マザーはお熱
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
お〜、こーちゃん。いいところに。ちょっとさ〜、タイピングを教えてくれない? 大学のレポート、手書きじゃダメってことが増えてさ。パソコンで打って印刷しないといけなくなったんだ。
こーちゃん、執筆はパソコン派だろ? ご指導……じゃなくて、見本を見せてくれればいいや。こーちゃんも手取り足取り教えるなら、女の子の方がいいんじゃない? こんな生意気盛りな坊主が相手じゃ、テンション下がるっしょ。
そんじゃこれ、短い例文なんだけど……って、やっぱ早! イマドキの社会人、こんな感じなの? うわ〜、働く前から自信がなくなってきたんだけど。これまで情報の時間以外で、パソコン触ってこなかった人間だったしなあ……。
あ、そうだ、パソコンで思い出した。こーちゃん、前々から話のネタが欲しいって言ってたっしょ? 僕もね、友達からパソコンについて、不思議な話を聞くことができたんだ。練習始めるまでの短い間でいいからさ、ちょっと耳にはさんでおかない?
友達の近所に、小さい頃から付き合いのあるお兄さんがいる。いや、お兄さんといっても、すでにおじさんの領域に達していた。何せ大学までストレートに進んだ後、留年4年、休学4年、そして在学4年目に差し掛かっていたとのこと。理論上、大学に籍を置くことのできる最長期間だ。20代をまるまる大学に捧げたってわけ。
友達が17歳のお兄さんと出会ったのが、5歳の時の話。それから13年の月日が過ぎて、今度は友達が大学受験をしようという時期に差し掛かっていた。お兄さんはいまだ大学生。
じゃあこの12年間何をしていたのかというと、パソコンにはまっていたらしい。お兄さんの部屋は、学生の一人暮らしには過ぎた1LDK。奥にある洋室の両側の壁には、それぞれ机に乗せたノートパソコンが2台ずつ。計4台が配備されている。自由に使っていいよと、お兄さんはすすめてくれた。電気代も、全部お兄さんが持ってくれるという。
インターネットはしたい。けれど家には回線を引いていない。ネットカフェとかはお金がかかるから利用したくない、という友達にとって、ここは格好の場所だった。履歴が残る怖さを知らない当時の友達は、学校の調べ物から個人的な趣味のものまで、お兄さんのパソコンを存分に使った。同じ男同士ということもあるのか、際どいものを見ちゃった時も、互いに意味深な笑みを浮かべるのみで、深刻な事態にはならなかったとか。
友達が尋ねる時、パソコンは常に電源がついていた。友達と一日遊ぶといって外出し、お兄さんの部屋に入り浸った休日も同じ。自分とお兄さんが同時に違うパソコンを使っても、手持ち無沙汰になる残り2台も、そのまま稼働。設定で、長時間いじらなくても、勝手にスリープ状態にならないようにもしているらしい。
いくらなんでも電気代がもったいないんじゃないか、と友達がお兄さんに突っ込むと、「こいつらは、『マザーパソコン』なんだ」と返された。
「これらそれぞれのパソコンが、とあるシステムのカバーを行っていてね。電源を落とすと、大変なことになるのさ。だから四六時中、つけっぱなしにしておかなくちゃいけない。たとえいじっていない時であろうとね」
マザーパソコンと聞いて、友達が思い浮かべるのはSFに出てくるマザーコンピューターだった。
あらゆるものを管理する、ただひとつのコンピューター。それに支えられていた世界は、自我に目覚めたり、暴走を始めたりしたコンピューターによって、混乱を極めることになる。古典的なモチーフだ。
いったい何を管理しているのか。それについては、「秘密」で通されてしまい、詳しいことは聞けず。だが、これまで自分は好き勝手な調べ物をしてきてしまっている。管理を行っているというコンピューターに、万一にもウイルスはじめとする、トラブルがあったらまずいんじゃないか。
それに対しお兄さんは、「とにかく動き続けることが肝要なんだ」と、譲らなかったよ。
そして夏。受験生にとって、明暗を分ける大切な時期に差し掛かる。だが友達は噴出口が詰まったロケットのように、自分に火をつけることができなかった。ネットサーフィンに慣れてしまった頭と身体が、勉強態勢への移行に拒絶反応を示してくるんだ。
楽な方へ、楽な方へと流れ続け、今日も親には「図書館へ行く」とウソを伝えて、お兄さんの家へ入り浸る腹積もりだった。セミがうるさく鳴き続ける中、汗を拭いながらの徒歩3分。着ているシャツには、ぽつぽつと黒い染みが浮き出ている。
だがそれも、お兄さんの部屋にたどり着くまでの辛抱。あそこはパソコンを慮った、温度調節が成されている。イコール、人にとっても過ごしやすい状態が保たれるということだ。
お兄さんの部屋は、マンション1階の角。いつも鍵はかかっておらず、友達はノックと共に声をかけ、返事を待たずに中へ入っていく。それがいつもの流れ。今日も汗ばむ手でドアを叩き、ノブを回し、炎天下の身体をいたわってくれる、冷風の歓待を期待したんだ。
だが出迎えてくれた空気は、まったくの逆。外気すらも上回るのではないか、という熱の波が、友達の前面に押し当てられた。
左わきの壁。閉じているトイレのドアが、内側からどんどんと鳴る。
「あー、すいません! そのままにしといてもらえませんか? 大事なとこなんで」
お兄さんの声だ。視界がきかないから、訪問者がまだ友達だと気づいていない。慌ただしく鍵を外し、ズボンを引き上げながら飛び出してきた。部屋の奥からは、ボウともゴウともつかない、ファンの喘ぎ声が聞こえてくる。全開で熱を逃がそうとして追いつかず、文字通りの青息吐息といったところだろう。お兄さんは玄関に立つ友達を見やることなく、奥の部屋へ入っていくけど、さほど間を置かず。
4台のパソコンのうち、右手前に設置されていたものが、軽く跳ね上がったんだ。同時にタッチパネルの左わきを、何かが内側から突き破り、パソコン本体よりも高く浮かぶ。
ハードディスクドライブだった。片手におさまるほど小さいその記憶装置は、天井近くまで飛ぶ間に、火花にも似たオレンジ色の光が、身体のところどころから走った。タイミングもバラバラにちらついていた光は、やがて間隔を短くし、ドライブ全体から一斉に輝きを放つ。
一瞬、手をかざしてしまうほどのまばゆさ。それが収まった時、友達の目の前には、火花を「広げた」ハードディスクドライブが、突っ込んでくる姿があったんだ。線香花火の先端と見まごうスパークが、身体の両側からそれぞれひとさし指一本分ほど伸び、虫の羽を連想させる。
「止めてくれ」と叫ぶ兄さんの声を聞くより前に、友達は手を×の字にして防御の姿勢。かわすには、迫ってくるスピードが速すぎて、とっさに構えたんだ。
腕同士の交差点に痛み。そして熱さ。沸騰したやかんに触れたかと思ったほどで、ハードディスクドライブは勢いを失い、その場に墜落。羽こそ残ったままだったが、動きそのものは、床の上でカタカタ震えるばかりとなる。そのしぐさもまた、ひっくり返されてもがくより他ない、昆虫を思わせた。
「いやあ、ありがとう。こいつ一匹無くしただけでも、目が飛び出るほどの額になる損失なんだ。助かったよ」
お兄さんが近づいてくる。その手には半透明な袋を持っており、中には床で震えているハードディスクドライブと、同じものがみっつ。お互いに身体をすり合わせながら、外へ飛び出そうと羽を広げて、袋へしきりにぶつかっている。一見、これほど強く触れられたらすぐに破られそうなビニール製なのに、わずかな穴も空きはしない。
お兄さんは転がったハードディスクドライブも、火花を出していない部分を挟むようにして確保。悪いがパソコン部屋は、休止させてもらう旨を告げてきた。立ち退く際に見たパソコンたちは、いずれも同じ場所に穴が空き、電源もつかなくなっていたらしい。
それから大学に留まれる期間を過ぎ、お兄さんはいずこかへと越していった。友達も今は大学生活を楽しんでいるが、ふとした拍子に、あのハードディスクにぶつかられた箇所が痛むらしい。
特に防御した時の外側。直に触れてしまった右腕の部分は、痛んだ時に触れると、あの時と同じ、飛び上がりたくなるほどの熱を発しているんだってさ。