妻9
「アテナ…?」
俺の左手を包んでいた感触が無くなった時、アテナは既に変わってしまっていた。
『………』
顔は無表情になっていて、先ほどの涙は消えて無くなっている。瞳は正面に居るはずの俺ではなく、ただ真っすぐを見つめているだけ。手はだらりと体の横に垂れ下がり、その姿は操作をしていないプレイヤーキャラそのままの姿に変わり果てていた。
「アテナ!」
呼びかけても返事が返って来ない事は分かっていても、叫ばずにはいられなかった。しかし…叫ぶと同時に肩に伸ばした手は無情にもすり抜け、その事実がさらに俺に絶望感を与えてくる。
「わっ!?」
突如アテナが俺に向って歩き出し、俺は思わず目をつむる。
「っ~…」
真っ暗な視界の中で、ぶつかる事に備えて体をこわばらせる。けど、来るはずの衝撃が一向に来ない。
「…アテナ?」
慌てて目を開けて後ろを振り返ったが、そこにはもう誰も居なくなっていた。アテナは…俺をすり抜けて、もう見えない所まで歩き去ってしまったようだ。
「………」
視界が揺れて、地面が近く見えた。足や腰辺りの痛みから、自分が地面にへたり込んでしまったのだと気づく。
「………」
全身に力が入らず、立ち上がる事が出来ない。頭も真っ白になってしまって、一体どれくらいそうしているのかも分からなかった。
「っ!?」
突然視界がおかしくなった。その後に見えた人の後ろ姿から、地面に座り込んでいた俺を…プレイヤーキャラが背後からすり抜けて行ったという事に気付く。
「…はっ…はっ」
思わず見てしまったソレに呼吸が乱れる。ソレはプレイヤーの知識として知っていた事で、現実で見る事はまずありえないもの…3Dのゲームでよくある、キャラが重なった時に見えるポリゴンの裏側だった。
「うっ…!」
這いずりながら建物の壁に近づき、俺は胃の中の物を全て吐き出した。さっきアテナが言った通りだ、こんなのが普通のゲームの世界というものは…異常としか思えない。
「はぁ…はぁ…」
吐瀉した気分の悪さが、かえって自分が生きている人間だという事を思い知らせてくれる。そう…俺とアテナは、もう同じ世界の存在じゃ無くなってしまったんだ。
「…帰ろう」
一瞬だけ左手の指輪を見て、重い足取りで歩き出す。ただ、向かう先はいつも泊っている宿ではない事は確かで、俺はどこに向かっているのかも分からないまま、人込みを避けて暗い路地の奥に進んでいった。
「………」
いつの間にか日が沈み、辺りは真っ暗になっていた。路地を彷徨い歩いて辿り着いたのは、ベンチが一つあるだけの本当に小さな空き地だ。疲れ切った体をベンチに預け、空を見上げる。周りを建物に囲まれた小さな空には、いくつかの星が輝いていた。
「…なにやってんだろうな」
ここにきて、ようやく落ち着く事が出来た。アテナとの別れは確かに衝撃的なものだったが、まかさ自分がここまで落ち込むなんて思いもしなかった。
(そもそも…ウズメさんに言われるまで、指輪の事も忘れてたクセに…)
「ははっ…」
思わず乾いた笑いが漏れる。自分の削除や転生、そして今後の生活の為に必死だったとはいえ、俺はずっとアテナの事を忘れていた。ただのフレンドが使っていた一キャラクターとしか思って無かったのに、たった半日一緒に居ただけでなんでこんな事になっているんだろう。
(ゲームの時一緒だったからとか、結婚してたからとかじゃない…)
今目を閉じれば、思い浮かぶのはアテナの事ばかりだ。昼に街の外で呼び寄せてしまった時から、さっき別れてしまった時まで。話した事、口調、声、表情、仕草、繋いだ手の感触…特に目に焼き付いていたのは、アテナの楽しそうな笑顔だった。
(全部…ゲームの時じゃ見れなかったものだ)
そうだ…アテナとはゲームを始めた時から一緒でかなりの時間を共有していたハズなのに、その長い期間よりもたった半日のアテナの方が深く印象に残っている。それはきっと…アテナ自身と接したのは今日が初めてだったからだろう。
俺がそうだったように、アテナの性格の元になっているのは動かしていたプレイヤーに間違いない。しかしあくまで元になってるだけであって、アテナはアテナという女の子だ。俺が…転生したナギという俺自身が焦がれているのは、ゲームの時なんか関係ないアテナ自身なんだ。
「そうか俺は…人間になったアテナに、一目ぼれをしてたんだな」
それを口にした瞬間、最後に見たアテナの顔が脳裏をよぎった。
「っ!」
思わず掲げようとした左手の手首を右手を使って必死に制する。
(俺は今…何をしようとした?)
歯を食いしばって何も喋らないように耐える。こうしておかないと、アテナの忠告を破って彼女を呼び出してしまいそうだ。理性ではダメだと分かっているのに、本能では彼女に会いたくて堪らない。なんで早くこの気持ちに気づけなかったんだろう、彼女の見せた彼女だからこその姿に…こんなにも惹かれていたハズなのに。
(…アテナ)
プレイヤーキャラとなって行ってしまった事から、彼女は今プレイヤーのフレンドに操作されている事になる。彼女が誰かに操作されているという事実に、ゲームだとか関係無くはらわたが煮えくり返る思いだ。今すぐ夫婦専用スキルでもなんでも使って彼女を助けてあげたい。
(けど、それはダメなんだ)
爪が食い込むほど左手を握りしめ、折れる程強く右手で左手を掴み続ける。
(…アテナ。もう一度、君に会いたい)
ゴーン…ゴーン…
遠くから、時を示す鐘の音が響いてきた。数は11回、いつの間にそんな時間が経ってしまっていたのだろうか。
「えっ?」
暗い路地裏の広場に、突然光が差した。それは俺の左手からで、昼間俺がアテナを呼び寄せてしまった時と同じような光だった。
「違う!俺は使って無いぞ!」
慌ててベンチから立ち上がると、今度は視界が真っ白になっていく。何が起こっているか分からないまま、俺は不思議な浮遊感を味わっていた。
(アテナ!?いや…そんなハズはない)
それならば今俺の身に起こっているのは何なのか。まさか…まだ削除されていなかったアテナを呼び出してしまったペナルティーがあったのだというのだろうか?アテナが使用を危惧していたのは、こういう事だったのだろうか?
(くそっ!消えてたまるか!もう一度アテナに会うために…俺は生き続けなきゃいけないんだ!)
もがこうにも体の感覚は既に無くなっていた。暑さも寒さも感じず、何も触れられない。
(っ!?)
しかし、体感で数秒ほどで体の異常は無くなった。手足の感覚は元に戻って、自分が今地面に立っているのだと自覚できる。一体何が起こったのかは分からないが、とりあえず現状を把握するしかない。俺は恐る恐る目を開ける事にした。
「よっ」
「………」
真夜中で周囲に誰も居ない、街の片隅の街頭の下、俺の目の前に居たのはアテナだった。プレイヤーキャラのような無表情ではない…会って、話したいと切望していた人間のアテナがそこに居た。
「さっきぶり。いやー…なんつーか」
バツが悪そうにしているアテナは、さっき別れた時と明らかに違っていた。彼女の服装が…聖職者の強装備から、素のアバターのものに変わっているのだ。
「オレも削除されちまった。お前みたく装備も銀行も金もすっからかんだ」
アテナが照れ臭そうに笑ったところで、俺はアテナを抱きしめた。体はすり抜けず、柔らかくて温かかった。
「ちょ!?ナギ?」
「…アテナ。また…会えた」
「………」
俺の呟きを聞いて、アテナは俺の背中に手を回して抱き返してくれた。会えたら伝えたかった事があるのに、今はそれだけで満足してしまう。
「約束通り呼んでやったぜ。ごめんな、寂しい思いさせちまったか?」
「ああ…死ぬほど寂しかった」
少しおちゃらけたように言ってくれるアテナだが、俺はそれに馬鹿正直に答える事しか出来ない。
「お、おう…」
「悪い…余裕無い」
「…そっか」
そう言ってアテナは、子供をあやすように俺の背中をやさしく叩き始めてくれる。普通なら情けなさとか恥ずかしさを感じる所だろうけど、今の俺はその等間隔に叩かれるアテナの手に安心感を覚えていた。
「…ありがとう」
しばらくして、ゆっくりと俺から体を離す。間近で見るアテナの顔はこの上無い程優しいものだった。
「もう大丈夫か?」
「ああ、大丈夫だ」
ようやく落ち着いた頭で現状を把握する。アテナはさっき、自分も削除されたと言っていたけど。それはもしかして、俺がアテナを召喚してしまったからじゃ無いんだろうか?
「あー…簡単に説明するけどお前がオレを召喚したのは関係無いっぽぞ?単にタイミングが良かっただけだな。まぁ、オレもお前が予め呼んでくれたおかげで混乱することなく現状受け入れられたし、むしろナイスって感じだな」
「そう…か。なら良かった、俺のせいで消されたなんて事になったら…」
「気にすんなって、むしろ消されてラッキーってもんだ。あ…でも、ある意味お前のおかげで消された事になんのかな?」
「え?それって…」
アテナは慌てる俺の眼前に自分の左手をかざした。そこには俺がしてるのと一緒の結婚指輪がある。
「これってさ、アクセの装備枠圧迫するんだよな。どうやらお前と離婚しないままお前が削除されたせいで、オレの指輪を外す方法無くなっちまったんだと。夫婦専用スキルも使えないし、俺を消すしかなくなっちまったって訳だ」
結婚というシステムがある以上、離婚というシステムも存在している。そして離婚をする為には該当キャラが揃っていないと離婚が出来ない訳で。俺達のプレイヤーはそれを忘れて俺を先に削除してしまっていたのか。
「こっちを知っちまった以上、ゲームに戻るのはまっぴらだったからな。まったく…昼にオレが言った通り、最高のアクセサリーで間違い無かったろ?」
自慢気な顔で指輪を見せつけてくるアテナに思わず頬が緩む。
(ああ…本当に最高だ)
「なぁアテナ、聞いて貰いたい事があるんだ」
もう俺の気持ちを伝えるしかない無い。俺はアテナの両肩に両手を置き、アテナとしっかりと目を合わせた。
「…おう、聞かせてくれ」
まるで俺が今から言う事が分かったかのように、アテナは真剣な顔で俺を見つめ返してくる。
「確かに俺達は結婚したけど、あれはあくまでゲームの中での事だ。告白も無く、プレイヤーにされるがままだった。けど俺は…今日、半日一緒に居ただけでアテナの事を本気で好きになったんだ。離ればなれになって、会えないのを苦痛に感じるくらい愛している。俺とこの世界で、本当に結婚してくれ」
「おおおぅ」
アテナは珍妙な声を上げて、顔を真っ赤にしている。おい、さっきの真面目な顔はどうしたんだ?
「ガチじゃん…」
「ガチだよ」
肩を掴んでいるので顔を逸らすのにも限界がある、アテナは真っ赤になったまま首をグリグリと動かし続け、最終的にうつむいた所で少し止まった。
「もー…」
そう呟くとアテナはパッと顔を上げる。真っ赤に染まった頬と、潤んだ瞳は今まで見たことが無い程可愛いかった。
「オレも大好きだよナギの事。こんな女でも良かったら…貰ってくれ」
「ああ、幸せにするよ」
そうして…どちらともなく目を閉じた俺達は、誓いの口づけを交わした。ゲームの時のムービーと違い、茶々を入れてくる無粋な奴らは居なかった。




