表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

予 感

作者: 都 今舞

今年は夏だというのに、やけに雨が多い。

五月頃からすっきりと晴れた日をあまり見ていないような気がする。織江は二階のベランダで洗濯物を干しながら、曇った空を見上げた。

朝の七時半、夏休みでいつもよりゆっくりしている息子達のために朝食の支度を済ませた。今日はいつもより時間をかけ、奮発してハワイ風のロコモコ丼にしてみた。織江は丼がさめにうちに長男の正樹を起こしに二階へ上がった。正樹は都立高校の二年生だが、夜型で目覚めが悪く、放っておくと何時迄でも寝てしまう。今日は夏季講習があるから、そろそろ支度をさせないと遅刻してしまいそうだ。正樹の朝はいつも織江が起こすところから始まる。

「正樹、もう七時半過ぎたよ、早くおきなよ。朝ごはん食べる時間なくなるよ」

「えー、あと十五分たったら起こしてくれよ。頼む」

「もう、かあさんは目覚まし時計じゃないんだから、かあさんが死んじゃったら、あんたは一人で起きられるのかね?毎日、毎日しょうがないねぇ」

母親と言うのはどこの家庭でもそうだが、朝から家族のためによく働く。

もし自分が突然いなくなったら、息子達はどんな毎日を過ごすことになるのだろうか?織江は長男を起こしながらふと、そんな事を考えた。


次男、中学三年生の正志はもう起きて、テレビを見ていた。

正志は、テーブルの上の朝ごはんを見て「あれっ、かあさん、今日は朝から豪華だね!パイナップルまで付け合わせちゃって。なんか特別なことでもあるのかな?」と、嬉しそうにそれを頬張り出した。

正志は一口食べて「うまーい、朝からこんなもん食べると、一日がいつもとかわりそうだ」とハンバーグの上の半熟卵を崩しながら言った。

織江の家庭では、朝からこのような丼を食べる事は少ない。たいがいスーパーで売られている調理パンか、お茶づけ程度の簡単なもので済ませている。織江自身も特に意識しての事ではないが、今日は何故か朝から奮発してみたくなったのだ。

テレビでは今朝もいくつものニュースが報道されていた。

隣町で昨日起きた通り魔のニュースが流れ出すと、正志は「なんか最近さー、へんなニュースが多くてやばすぎじゃねぇ?俺達大人になれるのかなぁ?」と、丼を一口食べた時の嬉しそうな顔とは打って代わって、神妙な顔つきになった。

そして友達の周りで最近起きた事件について話し出した。

「つい何日か前に八中のやつが言ってたんだけど、学校の帰り、男子生徒ばかり5人で歩いてたんだって。そんで、そん中の一人が捻挫していて、松葉杖ついて歩いてたんだけど、そしたらそいつの所に中年のおっさんが急に近づいて来て、「治してやろうか?」ってポケットから十特ナイフを出して振りかざそうとしてきたらしいぜ」織江は驚いて「えぇー、やだぁー、八中っていったら、すぐ近くじゃない?松葉杖ついているに、その子大丈夫だったの?」と目を細め心配そうに聞いた。正志は手を横に振って「大丈夫だった。恐怖で足のケガも一瞬、忘れたらしく、必死に他のやつらといっしょに走って逃げたらしい。そしたら、そのおっさん、その後追ってこなかったって」まるでマンガのひとコマに出てきそうな場面だと、含み笑いをしながら言った。織江は渋い顔をして「この辺も物騒になってきたわね」とニュースの世界が身近に感じてくる思いがした。

更に正志が続けて「あぁ、そうそう、こんな事も聞いた。クラスの女もこの間、部活の帰りにさー、青い軽に乗った、へんなおやじに声かけられてキモイからずっとシカトしてたら、突然鬼みたいな形相に変って「てめえ、俺に恥をかかせる気か!今度会ったらただじゃおかなぇからなっ、ぶっ殺してやる!って、目むき出して怒鳴られて、車の窓からベっと、ツバまで吐かれたって、やつがいるよ。ただ車の前を通りがかっただけなのに、すごい怖かったって、言ってた。最近はこんな感じで、大人の方から頭いっちゃてるモンスターみたいな人がいるから、まいるなぁ。俺達みたいな子供達が些細な事で事件にまで行ってしまうのも当然の摂理なんじゃない?」と正志は口にご飯をもごもご入れながら、食い気には代えられない調子だったが、嫌気の差す出来事を少し興奮気味に話してきた。

確かに何がそうさせているのか、この頃は理解不能な行動をする人たちが多くなってきた。織江が結婚した頃、もう二十年近くになるが、その頃は殺人事件などの凶悪ニュースを朝から聞くこともそうそうなかった。今はニュースや新聞を見る度にどこかで誰かが、狂気の犠牲者になっている。正志のような思春期の子供が「大人になれるのかな?」と、思っても仕方がないような住み難い世の中になってきた。

織江は正志の話に益々顔を渋くして「最近は全く、恐ろしい事を平気で吐き捨てる人が多くて困るよ!刺すとか殺すとか、冗談でも使っちゃいけない言葉だよ」更に「最近、子供が犠牲者になる事件がやけに多いね!特に女の子は大変だわ。顔がきれだったり、やさしかったりすると、勘違いされて変な人に付きまとわれたり、勝ってに思い募のらされたりで、どこまで親切にしてあげたら境界線が保たれるのか、わからない時代になってきたわ。正志もちゃんと空気の読める男になりなさいよ!可愛い子にちょっと親切にされたからって、勘違いなんかするんじゃないよ、相手はそこまで考えてないかもしれないんだから」

正志は織江の忠告に笑いながら「なんか、その言い方まるで、かあさんが昔、だれかに追いかけられた事があるみたいじゃん。かあさんにもそんなモテモテだった過去があったのかな?」と冗談まじりに織江を覗きこんだ。織江はちょっとドッキっとしたが、にっと笑って「正志、鋭いかも」と、ひと差し指を正志の方へ向けた。すると正志は「まあ、かあさんは、この先、だれかに親切にしても、もう追いかけられるとか、そういう心配はないんじゃない?どう見たって、もう終わってるんだから」と、笑いながら言って「それに人に優しくしてあげなかったら、ただの意地悪で、いやぁ〜な、どっかのおばさんみたいじゃない、人にはそれなりに親切にしてあげなきゃね」と息子でありながら、ありがたい言葉を返してきた。

織江はもう四十八歳になる。確かに女としてはそろそろ終わりに近い年代にさしかかっているのかもしれない。毎日をただ、家とパート先を行き帰るだけで、女として何かを感慨深く見つめることも、最近は全くしていないと思う。織江にもそれなりの過去はあったが、今はただの下腹の出た中年のおばさんだ。正志の言う通りかもしれないと、妙に納得してしまう自分が悲しかった。

織江は正志の言葉に反して得意げに「あら、かあさんだって、暗いところで見たらまだ若いおねえさんに見られることだってあるのよ。この間なんか、車でそばによってきた若いお兄さんにナンパされたんだから」正志は「あり得ない」と言う顔で織江を見ていた。

織江は続けて「でもね、顔見たらあれって、何も言わずに去っていったけどね!きっとしまったって、思ったのかもしれないね!」と照れくさそうに笑った。

正志の世代から見たら五十近いおばさんをナンパするなんて、どう考えても、きもい話だ。目の前にいる既に女の価値がなくなったと思う母を見て「あはは、無理、無理、軟派してきたって、何にもお得な情報なんてないですよ!って言ってあげればよかったのに」と鼻から牛乳が出てきそうだと、腹を抱えて爆笑し出した。織江は全く失礼しちゃうわと思いながらも、時計を見て長男を再び起こしにいった。


正樹が二階から、眩しそうな顔をしながら、ヨタヨタとかったるそうに降りてきた。自分の指定席に座ると、しばらく目をつぶってボーっと、していた。

正志が横から、「にいちゃん、今日の朝はスペシャルどんぶりだよ。早く食べないと、コンビニの弁当みたいになるよ」

正樹は「ああ」と、特別な関心も持たずに軽く返事をした。正樹は、寝起きが悪いせいか朝は口数が少ない、食事も次男と違って、沢山食べるほうではない。

織江が麦茶を入れたコップを出すと、正樹は一気に飲み干して、「ぐぇー、目がさめた、あぁ〜」と、大きなあくびに伸びをして、今日という日を始めようとしていた。

一息つくと正樹が何かを思ったように「昨日さー、何か変なリアルな夢みちゃって、今日は頭が今一すっきりしないんだよ、熟睡できてなかったのかな?」織江はエアコンの温度を調節しながら「蒸し暑いしね、寝苦しいのもあるんじゃない?」

正樹が昨日見たという夢について話し始めた。

「とりわけ中身がはっきりしているって、訳じゃないんだけど、死んだじいさんが夢に出てきたんだよ」そう言うと、正志が「えー、死んだ人って、なにそれ?おばけの話じゃん、お盆も近いしマジでやばい!鳥肌、鳥肌」

正樹は続けた。「突然、ビンがガチャンって、音を発てて割れてさぁ、中に入ってた百円玉が飛び散るんだ。そんでそのいくつかが、暗い所で妙な光を放ちながら長い間、コロコロ転がっていって、そんでその中の一つだけが別な方向へ転がったと思ったら、死んだじいさんの足元に落ちるの。んで、爺さんがその百円玉を拾って、にっこりしながら手の平にのせて、これはその内にお守りになるからね、大切にしておくれって、俺に差し出してきて、忘れずに覚えておいてって、言ったんだ...」そう話して、意味深な顔をした。

子供というのは、怖い怖いといいながらも怪談話が好きだ。学校でも家でもこの手の話しがはじまると、興味津々に集まりだす。恐怖体験については大人以上に敏感になる。

正志はもっと背筋が寒くなるような怖いものを期待していたのか「おばけの話ってそんだけ?なぁーんだ。もっと身の毛もよだつような、すごいものでも出てくるかと思ったよぉ」予想がはずれた調子で、テレビの方へ興味を移そうとしていった。

「怖い話っていうかさぁー、なんかすごい鮮明な感じだったんだよね、色とかもはっきりしていて、その百円が弧を描いてコロコロって、転がってくるところがさー、すごいリアルで、起きた時、頭に焼きついていたって、感じがしたんだよ。まぁ、ただそんだけのことだけど・・・」

織江は百円と聞いて、キッチンの目立たない所に隠しもっている瓶を思い出した。コーヒーの空き瓶にこっそり貯め込んだへそくりの百円玉だった。正樹の夢とはとても結びつきそうもなかったが、なんとなくビンをちょっと確認してみたくなった。

米櫃の奥にそっとしまってある瓶をみると、もう二瓶がいっぱいになっていた。中を覗いて点検してみたが、特別にヒビが入っていたり、減っているなど、特に変わった様子はなかった。織江はこの際だから、息子達へのお昼代はここから出してしまおうと思い、百円玉を十枚取り出した。

「今日のお昼代、渡しておくから、これ五百円ずつ取って!」織江はテーブルの上に百円を十枚並べた。正樹はそれを見て目ざとく「あれっ、珍しいな、昭和四十一年の百円があるじゃん、これって今は流通してないんじゃない?」と自分の分をとり、脇に寄せた。織江は全く百円玉の年度など、意識して気にしたことがなかったが、そう言えばこの年の百円玉を手に入れると何かが起こるとかなんとか、都市伝説のような話を聞いた事がある様な気がした。


テレビでは、今日の天気予報が流れていた。

曇りのち雨、降水確率五十パーセント、午後からの雨の降る確立は高くなる見込みです。お出かけには傘をお持ちください。


正樹は電車で出かけるので、忙しい時刻になった。慌しく歯磨き、着替えと超特急で支度を開始した。

正志は、恒例の長トイレに入った。トイレの中で雑誌を読んだり、新聞の広告を見たり、どっかのおやじのようだが、正志の朝は情報集めを欠かせない。

八時半、正樹が支度を完了して、外へ出るところだった。

「行ってきます」「あぁ、正樹、今日は午後から雨降るみたいだから笠持っていった方がいいよ」織江は、目についた小綺麗なブレンド物の傘を差し出した。

「俺、雨降らないと、すぐどっかへ忘れてきそうだから、そんないい傘じゃなくてビニールのそれでいいよ」正樹はビニール傘を持って出かけた。

続いて、正志も近くの進学塾へと出かけていった。几帳面な正志は傘の忘れ物などしたことがないので、五年以上も愛用している折りたたみの傘を持って出て行った。

こうして、どこにでもある家庭の朝は、定刻通りに何事もなく流れていった。


織江は、啓太郎百貨店の寝具売り場でパートをしている。土日を含め、週四日仕事をしている。勤務は朝の十時から夕方四時までだ。織江は子供達の朝支度も十分にこなせる時間帯で、なかなかこの仕事が気にいっている。始めてすでに三年になる。織江の夫、正敏は東京でSEの仕事をしているが、今は大阪で単身赴任をしている。もうすぐ、お盆休みに入るので戻ってくる。普段は親子三人の母子家庭状態だ。


織江は外へ出ると、生暖かい風を体全体に受けた。かなりの湿度を含んでいる空気で、吸うだけでも息苦しいほどだった。とにかく暑い、暑すぎて腹が立つほどだと思った。

織江は電車に乗りながら、あと数日で戻る正敏のことを考えた。正敏が単身赴任になってから、二度目の夏になった。正敏の実家は静岡だが、この数年ご無沙汰している。正樹の夢に義理父が出てきたと言っていたが、織江がパートをはじめた頃から、家族そろって帰京していないような気がする。今年のお盆も正敏だけが、大阪から途中下車で実家に立ち寄るだけの予定になっている。特に休みが取れないという訳ではないのだが、何故か足が遠のいていた。「夏休みは無理でも、今年の暮れあたりには正敏の実家へ行かなければなぁ」と、ふと思った。


電車が駅へ着くと自動改札を抜けて、また湿度の高い地上口へ出た。啓太郎百貨店の社員口は地下道からは通じていない。空は薄曇りで相変わらずの空も模様だった。織江は社員口にいつもいるロマンスグレーの警備員に「おはようございます。今日は蒸し暑いですね」と挨拶をすると、社員用ロッカーへと急いだ。

ロッカー室の中では、数人のパート職員がすでに身支度を終えて、おしゃべりを楽しんでいた。ここのパート職員の大半が、織江のような子育て中の主婦であるため、話題の大半は子供の事か、食べ物の話だ。ときどき健康の話題になる時もある、やれ、サラサラ血液がどうのや、メタボ検診がどうだったとか、美顔に健康器具など、主婦は生きるための情報には貪欲だ。

織江は紺色の制服に着替えると、外の蒸暑さのせいで、すっかり流れ落ちた化粧を直し始めた。鏡を見ていると、同じ売り場の織江より十歳若いパートの市川正子がニッコリしてこちらを見ていた。もうすでに支度が完了しているようだった。

正子は小学生の子供が二人いる。二人とも低学年で学童保育へ入っている。正子は、いつものスマイルで「川本さ〜ん、おっはよ〜ございま〜す。今日は、蒸暑くて、外はサウナ状態ね!こういう日は買う気もないのに、冷房目当てに売り場に入ってきて、ベッドで涼んでいるような人達がいるから困るわよねぇ」正子はついこの間まで、若者の分類に入っていたのが分かるような話し方をする。彼女の笑顔はいつでも屈託がない。織江も笑いながら「そうね、そういう人がいると、こちらもわかってはいるんだけど、ご用伺いで、さりげなく声をかけなければいけないし、私なんて、それなりの年齢なので、意地が悪く見られそうで、いやだわぁ」と、口紅を馴染ませながら正子の方を振り返った。正子は一瞬クスッと笑ったが、手を横に振りながら「大丈夫、大丈夫、どんどん言っちゃって、川本さんはやさしそうだから、そんな意地悪そうに見えないわよ!まぁ、お客さんからしたら、本当は涼みに来てるんだけなんだから、声なんてかけてもらいたくないに決まってるけど、ここは一応百貨店だしね。それに寝具売り場だから」と付け加えた。実の所、寝具売り場というのは、配置スタッフの年齢に条件のないところだった。ネクタイ売り場など男性が頻繁に出入りするような売り場には、公表はしないが若くて見栄えのよい子を配置している。織江は今朝の正志の「かあさんは既に終わっている」と言ったのをまた思い出してしまったが、誰もが通る道と思い出っ張りぎみの下腹をポンと軽く叩いて、まぁよしとした。


二人は六階の売り場へおしゃべりをしながら向かった。正子はお盆のピークを外して、熊本の実家へ家族と帰る予定だと言う。お盆の時期は割高になってしまうので、家計にやさしいお盆休みを取りたいということだ。織江はいつも水曜、木曜と二日連休しているので、特にお盆休みとしては申請していなかった。


開店五分前、売り場では主任の田中が待構えていた。田中は背が高く、手足がスラット伸びて、なかなかの男前だ。どんな生活をしているかは不明だが、体のわりには声が小さく、気の弱そうな印象を受けるタイプの男だ。織江の所属している寝具売場は四人体制になっている。もう一人の社員、山本明子はこの売り場にしては珍しく若い女性で、都内の自宅から通っている。入社以来、織江とずっといっしょに売場で仕事をしている。

田中が今日の配置について軽く点呼を取った。「山本さん、川本さん、市川さん、おはようございます。今日の売場は川本さん、田中が担当します。レジ、インフォは山本さん、市川さんでお願いします。お昼は十一時半から、山本さんが入ります。川本さん、市川さんはいつもと同じ十二時半からでよろしいですか?」二人ともこころよく了解した。田中は今日の売上目標とセール品について軽く説明すると、最後に「今日も一日よろしくお願いします」と全員で声を合わせ、朝の点呼が終わった。店内には十時開店の鐘が鳴り響き、一日の仕事の始まりを告げていた。


それぞれが持ち場につき、来店客を迎えた。売場では夏がけのダウンケットが今日の目玉品として用意されていた。織江はそれらを丁寧に並べていた。色は三色、ピンク、ブルー、グリーン、最初の一列目に目立つように、田中が用意した赤いSALEの吹き出しPOPを飾った。横には先週のセール品で数枚売れ残ってしまった行き場のない、低反発マットレスがあった。そこにも一万円と書かれた赤い値札を貼った。

売り場にもパラパラと人が目立ちはじめた。目玉品を最初に手にとったのは、六十代に見える主婦だった。痩せて小柄なその主婦は織江に尋ねた。

「今日の広告のダウンケットってこれかしら?」織江は手で示しながら「ええ、こちらです。とても軽くてよい品ですよ」主婦は「お盆で、地方に嫁に行った娘夫婦が来るのでね、新しい夏掛でも用意しようと思って、それで見にきたの」と言った。織江はダウンケットを広げて見せ、丁寧な接客を試みた。

「触ってみて下さい?肌触りがよく中の羽がやわいですし、国産品でしっかり加工されていますので、羽が中から飛出る心配もないです」主婦はダウンケットの弾力を触りながら確認すると「さすが、啓太郎百貨店で扱っている商品は品質がちがうわね」と、満足げに頷いた。


十一時をすぎると店内は来店客も更に増え、あちらこちらに小さな子供達の騒ぎ声や、泣き声が聞こえはじめてきた。キュン、キュンとかわいらしい音の出るサンダルを履いて嬉しいそうに動きまわっている幼子もいる。

小さな子は本当にかわいいが、何かここでアクシデントが起こるようなことがあれば、すぐにでも壊れてしまいそうな程、弱々しく儚げに見えたりもする。広い売り場を全力疾走で、競争し合っている小学生の男の子達もいる。

織江の売り場にもいたずら大好きな子供達が押し寄せてきた。親が目を離すと、これ見よがしにベットの上によじ登り、跳ねようとしてくる。織江はそんな子供達も見つけると「ほら、ほら、ぼくだめよ!ここでポンポン跳ねたりすると、ベットの下から、痛い!って、お化けが出てくるよ!」と、おどかしてみる。すると子供達は「あっ、本当だ!」と織江の後ろを指さした。織江が後ろを振り返ってみると、そこには子供達のおかあさんが仁王立ちして待ちかまえていた。どこの家庭でも、母親の怒る姿は鬼か化け物のように子供には映るのだろうか?織江の家だけでの話しではなかった。

今日も、デパートやスーパーの休日にありがちなサウンドがあちらこちらで響き渡っていた。


正子が昼の休憩時間を知らせにやってきた。パートの主婦の楽しみと言えば、昼の休憩時間だ。この昼の休憩時間の雰囲気で、パートの定着が決まる。休憩時間がつまらなければ、パートなど長続きしないのだ。

織江達は弁当を持ってきて、社員食堂で食べることもあるが、家族から離れて外出をする事のない主婦は、時には日頃食べられない贅沢をしてみたいと思うこともある。今日は正子と百貨店のグルメ広場で何か食べようかということになった。

八階のグルメ広場は休日のお昼時間ともなると、家族連れでごった返している。特にリーズナブルなセットのある店は待っているだけで、休憩が終わってしまいそうになる。

正子が「ねぇ、ボーナスも出た事だし、たまにはあそこの蕎麦のミニ懐石でもいっちゃわない?」と、藍色の長いのれんのかかった小綺麗な蕎麦やを指さした。少し値がはるせいもあるのか、他のファミリー系レストランに比べると列はなかった。織江は千六百円のミニ懐石の見本を見て「う〜ん」と考えたが、しばらくこんな食事もしていなかったので、自分ひとり分ならまぁいいかっと思い店内へ入った。エンジ色の着物を着た店員が織江達を木目調の大きなテーブルへ案内してくれた。

店員がお茶を運び離れると正子が「川本さんは、ここ来たことある?本当は一時間の休憩じゃもったいなくて、来るような所じゃないんだけど、実はねぇ、秘密兵器があるのよ」と何やらバックから券を取り出して見せた。

織江は券を見て驚いた「えー、この間のセールの景品じゃない?すごいわねぇ」

正子はサマーセールの福引きでランチ半額券を当てたのだった。

「そうなのよ!今度、川本さんでも誘って来てみようかと思っていたところだったの。それで今日は外へ行かない?って、言ってたのよ」正子はニッコリと笑った。織江は思わぬサプライズでボーナスをもらった気分になり、持つべきものは友だなぁっと思い、正子に大感謝した。ひよっとして、今朝からいつもとちがうと感じたものは、ラッキーな事の予兆なのではと?と思うと、気分も浮き浮きし出してきた。

お昼にしてはもったいないほどの料理がテーブルの上に並べられると、織江は今ここにいる自分に幸せを感じ、いっそう楽しくなってきた。

正子と織江は夏の旅行計画の話しをしていた。正子の子供はまだ小さいので、親の出かける所へは文句も言わずついてくると言う。織江は「子供も中学生くらいになると、旅行に行きたくても、ついて来たがらなかったりするのよ。お留守番してるから、お金だけ置いといてなんて言われたりして、それでも子供は子供だから、旅行計画も微妙なのよ。家族旅行は小さいうちに行っておくといいかもね」と子育ての先輩らしい話しをしてみたり、たわいのない主婦同士の会話に花が咲いていた。上品な小鉢達はどんどん空になっていった。織江達は美味しい料理に舌鼓を打ちながら、いつもにないほどの楽しい昼食を過ごしていたのだった。

すると柱の向こうから、突然、女性の怒鳴り声が聞こえてきた。覗きこむと三十歳前後の女性が、会計を担当している店員に向かって文句を付けていた。「ちょっと、あなた、私のお財布の中、今覗いたでしょう?何するのよ!お金がどのくらい入ってるか、確認したでしょ?人の財布の中覗いて何が楽しいよ!失礼ねぇ!ふざけんじゃないわよ」店員は口をポッカリ開けて、女性をみていた。目をパチクリさせ、吃りながら「いいい...え、決してそんな...つもりはございません」女は店員を睨み付けながら、ランチ代二千円をレジカウンターに叩きつけた。「あんた、いつもそうやって、ここに来る人の財布の中ばっか、みてるんでしょ?それしか興味ないの?レジでお金ばっか数えて、何が楽しいのよ!お金がどうしたっていうのよ?お金が沢山集まるとそんなにうれしいの?」女は噛み付きそうなくらい大きな声で「お金、お金って、うるせぇんだよっ!」と、店員へ向かって声を荒げ言ってきた。女性は目が据わっているようだった。店員はうわっと、一瞬おののいたが、何とかその場を取繕うと、ビクビクしながらお釣りを取り出した。レシートといっしょに女へ「あ、あ、ありがとうございました」と、早く過ぎ去ってほしい面もちで遠ざかろうとしていた。女は更に何か突っかかってくるのかと思ったら、差し出されたおつりとレシートをガッサと掴み取ると、意外にあっさり店を出ていった。何かぶつぶつとイラだったような独言が、まだ聞こえてきそうだった。店員は呆然として、何がどうなったのかわからない面持ちで、ガラスの向こうに見える女性の後ろ姿をみていた。

店内全体が一瞬、唖然と言葉を失っていた。

正子は席からレジを覗き込むようにて見て「やあね、恐ろしい、完全にどうかしているわね、あの人。変っているのを通り越して、病気って感じじゃない?最近、壊れた人が多くなってきてやだぁ。。。ああいう人に当ってしまったら、もうまともに相手なんかしてられないから、無視するか逃げるかに限るわね。やだやだ」と肩をすくめ、渋い顔をした。

織江も「外は蒸していやな天気だし、何が原因なのかは計り知れないけど、得体の知れない被害妄想で、ストレスだらけなのかもね?爆発寸前まで怒りを体の中に溜まって、噴火すると、ああいう風になっちゃうのかしら?気の毒ね」せっかく豪華な気分に浸っていた昼食が先ほどの狂気の沙汰で、半減してしまいそうだった。

正子も同意して「ほんとにこの頃、おかしなニュースが多いし、毎日、毎日、何かしら不可解なものを耳にするような気がするわ」そう言うと二人で顔を見合わせて、お互いため息をついた。

ラッキーの始まりかと思いきや、何だか谷に落とされた気分になった。そのあとは、デザートのぜんざいを食べながら、なるべく楽しい気分を取り戻そうと、昨日見たドラマの話で盛りあがり、さっき見た気が滅入るような光景を忘れようとした。

今日の昼休みは限られた短い時間なのに、何とバラエティに豊んだ感情を体験した貴重なラインチタイムになったと、織江は思った。


正子に昼の礼を言うと売り場へ戻り、午後の仕事をスタートさせた。

来店客が入れ替わり立ち替わり、寝具売り場にも立ち寄っていった。目玉のダウンケットも次々にやってきる顧客によって、引き取られていった。今日の目標額はなんとかクリアできそうだと、主任の田中が嬉しそうに言ってきた。ちょっとした高級な商品もボーナスの影響で動き出してきたとの事だった。

あと、一時間少々で今日の仕事も終わると、織江は腕時計を見て思った。ベッドが並んでいる所で幼児達がお人形を寝かせたリ、カバンの中のものを出したりしてベッドの上に自分らの世界を広げ出した。楽しそうに遊んでいたが幼子は目を離すと次に何をし出すか分からないので、織江は注意深く子供達を見ていた。女の子はオパール色にきらきら光る手提げカバンを持っていて、そのカバンの中からは手品のように、かわいらしい女の子グッズいくつも飛び出してきた。織江は女の子を育てた事がないので、そんなおしゃまさんを微笑ましい思いで見ていた。

そこへ「ちょっと、ここの売場の人?」と後ろから声がした。振り向くと、髪の長い、痩せた無表情な女性が立っていた。顔は白く化粧気がないが、端整な顔立ちでそれなりに美人だと思う女性だった。手には赤いカバンとビニール傘を持っていた。

織江は「はい、そうですが・・・何か、お探しでしょうか?」とありきたりの返事をした。よく見てみると、見たことがあるような雰囲気の女性だった。この白地に茶色い花柄のロングスカートに赤いカバン、あれっ、これは、もしや、さっきの迷惑女では?と、思うとギョッとして背筋が寒くなった。

触らぬ神に祟りなしで、できることならあまり関わりたくないタイプのお客様であることには違いなかった。どうしてこの人がこんな所にいるんだろう?と思い、さっきの出来事を思い出すと、汗が噴き出してきそうだった。

織江はついてないなぁと思いながら、まずは主任の田中がどこにいるか目で探した。田中は体格のよい男性を接客していた。すぐに田中と接客を代わってもらうのは無理そうだった。

女の後方先には、先ほどの幼い兄弟が遊んでいた。

女は織江を通り越して、虚ろげに遠くを見ながら言った。

「この間、低反発マットレスをここで買ったんだけど...」

織江は「出た!あと一時間で勤務が終わりだったのに、全くついていない!今度は私にくるか…」と、心の中で叫び身構えた。

「私、最近よく寝られないの。もう一ヶ月以上ほとんど寝てないかもしれないのよ。この間、ここにきて、いつも体が起きてるんだか寝てるんだかわからなくて、肩も背中もなんか、コリコリしていて、重たくて、重たくて、たまらないって、そう言ったら、確かにあなた、低反発マットレスを使うと体に負担がかからないから、よく寝られますよって、そう言われたから買ったのに、全然、だめじゃない!底なし沼に足いれたみたいにブニュブニュして、気持ち悪くて、吐き気がしてくるし、余計寝られなくなってきたのよ。どうしてそんなもの薦めてきたのよ!あたしをもっと苦しめたかったのかしら?もっと苦しめばいいと思って、薦めたんじゃないの?眠れないだろう!ざまあみろって!」女の表情がまた険しく変わって、ジロっと織江を睨みつけてきた。

織江は、うわぁ、やっぱり始まったかと、胸が高鳴りだしたが、ここは冷静にならなければ思い、この人だって普通の女性なんだし、何かよほどの事情があって、おかしくなっているだけなんだから感情を逆撫でさせないようにと、自分で自分に言い聞かせた。

ツバをゴクンと飲んで、精一杯普通に「そんな事は消してございません。私達は快適に暮らせるような品物を常に考え、ご用意しております、お客様がご迷惑になるようなものをお薦めするような事は致しません。低反発がお客様の体質には合わなかったのではないかと思われます」できる限り丁寧に気を使ってやんわりと、女に言ったつもりだった。

そんな織江の言葉にも、女は自分の世界に閉じこもってしまったかのように一方的に「あんたが薦めたのよ。薦めたのよ。あたしを寝かしたくないから、寝なくてもいいって、そう思って、薦めたのよ!きっとそう、薦めたのよ!薦めたのよ!」何度も何度も、同じ言葉を繰返すだけで落ち着きを取り戻す気配もなさそうだった。

織江はそんな女を見て、これはもう私の手に負える状態ではないと思い、なんてことに遭遇してしまったんだろうと、この場をできるだけ速やかに離れられないものかと、辺りを見渡した。

するとさっきベッドの上遊んでいた幼い女の子が、持っていたお財布を誤って床に落としてしまうのが見えた。中に入っていた小銭は床へキレイに散らばっていった。その内の一枚が何故か不思議なカーブを描きながら、織江のいる方へ転がり出して来た。まるでだれかに操られているのか、意思でもあるのかと思うほど、縦にコロコロ回転しながらこちらへ向かってきた。銀色に光り輝くような百円玉だった。

織江は自分の現在の状態も忘れてしまいそうなほど、その百円玉の不思議な動きに注目していた。それはほんの束の間の瞬間だったが、これから恐ろしい事が起ろうとしていた。

女は自分の怒りを何度も繰り返しているうちに、人間の感情の域を越えて、何か魔物にでも取り付かれたような血相になりかわっていた。あの美しい顔が鬼のような顔に変った瞬間、女の中で抑えきれない何かが爆発し、噴火していた。破壊したい、壊したい、自分を苦しめるすべてのものを壊さなければ、楽になれないと、女は怒りのためブルブルと震え出してきた。そして、ありったけの力を振り絞り、傘を振り上げ、織江の顔の部分を目掛け、猛獣のように突進してきた。

織江は百円玉の光輝く不思議な道筋に魅せられていた。周りはいっさい何も目に入らず銀色の光だけを見ていた。女の恐ろしい形相も目に入らぬほど、それをじっと見ていた。今、起ころうとしている恐ろしい状態に気付く気づく様子もなく、ただ百円玉を目で追っていた。すると、織江の足元に弧を描いて吸い寄せられるように転がってきた。織江はその百円を拾おうとして腰を屈んだ。その瞬間だった。

織江の頭上を何か重苦しいものが、通過していった。女は標的を失ったとたん、バランスを崩し、織江の向こう側へと勢いよく転倒していった。

ドシーン、シャーァァーと、女が倒れこむ鈍い音、傘が女の手を離れ、スラインディングしていく音。全てが偶然に起こった出来事、零コンマ何秒での世界だった。

一瞬にして、店内が緊張し凍りついた。織江も百円玉を握り締めたまま、その場で凍りついてしまった。女は低い唸り声を上げなら、倒れたまま蠢いていた。

百円玉を追いかけようとした女の子はびっくりして、目を見開いたまま、その場で泣き出していた。

事態に一番早く反応したのは主任の田中だった。すぐに駆け寄り、まだ興奮状態あった女に話しかけた「お客様、大丈夫ですか?落ち着いてください。今すぐ救急車を呼びますから」女には何も聞こえていないのか、ただ恐ろしい形相でのたうち回っているだけだった。手足をバタつかせ、田中にも襲いかからんばかりだった。田中は、勇敢にも女を抱きかかえるようにして押さえつけた。「落ち着いてください!目を覚ましてください」田中の隣にいた体格のよいお客も田中といっしょに押さえた。女は足をバタバタつかせ、髪を振乱しながら「ぎゃぁ〜、ぎゃぁ〜」と奇声を発し、内面から迸る爆発を押さえ切れないでいた。こうなると女性と言うよりは猛獣のようだった。男二人でも跳ね除けられてしまいそうなくらいの凄まじさだ。こんなに細い腕の女のどこに、そんな力が隠れていたのだろうと思うほどだった。まるで何かに取り憑かれているかの勢いだった。


店内にはけたたましい警報ベルが鳴り響き、警備員が数名忍者部隊のようにやってきた。場内アナウンス「業務連絡、九十九番、九十九番、六階、寝具売場付近」非常事態連絡を知らせるアナウンス九十九番配置に従業員が一斉に動きだした。


織江はしばらくその場で、しゃがんだまま、ショック状態でいたが、小刻みに震える手で握り締めた指を一本一本開いて、百円玉を見つめた。正に間一髪だった。これが目に入らなかったら、私はどうなっていた事か...考えただけでも恐ろしい。この百円玉が私を導いて救ってくれた。これは、偶然なのだろうか...ああ、本当に九死に一生を得た気分だ。− 織江は百円玉をもう一度強く握り締め、心の底から感謝せずにはいられない気持ちでいっぱいになった。

ロマンスグレーの警備員が織江を覗き込むように屈んで「大丈夫ですか?怪我はないですか?」と肩を貸してくれた。織江はボーっとしていたが、ともかく無事だったのだから、私は大丈夫と、自分を落ち着かせた。そして、泣いている女の子の方を向き直り、その命の恩人とも言うべき百円玉を渡そうとした。女の子も目の前で起こった出来事にショックを受けた様子だったが、織江が百円玉を渡すと、泣き伏していた顔を上げ、涙で光った目で織江を見て安心したように「おばちゃん、こわかった!あの人、おばちゃんの所へ飛んでいったから、すごいびっくりした。こわかったけど、だいじょうぶ」と小さな手で百円玉を受取った。すると、「ああ、このしゃくえん、あったかい!おばちゃんは、なんにもわるいことしてないもんね」と拳をぐーにして上げて見せた。織江は女の子を抱き寄せ「ありがとう」と深く感謝した。

ロマンスグレーの警備員が女の子に近づき「おじょうちゃん、よくがんばったね、今日はおじょうちゃんが百円にかけた魔法で、あのおばちゃんはケガをしなで助かったんだよ」と女の子の手をとった。女の子は嬉しそうな顔をして「わぁ〜い、魔法の百円だ」とおどけてみせた。

織江は女の子の言葉で、もう感無量の気持ちでいっぱいになっていた。

社員の山本はかなり動揺していた。正子も顔面が蒼白になって、両手で口を抑え、立ちすくんでいた。救急車が到着するのには、十分くらいの時間を要した。その間も、女は暴れ続けた。田中、警備員とお客の勇士で、女をなんとか抑えていた。救急装備で万が一のために用意されていたマウスピースが役に立った。田中は噛みつかれないように女の口にそれを噛ませ「お願いですから、落ち着いてください!今救急車が到着しますから」と暴れる女を何とか落ち着かせようと懸命になっていた。

女の持っていた傘は数メーター先まで、スライドし、寝具のクローゼットの前で止まっていた。あと少しのところで凶器になったかもしれない傘は、人を避けるように横たわっていた。たまたま居合わせたお客達は、もしや自分が巻き添えになっていたら…と、顔をこわばらせながら、恐々と見ているだけだった。

毎分経過するごとに、好奇心旺盛な見物人達が、どこから集まってきたのか増えていった。救急部隊が到着する頃には、かなりの人数になっていた。織江の周りも「どうしたの?どうしたの?」という、野次馬の無責任な声でざわめいていた。

女は手際のよい救急部隊の手によって、担架に縛られ運ばれていった。

嵐のような災難は余韻を残していたが、流血事件になるほどではなかったので、救急車が出発すると、集まった野次馬達も興味をなくしたのか、それぞれどこかへ散らばっていった。

売り場は通常状態になりつつあった。

田中は、織江に「ああ、ともかくも、怪我がなくてよかった!まさか、こんなことになるなんて、とんだショックでしたが、ああ、なんとか無事で、大惨事にならなくてよかった。しかし、間一髪でしたね?びっくりですよ」そう言って、何度も何度も、織江の肩を叩いた。織江は涙目になっていた。山本も正子も織江のそばにいた。織江は他のスタッフ達にお礼を言い、事態を簡単に説明した。「私も、何がなんだか、さっぱりわからなくて、突然、あの人が低反発マットレスのことで文句を言い出したかと思ったら、被害妄想のように何か同じことを言い出して、怖くなってきたので、引出していたら、眩しいほどの百円玉が私を目掛けてすべり出してきて、それに目を奪われていたら、こういうことになって...ただ、百円玉を拾おうとして、屈んだだけだったのに、それに救われたみたいになったんです」と、急に込上げるものがあり、唇を震わせながらそう言った。


勤務時間が過ぎた。織江はこの後、田中といっしょに店内警備の事故聴取に応じなければならなくなった。帰りが少し遅くなる事を伝えるため自宅へ電話をかけることにした。電話には正志が出てきた。「もしもし、かあさんだけど、今日はいつもより少し遅くなるから….」事故の事を思いだすと、言葉にもつまった。「もしもし、かあさん、どうしたの?何かあったの?」正志は何か察したのか、電話の向こうで不安気に聞いてきた。織江は「それから食事の支度はちょっとするのが大変だから悪いんだけど、お弁当か何か買って食べてくれない?実はね・・」と今日の出来事を正志に話した。正志は「そんな・・・恐ろしい!人ごとじゃあないんだなぁ、こういう話しって...俺も気をつけるよ。何が起こるかわからないし、ともかくこっちは大丈夫だから、兄ちゃんも伝えておくから」さらに付け加えて「あぁ、そうそう兄ちゃんが今朝、不思議な百円の夢見たって言ってたけど、あれって、なんかこの事とちょっと関連ありそうな感じがしてきた」

織江は、さっき見た百円玉の光景を頭の中に思い描いて見た。すると、正樹の夢に出た不思議な動きをする百円玉とさっきの百円玉のビジョンが結びついた。

爺ちゃんが百円を見せて、これはお守りだからって言ってたのは、偶然の夢ではなかったのかも?そう思えて来た。そう言えば、今朝からすでに何かの注意信号を発してくれていたのかもしれない。どの場面を思い出しても、何かの知らせが見えていたように思う。見えない力がずっと注意をするように、私に訴えかけていたにちがいない。こういう災難というのは、本当は起こる日が決まっていて、一日が始まった時から何らかの危険信号もいっしょに送られているのかもしれない。キャッチした人は難を逃れられるが、できなかった人は大惨事になっているのでは?と織江は、ふと考えた。

そして、過去も未来も何もかもが見えない力で繋がっているのだと、義理父に対しても、正敏に対しても、深い感謝の念を抱かずにはいられなくなってきた。そこには見えない編み目模様で結びついた家族の絆があるように感じた。


店内の事故聴取には正子も加わって、お昼に蕎麦やで見た女の様子を主観も交えながら説明した。「あの人ったら、財布の中を覗いたとか何とかで、店員にすごい勢いでいちゃ悶を付けてきて、どうなるのかと思ってたら、今度はうちの売り場に来てこんな騒ぎを起こすことになるとは思いませんでした。お昼の時には人ごとだと思って見ていたんですが、やはりこういう人を見た場合には、すぐに田中主任なりにお知らせしておかないといけなかったですね?」織江も自分の優雅な昼休みを害されたと思うだけではなく、店のスタッフとしても考えなければいけないと思った。百貨店ではこういう精神的に不安定なお客が来た場合の対応について、今後マニュアル化する必要があると、話し合う事になった。今回は大惨事にいたらなかったが、全ては人ごとではないのだ。

騒ぎを起した女は、何度か精神病院を入退院している履歴があるということが後で分かった。俗にいう統合失調症という病気にかかっているらしかった。これもやっかいな病気のようだ。何がそうさせてしまうのか、何の関連もないのに周りのものすべてが彼女を怯えさせてしまうのだからどうしようもない。彼女もある意味、現代社会の犠牲者なのだ。


田中はマニュアル作成に向けて、しばらく忙しい日々を送ることになりそうだった。織江は、忙しくなる田中には申し訳ないと思ったが、お盆休みも兼ねてしばらく休みをもらうことにした。その分は正子が少しがんばってくれるという。織江は今回の件で急に家族といっしょにいたいと思ってしまったからだった。

 織江は田中に挨拶をして、帰宅することにした。

「今日は、本当にいろいろとお疲れ様でした。しばらくご迷惑をかけることになりますが、よろしくお願いします。しかし、田中主任があんなに頼もしいとは思いませんでしたよ。危険を顧みずに、真っ先気に飛んできてくれましたからね。まるでスーパーマンのようでしたよ。もし、あのまま田中主任が抑えてくれなかったら、私は腰を抜かしたまま、どうなっていたか分からないです。ほんとうにありがとうございました」田中は照れ笑いしながら「いやー、もう自分でも何がなんだかわからなくて、ああいう時というのは、無心になるものですね。ただ、夢中で飛びかかっていったという感じで、周りは何も目にはいりませんでしたよ。もしもぼくが襲われていたら、逆に腰を抜かして何もできなかったかもしれないですよ。今日しみじみ思いましたが、人間というのはいざとなると、どこからともなく底力が沸くものなんだなぁっと、体感しました。全く、驚いています。とにかくゆっくり休養して、今日のショックを和らげて下さい。ぼくもこれからがんばりますから」そう言って、織江と田中は、お互いに握手しあった。

帰り際に正子が「後のことは任せて、ゆっくり休みを取ってね!川本さんはがんばりやさんだから、時にはゆっくりとお休みをとるようにって、今日の事が思い出させてくれたのかもね」と気づかってくれた。織江は周りの人に恵まれたと、心からそう思った。

自宅に到着すると、正樹と正志が心配そうに待っていた。正樹は織江の「ただいま」の声を聞くなり、待ってましたとばかりに飛んできた。

「正志から聞いたよ。無事でよかった。まさか、今日こんな事に出会うなんて、思ってもみなかったよ。それですげぇーな!俺の夢に出てきた百円玉がかあさんを助けたみたいだって、聞いたよ」正樹はいつもかったるそうにしていることが多いのだが、今日は目を大きく開いて熱く話しかけてきた。「俺もあんまり不思議現象とかに興味があったわけじゃないんだけど、夢で見た百円はただ物じゃないって、朝から思ってたんだよ。ほんとびっくりした。死んだ爺さんのパワーってやつかなぁ?これって。確かにお守りだよって、はっきり言ってたからなぁ。正に爺さんが見せてくれた”虫の知らせ”ってやつだったのかもね?これって」

正志も駆け付け「そうだよ、きっと爺ちゃんがかあさんを守ってくれたんだよ!」と付け加えた。

織江と正樹、正志はその場で抱き合った。こんな親子の熱い抱擁は未だかつてしたことがなかったし、これから先にもないと思うほど熱かった。

織江は、帰宅途中に考えていた計画を二人へ話した。

「そうそう、あさってから、とうさんが静岡の自宅へ行くから私たちもそれに合わせて、静岡へ行こうか?かあさんも休みが取れたし、お前たちも夏休みだし、今年のお盆は静岡で過ごすことにしない?」

正樹と正志もにっこりうなずいて「それはいいね!ずっと行ってなかったし、じいちゃんのお墓にお礼を言いに行こうよ!線香をちゃんとあげて、僕らも毎日を無事に過ごしていますって、報告しに行こう。お盆て言うのはきっとそのためにあるものだと、今初めて気がついたよ」

こうして二人の息子はいままで面倒くさいと思っていた、お墓参りの本当の大切さに気づいた。

今回の事件を受けて、織江の家庭では、日頃考えたこともなかった感謝の心というものを学んだ。それは傍から見るとおかしなものに写るかもしれないが、見えない力は確かにあるものだと、宗教的意味合いを抜きにしても実感させられる一日になった。


毎日、毎日、どこかで悲惨な事件は起こっている。

いつもとちがう予感を感じたら、出かける前に考えた方がよいかもしれない。本当にこのまま出かけてしまってよいのか?と….


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 身近に起こり得る事件をおりまぜ、読み進めやすいストーリになっていると思います。個人的にはすこし語調が硬い感じがしますが、100円玉という小物もうまく使い、全体的にまとまっている作品ではないか…
[一言] 読みながら、その場に居る様な臨場感が伝わってきました。 ただ、全てが記されており少し想像する部分が残っていた方が、膨らむ気がしました。 本では無く、映画とかの台本なら100点です。 細かい処…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ