伯爵令嬢の記憶4
母の音が好きだった。
世界樹へと導くその音色、楽しそうに眠る友の顔。
柔らかい日差し、柔らかい音。
優しい空間が、時間が、大好きだった。
「いい、アマーリア?これはお別れじゃないのよ。またいつか巡り合うための、またねなの」
長らく一緒に遊んでいた精霊が世界樹へ還った日、なんでどうしてと駄々を捏ねる私を窘める母。
「預かったものを返す。返し終えたら眠る。それは決して悲しいものではないわ」
世界の始まりを、約束を、一つずつ根気強く教えてくれた母と時折喧嘩をしながら、私は導き手としての役目を覚えていく。
世界樹は全ての命を司る場所。
人々の魂も、精霊達も、その場所で眠ってはまた命へ還っていく。
けれど時折、迷子になってしまう子達がいる。
本来ならば意識せずとも還れるはずなのに、人々の悪意などに染まってしまった子達は道筋から少し逸れてしまうことがある。
その子達を呼び寄せて、戻すのも導き手の役目でもあると。
『私はそう呼ぶのは好きではないの。あの子達の本質は何も変わっていない、無垢であるが故にただ捻じ曲げられてしまったあの子達を堕ちたなんて、表現したくない。少し迷子になってしまっただけだから』
見たこともない程に痛々しく黒に侵食されていた友が、いつも通りの見慣れた淡い色へと戻っては安らかに眠りについたのを見届けた母の横顔。
悲しげで、それでいて怒りに満ちていて。
『……みんな、戻してあげたい』
そう呟く母の顔は見えなかった。でもただただ悲痛な思いだけが伝わってきて、それはとても難しいことなのだとぼんやり思った。
そして、知った。
隣国へと向かう最中、突然の衝撃に身体を強く打ち付けながらも馬車の外へと投げ出されたあの日に。
『い、った……』
両親と、クラウスと、私。
みんな馬車から投げ出され、乗っていた馬車がひしゃげる程高い場所から落ちたとき。
その程度で済んだのは友が力を貸してくれたからだけど、本来ならば一切の怪我なく着地出来るのにと疑問を抱いたとき、身体へ纏わり付く不快感に身を震わせる。
『……なに、あれ?』
友が、怯えている。泣いている。そして自身の身体も強く、拒絶していた。
この場所を、その存在を。
『アリー、いい?私はあの子を止めなければならないの。だから少し、待っていてくれる?』
真っ黒な、この世の深淵を映したかのように底の見えない、友の名残さえないあの子の方を見て、母は微笑む。
嫌な予感しかしなかった。もう二度と会えなくなってしまうと、直感で悟った。
『お母様!!お父様!!!』
『大丈夫。私達は、いつでも貴女の傍にいる』
最後、母と父にそう抱き締められて。
『やだ、はなしてクラウス!!』
クラウスへ、ぽんっと預けられて。
『おやすみなさい、アマーリア。……貴女に、こんなことを押し付けてごめんなさい』
翳された手と、囲む友の中、泣き叫んで。
『おいで。私と一緒に、還りましょう』
曇天を覆い尽くす漆黒の友達へ手を差し伸べて、身ごと差し出した母の姿は瞬きの間に消えてしまって。
『……アマーリア』
『お父様、なんで、なんで……!』
それを静かに見守っていた父に、泣き縋る。
『ごめんね』
クラウスごと抱き締められ、一瞬意識が遠のいた瞬間に景色は移り変わる。
塗り隠された記憶が鮮やかに蘇れば、血濡れた馬車も重なり合う身体もない。
ただひしゃげた馬車がぽっかり口を開けているだけ。
『……うん、わかった』
クラウスが、友と話している。
今は、隠せと。
事故だったと、思わせなさいと。
『いや、いやよクラウス!』
忘れたくない。友のこと、母のこと、父のこと。
『忘れないよ、今はまだ。少し、眠るだけだよ』
アリー、と。
お願いだから、と。
懇願され、目を閉じれば夢で見た記憶がそこにある。
ひしゃげて血濡れた馬車に、重なり合う身体。偽りの景色と記憶。
ずっと守ってもらっていたことさえ忘れて、一人この秘密を抱え続けたクラウスが、私を見下ろしている。
「……申し訳ありません、サラセリーカ様。明日、お話を伺ってもよろしいですか?」
処理しなければならない情報量が多すぎて、何故サラセリーカが世界樹や母のことを知っているのかを聞くのが億劫で、そう告げてしまう。
「承知致しました、わたくしの方こそこのような夜分に申し訳ございません。また明日、改めてお伺いさせていただきます」
しかしアマーリアを気遣い、了承の意を表したサラセリーカは何も聞くことなく退室する。
「……お嬢様、私も本日は失礼致します」
「ええ、ありがとうルイス。また明日もよろしくね」
そしてまもなく、聡いルイスも部屋を去っていった。
『あまーりあ、ぼくたちがみえる?』
『あまーりあ、ぼくたちのことおぼえてる?』
『あまーりあ』
『あまーりあ』
静かなはずなのに、妖精達の声で賑やかな部屋。
およそ十年振りに見えるようになった友の姿を嬉しく思う反面、ずっと傍にいてくれたのに忘れてしまったことを申し訳なく思う。
「クラウス」
「うん」
そして何より、誰よりも長く傍にいながらも誰にも真実を話すことが出来なかった、彼に。
「思い出したんだね?」
「……うん」
そっか、と砕けた口調で頷くクラウスと辺りを漂う妖精達。
ずっと身近であったはずの景色から随分と長く離れ過ぎてしまって、それはあまりにも落ち着かない。
当然と言えば当然でもあった。
覚えている期間より、忘れている期間の方が長いのだから。
「……わたし、は」
「うん」
話したいことが、伝えなければならないことが多すぎて、何から切り出せばいいのかわからない。
感謝を、謝罪を、後悔を。どれから、なにから、どこまで話していいのだろう。
忘れていたことが多過ぎて、抱えさせていたことが大き過ぎて、もう何を言えばいいのかがわからない。
「クラウス」
「うん」
ずっとずっと傍にいたのに、おんなじ景色を見ていたはずなのに、実は一人で先を歩いていてくれたクラウスが、微笑む。
「大丈夫だよ。僕が守ってあげるって、約束したでしょ。だからアリーは、何も気負わなくていいんだよ」
あの日のように抱き締められることはなくて、同じ言葉で包み込んでくれるその優しさが痛い理由はわかっている。
「……だから、僕への言葉を先に見出すより、君のやりたいことをやっていいんだよ」
いつまでだって、待ってるからと。
「今のアリーならわかるでしょ、このケープトンに何が起こっているのか」
そして緩やかに、導き手としての役目を促す。
「今日は休んで、アリー。また明日」
『あまーりあ、おやすみ』
『おやすみ』
「……おやすみなさい」
有無を言わせることなく退室するクラウスの背を見送ったアマーリア。
『あまーりあ、ねない?』
『だめだよ、くらうすにおこられる』
『えー、でもおはなししたい』
クラウスがいなくなって暫く、ずっとアマーリアの傍を漂うだけだった妖精達は、彼女がまだ眠らないことを知ってはしゃぎ始める。
「……お話、する?」
『する!』
久方ぶりに聞こえる友の声を懐かしいと感じ始めていたアマーリアは、つい妖精達の誘いに応じてしまう。
ああ、なんだか昔、こうして遅くに遊んでは翌日起きられなくて怒られたっけなんて記憶を片隅に思い起こしながらも、交友を懐かしんだ。




