは2人の愛娘である。柚乃は産まれてまだ1歳半のため、温泉に入るのは難しいだろう。
しかし、先程、隆典は『2人で』と言った。この『2人』が隆典と祐子のことを指すのならば、必然的に柚乃は温泉に連れて行かないことになる。
だから、娘のことが祐子にとって気がかりだった。
「父さんと母さんに柚乃を預かってもらうようにお願いしておいた。2人とも快く引き受けてくれたよ」
隆典の返答に祐子は驚きつつも感心した。いつの間にか、根回しが済んでいたらしい。中々準備万端である。
「そうなの、お義父さんたちが」
「たまには夫婦水入らずで過ごしておいでということだ。どうだろうか?」
隆典はじっと祐子を見つめていた。彼の目は縋るように妻の方を見ていた。
娘のことは問題なく、夫からそんな顔を向けられては、祐子も頑なに拒否するわけにはいかない。たまにはどこかで出かけるのもいいと彼女は思っていた。
「分かったわ。行きましょう」
祐子の言葉を聞いて、隆典の目は輝いているように見えた。
「ありがとう。楽しみにしている」
そう言って、彼は柔らかく微笑んだ。昨日から夫の笑顔を見ることが多い気がする。そんなことを祐子はぼんやりと考えた。
よく晴れた日曜日のことである。約束通り、隆典と祐子は車で日帰り温泉へ向かった。道中、隆典の実家に寄り、柚乃をお願いした。
隆典の両親はどこか微笑ましいものを見つめる顔で夫婦を送り出した。その笑顔の理由を祐子はあえて考えなかった。
車内は隆典と祐子の2人きりになった。思えばこうして2人でどこかへ出かけるということも久しくやっていないことに祐子は気づいた。
「そういえば、聞きたかったんだけど」
ふと気になることがあったため、助手席に座る祐子は運転席にいる夫に問いかけた。
「どうした?」
ハンドルを操作する隆典は前を見ながら彼女にそう返事をした。
「恋愛小説の主人公になっているって、どうして気づいたの?」
祐子が隆典に聞きたかったことだ。隆典は自分が恋愛小説の主人公だと確信している。
けれど、周りからすると、どうしてそう確信しているかは分からない。だから、彼女は夫がそう考える根拠を知りたかったのだ。
「そうだな。何と言えばいいか……」
隆典は顎に左手を当てて考えていた。それは考える時に出てくる隆典の癖だった。
「例えるなら、誰かに見られているという感覚だ」
隆典は顎から左手を離してそう言った。
「見られている?」
「そうだ。視線を感じるというのか、そんな感覚をずっと感じるんだ」
「そういう感じなんだ」
夫の返答に祐子は不安を覚えた。彼女自身は隆典が言う感覚とやらを感じないが、それでも気になることはあった。
「今、この瞬間も誰かに見られているってこと?」
「そういうことだ。前に言ったかもしれないが、俺たちの会話や行動は筒抜けになっている」
隆典からそう言われ、祐子は以前に聞いた夫の言葉を思い出していた。あの時の彼女は情報量の多さにいっぱいいっぱいだったため、聞き流していた。
「だから、君を巻き込んですまないと思っている」
「謝らなくていいわ。確かに、誰かに見られているなんていい気はしないけど、私にはその感覚がないんだから」
祐子は本心からそう答えた。隆典から申し訳なさが伝わってくるし、別に彼が悪いわけでもない。祐子自身見られているという感じがしないためもあるだろう。
「それにしても、恋愛小説っていうのはどうやったら終わるのかしら」
祐子が気になっているのはそれだった。正確に言うと、主人公になったという隆典の行動がいつまで続くというのかだが、そんなことはこの際言っても仕方ないため、そう言い換えた。
「俺も考えているんだが、やはり想いが通じ合うのが物語の終着点じゃないだろうか」
隆典の言う通り、多くの恋愛小説は終盤で主人公と相ヒロインが互いの気持ちを伝え合う。そして、2人が恋人になったところで、物語の幕が下りることが多い。
「まあ、そんな感じよね」
祐子も概ね隆典と同意見だった。だが、彼女が聞きたかったのは別のことである。
「でも、それって、私たちもそうなるってこと?」
想いが通じ合うことが恋愛小説の終わりなのだとしたら、現在進行形で恋愛小説を行っている隆典と祐子もまたそのような結末を迎える必要がある。
けれど、彼らは夫婦なのである。お互いの気持ちを通じ合った上で一緒になっている。だから、これ以上どう気持ちを通じ合えというのか。祐子は言外にそう夫に伝えたのである。
「まあ、そうだな」
隆典はただそう返事をした。側からすると、祐子の意図が伝わったのか分からなかった。
昼前に夫婦は目的地である温泉地に着いた。温泉地には古風な建物が並び立っており、建物の陰から昇る湯気が訪問客を歓迎しているようだった。
「ここだ」
隆典は車を駐車場に停めた。そこは温泉地にある一軒の旅館の駐車場だった。
「ここって……」
車から降りた祐子はその旅館の建物を見つめた。夫婦が訪れたのは古風ながらもどこか温かみを感じられる旅館だった。この温泉地の中でも隠れた人気がある旅館である。
しかし、祐子が興味を惹かれたのはそこではない。
「覚えているか?」
祐子の隣にいる隆典はそう言った。以前、隆典と祐子はこの旅館に泊まったことがある。
彼らがまだ夫婦になる前の頃、初めて2人で旅行に行った時に泊まったのが目の前にある旅館である。
「ふふっ、懐かしいわね」
祐子は自然と笑みが溢れた。この建物を見て、思い出が蘇ったせいなのかもしれない。
隆典が自分との旅行をちゃんと覚えてくれた。それだけで祐子は自分でも不思議なほどに嬉しく感じていた。
「行こうか」
「ええ」
隆典は祐子に手を差し伸べた。祐子はその手を取った。呼吸をするぐらいにお互いにとって自然な動作だった。
数年ぶりに手を繋いだと祐子が気づいたのは旅館の玄関を潜った後だった。
隆典と祐子が通されたのは旅館の一室である。外観に違わず、古風ながらもまるで実家に帰ってきたかのような気分になる部屋だ。
「あれ? 日帰り温泉じゃなかったの?」
祐子はてっきり、旅館に着いたらすぐに温泉に向かうのだと思っていた。そのため、部屋に案内されたのは意外に思ったのだ。
「そうだ。ここの旅館は昼から夕方まで部屋を貸し出している。なんでも宿泊客が少ない時間帯を有効活用するために始めたものだそうだ」
隆典曰くこの部屋を使えるのは夕方までらしい。その間、旅館に備え付けられた温泉に入ることはできるという。
「へえ、そういうのがあるのね。そういえば、昼ご飯はどうするの?」
現在の時刻はまもなく正午を迎えようとしている。しかし、夫婦はまだ昼食を済ませていない。一旦旅館を出るのだろうかと祐子は疑問に思った。
「ああ、それなら」
隆典が妻の疑問に答えようとした時である。「失礼いたします」と部屋の外から声が聞こえた。
入り口の襖が開けられ、着物姿の女性が入ってきた。その女性は先程夫婦を部屋まで案内してくれた仲居である。
「本日は当館にお越しいただきましてありがとうございます」
仲居は姿勢正しく正座をして、夫婦に向かって頭を下げた。それを見て、思わず隆典と祐子も一礼する。
「ご予約いただきましたお昼御飯ですが、今からお持ちしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、お願いします」
「かしこまりました。では、少々お待ちください」
祐子が疑問に思う間もなく、隆典と仲居の会話は終わった。愛想良い微笑みを浮かべた仲居は再び礼をして、部屋を辞した。
「え? ここでお昼を食べるの?」
2人きりになった部屋で祐子は隆典に尋ねた。
「ああ、昼ご飯が付いてくるコースで予約したんだ。せっかく旅館に来たんだから、良いものを食べたいだろう」
「確かにそうね」
祐子が思ったよりも隆典は色々考えていることに気づいた。そこまで気づいた時、ある考えが彼女の頭に浮かんだ。
「温泉に入れて、旅館でご飯も食べられる。今回の予約って、どれくらいの金額なの?」
今回のデートは全て隆典が考えたものである。旅館の予約も彼が行った。そのため、いくらかかるのか祐子は全く知らない。家計を握る彼女としては、金額のことがどうしても気になったのである。
「俺が誘ったんだから俺が出す。大した金額じゃないから、気にしなくてもいい」
きっぱりと隆典は言い切った。そんな彼の目は泳いでいた。
基本的にお金の管理は祐子に任せてあり、隆典はお小遣い制である。だから、今回のデートも隆典のお小遣いから出ているかもしれない。
そして、そうすることは彼の懐具合にとって中々苦しいものかもしれない。彼の目がそう語っていることに祐子は気づいた。
「私も出すわ」
「俺が出すよ。家族を楽しませることだったら自分でなんとかする」
祐子の提案に、隆典はなおも引き下がらなかった。隆典のその姿は祐子に初めてのデートに行った時のことを思い起こさせた。
初デートの時も、隆典は全額出すと宣言していた。あの時も自分から誘ったのだからと彼は言ったのだ。
その時の祐子は隆典の言葉に甘えることにした。彼の意志を尊重しようと考えたからである。
けれど、今は。
「あなた1人ならまだしも、私も一緒に出かけているんだから、私も出すわ。家計のことなら大丈夫よ」
今は隆典と祐子は夫婦である。2人は財産を共有している。だから、今回のデートも隆典だけが負担するのではなく、夫婦で分かち合おうというのが祐子の提案だった。
「分かった。そうしよう」
隆典は祐子の提案を受け入れた。なんだかんだといって、隆典は祐子の話を聞いてくれるのだった。
昼ご飯は旅館の夕食と遜色ないぐらい豪勢なものだった。祐子は食事をしながら、夫婦のお金から出して良かったと改めて思った。
昼ご飯を済ませた後、隆典と祐子は旅館の備え付けの温泉へ漬かりに行ったが、全く人がおらず、貸し切り状態だった。
温泉を出た夫婦は縁側に出て、こじんまりとした庭園を眺める。竹垣から地平線へと沈んでいく夕日が見える。久しぶりのお出かけも間もなく終わろうとしている。
「今日は誘ってくれてありがとうね」
改めて祐子は隆典にお礼を言った。今日のデートは隆典が考えたものだ。だから、祐子は彼に感謝の気持ちを伝えたかった。
「リラックスできたわ。日頃の疲れが取れたみたい」
祐子は大きく伸びをした。彼女は日頃の家事や子育てなどで自分でも気づかないぐらい疲れが溜まっていたようだ。今日のデートでそれもなくなり、祐子の体が軽く感じた。
「ありがとう。そう言ってくれると、俺も嬉しい」
隆典は祐子のことを真っ直ぐに見つめて、そう言った。そして、言葉が祐子の耳に届いた後も、ずっと隆典は妻の顔を見つめたままだった。
そんな彼の様子を祐子は不思議に思った。何やらこの場の雰囲気が変わったように感じる。祐子はどこか既視感を覚えた。
「君に伝えたいことがある」
隆典はいつにも増して真剣な顔つきになっていた。いつも落ち着いた表情を浮かべている彼だったが、それでも今日は真剣味に満ちていた。
「急にどうしたの?」
そんな彼に見つめられて祐子は落ち着かない気持ちになっていた。最近、夫の奇妙な言動に振り回され、ハラハラしていた彼女だったが、今日は別の感情も含まれていた。隆典が何を言うのか、いや、何を言ってくれるのか考えている祐子がいた。
「君のことが好きだ」
「……今更なによ」
夫からの告白に祐子は思わず顔を背けた。まさかここまで真っ直ぐな気持ちを伝えられるとは思わなかった。彼女は気恥ずかしさや驚き、そして、嬉しさのあまり、隆典の顔が上手く見れなかった。
「別に何度でも自分の気持ちを伝えてもいいだろう? 改めて君に知って欲しかった」
隆典は聞いてる祐子が赤くなるほどポンポンと言葉を繰り出していた。
「俺は君と一緒にいると心が安らぐ。君の笑顔を見ると俺も幸せな気持ちになる。だから、これからも一緒にいたい」
隆典の目は真っ直ぐ祐子を捉えていた。飾り気のない彼の正直な気持ちだった。
ふと膝に置かれた隆典の手の上に何かが覆い被さった。妻である祐子の手だ。
「本当に何を言っているのよ。あの時と同じじゃない」
祐子もまた顔を赤くして隆典の顔を見つめた。彼女が言った通り、先程の隆典の言葉は以前に彼から伝えられた時と全く同じである。
「すまない。あの時と変えようと思ったが、やはり同じ想いしか浮かばなかった」
「別に責めていないわ」
祐子は頬が緩むのを抑えきれなかった。何故なら、かつて自分が幸せだと感じた瞬間、つまり、隆典からプロポーズされた時と同じ想いを伝えられたからである。
「私だって言いたいことがある」
祐子は隆典の手を握ったままだった。
「私もあなたと一緒にいて良かった。あなたといると安心するの。自分らしく自然体でいられるのよ」
祐子は昔から口うるさい性分があった。そのため、そんな彼女に反発する人も少なくなかった。
けれど、隆典は違った。彼は祐子のことを邪険にせず、彼女の話に耳を傾けた。
祐子は隆典といるとありのままの自分でいられる。彼女はそんな彼に惹かれた。プロポーズも迷いなく受け入れた。
「今日は本当に誘ってくれてありがとう。普段の生活を不満に思っているわけじゃないけど、まるで付き合っていた頃に戻れたようだったわ」
祐子は戻っていた。隆典と結婚相談所で知り合い、付き合い始めたあの頃に。彼のことが気になり、徐々に自分にある隆典を想う気持ちが大きくなっていたあの頃に、祐子は戻っていた。
「私もあなたとこの先もずっと一緒にいたい。あなたとならこの先も幸せな家庭を築いていけるわ」
祐子もまた自らの想いを隆典に伝えた。もう30代だというのに、結婚して子供もいるというのに、もう一度、愛する夫に告げたのだった。
「ありがとう」
妻の言葉を聞いて、隆典は柔らかく微笑んだ。夕日に照らされているためか、夫婦の顔は真っ赤に染まっていた。
「今度は家族で行きましょう」
家への帰り道の車内で祐子は運転している夫に向かって言った。
「そうだな。柚乃も連れてどこかへ行こうか」
娘もいずれ大きくなり、出かけることができるようになる。その時は、家族3人で仲良く旅行に行こうと隆典は考えた。
「けど」
家族旅行を頭の中で計画していた隆典の思考を祐子の言葉が打ち切った。その時、信号が赤になり、隆典は車を停止させた。彼は隣にいる妻の方を向いた。
「たまには夫婦だけで出かけるのも良いわね」
そう言って、祐子は明るく笑った。
「そうだな」
隆典もまた優しく微笑んだ。
夜、ベッドで横になった時、隆典は自分が恋愛小説の主人公ではなくなりつつあることに気づいた。
いつか妻に語った誰かに見られているという感覚が徐々に薄くなっていくのを感じるのである。
隆典は自分の役割を果たせたと結論付けた。今日のデートで夫婦の仲はより一層深められ、互いの想いを伝え合うことができた。
目を閉じる瞬間、彼はふと考えた。自分の物語を読んで、読者はどう感じるだろうかと。
隆典としては満たされたものだった。しかし、きっと読者は楽しかったとか退屈だったかとか様々な感想を持つに違いない。
なにはともあれ、隆典は恋愛小説の主人公としての役割を果たすことができた。それならば、明日からは妻や娘と日常に戻ろうと。
これまでと同じような幸せな日々をこれからも送ろう。そんなことを考えながら隆典は眠りについた。