伯爵令嬢の十日目
「ごきげんよう、ポートリッド伯爵令嬢」
「ごきげんよう。初めまして、バーゼルト公爵夫人」
ジークムートが人を用意する、と言ってから三日。確かに、その約束は早急に叶えられた。しかし、何故かアマーリアの前に立つのは何処かの教育係ではなく、バーゼルト公爵夫人。ジークムートの実の母親、その人であった。
プラチナブロンドのウェーブを纏った美しい長髪と、公爵夫人らしい気位高く、意思の強そうなエメラルドの瞳。
佇むだけで様になっているその夫人は、熟成された大人の色気を放つ。
「基礎の基礎ね」
手に持っていた扇を閉じ、アマーリアの力量を察した公爵夫人は出来て当たり前だと言わんばかりにアマーリアを評価し、椅子に腰掛けるよう指示。
「深い」
アマーリアが座ろうとしたその瞬間に、指摘が入った。
「もう一度」
椅子の中央よりも深く座ってはならないと、やり直しとアマーリアはそれに従う。が、何度も何度もやり直しを言い付けられる。
根本的なことが違うのかと頭を働かせるものの、そもそもクラウスのチェックを通ってる以上は大きく違わないはずだ、とクラウスに全幅の信頼を寄せているアマーリアは姿勢はそのまま、ただ、公爵夫人に指摘された深さだけを気に掛けて、何度も同じ事を繰り返した。
「いいでしょう」
そうして何十回目かになる所で、漸く、やめが掛かる。
「特に大きな乱れもなくそれなりにはなっています。が、まだ公爵家を名乗るのには粗いですわ」
嫌がらせでやり直しをさせていたのではないと暗に伝える公爵夫人。そしてそれなりに出来るようになっている、とも評価した公爵夫人。
「立ちなさい」
椅子から立ち上がる時でさえも気を抜かず、アマーリアは美しく見えるように立ち上がる。そんなアマーリアを見て少し口許を緩める公爵夫人。
ポートリッド伯爵家の人間だと聞いてロクでもないだろう、と思っていたが、中々面白そうなのが来た。
そう、嬉しく思った公爵夫人の指導はより一層厳しく、熱が入る。
「違う!歩幅が乱れているだろう!」
「そこで気を抜くな!背筋が乱れている!」
等々、時々怒号が飛ぶこともあったが、二の鐘が鳴ってから五の鐘が鳴り終わるまで、アマーリアはきっちりしごかれた。
「ありがとうございました」
公爵夫人を玄関まで見送りれば、また数日後に来ると言い残して本宅へと戻っていった。
姿が消えるまで玄関で頭を下げてから、自室へと引き返すアマーリア。
「ああ……」
つかれた、というのは、言葉にならなかった。
とても、スパルタであった。
本とにらめっこしただけの専門知識がない自分達では気付かない乱れを矯正してくれる公爵夫人の指導はとても為になったが。
「アマーリア様、こちらを」
リラックス効果のあるハーブティーを用意してくれたクラウスの動きも、心なしか洗練されているような気がしたアマーリア。
公爵夫人が目撃したら激怒されそうなぐだり具合でソファに寛ぎ、ハーブティーで口を潤す。
「クラウス、覚えた?」
「はい」
本日公爵夫人に教えてもらい矯正された姿勢と動きは、まだアマーリアの身体には染み付いていない。公爵夫人が指導に来ないうちにまた元に戻ることは難しくない想像であり、それを防ぐ為にはクラウスに指摘してもらう必要があった。
明日からはまた読書の時間を割いて一から矯正し始めなければならなくなったが、それでもアマーリアの胸は充足感で溢れる。
「指導して頂くとは、贅沢なことだわ」
学びたくても学べない環境に置かれていたアマーリアは、学べるということの贅沢さを充分に理解していた。故に、多少読書の時間が減ろうが、気にしていなかった。
「お嬢様、湯の支度が整いました」
そしてもう一つ。教育係が付くその前日に、侍女がやっとアマーリアに付くことになった。
「メルシス。今行くわ」
メルシス夫人。数年前に夫を亡くし、路頭に迷っていた所を懇意にしていたバーゼルト公爵夫人が侍女として雇い入れた女性。
ジークムートが人材を用意しようとした所、母親である公爵夫人に決定権を奪われ、公爵夫人が自分で使っていた人材をとりあえず、と、アマーリアへと流したのだ。
メルシス夫人がどう考えても公爵夫人の監視要員であることは理解していたが、それでも拒む必要などない程に仕事をこなしてくれる為、アマーリアはそれについて一切不満はない。
「相変わらず綺麗な御髪ですねえ」
湯に浸かっている間、メルシスはアマーリアの髪を丁寧に洗い、流してくれる。流石に身体を洗わせるのは、と、それだけは拒否するが、それでもその後のオイルマッサージはお願いしてしまう。
「いたいいいいい~」
髪にタオルを巻き、マットレスに横になるアマーリアをマッサージしていくメルシス。
先日までは気持ち良さそうに施術されていたアマーリア。しかし、今日はとても、痛かった。
「公爵夫人はスパルタですからね…………でも、身体を解さないと」
脚、お尻から始まり、背中、腕、肩、と、慣れた手付きで身体を解していくメルシス。その間、アマーリアはずっと、泣いていた。
「あ、でもすっきりしたわ……」
喉元過ぎればなんとやら。施術を終え服を着せてもらい、髪を乾かしている間にアマーリアは身体の軽さを実感する。
「お嬢様」
乾きましたよ、と、属性鉱石の埋め込まれた道具を片したメルシス。
「それ、正式名称ってあるのかしら?」
髪を温風で乾かしてくれるそれに名前はあるのかとふと疑問に思ったアマーリアがそう尋ねると、メルシスは少し瞠目してから、アマーリアの質問に答える。
「属性鉱石道具、ですよ」
割りとそのまんまな名前にアマーリアはくすりと笑う。
「私達はヘアトロッケン、とか呼びますけれど」
「トロッケン?」
「乾燥した、とか、そういう意味らしいと開発者が言っておりました」
へえ、と感嘆を溢したアマーリアにメルシスは優しく微笑み掛け、食事を取るように促す。
洗面場から出ればリビングには美味しそうな香りが広がる。
「アマーリア様、お食事を」
本日の夕飯を支度していたクラウスが振り向き、アマーリアへ食事を取るように進めた。
「美味しいわ、クラウス」
鴨のソテー、豆のポタージュ、葉野菜のサラダ。
メルシスが控えているからもう共に食事をすることは許されないが、それでも、美味しいものは美味しい。そう伝えれば、クラウスは柔く口角を上げて応えた。
「美味しかったわ、ありがとう」
アマーリアの食事量を把握しているクラウスのお陰で、満腹より一歩手前くらいの感覚でアマーリアは食事を終えた。
「…………クラウス、デザートは?」
そんな二人を見て不思議に思ったメルシスが、突っ込む。
「デザート、ですか?」
アマーリアとクラウスの頭に、はてなマークが飛び回る。
「ええ。氷室を使った甘いお菓子」
どうやら、二人はそれを知らないようだ、と察したメルシスは、ちょっと待っててください、と言い残し、出ていった。
「これです」
そして暫く経って、クラウスがメインの食器を片し終わった頃、メルシスが手に何かを持って戻って来た。
「つめたっ!?…………甘いわ!」
どうぞ、と差し出されたスプーンに乗った白い何か。それを恐る恐ると口に含んだアマーリアは、歓喜の声を上げる。
「隣国の姫君が考案したと言われるお菓子です。大分浸透したと思っていたのですが……」
クラウスにも分け与え、今度作ってとおねだりしているアマーリアを横目にメルシスが説明を挟む。
本宅ではよく出てくるそうだが、生憎レシピが高いそう。本来なら伯爵家ともなれば普通に買える値段ではあったが、今の伯爵家じゃ無理だろうとアマーリアは伯爵家にデザートが並ばなかった理由を察する。
流行りものが好物な家庭ではあるが、そういうモノには金を出さないと、アマーリアは知っているから。
「ありがとうメルシス。今度、作らせるわ」
そうなんとなく言い放ったであろうアマーリアの言葉に、メルシスは首を傾げる。そもそも。そもそも、だ。別宅とはいえ雇っている料理人は一流だし、本来であれば普通にアマーリアの分の食事が用意されているはず。
しかし、厨房へ行ってデザートを用意するように告げた時、料理人は大層嫌がった。その顔が気に食わなかったメルシスは本宅の厨房へ駆け、たまたま残っていたちょっと形の崩れてしまった不出来のデザートを貰いアマーリアへ食べさせた。
このことがそもそも、変である。
「…………なるほど」
公爵夫人から何も教えられることなくアマーリアへ付くよう言われたメルシスは、アマーリアの境遇を知らない。しかし、ここまでされれば、アマーリアが置かれているであろう立場は察することが出来る。
「どうしたの?」
それでも文句を吐くことなく努力するこの主人を、美しいと思った。
当初公爵夫人の侍女から外された時は何か粗相をしたかと悲しみで一杯だったが、こんな主であるなら仕えてもいいと思うメルシスであった。
「お嬢様。誠心誠意、仕えさせて頂きます」
「……?ええ、よろしくね」
何故か改まってひざまづき、手を取られたアマーリアは疑問を覚えたものの、こんな優秀な人間が仕えてくれるというのであれば文句などないので、すごく緩く、そう対応した。
その日、アマーリアは教育係と、侍女を手に入れた。