伯爵令嬢と記憶3
「おかえりアリー。サウシェツゥラ皇族とのお茶会はどうだった?」
「……滞りなく、出来たと思うけれど」
「けど?」
精神的な疲労を感じながら部屋へ戻ったアマーリアを、扉の前で待機していたアーディが出迎える。
彼女のことだから何事もなくひとときを終えられたのだろうと考えての問いだったが、少し顔を曇らせたことに首を傾げた。
「演奏を終えてから何処か、お二人共何かが気に掛かっているようで。ベストは尽くしたのだけれどやっぱり聴くに堪えなかったのかしら」
「それはないと思うよ。アリーの腕はあの屋敷にいた頃よりずっと上がっているし、楽士にだって劣ることはないよ」
練習に一切の手を抜かず、時間が許す限りはひたすらバイオリンを奏で続けていたアマーリアの腕は生家にいた頃よりも、ハイディの元へいた頃よりも上がっている。
それはアマーリア自身も自覚している状態までは仕上げてから今日という日を臨んだ。
しかし、バイオリンを弾いてからサウシェツゥラの二人が何処かうわの空だったのは事実であって、その理由を知り得ない以上そのことについて自身が至らなかったと考えるのはアマーリアの性格上致し方のないことであった。
一方、何故二人がそのような状態に陥ったのか、同じ景色を見ていたクラリスは猜疑の目でこちらを見ているアーディに首を振ってそのような事実ではないと答えた。
堕ちた精霊がこのケープトンにいること、滅多に外交へは出て来ないサウシェツゥラがわざわざこの国へ出向いていること、二人共に精霊が見えてアマーリアの演奏に導きを見出したこと。
それらの意味は全て、自分から伝えることは出来ない。
けれどいずれは導かれる。その先に、結末に、始まりに。
そしてそれはもうまもなくだということも、クラウスは気が付いていた。
自身とアマーリアの別れが、そう遠くないことだって。
「……クラリス、どうしたの?」
「いえ」
アーディとアマーリアが並んで先程のお茶会についてああでもないこうでもないと話しているのをぼうっと眺めていたら、艷やかな白い髪が揺れる。
「……良い景色だなと、思っていただけでございます」
「そう、ね?」
窓の外を見て、確かに今日は良い天気だけれどと言いたげな主が愛おしい。
自分は交えない、幼馴染みが並んで話をしているその景色が羨ましい。
ここに来て何度も見慣れているはずの眺めが急にそう強く思うのは虫の知らせのようで、だけども確かな予感と共にクラウスは目を伏せた。
サウシェツゥラの皇族とお茶会を終えた同日。もう夜も深い、そろそろ眠ろうかと本を閉じたとき。
本日の業務を終えたルイスが退室しようと扉を開けたその瞬間、ノック音が響いた。
取手に手を掛けたまま、出るかどうかと無言で窺われたアマーリアは逡巡するも首肯し夜更けの来客を待つ。
「アマーリア様、夜分遅くに申し訳ございません。それでもどうしても聞いていただきたいことがあって訪ねてしまいました」
一般的に非常識な時間にやって来たのは、縮こまりながらも意思は固いことが窺えるサウシェツゥラの皇女、サラセリーカだった。
「……ひとまず、こちらへいらしてください」
「はい、申し訳ありません」
自身と同じ白い髪の、それなりに親しくなった彼女の姿を見て警戒を解いたアマーリアは、この貧相な部屋に招き入れるかを悩みながらも立ち話させる訳にはいかないだろうとソファへ誘導する。
「アマーリア様、重ねてこのような時間に申し訳ございません。しかしどうしてもお聞きして欲しいことがございまして」
「大丈夫ですよ、驚きはしましたがサラセリーカ様がそう仰るのであればとても大切なことなのでしょう?」
急ぎ言葉を重ねる皇女に、大丈夫だから話をと促すアマーリアに頷き、一言それは切り出された。
「アマーリア様。アマーリア様は、世界樹をご存知ですか?」
「……」
質問を投げ掛けられた当人よりも早く反応したのは、クラリス。ぴくりと耳が震え、茶器の用意をしていた手が止まる。
しかしサラセリーカの背後で作業をしていたから、その様子に気が付いたのはアマーリアだけ。
「……はい、お伽噺程度のものではございますが。全ての命を司る場所、という程度の」
それは昔から、子供が寝物語で聞くようなお話。アマーリアが知っているのは、たったそれだけ。
「なるほど。では、世界樹が妖精の止まり木であり眠るための場所だということはご存知ありませんか?」
戸惑いを見せるアマーリアの答えを想定していたかのように頷き、ならばと再度問い掛けにはさらなる困惑が返ってくる。
その様子に、やはり仮定通り見てきた通りに彼女は何も知らないのだとサラセリーカは目を伏せた。
「……世界樹は、この世を彩る精霊達を育む場所なのです。そして疲れた妖精達が休むところでもあり、人々の魂が巡る場所。世界樹なくしては、この世界は立ち行かないのです」
凛とした高い声。けれども不思議と馴染みの良い言葉に耳を傾けるアマーリア。何故急にそんなことを話し始めたのかという疑問すら抱かないまま、続きに聞き入る。
「世界樹は、ずっと長いことこの世界を見てきました。ときに導き、ときに滅ぼし……人と精霊が良き友達でいられるようにずっと、見てきました。世界樹にとって、人と精霊が仲良くしてくれるのはとても嬉しいことでした。流されて消えてしまいそうな妖精が人によって精霊へと変わり、女神様からいただいたこの世界を共に見守ってくれるから」
古事記にさえ出て来ないような話の数々を聞く傍ら、アマーリアは直立不動のクラリスを見やる。
自身と同じように未知の知識への興味が強いはずの彼女が何も変わらないことにほんの少しの、頭痛を覚えながら。
「二つの種族が深い親交をすること数千年。共に尊重し合い、数多の文明を築き上げました。我が子よりも身近になっていた、なってしまったが故に……その文明は、廃れていきました」
「……魔導具、ですね」
「はい」
その道へ造詣が深くなければまず出て来ないような単語で首肯するアマーリアに、サラセリーカは苦々しく肯定する。
「詳しいお話は御存知ですか?」
「はい。その……昔母から、それらは精霊を捕らえ苦しめる悪しきものだったと」
「なるほど、それを御存知なのは僥倖です。過去の文明については忌まわしき歴史を繰り返さないよう徹底的に文献を処分したと聞かされておりましたから……そうですね、アマーリア様のお母様であれば先祖より伝え聞いていてもおかしくはないことでしたね」
「……母、が?」
何処から話そうか、と切り出すサラセリーカに、おおよそのことは伝え聞いているのだと話せば彼女は自身よりも母について深く知っているような口振りで何かを呟く。
聞いてしまったら、もう後戻りは出来なくなってしまいそうな、足元が揺らぐ感覚を覚えながらも、最後の扉に自ら手を掛ける。
「アマーリア様の、お母様は……」
かちゃんと、サラセリーカの言葉は遮られた。
「クラ、リス?」
離れたところでお茶の支度をしていた従者がいつの間にか自身の横に立っていて、赤い眼が自分を見下ろしている。
『大丈夫だよ、アリー。ぼくが、僕が……私が、貴方を守ってあげる』
そしていつかのクラウスが、記憶の中で囁く。
生憎の晴天で、両親を亡くしたことさえ嘘かと思えるような天気と人並みの中で、たった一人自身を抱き締めてくれたその腕の中。
『忘れてしまえばいい。いつか、君が……自身の手で、それを掴み取るまでは』
泣き疲れた精霊と妖精の輪の中で、彼らにとってとても大切な、だけれどもまだ幼すぎる次代の導き手は精霊達のおまじないによって眠る。
アマーリアは知っていた。アマーリアはずっと見ていた。
幼すぎる自分が堕ちた精霊に呑み込まれないよう、友人達がずっと守ってきてくれていたこと。
自身が、やらなければならないことも。
「……ごめんね、アリー」
漸く今、全てを思い出し理解した。
クラウスの秘密の数々も、曖昧な彼の言葉も、態度も。
それが別れを告げることまで。ちゃんと。全部。




